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千代里
2025-06-16 12:48:13
17165文字
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リーブラ15話
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リーブラの針は問う・15話・その6
「貴族の屋敷に足を踏み入れるのは、これで三度目なわけだけど
……
やっぱりボクはこの空気には馴染めなさそうだよ」
「そうか? どの屋敷の内装も、似たようなもんだと思うけどな」
「君は生まれた時から、こういう環境にいたからそう感じるんだよ」
ヤルマルが話をしている相手は、屋敷の主人の息子であるティエリーだ。彼は、名目の上では屋敷の支配者であるベリトア・ド・ニヴェールの息子であり、屋敷の中では二番目に偉い立場でもある。
しかし、屋敷の内装を一目見てから、ヤルマルはここは本当にティエリーの父親
――
ベリトア卿の居宅なのだろうかと疑問を抱いていた。
「内装の雰囲気だけを見ていると、どう頑張ってもオーバン卿の顔を思い出してしまうね。ベリトア卿は、お父さんのオーバン卿によく似た性格なのかい」
「いや、俺としては、そんなに似てないと思うけどな」
話をしながら、ヤルマルは廊下に並ぶ高価そうな絵画や飾り台に並んだ壺の数々に、ちらりと目をやる。
美術品たちは全て、まるで内装から生えてきたかのように、計算され尽くした位置に設置されている。それでいて、程よくこちらに主張をするような調整も忘れていない。子供でも大人でも、廊下を一つ通るだけで、どれか一つの芸術品を最高の角度で鑑賞することになるだろう。この計算高さは、これまで案内されたどの邸宅にもないものだった。
ノエの父であるベルナールの屋敷は、壁紙や家具を作る職人はそれぞれ違っていたようだった。しかし、様式が微妙に異なるという程よいズレが、訪問客から自然と萎縮を取り除いていた。
一方で、ルグロ家の屋敷は完全に統一された華美な様式が特徴だった。
宝石箱に閉じ込められたような絢爛さは、一介の旅人に過ぎないヤルマルには圧倒されるものだったが、貴族にとっては己の財力を示す手っ取り早い手法の一つなのだろう。
そして、このニヴェール家の本邸は、他の二つと異なり、見るものに温もりを与えるわけでもなければ、己をことさらに飾り立てるようなこともしていなかった。
堅実に自らを主張しつつ、要所要所に思わず唸りたくなるような工夫を忍ばせる。それが、ニヴェール家の
――
ひいては、オーバンのやり方であるらしい。
「そうは言っても、俺は屋敷に何があるかなんて、よく知らないんだよ。頼むから、そこの絵画とか壺の製作者とか謂れについて、俺に聞いてくれるなよ」
「一応、あんたは貴族の御曹司じゃないのか。そういう教育はしてこなかったのか、あんたの父親は」
「してたかもしれねえけど、頭に入れる前に抜けていっちまった。小難しい本よりも、剣を振り回してる方が好きなガキだったからよ」
悪びれもせずに言うティエリーに、オランローは渋い顔をしてみせる。
それでも、ティエリーのおかげで、ヤルマルたちは広い邸宅の中で迷子になっていないのだから、彼はガイドにはなれずとも道先案内人としては優秀と言える。
ヤルマルたちを含めた一行は、予定通りニヴェール家の屋敷に招かれていた。
そして、当然ながらただ中に入っておしまいとはならなかった。
貴族の邸宅に通されるのは三度目ではあるが、玄関口の時点で圧倒されていたオデットに至っては、宿泊のために用意された部屋に案内されて、すっかり恐縮してしまった。
おまけに夕食を用意しているとまで言われたら、オデットだけではなく元貴族のノエや普段は落ち着いた様子を見せるオランローですら、不安と緊張を横顔に滲ませていた。
平然としていたのは、貴族として生活していた期間が長かったルーシャンとその従者だったサルヒ、そしていつも自分のペースを崩さないヤルマルくらいである。
「夕飯を食べる場所にボクたち用の部屋を用意してくれて助かったよ。広々とした長机でお祖父様と一緒に
……
なんてことになったら、せっかくのディナーの味もわからなくなってしまう」
「そんなの、俺だってごめんだ! 親父と食ってるときですら、あまり飯の味がしないっていうのに」
「そういう君のお父さんであるベリトア卿は、どちらにいるんだい。邸の中では見かけなかったけれど」
オーバンが私的に招いた客人であるとはいえ、本来の主人であるはずのベリトアは挨拶にすら来ていない。興味がないのか、それとも父親と顔を合わせたくないのかはヤルマルにもわからぬことだ。
「さあ。今は街を巡る巡回の期間じゃないから、屋敷でイヴェリアスさんや弟と、あとは生まれたばかりの妹と一緒にいるとは思うけど」
イヴェリアスとは、ティエリーにとっては継母にあたる女性だ。弟と妹はティエリーにとっては腹違いの弟妹にあたるわけだが、ティエリーは父にはともかく、継母や弟妹には思うところはあまりないようだった。
「屋敷が広いと、同じ家にいても顔を合わせることもないんだねえ。ノエたちと近い部屋じゃなかったら、ボクたちも帰るまでに一度も顔を合わせない、なんてことになってたかもよ」
「そのノエたちを、あの爺さんはどこに連れていったんだか。夕飯の後に顔を出したと思ったら、預かっているエヴラールの遺産のことで話があるとか言って、オデットたちを連れ出していってしまっただろう」
「俺も見てみたかったのに、ちゃっかり締め出しちまってよ。爺さんは、普段はあれこれ口出してくるくせに、変なところで秘密主義なんだよ」
オランローとティエリーの言うように、ノエを筆頭とした四人は今、オーバンに連れられて屋敷の別の場所へと案内されている。ヤルマルとオランローは完全なる部外者なので、締め出しを食らってしまい、ティエリーと一緒に屋敷見物をして暇を潰していたのだった。
「遺産っていうと、金銀財宝の類かな?」
「うーん、どうだろうな。めぼしい財産はもう使っちまったんじゃねえか? あの爺さんのことだし、一度懐に収めたものを、今更返却しようなんて殊勝なことは考えてないだろ」
「それに、そんなものをもらっても、オデットは困るだけだろう」
「そうだねえ。あ、でも、宝石だったなら、換金のためにいくつか貰っておいてもいいとボクは思うよ。宝石って、持ち運びが楽な割に高価だし、どの地域に持っていってもそれなりに値がつくから、旅暮らしにはうってつけなんだよね」
「
…………
」
オデットのような年頃の少女に限らず、煌びやかな宝飾品を好む女性は多い。オランローも、人並みの感覚として、ヤルマルが宝飾品に興味を持つのではと思っていたのだが、肝心の彼女は実用性にしか興味がないようだった。
ヤルマルに何かものを渡すときは、うっかり売られないように、慎重に検討しよう。
オランローがそのような決意をしたとき、不意に曲がり角からぴょんと小さな影が飛び出してきた。
「あ、やっぱり! ティエリーお兄様、帰ってきていたのですね!」
「おう、セルジュアンか。元気してたか?」
「はい。ちゃんとお兄様のいいつけを守って、毎日の素振りは欠かさないようにしてますっ」
姿を見せたのは、ティエリーとはあまり似ていない黒髪のエレゼン族の少年だった。
オデットよりも年下ではあるが、すでに十といくつかの年は経ているのだろう。あどけなさの中に、この先見せるだろう精悍さも僅かに滲ませている。
口ぶりからして、彼はティエリーの腹違いの弟だろう。
「そちらは、君の弟かい。たしか、名前は」
「お話はうかがっています。お祖父様の来客で、お兄様のお友達の方々ですね。私は、セルジュアン・ド・ニヴェールと申します。さ、先ほどははしたない場面を見せてしまい、失礼しました」
セルジュアンと名乗った少年は、ヤルマルの姿に気がつくと、ぴしりと背筋を伸ばして一礼してみせた。このように自然に優雅な所作を身につけるために、少年は何度も修練を重ねてきたのだろう。
彼の一貴族としての振る舞いに敬意を表し、ヤルマルは膝を折って視線を合わせるのではなく、その場で返答の礼を見せることを選んだ。
「ボクはヤルマル。こちらはオランローだ。よろしく、セルジュアン様」
「け、敬称は、つけていただかなくても大丈夫です。お祖父様の客人であるわけですし、それにお兄様のご友人とも伺っていますので」
慌てたように言うセルジュアンの物言いには、先ほどまでの優雅な物言いはどこへやら、年相応の様子が顔を出していた。
ティエリーのそばから離れないのは、人見知りをしているからだろうか。一方で、彼から向けられる視線には、オランローやヤルマルに対する憧れの気持ちが詰まっていた。
屋敷から飛び出て自由に暮らしているティエリーを、弟は無邪気に慕っているようだ。そして、それは友人であるヤルマルたちにも当てはまるらしい。
「せっかく時間もあることだ。よかったら、君とも話をさせてくれないかい」
「いいのですか?! お祖父様の客人は、大切な御用があると伺っておりましたが
……
」
「大切な御用があるのは、ボクの仲間たちの方でね。ボクたちは同行者の一人に過ぎないから、手が空いているんだよ」
「屋敷のものからしたら、オレたちはおまけのようなものだ。引け目を覚える必要はない」
実際のところ、屋敷の中には、部外者のヤルマルたちが入ってはならないと言われた場所もいくつかある。ティエリーが率先して案内役を買って出たのも、ヤルマルたちが余計な厄介ごとに巻き込まれないようにするためでもあった。
そのような制限つきの案内に、少し居心地の悪さを覚えていたところでもあったので、ヤルマルはセルジュアン少年の小さな希望を叶えてやろうと思ったのである。
「で、では、もしよろしければ、皆さんのお話を聞いてみたいです。皆さんは、冒険者なのですよね?」
「そうだよ。東は遠くダルマスカから、西はエオルゼアまで、世界を股にかけて飛び回った冒険者さ!」
大袈裟に手を広げるヤルマルに、純真無垢な少年の好奇心に輝く視線が突き刺さる。
オランローでは、セルジュアンのあまりの無垢さに居た堪れなくなっていただろうが、ヤルマルはどこ吹く風だ。こんな時、彼女が年長であるとオランローは痛感する。
「じゃあ、セルジュアンの部屋で茶でも飲みながらヤルマルたちの話を聞かせてもらうとするか。セルジュアン、それでいいだろ?」
「はい、もちろんです!」
「ヤルマルたちも、いいか?」
「構わないさ。屋敷の中も十分に見せてもらったところだ」
二つ返事のヤルマルに、オランローも追従する。彼らが部屋に向かうために歩き始めた時、オランローは一度足を止め、振り返った。
屋敷の奥深くに繋がる廊下。その向こうには、オランローの予想もしないようなイシュガルドの貴族が抱える謎や闇が渦を巻いているのだろう。
(あんたらも、無事に帰ってくるんだぞ)
別れた四人の姿を思い、彼らがすぐに自分の前に姿を見せてくれることを祈る。
かつての己に比べれば随分と感情が揺れやすくなったものだ。だが、この心の揺れを、オランローは否定するつもりはなかった。
***
「そこの三人。彼女への同行は、ここまでにしてもらえるだろうか」
廊下を歩き続けた先にあった一室で足を止めたオーバンは、そのように告げた。それはお願いの形をとった実質的な命令だった。
否とは言わせない強固な意志を感じる一言に、彼の一歩後ろを歩いていたオデットの体に緊張が走る。
――
エヴラール家が遺したものについて、話がある。
オーバンにそう言われて同行を促されたオデットは、他の仲間の同行を求めた。オーバンはオランローやヤルマルには渋い顔を見せていたが、ノエたちはその限りではなかったので、オデットは二人を除いた三人に同行を頼んだのだ。
しかし、オーバンが許していたのは、あくまで目的地に到着するまでの道中について行くことだけだったらしい。
「なぜかという質問をしてもよろしいでしょうか、オーバン卿」
「構わぬ。そして、答えは明瞭だ。お前たちは、エヴラール卿の遺した財産を目にする資格を持つ者ではない。故に、彼の遺したものを管理する部屋に入室を許すわけにはいかない」
「オデットが望んだとしてもですか。僕は、彼女の保護者でもあると自負しています」
ノエは食い下がってみたものの、オーバンの意志は鋼よりも硬いようだ。オデットをじろりと見やってから、
「この娘は、右も左もわからぬ子供というわけでもあるまい。自らの頭で考えられるのなら、他の者の介添は不要だ」
「
……
ですが」
ノエは、オーバンとオデットを二人きりにすることに懸念があった。
オデットの男性に対する恐怖感は完全に治ったわけではない。先日は、老年の司祭に殺されかけるという恐ろしい目にも遭っている。オーバンは司祭服を着ているわけではないので、今のところオデットが恐怖に取り憑かれる様子はないものの、いつ不安定な状態に陥るかはわからない。
それに、たとえオデットが平気だったとしても、オーバンがエヴラール家の最後の血筋であるオデットに何か良からぬ企みを持っている可能性は否めない。今日の昼に聞いた、両家の間にあった確執をノエは忘れていなかった。
「あの、オーバンさん」
ノエとオーバンの間に静かに火花が散っている横で、オデットがおずおずと手を挙げて己の存在を主張する。
「兄さんと
……
それに、サルヒさんは、オーバンさんのいう通り、エヴラール家の遺産を見る権利がない人なのでしょう。オーバンさんが大事に預かっていたものを赤の他人に見せたくない気持ちは、わたしにも分かります」
「やはりお前は賢い娘のようだな。その通り、お前だけが
――
」
「でも、ルーシャンさんは違いますよね。ルーシャンさんは、わたしのお父さんが養子として引き取った方なのですから」
一度は大人しく従ってみせるようにして、オデットは積極的に一手を進める。しかし、オーバンとて小娘の要求にすぐに従うほど甘くはなかった。
「聞いているかもしれないが、此奴はお前の父親が気まぐれで孤児院から拾ってきただけの男だ。エヴラールの血など一滴も流れていない余所者だ」
「だけど、わたしのお父さんはルーシャンさんを息子として引き取ったのですよね。だったら、ルーシャンさんはわたしの兄とも言える人になります」
オデットはきっと眼差しに力を込めて、オーバンと相対する。
「あなたは、エヴラール家の遺産をこれまで守ってきたのでしょう。きっと、それはわたしが想像もつかないほどに大変なことだったと思います」
一拍置いて、オデットは続ける。
「だけど、わたしを助けてくれたのは兄さんで、わたしをあなたに会わせたのはルーシャンさんです。兄さんは確かに家のことには無関係かもしれません。そこは認めます。ですが、ルーシャンさんはそうではないでしょう」
身を乗り出し、オデットは一歩も引くことなく告げる。
「この部屋には、わたしとルーシャンさんで入ります。それなら、兄さんも納得してくれるでしょう」
いつのまにか、この場を支配していたのはオーバンではなくオデットにすり替わっていた。彼女の言葉に気押されるようにして、オーバンは唇を歪め、一度ルーシャンをちらりと見やる。
この時ばかりは、ルーシャンもオーバンに譲ろうとは言わなかった。
彼もまた、自分の養父が何を遺していたのか気になっているのだろう。あれほど、父親のことを楽しげに語って聞かせてくれたのだ。彼らの間には実の父子と遜色のない繋がりがあったのだとオデットは確信していた。
やがて、オーバンは「仕方あるまい」とため息のような一言を口にした。
「ならば、そこの二人は下がれ。部屋の前で待つのはよしてもらおうか。人が扉に張り付いていると思うと、落ち着かないのでな」
「では、僕たちは、部屋に戻っておきます。オデット、もし迎えが必要だったらリンクパールを使うんだよ」
「はい。もちろんです」
ノエとて、扉に耳をつけて盗み聞きしようとまでは思っていない。必要ならば、オデットがリンクパールを使ってすぐに連絡をしてくれるだろう。
「サルヒさん、行きましょう。
……
サルヒさん?」
今まで沈黙と共にやり取りを見守っていたサルヒが、一歩、ルーシャンへと歩みよる。
「どうした。悪いが、中には連れて行ってやれないぞ」
「それは承知しています。旦那様。お話が終わった後で構いませんので、時間をもらえますか」
「遅くなりすぎない時間ならな。この爺さんの話が長くなりそうなら、先に休んでいてくれ」
サルヒは首を縦には振らなかったが、ルーシャンはそれ以上彼女に念押しはしなかった。
サルヒは一礼を残し、ノエは未だ後ろ髪を引かれるように何度か振り返りながら、オデットたちの前から立ち去っていった。彼らの姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、オーバンは懐から一本の鍵を取り出す。
彼が鍵穴に鍵を入れ、捻ると、解錠の音と共にいくつかの魔紋が扉の前に浮かんだ。魔法の鍵がかけられていたのか、魔紋は何度か紋様と紋様を噛み合わせるような動きを見せてから、ゆっくりと消えていった。
「今のは
……
?」
「魔紋を使った仕掛けだ。特定の魔法がかけられた道具を用意しないと開けられないようにしてある。無理に通ろうと思えば、扉に仕掛けられた魔法に攻撃されるってことだ」
ルーシャンの説明に、オデットが感心して頷いている間に、オーバンは重たそうな木の扉を難なく開く。
後に従うルーシャンについて、オデットもおずおずと部屋へと入っていった。
人が日常的に使わない部屋は、空気の流れが留まる。この部屋もその例には漏れず、どこか籠った空気がオデットを迎えた。だが、閉鎖された空気に物怖じしたのは、ほんの数秒のこと。照明が灯された瞬間、オデットは目にした部屋の内装に目を丸くした。
「ここは、書斎
……
?」
「私の個人的な書斎としても併用しているが、本棚に収められている本の半分以上は、エヴラールの当主が所蔵していた蔵書だ。それと、いくつかは個人的な資産も金庫がわりに併せて管理している」
オーバンが示した先、書斎の文机には柔らかそうな布が置かれ、高価そうな装飾品が並んでいる。装飾は控えめではあったが、指輪やペンダントに嵌められた宝石は、冒険者なら一生を遊んで暮らせるほど高価なものではなかろうか。
オーバンに促され、文机の前に近寄ったものの、万が一傷をつけてしまったらとオデットは気が気ではなかった。
息を止めてそっと覗き込むと、十年以上保管されてきた宝石とは思えないほどに丁寧に磨かれている。この日のために、わざわざ手入れをしておいたのだろう。
「他にも、このような宝石やお金があるのですか」
もし引き取ってくれと言われたらどうしようと、オデットは背中に冷たい汗を感じていた。
年頃の少女として装飾品に興味はあるものの、ここまで値打ちのあるものはオデットでは到底扱い切れない。ただ持つだけでも、恐ろしいくらいだ。
「エヴラールの縁者へこのように言うのは少々気が引けるが、所領の管理のために、ほとんどの資産は手放してしまった後だ。分家の連中に首輪をつけるのに、財産ほどわかりやすい餌はなかったものでな」
「そ、そうだったのですね
……
」
先日目の当たりにしたルグロ家の横領もそうであったが、オデットが思う以上に、貴族にとって資産とは喉から手が出るほど欲しいもののようだ。
領地の安寧のために、没落して無くなった家の財産を使うというのは、オデット個人としてはそこまで悪くない利用方法と思えた。
だが、使用されたのは遺産だ。そして、それを本来受け継いでもおかしくなかった者がこの部屋にはいる。
オデットは、恐る恐るルーシャンに視線を送る。だが、彼はオデットが思うよりもあっけらかんとした様子を見せていた。
「領地の運営ってなると一筋縄ではいかない所もあるだろう。親父たちがいなくなって、領主不在の無法地帯になるところを取りまとめるには、金だって必要だったろうさ。今更、俺がどうこう言うつもりはない」
「貴様ならそう言うと思ったぞ、ルーシャン。お前は、魔道狂いの養父によく似ている。そちらが興味があるのは、このような宝石ではなく、アレだろう?」
オーバンが示したのは、ずらりと壁に沿って並べられた本棚の一角だ。その本棚にも、厳重に鍵がかけられている。オーバンが、鍵を使って開くと、中からは古書独特の香りが漂って来た。
「焼け落ちたエヴラール邸の地下にあった書庫から運んできたものたちだ。火災程度では損なわれないように、書庫そのものに厳重に魔法がかけてあったようで、当時と遜色のない状態を保っている。読みたければ好きに読むがいい」
「いいのか? 随分と今更になって太っ腹だな」
「構わん。どうせ、貴様と私の目指すべき道に大差はない」
「そんじゃ、ありがたく目を通させてもらおうか」
ルーシャンには、背表紙だけでどの本に何が書かれているか大体あたりがつくらしい。いくつかの本を取り出すと、まるで自分の家の書斎のように、手近な椅子と小机を並べ、腰を下ろしてページを繰り始めた。
一方で、自分はどうしたものかとオデットが悩んでいる間に、オーバンは本棚の扉を閉めてしまった。オデットには興味がないだろうと思われたのだろうか。
「あの
……
オーバンさんは、わたしが、エヴラール家の当主だったお父さんの子供だから、屋敷に招待をすると言っていましたよね」
「そうだとも」
「では、招待の理由は、これだったのですか?」
オデットは机に置かれた宝飾品や、厳重に保管されていた本棚にそれぞれ視線を送る。
「お父さんが遺したものをわたしがどうしたいか確認するために、ここに呼んだのですか」
「半分はそうだ。セレスタン・ド・エヴラールの娘よ。そして、お前はどう答えるつもりだ」
どこかおかしげに口元を歪めながら、オーバンは書斎の最奥にある肘掛け付きの椅子に腰を下ろす。
対するオデットは、椅子も用意されず立ったままだ。まるで、何かの尋問にかけられているような状態だが、オデットは臆することなく目の前の人物を見つめ返した。
「わたしは、今のままで十分満たされています。お金も宝石も、わたしには必要ありません。もし使い道をわたしが示さなければならないのなら、この国で生きていて、今も辛い思いをしている人たちのために使ってください」
「たしかに聞き届けた。しかし、中には金ではつけられない値打ちのものもあろう。そのようなものについては、私も手をつけていない。必要だと思ったときには、再びニヴェールの戸を叩くといい」
「はい。ありがとうございます」
あまりにすんなりと欲求が通ったので、面くらいながらもオデットは頭を下げる。
「お父さんが遺した本についても
……
」
「同様に扱おう。あれは魔道士にとっては得難い財産だ。代わりに、私も幾らかは利用させてもらう。すでに利用したものもあるから、今更嫌だと言われると少々困るがな」
全く困らなさそうな口ぶりではあったが、オーバンが彼なりにオデットの許しを得ようとしているのは伝わった。
「はい、それは構いません。それと、できるなら、ルーシャンさんにも、その本たちをいつでも見せてあげたいのですが、そのように取り計らっていただけますか」
オーバンとの会話にいきなり引き出されたルーシャンは、読者の手を止めて顔を上げた。
彼が周りを気にせずに、一心不乱に本を読んでるのは、今この瞬間しか自分にはないと思っているからだとオデットは考えていた。
(でも、これらの本は、ルーシャンさんのお父さんがルーシャンさんに遺したものだと思うのです)
むしろ、その可能性の方が高いだろう。顔も合わせたこともない赤子だった当時のオデットに、魔道に関する小難しい本を遺しておくなどというのは考えにくい。
「オデット、気にしなくていい。別に俺は」
「
……
いいだろう。もっとも、その際はオデットよ。お前と同行していることを条件としよう。私も、ここに気軽に出入りされるのは望ましくないのでな」
「ありがとうございます」
オーバンの見せた譲歩に、オデットは一つ礼をする。ルーシャンはオーバンとオデットを交互に何度か見ていたが、余計な口を出してはオデットの好意が無駄になると思ってか、口を噤むことを選んだようだ。
(さて、この後はどうしましょう)
話がひと段落して、オデットは自分はこの空白の時間をどうしようかと思案する。
ここを出ていくわけにはいかない。オデットが出て行ってしまっては、ルーシャンも締め出されてしまうからだ。せっかく十数年ぶりに父親が遺したものに触れられた彼の時間は、大事にしてあげたい。
だが、肝心のオデットは難しそうな魔法の本には気後れしてしまうし、宝石を眺めて何時間も感じ入る趣味もない。どうしたものかと思案していると、
「あの男
……
ミラベルが言っていたが、この中には、石の値打ちはさほどではなくとも魔紋が刻まれているものがあるそうだ。そのような特別な措置が施されたものは、私は資産としては使用せずに、選り分けて保管しておいた。娘よ。お前は、確か魔道士であったな」
「は、はい」
「今後の旅路において、お前が必要とするものもあるやもしれぬ。時間が余っているのなら、よくよく調べてみるといい」
せっかく課題を出されたので、オデットは並べられた宝飾品に手を翳して検分を始めた。
オーバンが先んじて用意してくれていた装飾品は、どれも高級そうな品ではあったが、魔法的な仕掛けはないものばかりだった。
だが、続いて彼が出してきてくれた箱の中には、しつらえこそ質素ではあるものの、石の一つ一つに細かな魔紋が刻まれたペンダントやブローチが並んでいた。それを取り出し、少量のエーテルを流して効果を確かめるのは、オデットにとってもなかなか楽しい時間となった。
豆粒のような宝石が魔紋の光を乱反射させ、オデットの知らない魔法を見せてくれる。たとえ、片鱗に過ぎなかったとしても、彼女にとっては、神秘的かつ探究心をそそられる時間だ。
気に入ったものがあるなら持っていけばいいと言われていたので、精査の末に並べられた石から、一目見て気に入っていた深い緑色のものをオデットは手にとった。
朧げに残った記憶の中に残る母の瞳は、これと同じような緑だった。それを思い出したからでもあり、母の思い出を父が遺したものに託してみたいと思いついたからでもあった。
(
……
お父さんは、これらの品をお母さんに渡すことはなかったのですよね)
もし渡していたのなら、オデットの母が幼い娘を抱えて救貧院で過ごすようなことはなかっただろう。それほどまでに、彼の死は急なものだったということだ。
オデットがしんみりと感傷に浸っていると、
「たとえ金目のものをちらつかされても、飛び付かずに慎重に観察するところは、お前の祖母に似ているな」
不意にそのようにオーバンに言われ、オデットは目をぱちくりとさせた。
「祖母
……
ですか? お母さんではなく?」
言い間違えかと思いきや、オーバンはゆっくりと首を横に振る。
「違う。お前にとって祖母にあたる女だ。あれは
……
オルガは、元はエヴラールの家で勤めていた女中だった。私も、屋敷を訪問した時に何度か顔を合わせたことがある」
「オーバンさんは、わたしのお祖母さんを知っているのですか?!」
てっきり父親の知り合いという縁だけで呼ばれたと思っていたオデットは、礼などかなぐり捨てて声を上げてしまった。
部屋の静けさに気まずさを覚え、遅れて口元を手で隠す。それでも、オデットの好奇心までは隠すことができなかった。
「知っているというほどでもない。私はただの顔見知りに過ぎなかった。だが、お前の父親はあの女に随分と執心だった。私もあいつも、まだ若く、幼かった頃のことだ」
「お父さんは、そのオルガさんという方を気に入っていたのですか」
オデットの質問に、オーバンは首肯を返す。
「でも、オルガさんは、わたしのお父さんとは結ばれなかった
……
?」
「当然だ。奴の父親は、息子が愚かな真似をする前に、女中として働いていたオルガに暇を出した。オルガも、自分の立場がわかっていたのだろう。あれは慎重で、聡明な女だった」
顔見知りに過ぎないと言いつつも、オーバンの言葉には関係者にしか出せない含みがあった。
昔を懐かしむというには、やや重たさを感じる空気に、オデットも言葉を発さずに続きを待つ。
「オルガは屋敷を出た後、市井の男の元に嫁いだらしい。だが、娘を産む直前に父親が、産んで間もない頃にオルガ自身も、流行病によって命を落とした。残されたのは生まれて間もない娘だけだったと聞いている。その娘も、どこぞでのたれ死んでいるかと思っていたが」
「
……
わたしのお父さんが見つけ出して、自分の領地で育てていたのですね」
年若い頃に思いを寄せた人物の忘れ形見を育てたといえば聞こえはいいが、貴族の青年が市井の娘を手元で育てられるわけがないことは、オデットもよくよく知っている。
そもそも、母親がどのような環境で育ったのか、オデットでさえも詳しくは知らない。
母自身の断片的な言葉から、常日頃から夫に会えるわけではなく、夫であり彼女の後見人とも判明したエヴラール卿を待ち焦がれるような日々を送っているとは推察できていた。
待つということは、彼女は会いに行ける立場ではなかったことになる。ひょっとすると自由に動き回れる環境でもなかったのではないか。
ノエの母親が、本邸から離れた屋敷で暮らしていたのと同じように、彼女もまた人目につかない場所で隠されるように暮らしていたのかもしれない。
(いいえ、ただ暮らしていただけではない。もしかしたら、お父さんはお母さんを育ててきたんじゃ
……
。最初は娘のように、でも、もしかすると途中から
……
)
嫌な想像ばかりが膨らむオデットにとどめを刺すように、オーバンは言う。
「挙句、自分とは娘ほども歳が離れているというのに、こうして子供を残すとは。奴の執着には常々驚かされる」
「で、そんな話を今する爺さんの性悪具合に俺は驚かされたところだ。暇つぶしの昔話にしちゃ、趣味が悪くないか」
ぱん、と本を閉じる音。それを合図にしたように、オデットは自分の肺に息が流れ込むのを感じた。知らぬ間に、呼吸を止めてしまっていたらしい。
「事実を言ったまでだ。セレスタンがもうこの世にいない以上、真実を知る者が残された者に伝えるべきであろう。この娘には、真実を知る権利がある」
「権利をがあるのと、それを行使するかどうかは、本人の自由に任せるべきだろう」
「父親のことを知りたくて、私の元にやってきたのだ。ならば、その覚悟はとうの昔に済まされていると私は判断した」
「覚悟があろうがなかろうが、前振りっていう気遣いもできなきゃ、年寄りのおせっかいな陰口にしかならないんだよ。引退してそんな常識も忘れたか?」
「随分と食ってかかるな、ルーシャンよ。それは、お前の養父を愚弄されたと感じたからか。それとも、この娘自身への肩入れか。はたまた、他に理由でもあるのか?」
怒鳴りあうようなことこそなかったものの、オーバンとルーシャンの間には静かな火花が飛び散っている。当事者であるはずのオデットすらも口を挟めず、両者の顔を交互に見つめるしかなかった。
室内の温度ががくんと下がるような、冷えきったやり取りの渦中に置かれ続けるのは、オデットも望むところではない。さらにルーシャンが口を開こうとした間を狙って、オデットは「あの」と声を上げる。
「ルーシャンさん、わたしに代わって怒ってくれてありがとうございます。でも、わたしは、今の話を聞いても、ルーシャンさんが思うほど深く傷ついたり、泣きそうな気持ちになったりはしてませんから」
「
……
オデット」
ひょっとすると見当違いの発言かもしれないが、オデットは敢えて「ルーシャンは自分のために怒ってくれた」という前提で話を進めた。オーバンの勘ぐりに、これ以上仲間を晒したくなかったからだ。
「オーバンさんも、わたしの知らない事情を教えてくれてありがとうございます。
……
確かに、お父さんのしたことは、他の人から見たら、理解できないことだったのかもしれません。お父さんを知っているオーバンさんには、尚のことそう思えても不思議ではありません」
オデットとて、自分の身近な人が誰かを閉じ込めて育てた挙句に結婚したと聞かされれば、どんな事情があろうと驚いてしまっただろう。オーバンも、オデットを見つけたとき、似たような気持ちを抱いたのかもしれない。
「だが、お前は最初こそ驚いていたようだが、今はすでに落ち着いているように見える。なぜ、そのように平静でいられる?」
オーバンの質問は、驚きからの確認ではなかった。何かを試しているかのような声音にさらされても、オデットは物怖じせずに応じる。
「わたしの知っているお母さんは、お父さんの悪口を言ったり、わたしが生まれたことを呪うようなことを一度も口にしませんでした。少なくとも、わたしの知る限りは」
「娘の見えぬところで、夫の陰口を叩いていたかもしれないぞ」
「かもしれません。ですが、お母さんはもうハルオーネ様の元に旅立ちました。だったら、わたしはお母さんがわたしの中に残していってくれた思い出だけを真実とします」
興味深げに、ゆっくりと瞬きをするオーバン。彼の視線にもたじろがず、オデットは言う。
「それに、たとえお父さんが常人には理解できないような執着をお母さんに抱いていたとしても、ひょっとしたらお母さんは本当はお父さんを拒みたかったのだとしても
……
それは、今のわたしには関係ありません」
すう、と呼吸を一つ。
オデットの伏せた瞼の裏に蘇るのは、銀色の髪にルビーのような瞳を持った少女だった。
たとえ人ではなかったとしても、もはやこの世に生きてすらいない亡者の影だったとしても、目覚めれば醒めるような泡沫の夢だったとしても。
それら全ての真実を知ったとしても。
オデットの友達は、自分の意識が消える最後まで、自分であることをやめなかった。
「わたしの出会いと、わたしの歩いてきた道は、わたし自身が刻んできたものです。そこに、父と母は関係ありません」
そこまで言い切ってから、オデットはじっとオーバンの様子を伺う。彼はオデットの言葉を飲み込むためか、十数秒ほどの間を置いてから、
「どうやら、その肝の太さは母親似のようだな。お前の父親では、そこまで豪胆な物言いはできなかっただろう」
「え、と
……
それは、ありがとう、ございます?」
「はっ、礼を言われるようなことでもない。年寄りの嫌味にも正論を返す芯の太さは、私の娘に似ているな。つくづく、惜しいものだ」
どうやら、オデットの返答はオーバンの気にいるものだったらしい。
これまで他者を嘲笑う以外では見せなかった笑い声に、オデットは虚をつかれてしまっていた。
一方で、オーバンはルーシャンへと視線をずらす。先ほどのひりついた応酬を思い出し、オデットは咄嗟に二人の間に割って入った。
「あ、あの! さっきのルーシャンさんは、わたしのために怒ってくれていたんです。オーバンさんも、先ほどの自分の発言を『嫌味』と認めましたね。でしたら、ルーシャンさんの怒りも正当のはずです。そうですよね」
「おい、オデット。俺は別に
――
」
「ふむ。そのようにも取れよう。それで、お前は何を望んで、そのように割って入っている? 先に望む札を示さねば、交渉の席に着くこともできぬぞ」
駆け引きをするつもりだったことを見抜かれて、オデットは感情を顔に出さないように己の意志を総動員して表情を制御しなければならなかった。目の前の老人は、ほんの少しの隙すら見逃さない相手だとは、この数日間で既にわかっている。
「ですから、わたしとオーバンさんの間に交わした約束はまだ有効であると確かめさせてください。わたしは、必要に応じて、お父さんの遺したものの一部を受け取れるし、この部屋にある書物を読むこともできる。そして、お父さんの養子であったルーシャンさんも、同じ権利を持つ。そうですよね」
「私情で前言を撤回されることを恐れたのか。なるほど、確かにその危機意識は間違いではない」
「では、許してくださるのですか」
「しかし、拙速なのは褒められぬ。次があるのなら、気をつけるといい」
指摘を受けて、オデットは小さく首を縦に振る。もっとも、それ以上、老人も話を長引かせるつもりはなかったようだ。
「私も回答を先延ばしするつもりはない。先の発言を撤回するつもりはない。お前たちは、この部屋を出入りする権利を持つ。もっとも、そこの男が入る際は、オデットの同伴を必要とする条件を変えるつもりはない」
ぱっとオデットの顔が喜びで輝く。自分の身内のせいで、ルーシャンが父の遺産に触れられなくなるような顛末になっていては、オデットは申し訳なさで彼の顔を見れなくなっていただろう。
ルーシャンは物言いたげにオデットを見やったが、彼女の裏表のない喜びように、不必要に遠慮する必要はないと考えを改めたらしい。結局、彼は無言でオーバンに軽く会釈のみをしていた。
緊迫感のあるやりとりを終えて、緊張が抜けたのだろうか。込み上げてきた欠伸を咄嗟にオデットは手で隠したが、ルーシャンも、部屋の主である老爺もそれを見逃しはしなかった。
「もう夜も遅い。オデットのおかげで、部屋の立ち入りも許してもらったからな。今日はそろそろ部屋に戻ろう」
「はい。そうですね
……
わたしも、少し疲れているみたいです。オーバンさんも、旅の疲れがあるのに案内してくれて、ありがとうございます」
「私の都合でお前たちを連れてきただけだ。それに、先ほども言った通り、私はお前の権利に応じる義務がある。そう判断したまでのことだ」
にこりともせずに言い切ると、オーバンは椅子から立ち上がり、部屋の出入り口である扉に向かう。ルーシャンは、読みかけであった本を書棚に戻し、オデットを連れて外に出た。
出していた品を片付ける時間が必要だったからか、オーバンは彼らが廊下に出ると、すぐに書斎の中へと戻っていった。
「さて、と。お嬢ちゃんを無事に部屋に連れていくまでが、俺の仕事だな。迷子になるなよ?」
「大丈夫ですよ、ルーシャンさん。もし迷っても、リンクパールで皆さんを呼びますから」
いつものように言葉を交わせるのがこんなにも気楽なことだったのかと、オデットはほうと息を吐く。時間にすると一時間程度であったはずだが、オーバンと三人でいた時間はずっと長く感じられた。
「ルーシャンさんの読んでいた本は、ずっと読みたかったものだったのですか」
「
……
そうだな。大体が一度は親父に読ませてもらったものだが、どうしても読ませてくれないものがあったんだよ。門外不出ってやつだな。そんな書物にこんな形で触れるのは、なんだか変な気分だ」
噛み締めるように呟く声音には、言葉以上の感慨が含まれている。ルーシャンにとっては、積年の願いが叶った瞬間でもあったのだろう。
「では、明日もあそこで本を読むのですか?」
「あの爺さんの許しが得られるなら、それも悪くないな。お嬢ちゃんこそ、ずっと宝石ばかり見ていて、退屈だったんじゃないか?」
「そんなことはありませんでしたよ。魔法が込められた宝石たちを見るのは、良い勉強にもなりました」
そこまで話して、オデットは自分の手の中に握りしめられたままのものに気がつく。先ほど、祖母の話を聞く直前に握っていた、緑の石がはまったネックレスがオデットの手の内に収まっていた。
好きなものを持っていっていいと許可も貰っていたのだから、このまま貰っていこうと、オデットはネックレスを首に架ける。
「あの宝石たちに込められた魔法は、そこまで大層なものじゃなかったと思うけどな。身を護る壁を作ったり、魔法を跳ね返す膜を作ったりってところか?」
「見ていないのに、ルーシャンさんはそんなことも分かるんですね。すごいです」
「違う違う。全部が全部じゃないが、俺が練習台に使っていた石もあっただろうって知っていたからだよ。親父と一緒に、宝石にどこまで魔紋を刻めるか試したことがあったんだ」
父親から出された課題の一つとして、たとえ効果時間は短くとも、魔法を発動できるように魔紋を宝石に刻めと言われたのだ、とルーシャンは説明した。
改めて事情を聞かされて、オデットは首にかけた石を摘んで見せる。
「では、こちらはルーシャンさんの作品なのですか?」
「オデットは、どっちだと思う?」
「ええっと
……
魔紋自体はすごく丁寧なのですが、発動する魔法自体はとても単純だから
……
これは、ルーシャンさんの作品、でしょうか」
「俺も記憶が曖昧なところはあるが、魔紋の刻印が丁寧なものは親父の技だろう。魔法の選別だけは、俺がしたんじゃないか。あの人は、玄人好みの魔法ばかり刻もうとするからな。誰が嬉しくて、身につけたら蛙に見た目が変わるネックレスをつけたがるってんだ」
思わず、オデットもくすくすと笑い声を上げる。
自分が目にした宝石の中には、判別不能の魔法もいくつかあった。軽率に身につけなくてよかったと、笑いながらも彼女は内心で胸を撫で下ろしていた。
そうこうしている間にも、ルーシャンは無事にオデットを部屋の前へと案内してくれた。
「そうだ、オデット。サルヒが俺に話があるって言っていたから、呼んできてくれないか。寝ているようだったら、そのままにしてくれていい」
「分かりました。では、一足お先に
……
お休みなさい。ルーシャンさん。先ほどは、オーバンさんに怒ってくれて、ありがとうございました。わたし、嬉しかったです」
改めてお礼を口にしてから、オデットは部屋へと体を滑り込ませる。
廊下に残された男は、思いがけなく貰ったお礼の言葉に、どこか居心地悪そうに頭を掻いていた。
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