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史加
2025-06-14 22:19:38
7155文字
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原神(鍾タル)
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星の熟れる日を夢見ていた
鍾タル/深淵に落ちる前に夢の中で会ったことのあるふたりの話
※アヤックスが深淵に落ちる前に夢の中でモラクスと出会っていたら、の話
夢の境目は曖昧だ。
綻び合った境界同士が、かすかな縁を辿って繋がってしまうことがある。
「
……
だれ?」
だからモラクスは、自らの手で手入れをして整えている自慢の庭に突如見知らぬ異国のこどもが現れても別段動じることはなかった。腰掛けていた石造りの椅子から立ち上がり、年端もいかないこどもの前へ歩み寄ると、かがんで目の高さを合わせる。色素の薄い肌に瑠璃のようなひとみ、秋に色付く木の葉のような髪色をした少年からは、璃月では嗅ぎ慣れない雪と氷のにおいがした。
おそらく、冬国スネージナヤのこどもだ。寝物語に璃月の童話でも聞かせてもらったのだろうか。夢と夢が繋がって、ここに現れたに違いない。そう冷静に分析していると、ぱちぱちと瞬きを繰り返したおおきなひとみの中に、星のような輝きが生まれる。
「お兄さん、りーゆえ、の人? もしかして
……
仙人?」
期待を滲ませた目で尋ねてくる少年に、モラクスは頷いてやった。
「ああ」
とたん、ぱあっと花開くような笑顔を浮かべた少年が、きゃらきゃらと嬉しそうな声を上げる。
「仙人! 仙人ってほんとうにいるんだ! オヤジが聞かせてくれた話は、ほんとうだったんだ! ねえ、お兄さんの名前は?」
「うん? 名前、名前か
……
」
目の前の子どもにとってはただの一夜の夢だが、モラクスにとってはそうではない。
魔神である己の名を答えるべきか、別の名を伝えるべきか少し迷っていると、少年はふいに、いけないことをしてしまったのに気付いたような顔をする。
「ご、ごめんなさい。名前をたずねるならまずは自分から、だよね。えっと、おれは
……
」
「待て」
どうやら両親にきちんと愛されている、育ちの良いこどものようだ。名乗ろうとした少年の唇にそっと人差し指を押し当てて、モラクスは首を横に振る。
「仙人の前で簡単に自分の名を明かしてはいけない」
「どうして?」
なぜか頬をわずかに赤くした少年がことりと首をかしげた。
「攫えるようになってしまうからだ」
「さらう?」
「お前を家族の元へ帰さず、ここに閉じ込めてしまえるようになる、ということだ。あるいはお前にその気がなくとも、ここに迷い込んで抜け出せなくなってしまう可能性がある。それは嫌だろう?」
モラクスにその気はないが、かといってたまたま夢が繋がってしまっただけの異国のこどもの名を知る訳にはない。名前を知ってしまうと、また縁が繋がりやすくなり、彼が夢に迷い込む可能性があるからだ。
幼いこどもの中には自我の境目が不安定で、仙や妖怪と夢越しに会話したことで夢と現の判断がつかなくなり、自力では目覚めることの出来なくなってしまう者がいる。実際にこの国が魔神戦争のただ中にあった頃、人間を支配しようと考える魔神のひとりがわざとこどもの夢枕に立ち、彼らの意識を攫って閉じ込め、人質とすることで大人たちを屈服させるという事態も起こっていた。モラクス自ら魔神を懲らしめ、彷徨うこどもたちを現実へと導いたことで事なきを得たが、あれは実に恐ろしいことだった。
意図せずして少年の名を知ることでモラクスとの夢に迷い込みやすくなるのは、あまり良いことではない。だから脅すつもりで言ったのだが、少年は特に怖がる様子も見せずにううん、と首を捻る。
「お兄さん
……
あ、いや、仙人さま、って呼んだほうがいいか。仙人さまは、悪いひとじゃないだろ?」
「今はそう見えていても、お前が油断した隙に攫ってしまうかもしれないぞ」
「だってオヤジは言ってたよ。悪いやつはこどもの目を見て話そうとしないって。でも仙人さまはおれの目を見て話してるじゃないか」
悪いひとにはみえないよ、ときっぱり言われて、モラクスはつい閉口してしまった。
なんとまあ、純粋でまっすぐなこどもなのだろうか。仙人だと聞いても物怖じすることなく、好奇心をあらわにし、モラクスの目を見てものを言う。神だと伝えていないから、というのもあるのだろうが、己を帝君と呼び、慕い、祈りを捧げてくる民たちとは異なるひたむきさがまぶしい。
思わず目を細めてモラクスは微笑んだ。微笑み、ますます顔を赤くしたこどもを少しばかり不思議に思いながらも、小さな頭を撫でてやる。丸くてかたちの良い頭だった。
「そうだな
……
俺はお前のような子どもが立派に成長し、自由に生きていく未来を望んでいる。だからお前を囲うのは本意ではない。だがせっかく会えたのだ、何か話をしてやろう」
「えっ!? ほんとう!?」
「ああ。お前が覚えていられるかはわからないが、」
「アヤックス!」
してやったりと、満面の笑みを浮かべるこどもを前にモラクスは絶句した。
耳馴染みのないその音が、両親が彼に与えた最初の祝福で、大切な贈り物であることを本質的に理解してしまったからだ。
「
……
な」
「へへっ、おれの名前だよ! ごめんね仙人さま、でも仙人さまがおれの名前を知っていたらまたここに来れるかもしれないんだろ? おれ、仙人さまの話をたくさん聞いてみたいんだ! だからすぐに追い返さないでよ」
どうやらこどもはモラクスが思っていたよりも頭の回るやんちゃ坊主らしい。
善意で伝えた内容を逆手に取られてしまって、思わず頭を抱えそうになるのをどうにか堪える。魔神であるモラクスとこどもの力量差は言うまでもなく、最悪の場合はモラクスに関する記憶を封印することで繋がった縁をなかったことにするだとか、そういった強硬手段を取ることも出来るのだ。彼の名前を知ってしまった以上、モラクスはこの子が夢に迷い込んだまま家族の元へ帰れなくなってしまわないよう、責任を負うしかない。
それに白い頬を紅潮させて無邪気に笑うこどもは愛らしく、望むとおりに様々な話を聞かせてやっても悪くないかと思ったのだ。
ただそれはそれとして、ひとつ教えてやらなければならないことがある。年長者としてモラクスはひとつ咳払いをすると、アヤックスと名乗った少年のちいさくきれいな形をしたひたいに狙いを定めて。
「
……
アヤックス。たとえ相手が善人に見えたとしても、出会ったばかりの見知らぬ人間に簡単に自分の名を教えては駄目だ」
夢の中だから痛くないのをいいことに、渾身のデコピンを食らわせてやった。
かくしてモラクスは、この冬国の少年アヤックスとたびたび夢の中で出会うことになった。
この頃のモラクスは自らの責務について考え、凡人として過ごす未来の可能性を淡く抱き、本来魔神は必要としない睡眠を取るようになっていた。自慢の庭のある自らの洞天に設えた寝台の上に横たわり、目を閉じて眠りにつく。そうすると時折夢を見るのだが、その夢は決まって庭でアヤックスと出会い、璃月に語り継がれる様々な英雄譚を聞かせてやったり、逆に彼の話を聞いたりして過ごすといったものだった。
「
……
それで、昨日もオヤジと一緒に氷釣りをしたんだ。仙人さまは氷釣り、したことある?」
「ないな。そもそも璃月では湖や海が凍ることはない。それに俺はその、海産物はあまり得意ではなくてな」
「凍らない海! へえ、見てみたいな
……
いつかおれが大きくなって璃月にきたら、一緒に海辺を歩いてくれる? あっ、もしも水の中から魚が飛び跳ねてきても、おれが仙人さまを守ってあげるから安心してよ!」
「ははっ、それは頼もしいな。いいだろう」
「じゃあ約束ね! 指切りげんまん、嘘ついたら氷漬けにさーれる
……
」
アヤックスは約束を好むこどもだった。モラクスの話を聞き、璃月という見知らぬ国の風景や美食、祭事に期待を抱いては、いつか大きくなったら一緒に見に行きたいだの、一緒に食べてみたいだのと言って指切りをしたがる。
あくまでこれは幼いこどもの見る夢であり、モラクスとは違って恐るべき速さで成長していくこの子が果たしていつまで夢の内容を覚えていられるのかも、この摩訶不思議な夢を信じ続けていられるのかもわからない。だからきっと叶う日はこないだろうという諦観を抱きながらも、純粋なこどもがそうやってモラクスの話を聞き、愛する国に興味を持ってくれるのが嬉しく、たくさんの約束を交わした。
歳月とともに、夢の中に現れるアヤックスも少しずつ成長していく。最初は膝の上に乗せても軽かった身体がだんだんと重みを増していくのも喜ばしいことだった。極寒の地であるスネージナヤは、地域によっては寒波や雪崩の影響で長期に渡って物流が滞り、著しい食糧難に見舞われた集落で痩せ細ったこどもが凍死するといった悲劇が起こることもあると聞く。だからアヤックスがそういった不幸に遭うことなく健やかに成長し、徐々に大人に近付いていっているという事実は、モラクスの胸に安堵をもたらした。
「聞いてくれよ、仙人さま。おれは明日、家を出て冒険をすることにしたんだ!」
興奮と期待で目をきらきらと輝かせた少年がそう言ったのは、ふたりが出会って四年が経った頃のことだ。
「冒険?」
モラクスが尋ねると、アヤックスは大きく頷く。
「ああ、冒険さ! 家にいても毎日退屈でつまらないからね」
ただ、と彼はほんの少しだけ緊張した面持ちでモラクスを見つめる。曇りのない瑠璃のひとみにはモラクスの知らない、燻ぶるような熱がこもっていた。
「もしかしたら、しばらくは会いに来れなくなってしまうかもしれない。だけどこれはおれが早く大人になるためにも大事なことなんだ。おれは仙人さまと約束したことを忘れたりしないし、世界を冒険して、もっと力をつけて、強くなる。だから
……
、」
瑠璃のひとみが躊躇うように揺れるのをモラクスは初めて見た。けれどすぐに真っ直ぐな輝きを宿したそれが、黄金を射抜く。
「おれがもっと大きくなったら、お嫁さんになってよ!」
相変わらず日に焼けていない頬を赤らめて、よく通る大きな声で言ったアヤックスを前に、モラクスはきょとんとしてしまった。
お嫁さん。
あろうことか目の前の少年は、モラクスに求婚したのだ。六千年の時を生きる魔神であり、かの戦争では武神とも謳われたあの、モラクスに!
モラクスは未だに自らの名をアヤックスに明かしていないし、己こそが璃月を治める岩神であるとも伝えていない。だけどそれにしたって、仙人と人間の違いなど今まで語って聞かせてきた物語から十分に理解しているだろうに、彼はいつの間にやらモラクスに対して並々ならぬ感情を育んでいたのである。
完全に虚をつかれたモラクスだったが、いとけないこどもの必死な求婚を一笑に付すことなど出来なかった。いつか忘れ去られる約束だとしても、異国の少年がモラクスに向けるひたむきな言葉も、想いも、心地の良いものだからだ。それはまるで暖炉の火のように揺らめいて、じりじりと胸を焦がし、奥深くのやわいところをあたたかくするものだった。
「
……
アヤックス」
緊張で肩を強ばらせたままこちらを見つめる少年の名を呼んで、モラクスは頬を綻ばせる。
「いつかお前が本当に璃月にやって来たら、答えを教えよう」
幼いながらに冒険に身を投じると言ったこの子はもう二度とモラクスの夢に現れないだろうという予感があった。だからせめてこの子が極寒の地を生き延び、自由に世界へと羽ばたいていくことを祈って、その額に口付けを落とす。
「息災でな」
顔を真っ赤にした少年は、出会った時と同じように星の輝きをひとみに宿して、うん、と元気に頷いた。
それきり、モラクスの夢に少年が現れることはなかった。
押しては寄せる波が、白い砂を攫っていく。
きめ細かな砂浜にはそこかしこに星螺が埋もれており、小さなカニが時折忙しなく横切っていく。
璃月の海辺は穏やかだ。凍ることを知らない海は規則正しく波の音を刻んでいる。心地の良い自然の音に耳を傾けていると、ぱしゃん、と跳ねる水の音がそれを打ち消した。
咄嗟にシールドを張ると、やんちゃ坊主の放った刺客が呆気なく結晶となって足元に落ちる。小さな鯨だった。
魚が飛び跳ねてきたら守ってくれると言ったくせに、自ら襲いかかる側になるなんてひどいやつだ。だがまあ、幼い頃の夢などそんなものだろう。そう思いながら、鍾離は波打ち際に立つ青年を見る。
「ちっ、全然動じないな」
「はは」
「もっとでかいやつにすればよかった」
「だとしても、お前では俺に傷ひとつつけられないぞ」
「そんなのやってみないとわからないだろ」
「では、やってみるか?」
すう、と細めたひとみで冬国より訪れた武人を見定める。光を宿すことのなくなった瑠璃色は静かに伏せられた。
「
……
やらないよ。ここじゃあ人目につく可能性がある。どっかの誰かさんのせいで今じゃファデュイは白い目で見られて大変なんだ。不用意に暴れて噂になっても面倒だしね」
やれやれと肩を竦めてみせる青年に、鍾離はそうか、とだけ返して海へと視線を向けた。
幼い少年は立派な大人どころか、ファデュイ執行官というかの国の中枢組織の幹部となり、公子と名を変えて璃月へやって来た。最後に夢で会った後、彼がどのような人生を辿って今に行き着いたのか、その詳細を鍾離は知らない。ただ彼の身に付けている武芸や纏う雰囲気、そしてかつての少年にはなかった闘争欲の存在を見るに、モラクスの夢よりも遥かに厄介な場所に迷い込んだのだろう。
魔神との縁が彼の人生を狂わせるかもしれないと線引きをしていたのがかえって仇になったのかもしれない。あのとき岩の神である己との確固たる縁を結んでいれば、木の根の隙間に迷い込むことなどなかっただろうから。
そうは思わなかったと言えば嘘になるくらいに、鍾離はかつての少年のひとみから星のような輝きが消えたことを惜しく思っている。
ぱしゃん、とまた水の跳ねる音がする。
「先生!」
懲りずに追撃か、と思った時、水飛沫が宙を舞った。
美しい青が陽光を反射して煌めく。鮮やかな太刀筋がやけにゆっくりと鍾離の目の前に描かれて、ぼとり、と何か茶色い影が落ちる。
おや、と視線を音のした方へ向けると、そこには真っ二つに両断されたトゲウオの死体が転がっていた。
「バトルトゲウオか。確かこの時期は繁殖期だったな。求愛中の彼らは攻撃性が増していて、風や水のわずかな揺らぎにも反応すると聞くが
……
ふむ、公子殿の水元素にでも触れたか」
「先生って何にでも詳しいな
……
けど、それならこいつには少し悪いことをしたね。あんたに向かっていったのは不思議だけど。あ、さっきシールドを張ったから、それにも反応したとか?」
「ふむ、それも一理あるな」
それにしても海辺から陸地にいる人間へと向かってくるとはなんとまあ活きの良いことか。あまりここには長居しないほうがいいだろうと伝えると、そうだね、と頷いたタルタリヤが手に握っていた水剣を霧散させ、街へと向かって歩き出す。
けれど数歩進んだところで、不意にその足が止まった。
「公子殿?」
微動だにしなくなった青年の背に声をかけると、手套に覆われた手がぎゅっと握り締められる。
「
……
あのさ、鍾離先生」
緊張を滲ませた固い声だった。普段は飄々としていて、役者のようにものを話す男にしては珍しい声だ。
静かに振り返ったタルタリヤのひとみが、真っ直ぐと鍾離を見つめる。いつか見た、熱のこもっている目だ。
反故にされたと思った約束がふと、脳裡をよぎる。鍾離へ向かって勢いよく飛び跳ねた魚と、シールドを展開するよりも早く煌めいたタルタリヤの一閃。まさか、とわずかな期待が胸の奥から滲み出してくるのを抑える術を鍾離はたくさん持っているはずなのに、青のまなざしに射抜かれてしまって動けない。
「あんたのことだ、全部覚えてるんだろう? 俺だって、守ると誓った約束を忘れたりなんかしていない」
紡がれた言葉を嘘だと否定するような残酷な真似など、鍾離には出来なかった。
「世界を冒険した訳じゃないけど、俺はあの頃よりもずっと強くなった。あんたの足元には及ばないかもしれないけど、見下していられるのも今のうちだけさ。いつか必ずこの世界を征服して、あんたにだって勝ってみせる」
夢で幾度となく会ったあの日の少年が、鍾離と同じくらいの背丈になり、たくましい戦士となって、目の前に立っている。あの頃と変わらない、色素の薄い肌を赤く染めながらも、真摯に鍾離を見つめている。
心臓が脈を打つ音が、やけに大きく聞こえた。胸の奥がじりじりと焦がされていって、熱い。
「俺はこんなに大きくなったよ、仙人様
……
いや、モラクス? だから、お嫁さんになってくれるよね」
揶揄いの色などひとつも浮かんでいない顔で、タルタリヤは
――
否、アヤックスはそう言った。
あの日のこどもが立派に成長したことを喜ばしく思う気持ちを遥かに越えて胸の奥を焼き焦がす、この感情を何と呼ぶべきなのだろう。
その答えを、鍾離は
――
モラクスは確かめなければならない。
モラクスとてあの約束を交わした時から、もし約束の果たされる日が訪れたら自分が何と伝えるのかを決めているのだから。
凛々しくなった顔立ちにかつての甘さを残す、未だ成長の過程にある青年の手を掬う。
「俺を娶れるものなら、娶ってみるといい。ただしもう、最初の時のように忠告はしてやれないぞ」
手の甲に恭しく口付けて黄金のひとみを鋭く光らせると、上等だ、と青年は嬉しそうに笑った。
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