タオルで水気を取りすぎない程度に丁寧に髪を拭かれては保湿するための乳液を大きな手が塗り広げていく。頭頂は控えめに毛先に近づくにつれて乾燥するから量を調節する、というのはウルピアヌスが教えてくれてはじめて知った事だ。
「まだ寝るな、作業が終わっていない」
耳元で声が響き、軽く頭を叩かれる。髪に触れる指が心地よくて思わず目蓋が重くなるのを耐えた。背後に立つウルピアヌスが濡れ髪用のブラシで乳液を馴染ませるように穏やかに髪を梳かすのだから仕方ない。まったくと言いたげに聞こえるため息はきついようで、その実優しいことを知っている。
「どうにも君に触れられると心地よくて。頑張って起きるから、少し話をしてくれないか?」
「それは構わんが。雑談というなら髪について聞かせてもらおう。しばらく見ないうちに随分と髪が痛んでいるが、どこに行っていた」
乾燥が酷いと言われてああ、とドクターは声をあげた。つい先日まで訪れた場所が関係しているのだろう。
「しばらくの間サルゴンで大規模な殲滅作戦を行っていたからその影響かな。あそこは乾燥もあれば日差しも強くて。フェイスガードをなるべく外さないようにはしていたけど、絶対というのは難しくてね」
無数の感染生物を相手どった作戦は炎天下の砂漠の廃墟で行われ、髪を気にかけるどころか熱中症にならないようにするので精一杯だった。
普段着ているコートは防弾や防刃、気密性に優れているが、そのぶん熱がこもりやすい。寒冷地での指揮ならいざ知らず、サルゴンはテラでも指折りに暑く乾燥した場所だ。容赦ない日差しを吸収した生地は暑く、思わずフードごとバイザーを取ってしまったのは一度や二度ではない。その度にサルゴンの気候に慣れているパッセンジャーやマンティコアに火傷になるからと手近な布を被せられたり、手をひいて日陰へ連れられたものだ。
過去の苦労を思い出してついたため息に何か察したものがあるのか、労るように髪を撫でる手が心地よい。
「サルゴンか。陸に上がった時に言語を学ぶために多少立ちよった事があるが、エーギルにはあの日差しと乾燥は随分と堪えた記憶がある。ミリアリウムとはあまりに環境が違うのでな」
「ミリアリウムはどこにいても水の気配がしたからね。日差しも人工太陽だから体の負担になることはないだろう。体は大丈夫だった?」
ウルピアヌスの種族であるエーギルは、生来の特徴として他の種族に比べて乾燥に弱い。他種属にとっては通常の気候でも彼の同胞であるアビサルハンターたちが時折乾いているとこぼしているから、サルゴンの遮るもののない日差しは相当にきついものであったことは想像がつく。
鏡台の椅子に座るまま、鏡越しにウルピアヌスと視線があった。問題ないとばかりにゆるりと目蓋をまたたかせる様子に安堵する。
「海での狩りに比べればさしたる脅威ではない。そも大事があれば、こうしてお前に髪の手入れなどしていないからな」
「心配するな」と言いたげに襟足を撫でると、近くにあったドライヤーを取ったウルピアヌスが「乾かすぞ」と声をかけた。その言葉とともに温風が髪を揺らす。髪が熱で痛まないようにと梳かす手に身を委ねながらドクターは記憶をたどる。
髪に触れられるきっかけになったのはむしろドクターがウルピアヌスの髪に触れた事だった。情報共有として話をするなかでふと、視界で揺れる髪に手を伸ばしたのは、徹夜を繰り返して三日目の事だったからなのだろう。
普段であれば理性で抑えられるはずなのに、どうしても触れたくなってしまって。「綺麗だ」とそっと指を絡めれば、ウルピアヌスは呆れたようにため息をつき、かわりにドクターの髪に触れ返した。
―――人の髪を褒めるのはいいが、まずはお前自身の髪をどうにかすべきだな。何をどうすればここまで荒れる。
激務に追われるなかで最低限の身だしなみこそ整えてはいたものの、髪の手入れについてはほとんど無縁で過ごしてきた。大抵はフェイスガードをつけているのだから周囲は気にしないだろうという思いもあれば、自身の為に時間を割くのは勿体ないような気がして。そうするぐらいなら書類の一枚でも進めた方が、と。
寝不足で回らない頭と口でそんなことを伝えた。すると、大層な皺を眉間に寄せたウルピアヌスに手を引かれ、部屋に備え付けられた鏡台前の椅子に座らせられ。
部屋を与えられてからというもの、ほとんど使ったことのない支給品のブラシで丁寧に髪を梳かれる。状況を理解できないままに固まっていれば髪を「保湿するものはないのか」と尋ねられた。「使ったことがない」と戸惑いつつも口にする。ため息をつきながらもウルピアヌスは私物だという髪用の乳液を取り出しては当然のように髪の手入れを始めるものだから、慌ててドクターは声を上げた。
―――私の髪よりも君には大事なことがたくさんあるだろう。
常日頃から自らに残された時間を気にしている姿を見てきているからこそ、ウルピアヌスが時間を費やす価値などドクターの髪にあっただろうか。「捨て置いてくれ」と言葉が喉から出るよりもウルピアヌスが先に口を開く。
―――俺にとって何を大事と見なすかはお前が決める事ではない。捨て置くべきだとでも言いたげだが、それに従う必要性が感じられないな。好きにさせてもらう。
提案はする以前に切り捨てられ、ドクターをおいてけぼりにしたまま丁寧に髪は整えられ。それ以来、情報共有でロドスに不定期に立ち寄る度にウルピアヌスはドクターの髪に触れている。
(それにしても)
髪が焼けないように丁寧に乾かす合間にしらりと頭に触れる手が心地よい。見た目と言動に反して情深く面倒見のいい人である事は理解していたが、それを自身に向けられるとは思っていなかったから嬉しくもあり、戸惑う気持ちもあり。
「ーーーなんだかもったいないな」
「なにがだ」
「君にこうして触られるのが私であることが。君にならもっと素敵な人が似合いそうだから」
穏やかに触れる手を与えられる事は嬉しい反面、どうしたってそれを受け取るのは不適切だと思う気持ちはぬぐえない。ウルピアヌスとドクターの立ち位置を思えばこそ、むしろドクターの方がウルピアヌスに差し出すべきものがあっただろう。今はまだその時ではないのだろうけれど。
ドクターの言葉を聞いた瞬間に仕上げの冷風が出ていたドライヤーの音が止まる。どうしたのかと声をかければ、ウルピアヌスはドライヤーとブラシを置き、横から回り込むようにそのままドクターの顔に覆い被さった。
「っ、ウルピアヌス、」
名前を呼ぶドクターを呆れたとでも言いたげに赤い瞳が見つめて唇が呼吸を食んでいく。眠気が飛んで与えられる熱にとろりと目じりから涙が落ちたところでゆっくり熱が遠ざかる。
(君にとって恋人でもないのに、なぜーーー)
「どうして、」
「ーーーお前が自身の価値をどう定めようと勝手だが、それと俺がお前をどう思っているかは同じではない」
髪に触れる意味、触れられる意味を考えろとばかりにウルピアヌスの赤い瞳がドクターを見つめる。美しい瞳に揺らめく感情はなんだっただろうか。わからないと見つめる視線の先で彼が言葉を続けた。
「一つ聞くが、陸と海では髪に触れる意味が違うのか。陸でも他者にそう簡単に髪を触る、触らせる文化はないと思っていたが」
一般的に髪に触れる間柄というのは家族や恋人のような近しい間柄に限られる。確かにドクターはウルピアヌスにいつからか明確に好意を抱いていたが、対してウルピアヌスからドクターに対する気持ちはよくわからなかった。
指揮下で作戦を遂行し、秘書として仕事を手伝ってくれる程度には善意を感じれど、それは好意から来るものというより義務感と使命感だと思っていた。ウルピアヌスが追求するシーボーンに関して、確信に近い情報を持つドクターの傍にいれば、彼が知りたい事を得られる。そう考えているのだろう、と。
だからこの髪を整える時間もそういった善意からで、好意からとは思っていなかった。協力者があまりにみすぼらしい格好をしていたから見かねて手を伸ばし、他愛ない話からウルピアヌスなりに有用な情報を手に入れているのだとばかり。
「陸でも髪を触れるのは親密な関係にかぎられるが……その……私は君にとってそういった対象ではないだろう?」
「なぜそう思う。それはお前がシーボーンの元凶に関わる旧人類であるがゆえか」
率直に切り込む言葉は鋭く、故にドクターは反論ができない。その様子を見てウルピアヌスは深々とため息をついた。
「立ち位置の複雑さに関しては理解するがな、もっと単純な話だ。そも、好意がなければ最初にお前が俺の髪に触れようとした時点で振り払っているとは思わないのか」
「お前とて同じだろう」とウルピアヌスが乾いた髪を慈しむように梳いた。
荒れていたはずの髪は当初に比べて随分と痛んでいた部分が少なくなっていた。それだけウルピアヌスが時間と思いを傾けていた事実と、自身が拒否することなく受け取っていた事を今更ながらに理解が追い付いて頬に熱が宿る。さらさらと繰り返し撫でる手は言葉よりもずっと雄弁に語るようで。
「ーーーウルピアヌス、その」
「なんだ」
「私も君の髪に触れてもいい?」
立ち上がり、向かい合って発した言葉に、ようやくと言いたげなウルピアヌスが髪を前に持ってくると、ドクターの手を取って触れさせた。さらさらと手の中で揺れる髪は美しい。ーーー愛しい人のものと思えばなおさらに。
「ああ、やはり綺麗だね」
「私も君の髪を手入れをしてみたい」と言う言葉にウルピアヌスが微かにため息をついた。今さらとでも言いたげながらも、伝わる雰囲気は確かに優しい。
「ーーー好きにしろ」
お前以外に触らせるつもりもないと耳元で囁いたウルピアヌスがあまやかに唇を食んでいく。口づけの合間に、ウルピアヌスが優しくドクターの髪に触れるのが愛おしい。
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