桐子
2025-06-15 16:32:05
2541文字
Public
 

まっさら⑫


高級クラブは今日も客が多く、開店から閉店まで客足が途絶えることはなかった。
「ミズキ君、色っぽくなったねえ。たまらない腰つきだ」
「はは……
乾いた愛想笑いでセクハラまがいの言葉をかわし、水木は給仕に徹した。ホステスたちからは相変わらずこき使われ、支配人や客に聞こえないように「使えねーな」「グズ」と罵倒される。以前から風当たりが強かったが、それがますますひどくなったのは、ゲゲ郎のせいだ。
「なあ、一緒に飲まないか」
客の一人が、グラスを下げにきた水木を手招きする。
「いえ、私は……
「いいじゃないか。ほら」
客は肉のたっぷりついた太い腕で水木の腰を引き寄せた。酒と香水の匂いがぷんと香る。
「あ、ちょっと……っ」
「なあ、いいだろう?」
男は水木の尻をいやらしい手つきで撫で回した。ぞわぞわとした感覚が背中を駆け上がり、思わず声を上げてしまった。
「ひっ!」
「いいねえ、その反応。身体は熟れているのに処女のようだ」
男は笑いながら水木の尻を掴んだり撫でたりしている。他のホステスたちは「いやだ先生ったら、こんな美女目の前にして」「その子まだ新人だから勘弁してあげて」と笑いながら制止してくれたが、顔は美しく微笑んでいても目は笑っていない。たかがボーイごときが客を奪うなと、水木を睨んでいる。
「それくらいにしてください、先生」
見かねた支配人が、助け船を出してくれた。
「あーあ、残念。じゃあミズキ君、また今度ね」
そう言って男は水木のポケットに何枚かの札をねじこみ、またホステスたちと酒を飲み始めた。水木はほっと胸を撫で下ろすと、客のいないバックヤードで支配人に頭を下げた。
「すみません」
「いや、いいんだよ。まあ君も災難だねえ」
こちらを見る目には同情が浮かんでいる。水木は曖昧に笑った。
「とにかく、姫たちのこと怒らせないように。上手に機嫌とってうまくやってくれよ」
「はい」
もう今日は上がっていいと言われ、着替えるためにロッカールームへと向かった。
「はあ……疲れた……
ネクタイをほどきながら自分のロッカーを開けた途端、つんと刺激臭が鼻をついた。おそるおそる匂いの元を探ると、私服のTシャツがぐっしょりと濡れている。匂いからして酒のようだ。それだけではなく、ゴミ箱のゴミをぶちまけた上に、タオルや化粧品なども無造作に捨てられている。
「げっ、大丈夫か?」
休憩に来たのだろう先輩の黒服が、水木のロッカーの惨状を見て顔をしかめた。
「えげつねえなあ」
「はは……
水木はとりあえずゴミを袋に詰めて捨てた。服は洗えばまた着れるが、とりあえずはこの制服を着て帰るしかないだろう。
「オーナーに気に入られるのも大変だな」
煙草をふかしながら先輩が同情の眼差しを向けてきた。女たちからは悪意を向けられているが、男性陣からは向けられているのは哀れみである。
「別に、オーナーとはそんなんじゃありませんよ」
「そりゃ無理があるって。あの日水木がお持ち帰りされてから、女遊びしなくなったって他の店にまで噂になってるみたいだよ。それに視察に来たら絶対お前のことしか呼ばないし」
水木は憂鬱な気持ちでロッカーの扉を閉めた。そうなのだ。オーナーに持ち帰られ、手を出されることはホステスたちにとって一種のステータスになっていたようで、それがぴたりとやんだのだ。ホステスたちは「水木のせいだ」と怒り、反感を買いまくっている。ロッカーが荒らされるのも初めてではない。
ゲゲ郎の愛人をしているなんてバレたらもっとひどい目に遭うだろう。
「はあ……
水木は重いため息をついた。



シャツとベスト姿のまま、広いベッドに倒れ込む。ああ眠い。このまま寝たいが、シャワーを浴びている間に制服を洗って、シャツとスラックスにアイロンをかけなければならない。それに明日もファミレスのバイトが入っている。早く起きて動かなければ。そう思っているのに、目蓋がどんどん重くなっていく。
「水木」
ふと、誰かに名を呼ばれた。聞き覚えがあるようなないような。それから、優しく頭を撫でられた。その心地よさに眠気がさらに増していく。
「とうさん」
もう顔も声も忘れてしまったけれど、水木は父の大きな手が大好きだった。そうだった、これは父親だ。大きな手で優しく撫でてもらうのが好きだった。水木のせいで死んでしまった、もう二度と会えぬ人。
「とうさん、ごめん……
ちゃんと謝りたいのに、もう声が出ない。水木は深い眠りの中に落ちていった。




はっと目を覚ました水木は、慌てて時計を見た。寝過ごしたかと冷や汗をかいたが、まだ5時半だった。なんだ、まだ寝ていればよかったと再び枕に頭を乗せた。
……!!」
何の気なしに寝返りを打とうとして、水木は今度こそ心臓が口から飛び出すかと思った。ゲゲ郎が隣で寝ている。
「な、なんで……
そういえば、寝る前に誰かに呼ばれたような気がしたが、あれはこの男だったのか。水木が跳ね起きた横で、ゲゲ郎はすーすーと寝息を立てている。いつも飄々としていて掴みどころのない男だが、目を閉じてると顔立ちの端正さの方が目立つ。
「ん……
ゲゲ郎はもそもそと動き、うっすらと目蓋を開く。
……おはよう」
「お、おお」
寝起きの掠れた声で言われ、思わずどもってしまった。ゲゲ郎はまだ半分夢の中にいるのかぼんやりとした表情で水木を見ている。
「なんじゃ、まだ早いぞ……おぬしも、もっと寝ておれ……
そう言って男は長い腕の中に水木を抱き込み、再び目を閉じてまた寝息をたて始めた。間近に感じるゲゲ郎の体温と匂いに無性にドキドキしてしまう。水木はそっと男の腕の中から抜け出そうとしたが、しっかりと抱き込まれていて動けない。もがいてもびくともせず、結局諦めてそのまま男の寝顔を見ていた。
好きじゃない、こんな男。誰のせいでしなくてもいい苦労をしているの思っているのだ。駄目になった私服や鞄がいくつあるか、教えてやりたい。水木の気持ちを無視して好き勝手するくせに、気まぐれに甘えたり、甘やかしたりーーー。
……お前なんて、大嫌いだ」
水木は男の頬にかかる髪をそっと払い、ぽつりと呟いた。