シノハラ
2025-06-15 19:30:54
2612文字
Public アルカヴェ♀
 

まどろむ光彩

アルカヴェ♀ お付き合いをする中で結婚を意識し出した後輩

 足音を気にしながら自室に戻り棚の引き出しを開けると、そこには手のひらに簡単に収まるサイズの小箱がある。角を綺麗に整えられた滑らかな木箱の蓋を開ければ、素人目にも価値が分かる指輪が収まっていた。三十年近く前の仕事なので、デザインは現代の流行からは外れているのだろうが、それでも変わらない美を主張するように品質の良い輝石が頂点に灯り、室内の弱い光を捉えて星のように瞬いていた。
 その指輪は祖母がアルハイゼンに贈与した物である。脚を悪くしてから急速に自身の体が衰えていると自覚した彼女は早々に人生の店じまいの準備を始め、その最中にこの指輪をアルハイゼンの手のひらに乗せたのだ。
 見慣れぬ輝きに気を取られたアルハイゼンに、祖母は由来を事細かに話してくれた。ぴかぴかと非日常のきらめきを放つそれは、本来はアルハイゼンの母の持ち物だったらしい。父が大枚をはたいて婚約の証しとして母に贈った品物であり、遺品として祖母の下でかつての輝かしい日々の名残りとして彼女を照らした物でもあった。
 ――いつか、あなたが好きになった子にあげても素敵ね。そう、祖母はきっと自身では見届けられないと知りながら、アルハイゼンに微笑みかけた。当時の自分にはそんな日が来るとはちっとも想像が付かなかったが、祖母のために頷いたのを覚えている。しわくちゃの優しい手のひらでアルハイゼンの頭と頬を撫でながらも、孫が実現の怪しい口約束をしていると彼女も気づいてはいただろう。
 その小箱から細かく着色された色鮮やかな紐を取り出し、アルハイゼンは来た順路を遡って居間に戻った。そこのカウチの一つを使って、カーヴェはすうすうと寝息を立てている。そろそろ夕刻と呼ぶべき頃に私室から寝ぼけまなこで出て来たかと思うと、仮眠をするから十五分後に起こしてほしいと言ってアルハイゼンの返事を聞く前にカウチで丸まってしまったのだ。
 彼女の顔を覗き込むと、寝息の穏やかさには相反して眉間には深々と皺が刻まれている。そろそろ起こしてほしいと言われた時間が来るのだが、この様子ではそれなりに抵抗されそうな予感がした。
 丸まる背中の上から覆い被さるようにして、アルハイゼンはカーヴェの左手の薬指に紐を巻きつける。それから締め過ぎないように気を使いながらそっと紐を交差させて、騒がしい紐の色が示す号数を確認した。それからぴたりと呼吸を止めて、紐を外してから深々と息を吐く。
 あの指輪はまるで誂えたようにこのひとの指に収まってくれるつもりでいるらしい。肺の中の空気を一旦全部押し出してから、アルハイゼンは再度深々と空気を吸って肺を膨らませ、今度は安堵の息に変えて軽く吐き出す。
 彼女との結婚を具体的に意識し始めてから、ずっと腹の底にあった緊張がようやく緩んだのを感じる。カーヴェがアルハイゼンの申し出に頷いてくれるかという問題ももちろんあったが、この指輪の扱いはお互いの心情をかなり刺激する要素でもあったのだ。
 祖母の提案通りにカーヴェに母の遺品を委ねる際に、号数の問題は避けられない。サイズが合わなければ金細工師に依頼して号数を変えてもらえば良いのだが、物の由来を知ればカーヴェが気にしてしまっただろう。用途を思えば想定していただろうとはいえ、祖母が一等大切にしていた物に手を入れるのはアルハイゼンも正直なところ気が引ける所ではあったのだ。けれど、だからと言って祖母との約束を反故にする気にもなれずにいた。
 紐が触れていたカーヴェの指の付け根を撫でると、愛おしさが込み上げた。一番良い形で指輪を贈らせてくれる、アルハイゼンにとってこの世で一等厄介な優しさを持つ扱いづらくて誰よりも愛おしいひとの体を前にしてアルハイゼンは小さな声で感謝を捧げる。まるで野山の草食動物のような臆病さとしなやかさを持つひとに捧げたそれは、すぐに目的を一つに絞り込めなくなってしまった。
 今この瞬間、生活の拠点をアルハイゼンと共に暮らす家に定めてくれていること。祖母を失い一人きりになったアルハイゼンを見つけ出して、自分自身が目を背けていた寂しさに気づかせてくれたこと。彼女の寂しさを埋めるためならもっと騒がしく過ごすこともできたはずなのに、アルハイゼンの隣で学生時代を過ごす選択をしてくれたこと。
 あの夜、かつて手酷く砕いた関係にあるはずのアルハイゼンが差し出した手を振り払わないでいてくれたこと。自身が傷つく覚悟をして、アルハイゼンと恋情を交わす選択をしてくれたこと。そうして今、傷一つない珠のような振る舞いを見せてくれていること。その活力に満ちた精神と情熱を燃やし、彼女自身が定め目指す荒れ野の先をアルハイゼンに示してくれていること。
 その全てがアルハイゼンの人生を鮮やかに染め上げている。そう言えば、きっとカーヴェは大袈裟だと少し困ったような顔をするだろう。君の人生は僕なんていなくとも順風満帆で、君を満足させるものに違いない。そう口にする彼女の姿が目に浮かんで、その通りとアルハイゼンは肯定した。
 カーヴェの名声を遠くで聞きながら、時たま紙面越しに刺々しいやり取りをしていた時もアルハイゼンは決して不幸ではなかった。もちろん、幸福でないわけでもなかった。カーヴェがいなくとも、アルハイゼンはきっと人並み以上の人生を謳歌したことだろう。
 けれど、その人生に彼女がいてくれる以上の幸いをアルハイゼンはいまだに知らない。きっとそれを知る日など訪れないと、自身が歩んできた生涯がアルハイゼンに知らしめてくれていた。どうしてそれを、今更手放すことができるだろうか。
 しばらく彼女の苦悶の混ざる寝顔を眺めているうちに、時計の針が約束の時間を指し示す。名残り惜しさを感じながらもずっと皺が刻まれたままのカーヴェの眉間に指を二本置いて引き伸ばすと、うむむ、とむずがる声が彼女の喉でくるくると渦巻いた。アルハイゼンの胸中など知ったことではない彼女の純粋に不快感を示す反応に目を細めながら、まだ力の入らないカーヴェの指先に目を向ける。
 彼女が自分達の将来をどう描くつもりなのか、アルハイゼンには分からない。けれど、誰よりも自身を恐れるが故にまだ空っぽで、何も収まった事のないはずのその指に。いつか、母がそうしたように煌めきが宿る日が来るように。
 そう、アルハイゼンはずっとずっと願っている。