honeyhoneylaboratory
2022-05-20 00:33:35
19279文字
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「会いたかった」と僕は言った

田舎に撮影に来ていた若手俳優五条(19)と、五条のことを芸能人だと知らなかった高校生恵(15)の十日間、そして再会の日のこと。
20220821の愛しの教え子3にて、再会後に五伏になるまでを加筆した本を発行予定です。

1.

 緑豊かなんて耳障りのよい言葉を使う人はいるが、要はただの山がちな田舎町である。恵が暮らしているのはそういうところだった。こう言うとどんなに隔離された山奥なのだと思われるかもしれないが、自転車で三、四十分行けば市役所や大きな病院、デパート、そして通っている高校のあるふもとの街に降りることができる。
 恵は父親と二人で暮らしているが、この辺りには珍しい借家暮らしである。恵がひとつになったかどうかの頃に母が病気で亡くなり、その頃暮らしていたところを引き払って父親が引っ込んだのが、どういうわけかこの田舎町だったというわけだ。幼いころにはたまに訪ねてくる人もいて、多分あれは親戚の誰かだったのだろうと思うけれど、父親が歓迎しないせいで、いまではもうそんな人もいない。
 口数の少ない父親と、近所の個人商店の世話焼きなおばさん、小学校の近くにある駐在所のおまわりさんに、公民館の一室があてがわれている出張図書館。
 そういう小さな世界で恵は生きてきた。ふもとの街へ出るようになったのは、中学入学と同時だった。恵が入学する前の年に、町に一校だけあった中学校は閉校し、もっと生徒の多いふもとの街の中学に併合されたからだ。
 食品だけでなく雑貨も揃う、大きなスーパーマーケット。ゲームセンターにファストフード。コンビニエンスストアに大型書店。初めは驚きの目でそういうものを見ていた恵だったが、そんなものにも中一の夏にはすっかり慣れた。おまけに中二の頃には急に周りがくだらなく思えて、いっちょ前にグレてみたりもした。その後、自分の中で折り合いをつけることを知って、ほんの少しだけ成長した恵は、この春高校生になった。
「じゃあな、また明日」
 クラスメイトの虎杖と正門で別れた恵は、学校を出てすぐのバス停でバスを待っていた釘崎にも手を振った。虎杖はふもとの街に家があるが、釘崎は恵と同じ町の出身だ。けれど「一時間も自転車漕ぎたくないわよ」とのことで、恵とは違ってバス通学をしている。たまに放課後三人つるんで寄り道することもあるけれど、今日は虎杖が入院中の祖父の見舞いに行く日なので、まっすぐ家に帰るというわけだ。


 トンネルを抜けると、一気に飛び込んできた眩しい緑に恵は目を細めた。自転車のハンドルを握りなおし、これからしばらく続く渓谷沿いの緩い坂を昇る覚悟を決める。ぐっとペダルに力を込めて前を向くと、日に日に眩しさを増す初夏の気配が全身を包んだ。
 悪天候時には濁流が流れて暴れ竜などと呼ばれるこの川も、普段は子どもが遊ぶのにいい程度の川幅だ。道から降りていける側の河原にはタープが張られていて、十人程度の人がいるのが見えた。この川は化石が出ることで有名なので、きっと近隣の大学からフィールドワークにでも来ているのだろう。
 自転車を漕ぐ恵の目に、きらりとなにか光るものが見えた。これから渡るつもりの橋の上だ。目を凝らしながら近づいていく。
――人かよ」
 正体不明な光も、それがなにかわかってしまえば単純なことだった。橋の上に、人が立っているのだ。光っていたのはその人だった。正確には、その人がかけているサングラスだ。
 橋のたもとに差し掛かった恵は、自転車を左折させた。自宅はこの橋を渡り切り、あちらに伸びる道をさらにまっすぐ、林道を突っ切った先にある。
 橋に乗り入れると、サングラスの人は近づいてくる恵に気づいたようだった。近くで見るとその人はかなり若くて、恵よりは年上だろうがまだ大学生くらいに見える。
 随分と背が高い人だなと思った。そして、白い髪が特徴的だった。恵は傾斜がないのに感謝しながらスピードを上げ、白い人の横を通り過ぎた。


「あの、アンタここでなにしてんすか」
 恵が観念して青年に声を掛けたのは、下校途中に毎日橋の上にいる彼が気になりすぎて、自分勝手にも腹が立ったからである。それは、青年を見かけるようになって四日目のことだった。学校を出るのはだいたい同じ時間だから、彼も毎日同じ時間に橋の上にいるのである。
 幽霊でもあるまいが、荷物も持たずにひとり橋の上から渓谷を見ている。飛び降りでもされたら気分が悪いし、だいたいここらで見かけない人間だというだけで目立つのだ。
 普段は通り過ぎるだけの恵がそばで自転車を停めたことが意外だったのか、白い青年は驚いたようだった。口にはタバコ、いや、シガーチョコを突っ込んでいて、半開きになった唇の端には溶けたチョコが付いている。
「いや……、ちょっと休憩?」
 面くらいながらも見ず知らずの高校生に答えるのだから、そんなに怪しい人ではないのかもしれない。そう思った恵は自転車から離れ、欄干に凭れる青年の隣に立った。
「毎日いますよね」
「そうだね。二週間だけこっちに滞在してるんだ。この時間はちょうど休憩時間でさ」
「ああ、そうなんすね」
「もしかして、飛び降りでもしそうに見えた?」
……別に」
 図星を指され、ぷいと顔を背けると、青年は笑って言った。
「悩んでないわけじゃなかったけど、大丈夫だよ。死のうなんて思ってない。ただ、休憩のときくらい一緒に来ている人たちから離れていたいなって思ってただけ」
 そう言った青年の言葉には切実さが滲んでいて、きっとこの人は本音を言っているのだろうと恵は思う。人間は、一緒にいたいと思える人とだけ一緒にいられるものではない。居心地が悪いときだってあるだろうし、嫌悪ややっかみの中、そこに留まるしかないことだってある。
「えと、気にしないほうがいいですよ」
「え?」
「見た目でいろいろ言う人はいると思うけど、気にしないほうがいいです、そういうの。俺も、ウニって言われる」
……ウニ?」
「そうっす。癖毛のせいで、どうしてもこうなる」
 元気に跳ねた黒髪を指さしながら青年を見上げると、素直そうな白銀の髪が風に揺れ、太陽の光を透かしていた。
「アンタの髪の毛とか目の色とか、俺はすげえ綺麗だと思う」
 青年は今日もサングラスをかけていたが、そのわきからは浅いブルーの瞳が見えている。話しぶりからは日本育ちだろうと察するが、この見た目ではよその国の血が入っていると言われたほうが納得感が高いくらいだ。
 それにしても、綺麗だなんて、男の人に対して失礼だったろうか。そう思うと頬が熱くなったが、言ってしまったのだから、もうしかたなかった。
「ありがとね」
 ほんの一瞬だけ呆けた顔をした青年は、穏やかにそう言った。
「うん、ありがとう。気にしないのがいいよね」
 どうやら自分の言葉は、この人に受け入れられたらしい。そう思うと緊張がとけ、恵は自分も両腕を欄干に預け、渓谷を覗き込んだ。きっと青年は、あの大学の(何学部だか知らないけれど)メンバーのひとりなのだろう。二週間という長さも、いろんな調査をしたり採取をしたりするにはちょうどいい気がする。
「高校生か。何年生なの?」
「一年です」
「じゃあ十六?」
「まだ十五」
「そっか。僕は十九。こっちに住んでるんだね、綺麗なとこに住んでていいねって言われるでしょ」
 四つ年上と判明した青年は、そう言って隣に並ぶ恵に一歩近づいた。
「そういうこと言うのは外の人だけですよ。だってなにもないから。でも俺は、別に嫌いじゃない。夜、星が綺麗です。あと、移動図書館もあるから読む本には困んねぇし」
 元からの知り合い程度に縮まった距離というのは、どうやら気持ちにも影響を与えるらしい。恵はいつの間にか、青年に対する警戒心をすっかり解いていた。
「そっか。まさに『足るを知る』を地でいってるね。仲のいい友達はいる?」
「あー、高校になら」
「彼等とはなにすんの? 映画見に行ったりゲーセン行ったり?」
「たまに。ひとり女がいるんで、そいつの買い物付き合わされたりとかもあります」
「彼女じゃないの?」
「違いますね、ダチっす。そいつミーハーで芸能人とか映画とかすげえ詳しいみたいだけど、俺も虎杖も――あ、もうひとりのやつです――そういうのわかんないんで、割と流して聞いてるっていうか」
 顔をしかめて釘崎のことを説明すれば、青年はアハハとさも楽しげに笑った。
「僕にも仲いい女友達いるよ」
「それこそ彼女じゃないんすか?」
「違うねえ。多分お互い考えたこともない。そもそも彼女、僕ともうひとりのこと、クズって言うし」
「すげえ。さすがに俺はそこまで言われたことないっす。ていうか、クズなんすか?」
「違うよ、多分違うと思う。きっと違う。おそらく違うよ……
「なんでだんだん弱気なんすか」
 顔を見合わせくつくつと笑った。青年がちらりと腕時計を見る。長話をしすぎてしまったかもしれない。
「俺、そろそろ帰ります。アンタも休憩もう終わりですよね?」
「あー、そうだね」
 西日に照らされながら、恵は自転車にまたがりハンドルを握った。背後を見かけないワンボックスが続けて通る。車通りの少ない道なのに、珍しいことだ。その車を目で追いながら、恵は釘崎から聞いたことを思い出した。
「そう言えば、町でなんかの映画撮影してるらしいです。見てないから知らないけど、釘崎が……友達が、言ってました」
 あんまテレビ観ないから、俺芸能人全然わかんないんすよ。呟くようにそう言うと、恵は黙ってこちらを見たままの青年に向かって笑いかけた。
「じゃあ」
「うん。じゃあね」
 しばらくしてから振り返ると、青年は恵とは反対側に向かって橋を渡り終えたところだった。きっと一緒に来ている学生たちのところへ戻るのだろう。
 あの人の気が晴れているといいな。
 そう思った。そして、また明日も会えるといいな、と思った。
 恵は勢いをつけてペダルを踏みこむ。もうすぐ父が帰宅する時間だ。


2.

 自分はそんなに不安定に見えたのだろうかと、悟は狼狽えた。目の前には白いワイシャツに濃紺のスラックス姿の少年がいる。頭ひとつぶん下から自分を見上げているのは濃い緑色の瞳で、色白の部類に入るだろうその少年の印象をやけに強めている。
 わざわざ自転車を停め、降りて来てまで彼は言ったのだ。
「気にしないほうがいいですよ」
「見た目でいろいろ言う人はいると思うけど、気にしないほうがいいです」
 確かに自分の外見が人より目立つという自覚はある。ただ、この見た目でいじめられているわけではなかったし、見た目について気に病んでいたわけでもなかった。それでも、きっと気を遣って言ってくれたのだろう少年の言葉に気持ちが緩んだのは確かだ。
 最初は、ファンなのだと言われるのかと思った。サインをくれと言われたら面倒だな、とも思った。高校生の頃、小遣い稼ぎのつもりでモデルになった。誤算だったのは悟が芸能一家の生まれだったせいで、さも当然であるという雰囲気の中、あれよあれよという間に単発のドラマに出ることになってしまったこと。
 そしてさらに誤算だったのは、なんと自分がこの役者という仕事に熱意を持ってしまったことだった。目立つ風貌のわりに平凡な演技力のせいで、いくつものオーディションに落ちた。それから地道な努力を重ね、やっとのことで掴んだチャンスが今回の映画だ。主役ではないけれど、わりと大きな役である。事務所からは助演で賞をもらうつもりでやれと発破をかけられているし、自分でもそのつもりだ。
 繰り返すが、これはチャンスだった。五条悟の名前が役者として立つかどうか、役者としてのキャリアがここで跳ねるかどうか。それは大きなプレッシャーとなって悟を襲った。共演に大御所が名を連ねていること、そして七光りのボンボンだと、家の名前だけで注目されがちなこと。そんな中での撮影はまだ駆け出しの役者である悟には大変なストレスで、せめて休憩時間だけでもひとりになりたいと思ったのも、無理からぬことだった。
 峡谷にかかる橋の上から見る景色が美しいことに気づけたのは、ゆとりを失くしていた悟にとってはとても大きかった。都会生まれの都会育ちで、こういう緑の多い山の中は物珍しい。撮影が行われているのはいま覗き込んでいる河原で、撮影隊が機材を置くために張ったタープが、たまに風を孕んでぶわりと膨らんでいた。
 役者とスタッフが滞在しているのは橋を渡り切った向こう側の町にある旅館だが、その町というのも村といったほうがいいのではと思うほどささやかなところである。悟に話しかけてきた高校生は、きっとこの町のどこかに家があるのだろう。
 そう言えば彼は、結局悟が芸能人であることを知らなかったようだ。自分でもそちらの方面には疎いというようなことを言っていた。帰り際に撮影のことが話に出たからドキッとしたが、結局それも、彼にとってはただの噂話に過ぎなかったようだ。
 悟についてなにも知らず、なんの用事でこの町に来ているのかも気にならない様子の少年が、見当違いの心配をして声を掛けてくれた。そして、誤解が解けてからも屈託なく話しかけてくれた彼の無邪気さは、どうやら悟の精神状態に相当いい影響を及ぼしたらしい。休憩明けの撮影は思った以上にうまくいき、監督だけでなく大御所までもがグッと親指を立ててくれたし、悟自身もなにかを掴んだ気がした。
 少年は、それから毎日ほぼ同じ時間に橋を通りかかった。同じ学校から帰って来るんだから当たり前でしょと彼は言ったけれど、悟の経験によれば、高校の醍醐味は放課後の使いかたである。少年だって友達とつるんで街で遊ぶことがあると言っていた。なのに彼は、毎日悟の休憩時間になると、律義に坂を上ってやって来たのだ。
 自分が撮影のためにここを訪れている役者であることを言わないままに、悟は彼といろんな話をした。実は活字の虫だという恵が(名前が伏黒恵だということを、三度目に話したとき教えてくれた)いま読んでいる本のこと。仲のいい友達であるイタドリユウジ君とクギサキノバラさんのこと。お父さんのこと。記憶にないお母さんのこと。
 悟も話した。出身は京都だけれども、親の仕事の都合で都内で育ったようなものであること、サングラスをしているのは色素の薄い瞳を守るためであること。そして、身分は大学生であること。
 役者であることに触れなかったのはズルかったかもしれないが、それを言ってしまったら恵に距離を取られてしまう気がしたので言わなかった。大学生であるというのも嘘ではないし。
 そうして、この町での撮影が終わる日がやって来た。恵はいつものごとく学校帰りにやってくると、橋の上で待っていた悟の隣に立ってこちらを見上げた。
「今日でもう帰るって言ってましたよね」
「そう。ここでやることは全部終わったからね」
「よかったです、天気も悪くならなかったから、いい化石が取れたんじゃないですか?」
 突然出てきた化石という言葉に面食らったが、きっと恵は恵なりに、悟がこの町で過ごしていた理由を考えていたのだろうと思い至って「そうだね」と返す。
「もう、会わないですねきっと」
 寂しさをほんの少しだけ滲ませて、恵が言った。子どもみたいな顔をするんだなと思ったら、一日にたった十五分かそこらの立ち話、それを十日ばかり繰り返しただけの彼に対して不思議なほどの庇護欲がわく。
 実際、もう会わないだろうと思うのだ。東京に戻れば、また仕事仕事の日々が戻って来る。いや、ここに来る前よりもきっと忙しくなるだろう。
「やりたがっていた役者の仕事、たくさん取ってきますからね」
 マネージャーがやけに意気込むので聞いたところ、この映画にキャスティングされてからこちら、役者としての悟の注目度が急激に上がっているのだという。実際のところはまだまだ「あの五条家の」と家の名前が先に立っていることは否めないが、社長からは「本気でこの仕事で食っていくならなんでも使え」と言われているし、家の名前など小さなものだと思えるようにならなければ、きっとものになることなどないのだろう。
 何者かになろうとしているタイミングで、何者かになるつもりもない恵に会ったということは、きっと意味がある。もう会わないだろうから、人生はこの先交わらないだろうからこそ、この十日間が透き通って純粋で、貴重なものに思えた。きっと悟は、伏黒恵という少年と過ごした時間のことを忘れない。悟の記憶の中で、十九歳の悟と十五歳の恵は、ずっと隣り合ったままこの橋の上に立っているのだ。
 芸能界に疎いとは言え、恵がこのまま悟の正体に気づかないというのも非現実的な話だった。悟はともかくとして、今回の映画は新人賞を受賞した小説の映像化で、出版社の力の入れ方ゆえに注目度が高いのだ。だから例えば家のテレビでワイドショーを流していて、もしくは街の大きなビルのワイドビジョンで、いつ映画のプロモーションが流れたところでまったくおかしくはない。
 試写会、予告編、雑誌、テレビ、ポスター。どの段階でどういうふうにかはわからないが、きっと恵はそこに写っているのが悟であることに気づくだろう。だから、悟は言ったのだ。
「きっとそのうち、僕のこと見かけると思うよ」
「偶然てありますもんね。じゃあ俺、もしアンタのこと見かけたら声掛けますよ」
 そう言って笑った恵に、悟は片手を差し出した。ひと回り小さな、でもすんなりした指をした手が差し出された。互いにぎゅっと握り込み、ぶんぶんぶんと笑いあって三回振る。
「じゃあ、またね」
 悟はそうして、自転車で手を振りながら去っていく恵の後姿を見送ったのだ。
 それが、十九歳、初夏の思い出。


3.

 期末テストが終わった解放感の中、三人が向かったのは最近街にできた大きなショッピングモール、エオンである。広いスーパーマーケットにチェーンの薬局、大きな書店に雑貨店。服も、鞄も、輸入食材も、ないものはないだろうとすら思う。
 ところで、エオンができて一番喜んだのは実は虎杖だった。
 シネコン、つまりシネマコンプレックス。理由はこれだ。以前はこの街にだって映画館はあって、それこそ恵も幼い頃は、父に連れられてアニメ映画を観に来た記憶がある。けれどそこが数年前に潰れてからこちら、恵たちにとって、映画というものは隣街まで行かなくては観ることができないものになっていた。
 そこに映画館が復活した。それも、いくつもスクリーンを備えたすごいやつだ。虎杖は意外なことに映画好きで、古いものもB級もロードショーものも単館ものも、かたっぱしから観ているのだという。普段は契約している動画配信サービスで見ているが、やはり大きなスクリーンで観たいという気持ちが強いらしい。
 一方、三人が揃って喜んだのは大きな電器店だった。見るだけで楽しいのよねとは、釘崎の弁である。大型家電を高校生が購入するわけなどないのだが、ずらりと並んだ新型の冷蔵庫や洗濯機、そしてなんと言っても大型テレビが壁を埋める様は壮観である。
「今日ってなんか寄らないといけないとこあるの?」
 エオンに着くなり「とりあえずアイスよ」という一言で最初の行き先をフードコートと決めた釘崎が、ジェラートを舐めながら言った。
「あ、ねえねえ俺本屋さん寄りたい」
「なに買うの?」
「身体鍛える系の雑誌」
「アンタらしいわね。筋肉雑誌か」
「言いかた! まあ合ってるけど。伏黒は?」
「電器屋行っていいか? ヘッドフォン見たいんだよ」
 つまり、電器店の前にいま三人がいるのは恵の希望によるものであった。けれど恵はいま、目を大きく見開いて壁一面に展開された大型テレビを見つめている。
『はい、僕は主演の〇〇さんの親友という役どころで』
 白い髪に、青い瞳。今日彼は、サングラスをかけていない。
『原作ですか? もちろん読ませていただきました。あの世界観の中のひとりになれるのかと思ったらもう』
 映画……? 撮影……? もしかして、あのとき町で撮影してたっつーアレのことか?
『ご存じの通り錚々たる顔ぶれのなかで、僕はまだキャリアも浅くて。ですから、最初の頃はひとりになる時間を必死に作っていました。本気でプレッシャーに潰されそうでした。僕にとって、この役を頂けたのは本当に大きなチャンスでした。だから、絶対に失敗したくなかったんです』
 ひとりでいたのって、そういうことか。
『監督にも共演の皆さんにも、本当に感謝しています』
 美しい笑顔でそう締めくくった彼の顔を呆然と見ていると、いつの間にか隣で一緒に画面を見ていた釘崎が言った。
「ああ、五条悟か。映画はこれが初めてなのよね、確か」
「知ってんのか、お前」
「この映画? まあね、監督有名だし、主演も」
「そうじゃなくて。この人」
 恵が画面に映った白髪を指さす。すると釘崎は首を傾げ、「当たり前でしょ」と言った。
「五条悟。元々はモデルだったけどここ最近はドラマが多いんじゃない? え、見たことないの?」
「知らなかった。いや、この人のことは知ってるけど、芸能人だなんて知らなかったというか……
 あからさまに動揺する恵の横で、釘崎が「五条悟を知らないとか天然記念物かよ」と呟くのが聞こえた。
「しょうがねえだろ、テレビとかほぼ見ねえんだよ」
「でも知ってるの?」
「知ってる。こないだまで学校帰りに会ってたから」
「は?」
「多分撮影に来てたんだろうな。俺、それ知らなくて、普通にしゃべってた」
 思い返せば、彼は名前を名乗らなかったのだ。恵自身、たった二週間たまたま町を訪れているだけの相手の名前を知る必要があるとは思えなかったし、話していて名前を知らなくても困らなかった。でも、今更だけれども考えてみればおかしなことだったのだ。だって、恵は尋ねられたから名乗ったのだ。普通なら、そのとき相手だって名乗るのが自然じゃないか。
「ごじょうさとる、かぁ……
 気の抜けたような恵の様子に釘崎は溜息をつくと、店の前に置かれているベンチに恵を連れて行き、呼び寄せた虎杖とで恵を挟んで座った。
「伏黒、どうしたん?」
「コイツ五条悟の知り合いらしいんだけど、芸能人なのいま知ったんだって」
「え、どういうこと? 五条悟ってあの五条悟?」
「そ。あの見目麗しい五条悟よ」
「ご尊顔の」
「美の極致の」
「性格以外完璧の」
 なのに!
「「ごじょうさとるを!! 知らないってなに?!!?」」
 両脇で絶叫する二人に舌打ちをする。正直言うと、恵は怒っていた。誰に? 五条悟という名だとたったいま発覚した、あの白髪碧眼野郎にである。
 確かに別れ際、彼は言ったのだ。「そのうち僕のこと見かけると思うよ」と。恵はそれを、また街に来る予定があるから偶然会うかもしれないという意味に受け取ったのだが、そうではなかった。五条が言ったのは、彼のことを画面越しに見るだろうという意味だったのだ。
 どうして芸能人だと言ってくれなかったんだろう。知られていないのを不快に思ったからだろうか。でも、そのわりに機嫌は悪くなさそうに見えたし、もし不快だったなら、あんなふうに毎日恵が来るのを心待ちにしているような顔はしなかっただろう。いや、役者だから、演技だったのかもしれない。やはり本当は失礼な一般人に呆れていたのかも。
 それは俺が悪かったけれど、と恵は唇を噛んだ。なにも知らなかったからとはいえ、関係ない話ばかりしてしまった。読んだ本の話とか学校の話とか、そんな話をしたってどうしようもなかったのに。馬鹿みたいだった。
 何度も何度も考えてみたが、やはり消化できなかった。芸能人であること、そして撮影のために滞在していることを、やはり教えてくれるべきだったと思う。一言言ってやりたいという気持ちがむくむくと膨れ上がる。このままでは気持ちが収まらない。
「俺、高校卒業したら東京に行く」
 両隣でわいわい騒いでいた虎杖と釘崎が、ぴたりと黙った。
「このままじゃ気がすまねえ」
「あの、伏黒サン? なんで急に進路の話?」
「あの人に、絶対直接ふざけんなって言ってやる。それには会える距離に住まねえと話になんねえだろ。それにはまず東京だよ。だから、進学して東京に行く」
「あのさ、伏黒。頭に来たのはわからんでもないよ。内緒にされてたのに気がついて、嫌な気持ちになったんだよな? でもだからって急に東京って、さあ……
 虎杖が、恐る恐るといった具合に言葉を繋げる。すると、今度は釘崎が、まるで弟を宥めるかのような口調で言うのだ。
「東京に住んでるからって、外歩けば芸能人に会えるってわけじゃないのよ。私たちの住んでるみたいな小さい町とは話が違うんだから」
「でも、わかんねえだろ。もしかしたら、あの人の所属してる事務所でバイトとか募集あるかもしんねえし」
 そうだ。やってみなくては、いまより近づいてみなくては話にならないのだ。とにかく東京で五条を捕まえて、いま自分の抱える憤りを思い切りぶつけてやりたい。
そういうわけで、恵は東京の大学を目指すことになったのである。


4.

 後から聞いたところによると、高校一年の夏に恵が東京の大学に行くと言い出したとき、虎杖と釘崎はその理由に内心呆れていたらしい。けれど、頑固で思い込んだら一直線な恵の性格を二人が知っていたこともあるし、実際東京で学生生活を送り始めてみれば、芸能人である五条悟にあの大都会で偶然会って文句を言うなんていうキテレツなことにこだわるよりも、恵にだってほかに夢中になれることや将来やりたいことが見つかるだろうと、見守ることにしたのだという。
 そもそも東京に進学すること自体は悪いことじゃないしね、と眉を下げて笑った虎杖のことは「子ども扱いすんな」と小突いておいたが、実際のところ、気心の知れた二人が一緒に上京してくれたことについては、恵も心底ありがたいと思っていた。
 虎杖は祖父と二人暮らし。恵は父と二人暮らし。どちらの家もそう経済的に恵まれているわけではない。恵が予定通り東京の大学に入学を決めると、父は古い友人だという男を呼びつけた。そして「二人で一緒に住めば安く済むし、ガキ二人でもなんとかなんだろ」と言って、彼に頼んで二人の進学先のどちらにも便の良い沿線にアパートを借り、そこに二人を放り込んだのである。釘崎も同じく上京した。いまは恵たちの暮らすアパートからは最寄りが二つほど離れたところにワンルームを借りている。
 あの人が『五条悟(芸能人)』であると知ってから、恵はずっと彼の情報を追っている。かつて考えた通り、暮らしている場所の距離は確実に近づいた。けれど、ただの大学生と飛ぶ鳥を落とす勢いの芸能人では格が違いすぎて話にならない。だから恵は、同じ東京に暮らしているとは言っても、五条のロケ現場を見学に行くとか、五条が出演するバラエティ番組の観覧に申し込むといったことは決してしなかった。
 ただ、五条が出る番組は全部録画して観たし、あの映画に至っては、公開中は地元のエオンシネマに通いつめ、その後円盤が発売されると小遣いをはたいて初回限定版を購入し、それを何度も何度も、それこそ擦り切れるほど観たのである。
 あの十日間、五条は恵にとって都会からやって来たただの青年だった。動物が好きな話とか学校の友達の話のようなさもない話を聞いて笑ってくれ、恵も五条のする友達の話に大笑いした。年上なのは知っていたけれど、でもあのとき、ふたりは確かに同質の存在だった気がする。
 けれど、画面の向こうに見る五条悟は、恵が知る彼とはまったくの別人だった。生き馬の目を抜くと言われる(らしい)芸能界で生きているのだ。きっとものすごく努力しているに違いない。そう思えばもっと五条のことを知りたくて、気づけばプロフィールを読みに事務所のサイトにアクセスばかりしている。
 仕入れた知識によると、五条のデビューはあの映画よりも前なのだそうだ。ただし、大きな仕事はあれが初めてだったらしい。父親、母親、叔父、いとこ。祖父も大叔父も芸能界に縁のある人たちで、五条家と言えば芸能一家で有名なのだそうだ。だから、あの映画にキャスティングされた当時は、親の七光りかと随分揶揄されたらしい。そんな状況もあって、彼は随分悔しい思いをしたようだ。
 努力して、努力して、努力して、そして、彼は階段を昇った。五条悟は、いまや押しも押されぬトップスターである。テレビを付けても街を歩いても、コマーシャル、ポスター、主演ドラマ、雑誌の表紙。いまでは五条悟の顔を見ないほうが難しいほどで、日本中にあの美しい瞳が氾濫している。
 ところで、東京という街は本当に手あたり次第なのだな、というのが恵が東京に暮らし始めて思ったことである。というのも、道を歩いているだけでやたらとスカウトの声がかかるからだ。
「なんで私じゃなくてアンタなのよ」
 そう口を尖らせるのは釘崎だが、恵だって頼んで声をかけてもらっているわけではない。なによりそれに応えるつもりは皆無なので、正直言うと面倒極まりないとすら思っている。
「せっかくなら、アンタも芸能人になっちゃえばいいんじゃないの?」
 五条悟にも会う確率高くなるわよ。釘崎はよくそう言うのだが、それにはどうしても頷けないでいる。
「そういうために東京に来たんじゃねえんだよ」
 自分で言うのもなんだけれど、いい友達に恵まれた。二人が恵のことを心配しているのはよくわかっていて、実際二人がこっそり恵のことで話し合っていたことも知っている。
「伏黒さ、五条悟との思い出が大切すぎんだろね。なんかそっから視線外せなくって、自分の将来のこと後回しにしてる気がする」
「それなのよ。ありっこないけどもし本当に会えたとしてよ? あっちがアイツのこと覚えてなかったらどうすんのよ。ていうか、たった十日のことでしょ? 覚えてろってほうが難しいと思うんだけど」
「んー、伏黒が傷つくの見たくねえなあ! いや、地元に帰るのがダメとは言わないけどさ……、俺ら、こっち来るとき一緒に来たみたいにはもうついてってやれねえじゃん?」
 二人の心配はもっともだな、と恵は思った。仮に五条に会えたとして、自分はそれからどうしたいんだろうか。五条が恵のことを覚えていたら文句を言って、覚えていなくても文句を言って、――それから? 自分でも、実はよくわかっていない。
 芸能人である五条の情報を追い始めたことがきっかけで、たくさんの映画やドラマを観るようになった。本さえあればそれでよかった、五条と出会う前の恵が知ったら、きっと死ぬほど驚くに違いない。
あの、たった十日間が恵を変えたのだ。いま恵が知っているのはそれだけだ。


5.

「おっそい!」
 集合場所であるファミレスに駆け込むと、奥のテーブルから釘崎が声を上げた。虎杖ももう私服に着替え、こちらに手を振っている。この店は虎杖のバイト先でもあって、仕事終わりのタイミングを見計らって恵と釘崎が集まるのだ。
 最初はいくら気心の知れた釘崎とはいえ男の部屋に女子を呼ぶのはまずかろうという気遣いから始まった会合場所だった気がする。けれどそうと決めてみればドリンクバーは金欠学生には強い味方であるし、なにより虎杖が従業員用の割引チケットというすごいものを持っているので、それもまたありがたいのである。
「アンタ最近忙しそうね」
 コーラを手にしてようやく落ち着いた恵に、釘崎が言った。
「まあ、ちょっとな」
 恵は、大学二年の夏からダブルスクールを始めている。学校そのものは大学の近くにあるので通うのは大変ではないのだが、純粋にやることが増えた。
「俺は、伏黒に向いてると思うよ、それ」
「それってなに」
「専門学校。ライターの養成スクール」
「ライター?」
「そう。伏黒ってもともと読書家で、サブカルとかにも何気に強いじゃん。映画なんかだって、いまだとワンチャン俺より観てる」
「へえ」
「ちゃんと金が出る記事も書いてるんだぜ」
「は? そうなの? なにそれすごいじゃない! って虎杖、なんでアンタが自慢げなのよ」
釘崎は虎杖にそう突っ込むと、今度は渋い顔で恵を睨んだ。手入れの行き届いた指先が、恵の目の前でテーブルをコツコツと叩く。
「アンタもね、人任せにしないでちゃんと自分の口から言いなさいよ……ってほら! 自分のことでしょ面倒そうな顔すんな!」
 釘崎にぴしりと言われ、恵は眉を寄せて炭酸きつめのコーラを呑み込んだ。
「まあ……、そんなとこ、だ」
 やってみたいと思うことができた。シナリオライターという仕事があるのを知ったのだ。正直言うと、五条のことがきっかけで観続けてきたドラマや映画、舞台の影響は大きいと思う。そういうエンターテインメントに別の角度から関わってみたい。都合のいいことに恵が通う大学の学生はマスコミ志望者が多く、そのせいでライター養成のための専門学校が近くにあったのも、行動を起こすきっかけとしては大きかった。
 虎杖が言っていた「金が出る記事」というのは、その専門学校の講師であり売れっ子のフリーライターでもある九十九由基の口利きで紹介してもらったものである。
 はじめは〆切に間に合わないと言ってきたライターのピンチヒッターだったものの、最近では二回に一回の割合で執筆依頼がもらえるようになっている。映画雑誌の仕事で、公開劇場数は少ないものの良質な映画を紹介する小さなコラム記事だ。これが、恵にとっては大きな励みになっている。
「記事ってどんな記事なの?」
「映画の紹介」
「月刊誌?」
「そう」
「今度見せなさいよ」
「おう、今度な」
 ジャンルにこだわるつもりはなかった。最初から脚本の仕事にありつけるわけがないからだ。好きだ嫌いだとえり好みせずに、とにかく書くチャンスがもらえるならそれでいい。そうして力をつけて、チャンスに備える。そう考えていたところに舞い込んだ初めての仕事が映画雑誌のコラムだったのだから、恵にとってはこの上なくラッキーだった。
「どんな映画が好みかな?」
 レポートを提出した次の週、授業を終えて帰ろうとしていた恵に九十九が尋ねた。
「なんでも観ます。映画も、ドラマも」
「なんでも?」
「はい、なんでも。好きな作品を選んで観ているって意識はないですね」
「ふぅん、なんだか面白いことを言うね。じゃあ君は、なにを考えながら作品を観てるんだい?」
「あまり……、考えたことないですけど……。多分、俺は展開を追ってるんです。盛り上がってから谷底に突き落とされたり、小さな波が何度も繰り返されるうちに大きな波になったり。そういう展開の中にパターンを見出して、整理をしたいというか」
 九十九は胸の前で腕を組みながら恵の話を聞くと、うんと大きく頷いた。
「君は、創作タイプというより分析タイプのようだね。作品一本を見通して、それを図式化しようとしかねない」
「やったらダメなんですか?」
「ダメではないけど、書きたい人種の中では珍しいんじゃないかな。彼等はほら、だいたい創作したがりだから」
 もともと、本を読むのが好きだった。映像作品にのめり込むまでは、活字があれば片っ端から読みたいと思うほどには熱中していた。けれどもある日、自分の中に生まれた気持ちを言葉という共通シグナルに変換し、それを文字という道具で不特定多数に伝えるというルートが自分の頭の中ですっきり通って、ぐんと体温が上がった気がしたのだ。
 生徒の多くが「創作したがり」なのであれば、恵はきっと「分析したがり」であり、「整理したがり」であるのだろう。
「作品を俯瞰で観察できることは、君にとって大きな強みだと思うよ。だから、冒険しなさい。向いていないと思うものも書いてみて。そうだな、君がいまの自分には書けないと感じているものはなんだい?」
「そうっすね……、タレント密着とかですかね。例えば、映画の公開に絡めた主演俳優密着とか」
「やけに具体的に言うね」
 九十九が目を丸くして驚くので、恵はいたずらが成功した子どものような気持になった。
「個人的な思い出によるものです」
「聞いても?」
 そういうわけで、恵は高校一年だったあの初夏の出来事を九十九に話したのだ。映画撮影に来ていた役者をそれと知らず、化石発掘のフィールドワークの大学生だとずっと誤解したままで過ごした十日間。そして、それを本人からではなく地元の電器店に並んだ大画面テレビで知ったこと。猛烈に腹が立ったこと。何とか直接文句を言いたくて、東京の大学に入学したこと。
「変ですか?」
 ニヤリと笑って言ってやれば、九十九は気持ちいいほど大きく笑った。
「いつか五条君が主演するとき、是非密着記事を書いてよ。楽しみにしてる」
「そんな機会が来たらいいと思います、俺も」
「うん、思いっきり頑張るといい。五条君はやっかいな性格で有名だよ」
 やっかいだってなんだって、いいと思った。実際恵はまだ学生だし、ライターの卵でしかない。でも、こんなふうに未来のことを考えるのは楽しかった。五条のことを書く日が本当に来るかと言われたら、それは海辺の砂の中からダイヤモンドを見つけるくらいには可能性の低いことなのかもしれない。それでも五条が生きる世界から比較的近い場所に、自分は居場所を作ろうと思えば作れるのだ。そう思えたことが、恵は素直に嬉しかった。


6.

 パーティなんて名のつくものは、生まれてこのかた誕生日とクリスマスくらいしか知らないのだ。来てみたはいいものの、やはり場違いだという気持ちが拭えなかった。だって、周りにいるのは大人ばかりだ。恵は手の中のソーダのグラスに集中するふりをしながら、居心地悪そうに背中を壁に貼り付けた。
 九十九から、自分の代わりにパーティに行ってこいと言われたのは二週間ばかり前のことだ。出版社というのは新人発掘のために各種の賞を設けているものであるが、今日のパーティは、その表彰式なのである。
九十九が招待されていたのは彼女がここの仕事を長く続けているからだったし、彼女が恵に話を持ってきたのは、今日の受賞作品が既に映像化されることが決まっているからであった。つまり、この会場には書籍と映画、両方の関係者が集っているのだ。
「人脈は大切だよ。いい機会だ、顔と名前を売ってきな」
 太陽のような笑顔で招待状を押し付けてきた九十九を思い出して、恵は唇を突き出した。ただでさえ社交的でない自覚があるくせに、どうして断れなかったのだろう。顔がわかるのは自分がコラムで世話になっている編集部員だけで、それも直接の担当は会場で談笑する人たちに挨拶するのに忙しそうだ。会場に着いたときこそ「伏黒君が知り合っておいて損がない人たちに、あとで紹介するよ」と言ってくれたが、それをあてにしていたらパーティが終わる未来が見えすぎる。恵は死んだ目で会場を見渡した。
 会場の中央にほど近いところで、緊張した面持ちのまま大勢に囲まれているのが今回の受賞者だ。二十五歳で、普段はコンピュータープログラマーとして働いているのだと聞いた。恵と同じく着慣れないスーツをぎこちなく着ているところに親近感を感じるが、もういくらも経たないうちに、彼は時の人となるのだろう。
 受賞したからと言ってすべての作品がヒットするわけではないし、全部が全部、映像化を約束されるわけではない。ただ、映像化されると注目度が上がって書籍は売れるので、書籍化のみにとどまったというおととしの受賞者は、先だって行われたセレモニーで「自分のときとはパーティの華やかさが全然違う」と言って会場の笑いを誘っていた。
「やあ、伏黒」
 ぽんと肩を叩かれてびくっとする。振り向けば、そこにいたのは恵に自分のぶんの招待状を渡してきたはずの九十九だった。
「九十九先生! 用事あったんじゃなかったんですか?」
「うん、早く終わったんだ。それにちょっと面白いことが起こりそうだと思ってね」
「そうっすか」
 存在感のある美女である九十九の登場に、これまで恵には目もくれなかった客たちが一斉にこちらを見る。しまったという顔つきで人をかき分けてやってくるのは恵の担当編集で、恵は少しだけ胸がすく思いだった。
「やあ渡辺君。今年の受賞作、よさそうだ。彼有望だね」
「九十九先生、お疲れ様です。そうなんですよ、ありがたいことです」
「映像化が決まってるんだろ?」
「はい、映画化だと五年ぶりですかね。ここんとこドラマばかりだったんで」
「じゃあ、君んとこの媒体がメインで特集組むのかな」
「そうなりますね、おいおい先生にも伏黒君にも相談させていただこうと思ってます。そう言えば、今日それ絡みでもうすぐゲストが来るんですよ。聞きました?」
「あ、やっぱり噂じゃなかったんだ。実はそれがあるから、少し遅れたけど来たんだよ」
「そう言えば先生はお知合いですもんね。――あ、いらっしゃったかもです」
 そう言った渡辺の声に従って入り口を見た恵はぴしりと固まった。周りに比べて頭ひとつ背の高い男が、会場に到着するなりたくさんの人に囲まれている。目元はサングラスに覆われ、するりとして見える白銀の髪はシャンデリアの光を含んで輝いている。
 ――なんで。
 久しぶりに画面越しではない五条を見た恵が思ったのは、「全然違う」ということだった。かつて田舎の渓谷に撮影に来ていた、ナイーブさを抱えた青年の姿はどこにもない。
 恵まれた体躯を自在に使い、アクションで見せた刑事物。長台詞の長回しが話題となった学園物での教師役。かと思えば、目線と空気感だけで場を支配したと絶賛された時代物。
 五条悟の演技力は本物で、いまとなっては嫉妬からですら親の七光りだなどと言える強心臓はいないのだ。
押しも押されぬトップスターに上り詰めた五条と、ようやくやりたいことが見つかって、ヨチヨチ歩きを始めたばかりの恵。住む世界が、見えているものが違いすぎる。いくら伸ばしたところで、恵の手は彼のところへは届かない。
 ものを知らない田舎の高校生が、勝手に芸能人に裏切られたと腹を立て、再会の暁には文句を言ってやらねばおさまらないとわざわざ上京した。この大都会にいさえすれば、きっといつか会えるはずだと言い募った当時の自分が恥ずかしい。
 そして一番残念なのは、こうしているいまですら、もしかしたら五条は恵のことを覚えていてくれるかもしれないという希望を捨てられずにいることなのだ。何年も前、初めて大きな仕事に向き合って頭の中がパンパンだったろう五条が、たった十日かそこら地元の高校生と話したことを覚えているわけなどないだろうに。
「おーい、こっちだ!」
 どうやら九十九が知り合いを見つけたらしく、どこかに向かって手を振っている。
「由基さんじゃん!」
 嬉しげな声が聞こえ、相手がこちらへやってくる気配に恵は後ずさった。だって、邪魔になったらいけない。ところが九十九は、恵の肩をがしりと掴んだ。指先の赤いマニュキアが、もし逃げたら八つ裂きだと言わんばかりにジャケットに食い込む。
「君がいなくちゃ始まらないだろ」
 耳元で囁く九十九に、ああ、そうかと思った。彼女はきっと、仕事の上で知り合っておくとよさそうな人に恵を紹介してくれるつもりなのだ。けれどいま、まともな受け答えができる自信は皆無だった。もしこの会場に五条が現れさえしなければ、人見知りだとは言えみっともなくない程度の振舞いはできたかもしれないのに。
 要するに、自分はどう頑張ったところでまだ子どもなのだ。こんな大事な場面で自分をコントロールできる気がしないのだから。背伸びをして仕事を貰い、小金をいくら稼いでいるからと言って、結局はモラトリアムな学生のお遊びにすぎない。もちろん自分にはそんなつもりはないけれど、きっと九十九や編集の渡辺から見れば、そう呆れられてしまってもしかたないだろう。五条など、視線に入れることすらしないかもしれない。
「久しぶりだね」
「うん、本当に。あれじゃん、舞台挨拶のときの密着以来じゃない?」
「そんなに会ってなかったか?」
「たぶんね。現場ですれ違ったりしてるから会ってない気はしないけど」
「元気そうでなによりだよ。ご活躍だな」
「ありがとう。でもそれ言ったら由基さんもでしょ」
「嬉しいことだね、お互いに」
「で、その彼は?」
「教え子だよ、なかなか見込みがあってね。それに、君にとってはサプライズでもある」
「え、どういうこと? 僕が喜ぶの?」
「そういうこと。君、私に感謝したほうがいい」
 九十九は自信たっぷりにそう言うと、背を丸めて目立たないようにしていたつもりの恵の肘をぐいと引いた。その拍子にバランスを崩した恵を、男の腕が支える。
「おっと、大丈夫?」
 伏せた視線の先に見えるのは、ピカピカに磨かれた黒い靴の爪先だ。そして次の瞬間、屈むようにしてこちらを覗き込んできた浅い水色の瞳に、恵は固まった。
 ――嘘だろ、五条悟だ。
「噓でしょ、恵だ……
 恵とまったく同じことを呟いた五条が、恵の前で呆然と立ち尽くす。そんな彼になにか言わなくてはと口を開くものの、喉が引き攣って掠れた呻き声しか出ない。
「めぐみ」
「ハ、イ」
「本当にいる……
「います。つーか、あの……、覚えてるんですか?」
「覚えてる。そりゃ覚えてるよ! でも、……でも、びっくりした」
「俺もです」
 黙ってしまった五条にどうしたらいいかわからなくなって、恵はゆっくりと息を吐いた。これは貴重な機会なのだ。今日会えたからと言って、また会えるなんていう保証はどこにもない。
「あの、五条、さん」
「うん」
「俺、いまこっちで大学、通ってます」
「僕は、俳優やってます」
「知ってます。前は知らなかったけど。でも、あとになって知りました。……アンタあのとき、俺に教えてくれなかった」
「うん、そうだったね。ごめんね」
「意地悪ですよ、あんなの。だから俺、アンタにもう一回会いたいって思って……。ずっと、思ってて」
「ありがとう、僕に会いたいって思ってくれてたんだ」
 五条が俯き、髪がパサリと落ちて表情が隠れる。恵は、声が潤みそうなのを叱咤して続けた。
「もし会えたら、文句言ってやるって、ずっと思ってました」
「あはは、そっか。怒らせちゃってたか」
「なんで、教えてくれなかったんですか」
「うーん。僕はさ、あのとき恵がただの『僕』を見てくれてるのがすごく嬉しかったんだよね。だからそのまんま別れたかったの。でもいま、すごく嬉しい」
「俺も、です」
 ずっとずっと、会いたかった。文句を言いたいとかなんだとか、いろいろあっても結局はそこなのだ。あの、ガラスボトルに詰まったような綺麗で大切な十日間を胸に抱き、恵は五条にずっと会いたかったのだ。
 涙が一粒、ぽろりと零れた。それを慌てて手の甲で拭えば、五条は困った顔をして恵の頭に大きな手のひらを置く。
「あの頃より背は伸びたのに、中身は泣き虫になっちゃったの?」
「アンタのせいです」
 そう言ってやると、五条は笑った。それからもう一度「めぐみだ」と噛み締めるように言うと、まるで花が咲いたように笑った。
 橋の上で二人が別れてから、五回目の初夏のことだった。
 ――再会。

fin.