桐子
2025-06-15 10:49:08
6877文字
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幸せな温度①(オルタ父×先天性女体化水)


男は逃げていた。
般若の面をつけた男たちは、執拗だった。いつもならばすぐに逃げおおせてしまえるのに、彼らの持つ呪具――――と思われる髑髏と対峙すると、能力のほとんどが使えなくなってしまい、結果こうして惨めに逃げ回っている。
走るたび、錫杖で貫かれた左肩がずきずきと痛んだ。血は止まっているものの、何か特別な術をかけられているのか傷口が塞がらない。
もはやここまでか。
幽霊族の最後の一人である自分が人間によって滅ぼされるというのは、何とも皮肉が効いている。
だが、やすやすと殺されるつもりはない。せめて一矢報いて死のうと決意したときだった。

……人の街か」

遠くに見えるのは人家の明かりだった。
さすがに人混みにまぎれてしまえば、奴らもそうそう追ってこないだろう。もつれそうになる足を必死に動かし、男は明かりの方へと向かった。
山を抜けると、ぽつぽつと家が立ち並び始めた。もっと人の多い所へ行こうと、男は足を速める。
しかし、血が流れすぎたのか、とうとう一歩も歩けなくなってしまった。間の悪いことに、雨まで降ってきた。だが、雨のおかげでここまでやって来た痕跡も消せるかもしれない。
男たちに見つからぬよう、人の気配のない寂れた廃寺へ這っていく。
自分はもう死ぬのだろう。
生まれた時は母がいたが、今は誰もそばにいない。仲間も家族もいない。ひとりぼっちのまま、冷たい雨に打たれてこうして死んでいくのかと思うと、寒くて寒くて凍えてしまいそうだった。

「誰かいるのか」

女の声だ。さく、と土を踏みしめる音とともにあらわれたのは、年若い女だった。目と耳に傷がある。さっぱりとした短髪の女は、男の姿を見て目を丸くした。
「ひどい傷だ」
女は傘を置いて男のそばに膝をつき、顔を覗き込んでくる。
「しっかりしろ。今人を呼んでくる」
……駄目じゃ」
声を絞り出した。
「わしは、一人で、死ぬ。放っておいてくれ……
人間なんぞに最期を看取られるなんて死んでもごめんだ。誇り高い幽霊族らしく、誰にも見つからずにひっそりとこの生を終えたい。それだけが男の最後の望みだった。力を振り絞ってそう告げた男は、ぐったりと目を閉じて地面に倒れこんだ。



目を開けて真っ先に映ったのは木目の天井だった。これはいったいどうしたことだろうかと、男は頭だけを動かして辺りを見回した。次いで目に入ったのは、古びた障子戸と布団。箪笥。穏やかな明かりが照らすそこは、男の知らない場所だった。
「目が覚めたか?」
女の声に、男は身を起こした。見ると、開いた障子戸の向こうに若い女が立っていた。廃寺で会ったあの女だ。彼女は布団のそばに腰を下ろした。
「ここは俺の家だ。俺しかいない。安心しろ」
……
「傷の具合はどうだ。まだ痛むか」
「いや……
男は自分の左肩を見た。血で染まった着物は脱がされ、別の浴衣を着せられていた。包帯の巻かれた傷口には丁寧に布が当てられている。
「おぬしが手当てをしてくれたのか?」
「そうだ。ああ、心配しなくていい。俺は従軍看護師だったんだ」
結構深い傷だったから、勝手に縫っておいたぞ。そう話す女からは、殺気を感じない。傷口を縫ってくれたから血が止まり、傷が癒えているのがわかる。自分はこの人間の女に命を救われたらしい。
「なぜ助けた」
そう尋ねると、女は「死にたかったのか?」と言った。
「死にたいなら、俺のいないところで死んでくれ。……目の前で人が死ぬのは、もう二度と見たくない」
女はそう言って、男から視線をそらした。その横顔からは深い悲しみを感じた。
「傷が治るまで、ここにいていい」
女は立ち上がった。部屋を出ていく間際、男は女のことを呼び止めていた。
「待て」
呼び止めると、女は静かに振り返った。
「おぬしの名は何という」
……水木」
それだけ言うと、女は今度こそ部屋をあとにした。



水木と名乗っる女は、約束通り傷が治るまでこちらの面倒を見るつもりなのだろう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
「包帯を取り替える。傷を見せてくれないか」
「もう治った」
出血が止まればあとは自然と傷が塞がるのを待てばいい。幽霊族は人間と違い体も頑強だ。だが、水木は眉をひそめて強い口調で言った。
「そんなわけあるか。いいから見せてみろ」
水木は有無を言わせぬ勢いで男の着物をはだけさせると、包帯をほどいていった。人間に触られるのは嫌だったが、不思議と水木には嫌悪感を感じなかった。それは、彼女が心の底から自分を案じていることが伝わってくるからだ。

『化物、近寄るな!!』

同じ年くらいの子どもに石を投げられたことをふと思い出した。人間というのは、自分たちと違うものを排除したがる。きっと、水木も自分が化物だとわかれば、恐怖の目を向けてくるに違いない。
……っ!」
傷口に当てていた布をはがすと、水木は小さく息をのんだ。
「治ってる」
ほとんど治りかけた男の左肩を見て、水木は驚いているようだった。
「わしは幽霊族じゃ。人間とは違う。わかったらさっさとその手をどけろ」
水木はおずおずと手をどけ、自分が縫合した傷をまじまじと見ていた。化物だと恐れおののくか、口汚く罵るか。あるいは「助けて」と命乞いするか。だが、彼女はそのどれとも違う反応をした。
「よかった」
と、水木は言ったのだ。
「え……?」
「便利なもんだな。その……ユーレイ族?ってのは」
水木は心底安心したように微笑んだ。
……おぬしは、わしが怖くないのか?」
「人間じゃないというのは信じるが、怖いとは思わない」
水木はそう言って、男の肩に手を乗せた。
「もう傷はふさがっている。だが、まだ血が足りないだろう?何か食べやすいものを持ってくる」
そう言って部屋を出ていく水木の背中を見送りながら、男は呆然としていた。


水木は男のために、おかゆという料理を作ってくれた。茶碗の中には湯気をたてるとろとろの白米が入っていたが、毒でも仕込まれているのではないかと手をつけないでいた。
「毒なんて入ってない」
水木はそう言って、ふうふう息をふきかけたあと、自分の箸を使ってぱくりと一口食べてみせた。まだ信じきれなかったが、うまそうな匂いと見た目に、ほとんどなにも食べていない腹が空腹を訴えてきた。
人間ごときの毒が幽霊族に効くはずはない。米に罪はないのだし……と自分に言い訳をしながら、男は渋々、椀を手に取った。
……!!」
一口食べるなり、男は思わず目を見開いた。米の甘みと塩気のきいた梅干し、ふわふわした卵と細かく裂いた鶏肉。柔らかくて温かくてうまかった。熱いのも気にせず猛然と食べ始めた男に、水木は苦笑した。
「まだたくさんあるから、たくさん食べろ」
男にとって食事というのは生きるために必要な作業だった。腹を満たすために食べるだけであって、そこに楽しみなどなかったし、味にも興味はなかった。だが、水木の作った料理がとてもうまいことは分かった。何度もおかわりし、あっという間に平らげてしまった。
「うまかったか?」
「畜生の餌よりはまし、というところかのう」
夢中で食べていたことが急に恥ずかしくなって、男はそうぶっきらぼうに言った。水木は笑いながら、
「うまかったのならよかった。またいつでも作ってやる」
と言った。なんだか拍子抜けしてしまって、男はごろりと横になった。
「おやすみ」
水木は明かりを消して部屋を出ていった。
本当に眠るつもりはなかったが、目を閉じているうちにいつの間にか寝入ってしまった。
疲労と傷の治癒で体力を奪われ、緊張で張り詰めていた精神も限界だったのだろう。


次に目が覚めたのは朝だった。障子戸越しに差し込む朝日が眩しい。
家の中に人の気配はなく、水木なる女はもうここにはいないのだと分かった。
男はのそりと起き上がり、他の部屋を見て回った。小さな家だ。鴨居に額をぶつけてしまいそうになりながら部屋を見ていると、小さな丸い卓の上に置かれた盆に、握り飯と漬物、そして1枚の紙が載っているのが見えた。
『俺は仕事に行くから、好きに過ごしてくれ。これは朝飯兼昼飯だ』
書き置きにはそう書いてあった。男は握り飯を1つ手に取り、まじまじと眺めた。毒を盛るつもりなら、昨日のうちにしているだろう。今朝だって寝首をかく機会はいくらでもあった。
握り飯を一口かじった。
……
うまい。米はふっくらしていて甘く、中に入っている魚のほぐし身もうまかった。あっという間にもう1つも食べ、漬物も口に入れる。大きな2つの握り飯をぺろりと平らげ、男は満足して腹をさすった。
さて、あの女は仕事とやらで家を空けているらしい。今ならば逃げ出すことも容易だろう。傷も治り、腹もくちた。今ならばあの般若面の人間に遅れを取ることもない。
……
だが、もう少しここにいてもいいかもしれない。
水木という女からは殺気や悪意は感じられなかった。温かい食事も寝床もある。それに、水木は男の正体を知っても恐れる様子はなかったし、幽霊族と知っても態度を変えることはなかった。今までにない経験だった。
ーーーーあんな女一人、どうとでもできる。
男はそう結論を出し、もう一度寝床へもぐりこんだ。


◇◇◇


夜もすっかり更けた頃になって、やっと水木が帰ってきた。
玄関の引戸を開けて靴を脱いでいる背中に、男は声をかけた。
「遅かったな」
水木は驚いた顔で振り返った。
「まだいたのか」
……悪かったな」
「いや、違うんだ。出ていってほしかったんじゃない。まだいてくれてよかったという意味だ」
水木は嬉しそうに笑った。男はなんだか照れ臭くなって、ごほんと咳払いをした。
「ちゃんとご飯は食べたか。書き置きをしておいたんだが、後になって、お前に日本語が読めるのか心配になって……
「馬鹿にするな。文字くらい読める」
男は不愛想に言ったのだが、水木は「そうか」とまた嬉しそうに笑った。
「ただいま」
電気のスイッチをパチンと押すと、部屋が明るくなった。真昼のような光は闇になれた目にまぶしかった。
「今から飯を作るが、少し時間がかかる。その間に風呂に入ってきたらどうだ」
「ふろ?」
「入ったことがないのか」
水木に言われて、男は首を縦に振った。動物たちが野湯につかっているのを見たことはあるが、湯につかるという習慣はない。
「温かいお湯でからだを洗うんだ」
水木に連れられて風呂場に向かう。
つるつるとした石が敷き詰められた小部屋には、大きなたらいのような器になみなみと水がたたえられていた。
「これが風呂か……
男は興味深そうに、たらいの中に手を突っ込んだ。中に入っているのは冷たい水だ。
「今から沸かすんだ」
「どうやって?」
水木は固形燃料というものを燃やして、火をつけると説明した。
「この火で水を温めて、お湯にするんだ」
男はたらいの湯に手をつけたり出したりして、水の変化を興味深そうに見ていた。
「服を脱いで、体をこの石鹸で洗う」
水木は手ぬぐいと石鹸を男に手渡した。男はそれを受け取った。水木は「じゃあ、ごゆっくり」と風呂場を出ていった。
着物を脱ぎ、風呂場へ入る。さっきまで冷たかった水は、暖かそうな湯気を立ち上らせている。男は湯を桶ですくって体にかけた。少し熱いが心地よい。次に、見よう見まねで手ぬぐいに石鹸をこすりつけ、ごしごしとからだを洗う。湯でそれを洗い流し、いよいよ湯のはられたたらいの中に体を入れる。
「っ、おお……!」
暖かい。男は思わず歓声をあげた。全身がぽかぽかと温まり、全身の力が抜けるようだった。
「こんな気持ちのいいものがこの世にあるのか……!」
男は初めて味わう心地よさに、すっかり虜になってしまった。
風呂から上がると、水木が「ちょうど飯ができたところだ」と言って、卓に食事を並べていた。
「風呂は気持ちよかったか?」
「よかった。毎日入りたい」
「毎日は贅沢だ。でも、気に入ったならよかった」
水木は嬉しそうに笑った。


それからも男は水木の家へ居座り続けた。いい加減、この家を出ていくことを考えなくてはならない。そう思うのに、日がたつにつれて、なぜか足が外へ向かないのだ。
ここにいれば食事の心配をしなくてよい。風呂にも入れるし、寝る場所もある。ここへ来る以前とは比べ物にならないほど快適だった。だから、傷はすっかり治っていたが、ずるずると居座ってしまっている。
「お前、酒は飲めるのか」
ある夜、水木が声をかけてきた。「飲める」と答えると、「それなら今夜は月見酒だ」と言って、酒瓶と杯を2つ持ってきた。
縁側に座り、虫や蛙の声を聞きながら空を眺める。梅雨の合間の晴れ間。満月が美しい夜だった。
水木は男の杯に酒を注ぎ、自分のものも満たすと、乾杯と言って飲み干した。
「うまいか」
……まずくはない」
烏天狗の酒を恋しく思いながら、男は杯をちびりと傾けた。月に照らされた女の横顔を盗み見ると、人間の美醜に興味のない男でも、見とれるほどに美しく見えた。
「どうした?」
視線に気が付いた水木がこちらを見たので、男はあわてて視線をそらした。
……いや」
「そうか」
月を見ながら杯を傾けるのは、思いのほか心地よかった。女は男の隣に座り、静かに酒を飲んでいる。その横顔を盗み見ながら酒を飲むうちに、男はふと口を開いた。
……おぬしはなぜ、わしを拾った」
「ん?」
「捨て置いてもよかったはずじゃ」
「そうだな」
「なぜじゃ」
水木は杯の中の酒に視線を落として、少しの間考えていたが、やがてこう言った。
「俺は従軍看護婦だった。お国のために少しでも役に立ちたくて志願した。だが、戦場は……地獄だったよ。薬も麻酔も不足して、治療どころか患者の痛みを和らげてやることもできずに、みんな死んでいった」
水木はそこで言葉を切った。
「俺は……人を殺した」
男は驚いて水木を見た。そんな男の視線に気づいたのか、水木は自嘲するように笑ってこう言った。
「体が半分吹き飛んで、もう助かるはずもない兵士が、言うんだよ。『もう楽にしてくれ』って。だから首を絞めた。最初の一人は怖かった。しばらくは手が震えて止まらなかったよ。でも、途中からは感覚が麻痺して……涙も出なかった」
男は何と言えばいいのか分からないまま、女の話を聞いていた。女は視線を上げ、月を見ながら話を続けた。
「戦争が終わっても、俺の罪は消えない。人殺しの俺がのうのうと生きているのは許されない。そう思っていた時に、お前を見つけたんだ」
水木は男を見た。
「お前を助けたら、この罪悪感が少しでも晴れるんじゃないかと思った。お前を助けたのはお前のためじゃない。自分のためなんだ」
自分のためだという言葉には、納得できるものがあった。お前のためなんだという偽善、おためごかしよりもずっとましだ。しょせん、生き物は自己の生存を一番の目的にしている。男を助けることで心の平穏を得ようというのはもっともな理由だと思えた。
「そうか」
男は水木の話を肯定も否定もせず、ただ一言だけ返した。水木は安心したように微笑んだ。
「ありがとうな」
なにが『ありがとう』なのか男には分からなかったが、女は満足そうに笑っていたので、まぁいいかと思った。
くっと杯の酒を飲み干すと、水木が酒をついでくれた。
「そういえば、お前、名前はなんていうんだ」
「名前などない。わしは幽霊族の男、それだけじゃ」
妖怪に個体の名はない。幽霊族はそもそも妖怪とは少し違う存在だが、個体識別をする習慣がないという点は共通する。
「じゃあ、俺がつけていいか」
「おぬしが?」
「名前がないと不便だろ」
そう言って、水木はうんうん唸り始めた。頬が赤いのは酔いが回ってきたのだろうか。これっぽっちの酒で酔うなんて、人間というのは弱っちいものだ。
……そうだなあ、鬼太郎なんてどうだ?『鬼』って字には幽霊という意味もあるし、お前にぴったりだろ」
「いやじゃ」
「ええー、いいと思うのに」
水木は次々と名前を出してきたが、男は「いやじゃ」の一点張りでそれを受け流した。あまりにも男が否定するので、だんだんと水木ほむくれた表情になってきた。
「なんだよ、せっかくいい名前考えたのに……
水木がふてくされたように言って黙り込む。蛙がゲコゲコ鳴いている声に混じって、虫の音も聞こえる。
……じゃあ、『ゲゲ郎』だ!!」
「は?」
水木が突然そう言い出したので、男は思わず聞き返した。
「決まりだな。ゲゲ郎、うん、お前に似合ってる」
なんだかひどく単純な名前と安直な付け方だ。だが、反論するのも面倒で、男は「もうそれでいいわい」と投げやりに言った。
「ゲゲ郎。よろしくな」
水木の笑顔に、男はなんだか胸がむずがゆいような気持ちになった。