ねぶくろ
2025-06-15 20:51:25
11822文字
Public Skeb
 

懺悔録

Skebにて納品した作品です。
一部、凄惨な描写を含みます。

1


 鼻を衝く悪臭が記憶にこびりついている。

 耳を劈くような濁った悲鳴。人々の逃げ回る足音。城門が壊されたことを知らせる伝令。恐慌の中で「お前は隠れていなさい」と言い渡されて、ダルヴァン・ノクタリアは父の背中を見送った。
 ドアを押し開けて、身を隠すために騒乱に背を向け、廊下を駆ける。侍女とかくれんぼをする時と同じように食糧庫に逃げ込んで、積み上げられた木箱の影に身を潜めた。息を殺して、ドアの向こうから聞こえる音に耳を澄ませる。
 重たい軍靴がガチャガチャと石の廊下を踏みしめる音が絶えず響いている。爆発音が轟いて、部屋が揺れた。ぎゅっと体を抱いて、息を殺す。「殺せ」と物騒な怒声が響いて、甲高い悲鳴が鼓膜を劈いた。耳を塞いで、目を瞑る。それでも音を遮断することは出来ず、ダルヴァンは思わず唇を噛んだ。
 続いていた悲鳴が途絶えたことで、誰かが死んだのだと理解する。殺されたのが敵か味方かもわからない。城の者たちは無事だろうか。それを確認しに向かう事も出来ないまま、ダルヴァンは時が過ぎるのを待っていた。
 どれだけの時間そうしていたのだろう。永遠にも等しい孤独の中に蹲っていたダルヴァンの耳に、くぐもった歓声が届いた。誰かが快哉を叫び、何かを祝っている。気付けば辺りを駆けまわっていた足音がなくなっていた。――終わったのだろうか。入ってきた敵を退けて、それでみんながお祝いをしているのだろうか。
 こんなところに居ては、きっと誰にも見つけてもらえない。侍女とのかくれんぼはいつだってダルヴァンの圧勝なのだ。食糧庫の影に魔王の子が蹲っているなんて、この城の者は思いもしない。早くみんなの下に帰らないと、――でなければ、一人だけお祝いに立ち会えない。父様は姿の見えないダルヴァンのことを心配しているかもしれないのだ。
 目元を擦って、冷たい石畳の床から立ち上がる。長い間座り込んでいた体は床と同じように冷え切っていたが、そんなことよりも早く父親の下へと戻りたかった。ドアを押し開けて、廊下に顔を出す。
 見慣れたそこには、鉄錆びた臭いが充満していた。目も眩むような赤が視界いっぱいに広がって、思わず後ずさる。血塗られた石畳の上に誰かが倒れ込んでいる。侍女の制服である真っ黒なメイド服に、赤みがかった長い三つ編み。見覚えのある容姿に、目を見開いて口元を押さえる。
 そんなはずはない。祈るように彼女に駆け寄って、その体を揺さぶった。ピクリとも動かない、ダルヴァンよりも石よりも冷たくなった体の重さに、手が震えて「なんで」と声が零れる。廊下の先に人影が差したのはその時だった。
 「生き残りがいるぞ」と指をさされて、それが自分を指すのだと遅まきながら理解する。生き残り。――それは、つまり。
 ダルヴァンが事態を理解するより先、銀に輝く剣の切っ先が己を向いた。体が竦んで動けない。馬鹿みたいに目を見開いて、自分の命を奪おうとするその刃を見つめていた。死ぬんだ、と最初の雨粒が地面を濡らすように小さな納得が心に滴る。目を伏せて、メイドの体を抱き寄せた。自分も間もなく、彼女と同じ場所へ行く。諦めを飲み込んで、痛みを待つ。身を硬くしていれば、「待て」と知らない声が割り込んだ。
「罪もない者を殺すのはただの虐殺だ。……まだ子供だろう? 見逃してやりなさい」
 瞼を持ち上げる。まず真っ先に目に入ったのは、長い髪の毛だった。星の光よりも優しい白が視界に広がる。兵士たちから庇うようにダルヴァンの前に立ったその人は、穏やかな声で言葉を続ける。仔細はわからないが、話がついたらしい。その人がこちらを振り向いて、手を差し伸べた。
「おいで。ここに居ては殺されてしまう」
 この地獄に見合わない静けさに、思わず頷いてその手を取る。ダルヴァンの手を引いて、彼は足早に歩きだした。見慣れた城内はどこもかしこも惨劇の跡を残して、見るに堪えない。黒煙を上げ、パチパチと木の燃える音がする正門までたどり着いて、ダルヴァンはようやく口を開いた。
「ほかのみんなは?」
 お父さまは? お母さまは? 侍女たちは? 兵士たちは? そのほかの、コックや、庭師や、使用人たちは?
 どうして誰もいない? ――理由なんて分かり切っていたはずなのに、立ち止まらずにはいられなかった。城の敷地を出るギリギリで足を止めて、その人に問いかける。
「お父さまは?」
 この人なら、と思った。この人なら、きっと自分の考えている最悪を否定してくれる。
 縋るように見上げていれば、彼はダルヴァンを振り向いた。視線の先がわからない、眠っているような穏やかな顔がこちらを向いて、炎の橙色に照らされる。ダルヴァンの期待を裏切って、彼は短い言葉を呟いた。
「城内の生き残りは君だけだ」
 生き残り。――それは、つまり。
「みんな、……殺されたの? さっきの人たちに?」
 お父さまも、お母さまも、侍女たちも、兵士たちも、そのほかの、コックや、庭師や、使用人たちも。ひとり残らず。
 返答はない。それが肯定であることを察せないほど、ダルヴァンも現状を楽観視してはいなかった。
 あまりのことに絶句して、その場に立ち尽くす。頭が真っ白になって、いやな汗が背中を伝った。気温とは無関係に体が震えて、吐き気がこみ上げてくる。唇を引き結んで俯いていれば、彼は静かな声で「急ごう」と呟いた。
 手を引かれるままに城を後にする。
 鼻を衝く悪臭に顔をしかめて、焦土と化した城下町を駆け抜けた。ところどころに人影が倒れているのを視認しながら、焦点を結ばないようにと意識を逸らす。足元に転がった焼死体を見て、漂っているそれが人の焼ける臭いなのだと理解した。

      *     *     *

 助けてくれたその人は、セリオ・ラディアスと名乗った。
 彼は魔王城から遠く離れた森の奥の洋館にたどり着くと、足を止めた。辺りを見回す。空を覆うほどに茂った枝葉に隠されて、太陽が見えない。周囲は青っぽい闇に沈んで、目の前に立ったセリオの背中しか見えないほどだ。茂みが揺れたような気がして、身を硬くする。どことなく生き物の気配がするのに姿は見えない。その気味悪さに、ダルヴァンは繋いでいた手に力を籠めた。
 セリオがこちらを向く。見上げれば、彼は口元だけに笑みを湛えて屈みこんだ。目線の高さを合わせて、彼が静かに口を開く。
「君はここで待っていてくれるかな。僕は少し、やらなきゃいけないことがあるんだ」
 言い渡されて、咄嗟に脳裏によぎったのは、父の声だ。「お前は隠れていなさい」という一言を最後に、彼はどこかへ行ってしまった。――殺された。
 ぎゅっとこぶしを握って俯く。黒っぽい地面を睨みつけて、ダルヴァンは頭を振った。
「一緒に、……連れて行ってください」
 魔族と人間が戦争をしていることは知っている。人間であるセリオが、魔王の子であるダルヴァンを匿うことが危険だということも、想像に難くない。彼がどこに向かおうとしているかはわからないが、ここで彼を見送ったら、父と同じことが起きるかもしれない。
 顔を上げられないまま、爪が食い込むほどに力を籠めてこぶしを握る。鼻を衝く悪臭も、網膜に焼き付いた凄惨な光景も、振り払うには時間が足りない。最悪ばかりが脳内に浮かんで、ダルヴァンは足元に雫が零れるのを目で追った。
「一人に、しないで」
 これ以上誰かが死ぬのは怖い。
 絞り出した言葉に応えるように、頭の上に大きな手のひらが乗った。ぽんと気楽に頭に触れて、宥めるように髪を撫でる。セリオは「すぐに帰ってくるよ」と言い置いて、そのままどこかへと旅立った。

 目を覚ます。夢の中で泣いていたからか、目元には涙が滲んでいた。袖口で雫を拭い去り、ダルヴァンは窓の外に視線を放った。大きく伸び広がった太い枝が視線の先を隠している。外界からこの洋館を隠し、守るような堅牢な木々の存在に安堵の息を吐き、ダルヴァンはベッドから降りた。
 身支度を整えて、廊下に出る。メイドたちの手で掃き清められ、蝋燭の灯された館内は明るかった。窓を拭いている使用人に挨拶をしながら階下の食堂へ向かう。朝食の席に着いても、いつもの場所にセリオの姿はなかった。メイドが一人分の食事を運んでくる。彼女を呼び止めて「先生は?」と尋ねれば、メイドは「朝からお出かけになっています」と答えた。その言葉に、胸がざわつく。
「帰りがいつ頃か、聞いてるか?」
 尋ねれば、メイドはカップに紅茶を注ぎながら「いいえ」と答えた。
「朝の早くに『しばらく留守にする』とだけ。行き先もわかりません」
「そうか」
 ありがとう、とひと声かけて朝食をとる。温かいスクランブルエッグに、香ばしく焼き色の付いたパン。絶妙な塩味のウインナーに、付け合わせの野菜と、華やかにカットされたフルーツ。食前の祈りを捧げてから、ダルヴァンは自身の正面に存在する空白へ視線を向けた。
 セリオは、ひと月に一度の頻度で家を空ける。二、三日で戻ることもあれば、一週間ほど帰らないこともあり、帰宅してからもどこで何をしていたのかは教えてくれない。消耗品や嗜好品を手土産にすることもあるので、おそらくは人間の街へ出ているのだろうが、詳細は不明だ。ダルヴァンは黙々と皿の上の料理を口に運びながら、眉根を寄せた。
 食事を終えて、メイドに食器を下げるように頼む。紅茶のおかわりを注ぎながら、彼女は「大丈夫ですか?」と小首をかしげた。
「何か、魔法使い様のことで心配事でも?」
 問われて、目を伏せる。視線の先、琥珀色の水面に映った自分は物憂げな顔をしていた。その目を見つめ返して、息を吐く。ダルヴァンはカップをソーサーにおいて、「先生は、」と口を開いた。
「どうして私を置いて行くのだろう」
 終戦から数年。当時は幼い子供だったダルヴァンも、今は青年だ。セリオから魔法を学び、魔力を制御する術も身につきつつある。魔王の血を引くダルヴァンは潜在的な能力が高く、ここまで厳重に庇護される必要などない。――何より、ダルヴァンが留守番を嫌うことは、セリオも承知しているはずだ。歯がゆさに顔をしかめて、紅茶を嚥下する。
……留守番は嫌いだ」
 一人で待っている間に父は討たれ、城は占拠され、故郷は焼かれた。――だから、嫌いだ。
 口を噤んだダルヴァンに向けて、メイドが言葉に迷うような素振りを見せながら、「魔法使い様は」と口を開いた。
「ご主人様のことを一人前に育て上げるおつもりですから、今より魔法が上達すれば、実力を認めて同行させてくれると思います」
……
 その言葉に、じっとメイドを見る。彼女は長い黒髪を尖った耳にかけながら、「あの方は今でもダルヴァン様を幼い子供だと思っていますから」と苦笑した。
……私に強くなってほしいのは、お前たちの希望だろう?」
 尋ねた言葉に、メイドが苦笑交じりに眉を下げる。それ以上は何も言わず、彼女は口を閉ざした。
 会話が途切れたことを機に、湯気の立つ紅茶のカップを手に取る。息を吹きかけて、ダルヴァンは軽いため息を零した。
 魔王の血を引くダルヴァンは、逃げ延びた魔族たちにとっては王にも等しい。ゆくゆくは強大な力をつけて人間たちの手から故郷を取り返してほしい、と望む者も少なくない。その気持ちに応えたいとは思うものの、ダルヴァンは自身の力を制御することに恐れを感じていた。
 幼いころに目の当たりにした戦争の光景が、己の内側を蝕んでいる。自分の力は、それ・・ を巻き起こすかもしれない。今度は目の前で多くの命が奪われ、大切な者たちが血を流すことになるかもしれない。――そんな惨劇を繰り返すくらいならば、自分は弱いままで構わない。口には出さないものの、ダルヴァンは魔法の練習にも消極的だった。
 そのような態度でいるから、セリオはいつまで経ってもダルヴァンを子供扱いして、この森に閉じ込めているのだろうか。
 眉根を寄せて、紅茶飲み干した。息を吐いて、席を立つ。ダルヴァンは「私も少し出かける」と言い置いて、古びた屋敷から森へと一歩を踏み出した。


 ダルヴァンとセリオが隠れ住んでいる森は、人間にとっては立ち入り禁止区域として知られている。中央城下から街道に沿っていくつかの宿場町を経由し、何日も何週間もかけた先にようやくたどり着けるその場所について、多くを知っている者はいない。
 例えばそこに戦争の英雄に数え上げられる魔法使いが住んでいるだとか、魔王の子を匿っているだとか。それでも、念には念をと、セリオは姿を変える魔法によって短くなった髪の毛をフードの下に仕舞いこんだ。
 街道沿いのこの町には何人もの行商人が立ち寄り、露店が立ち並んで活気にあふれている。街の中央を貫く街道は綺麗に整備されており、道行く人々の服装も色とりどりで目に眩しい。
 いかにも怪しい薬草を広げている老人や、贋作の方が多そうないかがわしい骨董商、甘辛い香りを漂わせる串焼きの屋台に、籠にいっぱいの木の実を売り歩いている子供。森の奥深くでは決して目に出来ない人通りと賑わいを横目に、セリオは路地を曲がった。
 街道沿いから一本裏の道に入れば、喧騒が遠ざかって整備のされていない土埃に塗れた街路に出る。ぎゅう詰めになった木造家屋は、先の戦争で崩れてしまった家を修理できないまま仮設で建てたのだろう。色の褪せた服を纏った子供が、更に幼い子供のおもりをしながら軒先で洗濯物を干しているのが目に留まる。大人たちはどこかへ商売に出かけているらしい。
 少し歩いた先には空き缶を地面において膝を抱えた痩せぎすの子供が座り込んでいた。手入れのされていない髪や、浮き出た骨のせいで性別さえもわからない。目を合わせないように足早に子供の前を通り過ぎて、セリオは裏道を進んだ。路地の奥にたどり着き、昼間から開店している酒場のドアを押し開ける。
 旅客ではなく、この辺りの住人達が利用する猥雑な店内は、昼間にもかかわらず賑わっていた。片足のない男や、眼帯をした青年など、戦火の傷跡がここにも見て取れる。
 表通りの店はどこも重厚な石造りだったのに対して、民間人の住む地域には脆い木の家が多い。この店も例に漏れず、隙間風の吹く木造だ。物資が行き渡っていないのだろう。中央城下の方へ向かうにつれて、宿場町の復興具合にも違いがあるのは、何度かの遠出で把握していた。森へと近づくほどに、戦災孤児や復興途中の街並みが増えていくのは明らかだ。セリオはため息交じりにカウンター席に着いて、度の低い果実酒を頼んだ。
 縁の欠けた木のコップに注がれた酒はぬるかったが、氷も今では高級品だ。こんな場末の酒場で提供することは出来ないだろう。小さく呷って喉を湿しながら、周囲に聞き耳を立てる。王への不満、隻腕では仕事ができないという愚痴、商売が軌道に乗らないと嘆く声。狭い店内に犇めく声を聞き分けていれば、雑談に興じている三人組が「魔族」という言葉を口にした。そちらに意識を向ける。
「魔族の生き残りを見つけたら報奨金が出るって話、知ってるか?」
 煙草を手にした青年が話す言葉に、テーブルについたもう一人が頷きを返す。目元に傷のある彼は、コップを手にしたまま口を開いた。
「一生遊べるくらいの金額って聞いたぜ。ならず者が血眼になって魔族狩りに乗り出してるって噂だ」
 よくやるよ、と声を発したのは第三の男だ。片足のない彼は、体のバランスを取るようにテーブルに肘をついた姿勢で、小ばかにしたように鼻を鳴らした。
「国王が俺たちみたいなのに報奨金を払うと思うか? それに、魔族は魔法が使える。俺たちみたいな素人が勝てるとは思えねぇな」
 真っ当な彼の見解に、煙草の男が「まぁ、普通にやれば、な」と思わせぶりな言葉を零す。怪訝そうに眉根を寄せた二人に向けて、彼が声を潜めて「実はな」ととっておきの秘密を打ち明けるように声を上ずらせた。
「魔族の子供を見つけて人質にするって作戦で、何人も魔族を捕まえてる奴がいるんだと。魔族も子供の内は魔法に長けてないから、その辺のガキと同じようなもんだ。それで脅して大人を殺したら、他の街でも同じ子供を使いまわして荒稼ぎできるんだとよ」
「眉唾だろ。そもそも、魔族の子どもなんかどこにいるってんだ」
 そんなことより、と魔族の話題が途切れる。しばらくの間、他の客たちの雑談に聞き耳を立てた後、セリオは果実酒を飲み干した。代金をカウンターに置いて、席を立つ。これ以上滞在しても、目新しい情報は手に入らないだろう。
 店を出て、街道に出る。舗装された真っ直ぐな道をたどって、セリオは立ち入り禁止区域へ向けて足を踏み出した。

 日が暮れ、星空がこちらを見下ろす頃になって、ようやく森へとたどり着いた。結界は正常に機能しているようで、綻びの跡はない。そのことに安堵しつつ、洋館へ向けて歩き出す。木の根が張り巡らされ、整備のされていない森の中はそこかしこに凹凸があって歩きづらい。星の光さえも拒んで通さない鬱蒼と茂った枝葉を見上げて、現在地を見失わないように直進し続ける。
 ようやく光を見つけて、セリオは息を吐いた。知らず、肩に入っていた力を抜いて変装を解く。フードを下ろして、長く伸ばした髪の毛をふわりと広げれば、蒸し暑く不愉快な感覚が風に流されていった。歩き続けて、洋館の前で立ち止まる。ドアを開けば、あたたかい我が家がセリオを出迎えた。
「お帰りなさいませ」
 玄関まで出てきたメイドに、「魔王様の様子は?」と尋ねれば、彼女は笑みを含んだ声で「裏庭にいらっしゃいますよ」と応じた。
「この時間に?」
「ええ。すぐ夕飯にしますから、呼んできてください」
 穏やかな声に背を押されて、荷物を彼女に預ける。裏庭へと向かえば、そこにはダルヴァンが佇んでいた。長く伸ばした艶やかな黒髪が木々の隙間から零れた月明かりに照らされている。
 風になびくその髪の影がふわりと広がり、手のひらへと視線を落とした彼が静かに息を吐き出す。小さな光がその手の中に生まれて、揺らいで、青い球を為した。それは、初歩的な明かりの魔法だ。セリオの教えの通り、意識を集中して魔力の出力を安定させようと呼吸を整える彼の横顔は真剣そのもので、――まだ幼さの残るその姿を見つめて思わず立ち止まる。
 彼を戦災孤児にしたのは自分だ。宿場町で見かけた子供たちと何ら変わらない。彼は両親を失い、家を失い、故郷を失った。それどころか、今もなお命を狙われている身だ。一刻も早く一人前にしてやらなければ、至る所に潜む悪意が彼をあらゆる手段で損ねようとするだろう。
 唇を引き結んで、わざと足音を立てながら彼に近づく。気配に気づいてか、手の中の光が消えて、ダルヴァンがこちらを振り向いた。人間とは違う、深紅の瞳がこちらを捉えて、無防備に喜びを映す。
「お帰りなさい」
 その言葉に「ただいま」と応じて、セリオは駆け寄ってきた彼の髪を撫でた。
「魔法の練習とは感心だ。随分上達したね」
 素直に褒めれば、その顔が幼く崩れて笑みを浮かべる。彼はまだ、セリオが魔王を討ったことを知らない。セリオが親の仇だと知れば、このような無邪気な顔を見せることは無くなるだろう。後ろ暗さに唇を噛み、すぐに笑みを繕った。「夕飯だから、食堂へ行こうか」と彼の手を引いて、屋敷へ戻る。ダルヴァンはひどく素直にセリオの手を握り返した。

     *     *     *

 セリオとダルヴァンの暮らしは穏やかなものだ。基本的には屋敷の内部と周辺で完結する生活に代わり映えはなく、時折森の中でセリオを快く思わない魔族に絡まれる程度の問題は起こるが、目立ったトラブルもないまま時間が過ぎていく。
 朝、共に食事を摂ったら昼間では二人で魔法の練習をしたり、森の中を散策したりして時間を過ごす。雨の日には室内で読書をして過ごし、昼食を摂ったらあとは自由時間だ。家事の手伝いをしたり、学んだことの復習をしたりしている内に時間が経過して、夕食のために再び食堂で顔を合わせる。夜には星を見に出ることもあるが、基本的には夜更かしせずに就寝する。
 セリオが留守の間はダルヴァンが一人で勉強をする。最近は魔法に打ち込んでいるようで、自由時間にも森に出て行って秘密の特訓をしているようだった。
 酒場で耳にした話が頭の隅によぎり、「あまり一人で遠出をしないように」と釘を刺したところ、ダルヴァンは素直に従者のひとりを連れて魔法の練習に出向くようになった。もとより、一人にされるのが嫌いな性質である。彼が単独行動をすることはあまりないので、目を離した隙にかどわかされるようなことも考えづらい。
 念のため、使用人たちには警戒するよう言い渡して、セリオは再び街へ向かうための準備を始めた。今回は情報収集ではなく単なる買い出しなので、そう長い時間はかからない。明日には帰れるだろう。早朝に出立する必要もないので、セリオは朝食の席で「ダルヴァン」と向かいの席に腰を下ろした青年に声をかけた。
「僕は少し街へ出るから、その間の留守は頼むよ。明日には帰るけれど、あまり遠出はしないようにね」
「はい」
 素直に頷いてから、彼が少し口を噤む。目を伏せて、しばらく何かを迷うようなそぶりを見せた後で、ダルヴァンが顔を上げた。
「先生に見せたいものがあるので、……帰って来たら、お時間をいただけませんか?」
 その言葉に目を開く。彼が頼み事やわがままを口にするのはとても珍しい。セリオは頬を緩めて、「もちろん」と頷いた。
「君がそんなことを言うなんて珍しいね。……楽しみだな。出来るだけ早く帰るよ」
「はい。お気をつけて」
 食事を終えて席を立つ。嬉しげに頷く彼の髪を軽く撫で、セリオは旅立つためにマントを羽織った。森の中の道なき道を辿って、結界の張られた立ち入り禁止区域の縁まで歩いていく。木々が途絶えて日の光が差し込むと同時に、目に見えない魔力の圧が肌に触れる。結界は今日も問題なく稼働しているようだ、と安堵しながらその入り口を開いた。
 外界へと踏み出し、フードを被る。変装を施して、セリオは最も近い宿場町へと足早に歩き始めた。

……行ったか?」
 物陰に隠れた男が囁く。遠のいていくフードを被った人物の姿を目で追って、相方が頷いた。低い姿勢で足早に立ち入り禁止区域へと駆け寄り、森の外縁で立ち止まる。目には見えない何かの力を感じて、情報通り結界が張られているようだと理解する。
 二人は顔を見合わせて頷き、背嚢の中から爆薬を取り出した。先の戦争でも活躍し、多くの魔族を屠った最新の兵器である。爆破の音が聞こえないよう、魔法使いの姿が完全に見えなくなるまで息を潜めて、手早く結界を破壊するための準備を整えた。
 値の張る爆弾を惜しげなく結界の縁に並べ、導火線を伸ばして着火する。爆破に巻き込まれないように身を伏せて、数秒。ドォンと地が揺れるほどの爆音がその場に轟き、黒煙が立ち上る。男たちは素早く起き上がると、全力疾走して森の中に飛び込んだ。
 魔王を討った英雄の中の英雄、セリオ・ラディアスの結界を破壊するのは並大抵のことではない。破壊されたことに気付けるような仕掛けを施している可能性もある。とにかく、仕事は素早く、的確にこなさなければ。
 男たちは鬱蒼と茂り、日の光さえ隔たれた不気味な獣道を辿りながら、獲物を探し始めた。


 セリオに見せる魔法の、最後の練習をしようとダルヴァンは練習場にしている森の一角に向かった。いつも付き添いをしてくれるメイドと共に屋敷を出て、十分ほど歩く。そこには、ぽっかりと木のない広場があった。日の光を遮る物が少ないのか、周辺よりも光量の多い円形の広場の真ん中に立ち止まって、最後の練習を始める。
 魔法は、体内に存在する魔力という力を使うことで何らかの現象を起こす術だ。
 まず、意識を集中して魔力を安定させることが魔法を使うことの第一段階になる。深呼吸をして、目を瞑る。両の手のひらを空に向けて、空気の温度に意識を向けた。あらゆる雑念を取り払って、自分が望む魔法のことだけを考える。
 自分と世界の輪郭が溶け合うように、自分の中にある力が外側に流れ出ていくように、魔力の方向を定めて、目を開く。ふわりと優しく風が吹いて、セリオの真似をして伸ばしている髪の毛が揺れた。手を握り込む、と同時にダルヴァンを中心にして色が芽吹いた。苔むした地面に花が咲き、生長して風に揺れる。かぐわしい香りに満ちた花畑の中心に佇んで、ダルヴァンはメイドを振り返った。
「どうだろう?」
「とってもお上手ですよ、これなら魔法使い様も褒めてくださると思います」
 にこやかに答えた彼女に言葉を返すより先、彼女が目を見開いて「伏せて」と鋭い声を発する。わけもわからず、ダルヴァンは咄嗟に背後を振り向いた。大きな人影がこちらに手を伸ばしているのが目に入り、即座に痛みが走る。逃げ出そうと足掻いた足が意味もなく花を蹴散らして、むせ返るような甘い香りが鼻腔を突き刺す。体が浮くのを感じて、どうやら自分は髪を鷲掴みにされているらしいと理解した。
 身動きが取れず、助けを求めてメイドの方へと視線を向ければ、そこには見知らぬ男が立っていた。――その足元に力なく倒れ込んだ女性のシルエットを見つけて、頭が真っ白になる。
 人の焼ける臭いが蘇る。
 冷たい石畳。倒れた侍女。動かない体。鼻を衝く悪臭。自分に向けられた刃。
 体から力が抜けて、ダルヴァンは瞠目したまま男を見上げた。彼は、髪を掴んだのとは反対の手にナイフを握って、こちらを見下ろしている。興奮したように息を荒げて「こいつだ」と呟いた。
「おい、やったぞ。こいつだ!」
 はしゃいだように声を上ずらせて相方を見る彼が手を揺らす。地肌が引っ張られて痛みに涙が滲んだ。身を捩るが、拘束を振りほどくことは出来ない。ダルヴァンが藻掻いていれば、もう一人の声が鼓膜を震わせた。
「殺すなよ、人質に使える。足の腱だけ切ればいい」
 もう一人がこちらに近づいてくる。メイドは起き上がらない。何も考えられず、ダルヴァンはただ黙り込んでいた。呼吸さえままならず、二人の交わす言葉の内容も理解できない。ただ一つ、自分のせいで他の者が傷つけられるのだろうということだけは理解できて、胃のあたりが冷たくなる。
 自分が弱いせいだ。
 自分が弱いせいで、また誰かが死ぬ。――自分が強ければ、誰も太刀打ちできないほどの強大な魔王になれば、きっとこんなことにはならなかった。メイドを守って、自分の身を守って、この悪漢たちを追い返すことだってできたはずだ。
 焼き付いた戦争の記憶に怯えているだけではダメだった。
 弱いままでも人が死ぬのなら、自分はせめて周囲の者たちを守れるように強くなるべきだったのだ。もっと魔法を学んで、自分の持つ強大な力を正しく振るえるように訓練するべきだった。
 今更悔やんでも、もう遅い。情けなさに奥歯を噛んで、目を伏せる。

 風を切るような音が耳に届いたのはその時だ。

 首筋を晒すように下を向いた体が、そのままがくりと地面に落下して、頭が軽くなる。掴まれていた髪の毛が肩のあたりで切断されて、自由になっていた。男が「あ?」と状況を理解できずに黒髪をいっぱいに掴んだ手の中を見ている。もう一人も「は?」と目を瞬いて、――二の句を継ぐより先にその場に倒れる。
 男が手の中の髪の毛を放り捨ててナイフを構えた。見えない敵を探すように油断なく周囲を窺うその体が、突然吹き飛んで、後方の木に叩きつけられる。バキ、と響いた音は、木の幹がへし折れた音か、彼の肋骨が砕けた音か。圧倒的で素早いその攻撃に、ダルヴァンは地面に座り込んだまま、顔を上げた。
……先生」
 木々の暗がりから現れたセリオは、静かな表情でこちらに近づいてきた。堪らず、彼に駆け寄ってそのローブにしがみつく。短くなった髪の毛を撫でながら、セリオは「遅くなってすまない」と低い声を発した。
「僕のミスだ。もっと強い結界であればこんなことにはならなかった」
 彼の言葉に頭を振って、切れ切れの声で謝罪し、感謝する。ダルヴァンは目元を擦って、倒れ伏したままのメイドに駆け寄った。体に触れれば、温かい人肌の温度が手に伝わる。どうやら、気絶しているだけらしい。そのことに安堵して、視界が歪む。袖口で目元を押さえてその場に座り込んでいれば、セリオは男たちを拘束してから、手を差し出した。
「おいで。屋敷へ戻って、人を呼んでこよう」
 先ほどまでの恐怖さえ溶かすような、平時と変わらない穏やかな声。その響きに緊張がゆるんで、頷きと共に手を取った。ダルヴァンの手を引いて、セリオは屋敷へ向かう道なき道を歩き出す。
 握った手に力を籠めて、ダルヴァンはその背中に続いた。