かなざわ
2025-06-15 22:01:23
5108文字
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あなたの声を

理凰成長(17歳)IF。りお→つか恋心自覚済。
「あなたの指が」の続編ですが、これだけでも読めます。

 鴗鳥理凰は明浦路司から不定期でスケーティング指導を受けている。今日はまさにその、司からレッスンを受ける日だった。 
「風邪、ですか」
「そう、もうほとんど治ってるんだけどね。咳も出なくなったし。ただ、喉だけ調子悪いままなのよ」
 戸惑いつつ尋ねた理凰に答えたのは、東山ルクスFSCのヘッドコーチ、高峰瞳である。
 場所は大須リンクの談話スペースの、自販機前に並べられたテーブルセット。席に着いているのは理凰、瞳、司の三名だ。
 司の指導日は理凰にとって特別な日だ。司のスケーティング指導は厳しいながらも、その語彙力も相俟って分かりやすい。求められるレベルは高いが、決して届きそうにないものだとは思わせないのだ。言葉の影響力を分かっていて、考えた上で発言しているのだろう。勿論理凰としては、指導中は司を独占出来る時間だというのも特別さの要因ではある。
 互いのスケジュールを加味した上で、司の指導を受けられる日を設けるのは至難の技だ。だからこそ理凰が司の指導を受けられるのは『不定期』であり、それについて不服はない。
 司と会える機会に内心でウキウキしつつリンクを訪れた理凰を迎えたのは、いつも通り溌剌と「こんにちは理凰さん」と笑いかけてくれる司、ではなく。
 眉を八の字にして、しおしおと萎びた様子の司だった。
『ごめんね、りおうさん』
 キュッキュッと音を立てながら手持ちの小型ホワイトボードに文字を書いた司が、申し訳なさそうに肩を落とした。
 声が出ないから筆談、ということらしい。
 理凰は司の書いた文字と、司の顔とをまじまじと凝視し。
 明浦路先生、俺の名前平仮名で書いてる。先生が俺の名前知らないわけないから、画数多いから平仮名にしたってことか。俺でもたまに凰の字書くとき面倒だなって思うことあるし。平仮名だけの先生の書き文字、なんかちょっと柔らかい感じがしていいな。こんなレアなの写真撮りたいけど、さすがにこの場でそれを言い出すわけにもいかないか……クソ、せめて目に焼き付けとかないと。明浦路先生のこんな落ち込み顔見るの、初めてだ。それも俺のことで、だなんて。少し、本当に少しだけ嬉しい、とか。そんなこと考えてるのバレたら申し訳なさすぎるけど。ああでも、声が出せないなんて結構酷い症状だったんじゃないのかな。
 数瞬で思考を巡らせた理凰は、司の顔を覗き込んだ。少し身を乗り出して、不自然でない程度に距離を近づける。
「明浦路先生、喉痛いなら無理しない方がいいんじゃないですか」
 眉を下げ、いかにも心配です、と言いたげな顔をする。心配している気持ちは本当だったが、表情に乗せる色をいつもよりほんの少しだけ大袈裟にした。演技をする競技である以上、表情管理も技術の一つとして習得しているのだ。
 理凰の言葉を聞いた司は目を丸くしてから、ホワイトボードに文字を書き込んでいく。手の動きで、最初に書かれた言葉より長めの文章が綴られていると分かった。
 最初に書かれた平仮名の『りおうさん』は消されてしまったようで、それが少しだけ残念な気持ちになる。
『もう痛くはないよ、声がカスカスなだけで。りおうさんさえ良ければ、今日のレッスンこれでやってもいいかな?』
「俺としては指導していただくのは嬉しいので、明浦路先生の体調さえよろしいなら是非」
『ありがとう!今日もよろしくね!!』
「はい、よろしくお願いします」
 にっこりと笑う司に、理凰もまた笑顔で答える。同じテーブルにいた瞳も、話がまとまったことに安堵したようだった。
「それじゃ司先生、後はお願いね。私はリンク戻るから」
 頷く司と、リンクに戻っていく瞳の背中を見送ってから。
「明浦路先生、今日なんですけど一つお願いがあって」
『なにかな?』
「俺、リンクだと眼鏡外すじゃないですか。そうなると多分そこに書かれた文字、あんまり見えないんじゃないかと思って」
 理凰の言葉を聞いた司の顔からすうっと血の気が引くのが見えた。口に出さずともそこまで考えてなかった、と思っているのが丸分かりだ。相変わらず外面を作ることをしないらしい。
 その方が明浦路先生らしいし、そういう所もいいと思ってるから、別に直さなくていいんだけど。
 第三者に聞かれようものならどこの後方彼氏面なんだよ、と突っ込まれそうなことを考えつつ、理凰はすっと眼鏡を外した。
 ほんの少し、ピントの合わなくなる世界。そこから抜け出す為に、先ほどよりも身を乗り出して司との距離を詰めた。
「だから今日は、いつもより俺の近くに来てください。いいですよね?」
 眼鏡を外すとなると、小型のホワイトボードに書かれた文字が見えにくくなるのは事実だ。とは言え、ある程度なら理凰の視力でも問題なく視認出来る。
 つまり理凰は今の状況を利用して、少しだけ想い人との距離を近づけようと画策したのだ。こう言えば司は断らないだろう、という言い回しをしただけで。
 果たして、理凰の目論み通り。
 司は大仰に頷いて、ホワイトボードに大きく『もちろんだよ!』と書いたのだった。

 司の声が出ない、というだけでレッスン自体は滞りなく行われた。
 理凰が『近くに来てください』とリクエストしたのが功を奏してか、今日は明らかにいつもより距離が近かった。
 その上、声が出ない司は普段の指導に比べて実演して見せてくれる回数が増えていた。司の元気な声が聞けないのは残念だったが、そのスケーティングに魅せられた自覚のある理凰にとって、今日のレッスンはいつもとはひと味違う楽しさがあった。
 個人レッスンの時間が終わり、別れる際の司は声が出ない分を補うようにぶんぶんと大きく両手を振って見送ってくれて。普段からリアクションが大きめの司だが、今は声が出ない分余計に一つ一つの動作で相手に感情を伝えようとしてくれているらしかった。
 でもやっぱり、次は先生の声が聞きたい。
 そんなことを考えながら大須リンクの建物から外に出た理凰は、ふと足を止めた。
 少し迷った後、カバンから携帯を出す。通話画面から呼び出したのは、母だ。
「もしもし? うん、今終わったところ。あのさ、ちょっと聞きたいことあるんだけど」

 小さな紙袋を抱え理凰は走っていた。
 相手に連絡はしてあるし、走る必要はないのだけれど。急いてしまう気持ちが足を動かしていた。
 早く会いたい。
 衝動が胸の奥から込み上げてきて、悠長に歩いているだけでは収まらなかった。
 走って、走って。レッスン後にこんなに走るなんて、オーバーワークかもしれない。頭の隅で冷静な自分がそう呟くのに、感情がそれを捩じ伏せた。
 待ち合わせ場所は大須リンク近くの公園だった。
「明浦路先生!」
 公園の入り口で佇む人影がある。長身、長い足、ピンと伸びた背筋。間違いようもないシルエットを見つけた理凰は、走りながら呼び掛けていた。
 想定していたよりも大きな声が出て、思わず口元を押さえる。夜も更けており公園で遊ぶような子供もいないが、だからこそ辺りに響いた自身の声に驚いた。
 司に迷惑をかけるのは本意ではない。理凰は落ち着け、と胸中を宥めながら司へ近づいて行った。
 司は理凰の声に驚いた風でもなく、笑顔でひらひらと手を振っていた。理凰と会うと分かっていたからだろう、レッスン中と同様片手にホワイトボードを持っている。足元に私物らしいカバンが置かれているところを見ると、この後は帰宅するだけなのかもしれない。
「すいません、お呼び立てして」
『平気だよ。レッスンで何か分からないところあったかな?』
「あ、いえ、そうじゃないんですけど」
 手に持っている紙袋の中身を購入した後、司宛てに『この後少しどこかでお会い出来ませんか』とメッセージを送ったのは他でもない理凰だ。レッスンの後だったから、司は話の内容をスケートに関するものだと思っているらしい。
 首を振った理凰は少し苦笑して、手にしていた紙袋を一度強く握った。勢いで買ってしまった物が、なんだかやけに重く感じられる。
 誰かに何かを渡すことに、こんなに緊張するなんて初めてだった。違う、誰かに何かを、なんて簡単なものではなくて。大切な相手に自分の心の欠片を渡そうとしている、だ。
 自覚した途端、やたらと鼓動が脈打つ感覚が大きいように思えた。ここまで走ってきたのだから脈が上がっているのは当然のことなのだけれど、それだけでは片付けられないのは理凰自身が痛いほど自覚していた。
 口の中がやけに乾いている気がする。それを振り切るように息を吸い込んだ理凰は、手にしていた紙袋を司に向けて差し出した。
「あの、これ受け取ってください! 中身蜂蜜で、俺も風邪ひくと喉に来るタイプなんで母がよく出してくれてたんです。お湯で割って飲むのもいいし、料理にかけたりとかでも使えると思います」
『わざわざ買ってきてくれたの?』
「喉使えないのって結構しんどいじゃないですか。俺もそうだったから、早く治してほしいなって……
 言い訳めいた言葉ばかり並べてしまう。
 もっとスマートに手渡して終わるつもりだったのに。クソ、カッコ悪いな……
 悶々としている理凰の心境など知る由もない司は、暫し逡巡していたようだったがやがて差し出されている紙袋をそっと受け取ってくれた。
『ありがとう、りおうさん』
 蜂蜜の瓶が入った紙袋を抱えた司が、ホワイトボード越しに礼を述べてくる。
 嬉しそうな表情で、きらきらとした眼差しで、おそらく『理凰さんは本当に優しいなあ』なんて考えているのだろう。
 司に早く喉を治してほしい気持ちは勿論本当で、けれどそこに不純物が混ざっているのを自覚している理凰としては少し申し訳ない気持ちになる。
 母に教えて貰った蜂蜜を買う際に、棚に並んでいた中で一番容量の多いものを選んだ。司が蜂蜜を使う度に理凰を思い出すだろうと考え、少しでもその頻度を増やしたかったから。
 日を改めて渡しても良かったのをわざわざ今日にしたのは、司を独占出来る時間を伸ばしたかったから。
 レッスンで司をずっと独占出来ていたのに、会いたいと想う気持ちを抑えきれなかった。
「次会うときは、明浦路先生の声、ちゃんと聞かせてください」
 司に手を伸ばしたくなるのを抑え込みながら、絞り出すようにそう告げた。
 理凰の言葉を聞いた司は、一つ頷き。その後徐にしゃがみ込むと足元に置いてあったカバンに手を突っ込んでいる。
「明浦路先生? ぅわ」
 司が立ち上がったと思ったのとほぼ同時に、頬に何かが押し当てられた。柔らかい感触に、どうやら司のタオルらしいと理解する。
 理凰が反射的に受け取ってしまうと、司が持っていたホワイトボードに文字を書き始めた。手元に視線を落としている、伏し目がちな表情をつい凝視してしまう。
『汗かいてるよ。俺のために走ってきてくれて、ありがとう』
「! お、れが、したくてしただけ、なので」
『りおうさんのその気持ちが、すごく嬉しいから。だから、ありがとう。そのタオル使ってないキレイなやつだからね!』
……お借りします」
 そんなこと気にしないのにな、と思いつつ、素直にタオルを借りることにした。うっすら滲んでいる汗を拭っていると、司が理凰の顔を覗き込んできた。
 縮まった距離に、静まっていたはずの心臓がいとも簡単に跳ねる。
「理凰さん、ありがとう」
「! 明浦路先生、声……
 普段明瞭に話す司から出た声とは思えない、細やかな音量だった。濁った声音ではなく音を極限に絞られたような、掠れた声。
 驚きに目を見開いた理凰と司の目線が絡む。次の瞬間、司はふっと苦笑した。
 そうして司がホワイトボードに書いた言葉はというと。
『ごめん、まだカッスカスだった!』
「お大事にしてください、本当に」
 言いながら、眼鏡を外した理凰はタオルに顔を埋める。鼓動は静まらないままだ。
 タオルを借りていて良かった。夜だから気づかれないかもしれないが、今の理凰は自覚出来るほど頬に熱が集まっていた。
 司が発した声は、本人が苦笑するほどに掠れていて、本調子からはほど遠いものだった。掠れた声で呼ばれた己の名に、どうしようもなく艶めいたものを感じた、なんて。どうしたって知られるわけにはいかなかった。
 顔が熱い。自分の顔は見られたくないのに、司の顔は見たい。
 ままならない気持ちを抱えて、理凰はタオルの中でゆっくりと深呼吸をしたのだった。