旅人は、無理に義兄弟の仲を取り持とうとはしない。勿論、ジンの好意を無碍にしたいわけじゃない、代理団長様だからな。と言うか率直に覚えるのは同情だった。ワイナリーのみんなだってそうだ。旦那様の良き理解者達だ、職場環境に影響を及ぼすようなミスはしないだろうが、湿った空気にさせるのは良くない。ワインに高過ぎる湿度はカビが生えちまう。
旅人は自分にも兄弟がいるからか、それはジンにも言えるはずだが、ジンはバーバラとの物理的な距離に反して、自分の心では一等近くに置いているから、もどかしいんだろうと思う。でもやはり、それは旅人もそうだろう。
やっぱり特別なのかも知れない、あの旅人は。どこから来たのか知れないと言えば、こちらとしてはその場所に真っ先に思い浮かべるのは、祖国カーンルイアだ。しかしそれも違うと来た。もっと、もっと遠い彼方だと。自分としちゃ、祖国でさえ、置いて行かれて遠い存在になってしまったのに、それよりも遠くとなると、全然想像つきやしない。でも旅人を前にすると、遠くから来たことに納得出来るのだから、不思議な奴である。
あるいは、あの旅人もずっと昔に、刃を交えたことがあるのかも知れない、兄弟と。
不思議と言えば、旦那様が奴を気に入ったこともそうだ。だがその反面、きっと気に入るだろうとも思った。やはり不思議なことだ。
「今夜は酒の進みが随分とゆっくりだな、ガイアさん。」
顔を上げて、視界に入って来た真紅に、意識がエンジェルズシェアに戻る。
他の客は、もう帰したらしい。
「飲み方を弁えたのは感心すべきことだが。」
「ほう。お前が感心してくれるとはなあ。」
カウンターの方から話し掛けて来るとは。バーに入った時と閉店の時しかそうは行かないのに。
ディルックから声を掛けて来るのは、あまりこちらに都合の良い状況とは言えない。
「旅人のことを考えていたんだよ。手紙でも書こうかと思ってな。」
「……届くのか?」
「そこは、ま、考えるさ。」
これで会話を打ち切り。
「そうだね。」
しかし相手は相槌を打った。しかも同意を示すものだ。この感じでは、終わっちゃくれなさそうだった。
「僕にも届いたものね。」
ほら。
なんだ。何が言いたい。何故会話を続けようとする。
推し黙るのは明らかに悪手だが、どうしても躱す手札を見出せない。
「……あのねガイア」
するとグラスを磨いていた手が一度止まり、溜め息が落ちた。
分からない。何に失望したのか。何を失言したのか。
分からないが、いずれにせよ、もう取り返しのつかないということだ。
「なんでもかんでも、一々裏を掻こうとするな。今の僕の話は、ふと、思い出しただけだから。」
真紅を見詰めて、やはりそのまま何も返せずにいた。
「あの旅人だって、疑うことを知らないようでいて、ああして上手くやっているだろう。」
「え。」
「旅人の話を持ち掛けたのは、君の方だったはずだが。」
「あ、ああ。そうだったな。すまんすまん。」
旅人に会う前だったら、ディルックだって人疑ってばかりだったはずだ。自分が周りを疑うのは、生来のものだからしょうがないとして。
「旅人と出会って君も変わったろうに。」
「へ?」
旅人との出会いに良好な影響を受けたのは、こちらではく。だから旅人は自分にとって、この件に限ったことではないが、利用している相手である。そう思っていたのに、どうやら先方は違った認識らしかった。
「旅人の影響で、君自身のその身を、わざと蔑ろにするような立ち居振る舞いが、少しはましになったと思ったんだが。」
「俺より、お前の方が……」
「僕?」
更に悪手か。
目が合った真紅から、視線を下げて逃す。
カウンターは、何も言わない。
暫くして、息を吸い込む気配。
「君は昔から……」
やめろ。何を言うんだ。
「いや。」
「?」
「僕の方こそ、昔から。弟である君が、兄弟であるお互いが、お互いのためを思って行動するのは当然だと、思いを強く持ち過ぎていたんだ。……今の騎兵隊長は、前の庶務長より、良くやっているよ。」
何を。
「君は君自身のために行動するのが自然なのにね。」
「何言ってんだよ。俺は昔から、自分がしたいようにして来たさ。」
思わず顔を上げてしまったから、思いの強い真紅と目が合ってしまう。
「そう。てっきり、君は神の目を受け取った時、漸く自由になったのだと思ったが。」
「そんなことあるわけない。」
それを言うなら、スパイに自由なんかありゃしない。
確かに、神の目を手に入れたあの時、自分自身に対する気付きは得た。けれど、気付かないうちに不自由に身を許していたなんてことはない。
寧ろその気付きのせいで、ずっと不自由になった気持ちもあったくらいだ。
カウンターはまた静かになった。
沈黙が重く感じているのは、こちらだけなのだろうか。
けれどそれも、少しの間だけだった。
「モンドは自由の国だ。自由にも様々ある、それも全て自由なんだ。」
モンドの自由に差異は無い、モンドは自由を、この身を、歓迎している。モンドを愛する貴公子は、そう言いたいんだろう。そこに自分が含まれていることを失念する貴公子じゃない。
「はは。闇夜の英雄に目を付けられない程度は、だろ。」
「ふん。」
カウンターの作業はまた捗り始めた。丁寧だが素早い仕草は、指先まで美しい。慣れたものだと言ってしまえばそれまでだが、全ての動きが実に洗練されている。
モンドの貴公子が自由を歓迎してくれる。けれど逆だ。逆なんだ。こちらにとっては、ディルックこそがモンドなんだ。何が前の事務長より、だ。祖国のための存在意義は、とっくにディルックのためのものだった。自分の立場とか自分の自由とか、そんなもの気にしたことがなかった。そんなものを気にしていては、つまらない。
どうしても力を欲した時、例えそれが邪な眼でも、手に取る価値がある。そうでなければ、どうして自分は生きている。元々望まれた生き方は、置き去りにされたあの時と一緒に、置き去りにしちまっても良いんじゃないか。なりふり構わす望んだこの生き方のためなら、やっぱり手段なんか選ばなくて良いんじゃないか。邪眼を使わなくちゃこの男を守れないんなら、自分だってそうするだろう。それで良いんじゃないか。必死に足掻いたそのほうが、生きている間、きっと俄然面白い。
残っていた酒を煽った。美味さが薄れてしまっていても、仕方ない。旦那様が注ぎ直してくれるわけないんだから。とっくに閉店時間の今じゃ、特に。
「愛国と自由と酒に、乾杯!」
「そのグラスは今君が飲み干したはずだが?」
旦那様は、延々と磨いていた同じグラスを漸く所定の位置に置き、最後の客を、さっさと手際良く追い出した。
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