傀暮(明日方舟)/劇団時代の妄想/※公式漫画準拠、名前注意/眠れないルシアンくんがアビスお兄さんのベッドで勝手に添い寝して面倒見の良さとか甘えとかについて考える話
暗闇の中でルシアンは瞼をあげた。ぱち、と瞬く金ぴかの目は完全に醒めている。ベッドの中でしばらくじっと耳をすましていると、鼓膜にきーんという静寂が反響した。徐々に聴覚が同室の子どもたちの寝息やかすかな衣擦れの音を拾い出す。みんな、すっかり眠りに落ちているらしい。夜のしじまの中で目覚めているのはルシアンただひとり。
朝の気配はまだ遠いが、日の明けきらないうちに目覚めの号令がかかるだろう。劇団の見習いたちは移動劇場の清掃や洗濯、小道具の手入れに食事の支度など、演技の訓練のほかこなさなければならないことが山ほどあるのだ。朝から晩まで働き、学び、子どもたちはいつもへとへとで与えられた休息の時間に齧り付くように眠るのだった。
ルシアンも他の子どもと同じ、疲労を感じないわけはなかった。いかに才能を見出され評価されていようとも、彼の身体は他よりすこし器用なだけでまだ発展途中なのだ。質素だが栄養のある食事で腹を満たし、消灯とともにベッドに潜り込んだときは頭の中に靄がかかるような眠気を感じていたはずなのに、今もその欠片があるような気はするが、とても瞼を閉じていられる気分ではなくなってしまった。
さてどうしようか、とルシアンは天井を見上げて思案する。このまま、まんじりともせず起床時間になっても、たぶん仕事や稽古に支障はさほどない。ただ時間がもったいない気がした。どこか場所を見つけて、剣の振りでも練習しようか。歌は皆を起こしたと怒られるかもしれない。
ちっとも眠気を誘わないシーツから背中を剥がし、起き上がる。ベッドの軋みが大きく鳴らないよう気をつけて、ルシアンは二段ベッドの梯子へ足をおろした。キッ、キッ、とかすかな音を七つ立て、ひんやりと無機質な床に足裏をつけた。靴を履こうとかがんだとき、向かいのベッドの下段で眠る少年の顔が視界に入る。影の中でもぼんやりと浮かび上がる白いシルエット。銀の髪を枕に散らばせて、白い頬を晒すフィディアはアビスという。
彼は面倒見のとてもよい少年で、周囲から浮きがちなルシアンのことも何くれとなく気にかけて声をかけたり、隣で食事をとったりするので人懐っこいわけではないルシアンも信頼を寄せている。この劇団というあたらしいルシアンの家族の中で、年若いながらもしっかり者の兄のような振る舞いをする彼に、幼い見習いたちはよくひっついたり泣きついたりしている。
そうだ、とルシアンはふいに思いついた。確か先週くらいの夜に見かけた光景だ。消灯を過ぎてから、故郷を思い出したとかでしくしくと泣き出した小さな子がいたのだ。その時、家族を恋しがってなかなか寝付かないその子を、慰めていたのもアビスだった。そんなことはしょっちゅうある。ずっとアビスの服にしがみついてぐずぐずと鼻を啜り、優しい年長者が背中や頭を撫でても落ち着かずに結局アビスのベッドまでその子は離れなかった。アビスはちっとも気にした風もなく、当然のように毛布を捲って中へ招くのを、自分のベッドからルシアンは眺めていたのだった。
アビスにすっぽり抱かれてようやく眠る幼いフェリーン。今晩はみんな良い子で眠っているとみえ、アビスのベッドには彼一人だった。投げ出された腕は空っぽで、くったりとシーツの上で脱力している。軋む床を宥めるようにそっと歩みよったルシアンは屈んでベッドの柵に手をつき、眠るフィディアの顔を近くで覗き込んだ。夜目のきくフェリーンには、白皙の少年の睫毛の生え際も、瞼にうっすら透ける血管さえ見えるようだった。
「…………」
もう少し、身を乗り出す。アビスは深く眠っている。寝顔は少年らしくあどけないが、ルシアンの目にはその彼の表情の乏しさが目についた。アビスは普段から、さほど感情の起伏を見せない。けれどその顔にはいつも何らかの表情が浮かんでいるのだと、ルシアンは今になって気がついた。稽古に打ち込む真剣な顔、見習い同士で冗談を言って笑う顔、ルシアンが同じ見習いからつまらない意地悪をされるのに怒ってみせる顔、泣き出した子どもの背を撫でる柔和な顔。ルシアンにとって、愛情や喜怒哀楽は演技の中にあるものだが、どうやらアビスは違うみたいだった。彼はいつも誰かのために表情を纏っているが、眠っている時ばかりはそれが剥がれ落ちるのだろう。
ベッドの下段にほとんど頭を突っ込むと、周りの音が少しだけ遠くなる。その分近くなるのは、アビスのたてるささやかな寝息くらいだった。すう、すう、一定の間隔で続くそれを、ルシアンはなぜだかもっと近くで聞きたいと思った。ベッドの柵に足をかける。乗り越えてシーツに膝をつけると、キシ、と小さくベッドが鳴く。侵入者の訪れをベッドの持ち主に伝えようと健気に鳴くのだが、あいにくその主人は健やかに眠りの中に落ちている。するりと軽い身のこなしで全身をベッドに滑り込ませると、ルシアンは音も立てずアビスの毛布の中まで潜り込んだ。冷えた空気が隙間から入ったからか、アビスがほとんど寝息で何ごとか発して身じろぐ。向きを変えた顔と投げ出した腕の中、薄い肩に頭をつけたルシアンはすっかりフィディアの懐に収まってしまう。
体格にそう差のない二人なので、そうするとルシアンの足先がしぜんとベッドの端にくっつくことになる。アビスの体温が届かないシーツの隅っこはひんやりとしていた。はんたいに、枕にしている肩のあたりは、心臓の鼓動が近くで響くほどあたたかい。眠っているから少し遅い、アビスの心臓の音を聞いた。こめかみのあたりには穏やかな寝息が降ってくる。稽古で使うメトロノームのように絶え間なく、それよりも少しだけ不規則な音の重なりを、ルシアンはじっと耳を澄まして聴いている。もう鼓膜に静寂が刺さることもなかった。
少年二人にはやや狭いベッドの中には、一人の寝息と一人の呼吸、ふたりぶんの鼓動だけが満ちている。だんだん、ルシアンの頭の奥の方に引っ込んでいた眠気の端が見えてきた気がした。アビスと並んで眠るつもりはなかったけれど、しっくり収まった毛布の中から抜け出すのも億劫で、ルシアンは試しに目を閉じてみる。ひとつ深めに呼吸をすると、吐息が首にかかったのかシャレムがまた小さく唸った。今度は少しだけ意識が浮上したのか寝返りを打とうとしたものの、ルシアンの体が邪魔だったらしく、失敗していた。その拍子に、ルシアンが下敷きにしたのと反対の腕が体の上を通って、ルシアンはまるでアビスに抱きかかえられるような形になる。あの泣きじゃくっていた子どもみたいだ、とルシアンがぼんやり考えたのとほとんど同時に、アビスの方も夢うつつに似たような勘違いをしたのか、ルシアンに被さった腕をもぞもぞと動かした。後ろ頭に手のひらを感じる。頭蓋の丸みに沿うように、アビスの手のひらがルシアンの頭を撫でては行き来した。あの小さい子にしていたよりも少し雑なように感じるのは、彼がまだ半分以上眠りに落ちているからだろう。指先が髪を掻き分けて、頭のてっぺんにたどりつくとフェリーンの耳をぺたんと折るように撫で付ける。ルシアンの体がささやかに揺れたが、それは不快感のせいではなかった。尻尾が短くて良かったと思う。ほかのフェリーンのように長い尻尾だったら、今頃毛布を跳ね飛ばしていたかもしれない。
アビスが目醒めた様子はない。寝惚けているあいだに許可もなく懐に入ってきた相手にも、彼はこんな風にやさしい手をくれるらしい。ルシアンは眠気がやってくるまでの手遊びのように、アビスの人となりに思いを馳せた。面倒見がよくて、誰にでも公平に優しく、人のために怒りを見せることができる少年。劇団にはフェリーンが多い。それ以外の種族がいないではないのだが、フィディアとなるとほとんど見かけることがない。アビスはそんな環境でも順応し、違和感なく周囲に溶け込んで生活している。それを彼の気質だとルシアンは思うけれど、それだけではないのかもしれない。誰かへの親切も優しさも、その人の気質といえばそれまでだけれど、見方を変えればそれは何も持たない者が生きるために支払える数少ない対価になり得る。故郷や家族を失い、同胞もおらず孤立しがちな場所で少しでも善く生きるための、これがアビスの生存戦略なのかもしれない、とルシアンは思った。
とはいえ、アビスの誠実さと懐の深さは決して紛い物ではないとも思う。それは穏やかな手つきから明白だった。フェリーンの親がこどもにするように、ルシアンの耳はアビスの指でぺたんとたたまれ、それが通り過ぎるとぴょこんと立つ。また撫でつけられてぺたん、通り過ぎてはぴょこん、と繰り返しているうち、ルシアンは形状し難いものが体の真ん中あたりで膨らんでいくのを感じていた。不快感ではないけれど、ほんのちょっと似ている。あったかいような、熱いような、甘いようなほろ苦いような。味覚や触覚のようにも思えるけれど、姿形のないものが鳩尾のあたりで静かに騒いでいる。何だろう、と思いながらルシアンは、不思議なその感覚に身を任せて目を瞑った。
彼は忘れているけれど、それはもう朧げになりつつある昔に、うんと幼かったルシアンを撫でる親の手に抱いた郷愁だった。無条件で無心な愛情、世界で最も金のかからない愛情表現。そんなものをルシアン少年はかつて持っていて、そして天災と洪水が全てを吹き飛ばし、押し流してしまった。ルシアンが演技の中に見出した愛情や友情が今ここにあることを、芸術の子になってしまった彼はもう気づけない。未知の感覚の正体が年相応の甘えだというのを彼はわからないでいるので、腹のあたりでむずむずとするのを持て余してアビスのシャツの胸元に額を擦り付けて誤魔化した。
体温の低い傾向のフィディアも、少年の盛りにあればぽかぽかだ。そこに同じ年頃のフェリーンがひっついているのだから、毛布の中は二人分の体温でぬくぬくを通り越して暑いほどだった。擦り寄った胸元がどこかしっとりと湿度を含んでいる気がして、ルシアンは顔を傾ける。質素なシャツに包まれた隙間に、アビスの白くてやわらかそうな肌が覗いている。まだ細い鎖骨に沿って膚がぴんと張っていた。薄く寝汗が滲んでいるのか、木箱の片隅に残った林檎に似た匂いがルシアンの鼻先を掠めた。耳を撫でる指先が微睡みによそ見して、うちがわの毛並みの薄いところを指が擦った。また鳩尾が騒がしくなる。よくわからない衝動のまま、ルシアンは少年のほのかに汗ばんだ首元へ鼻を突っ込むようにして擦り寄った。近づいたところでうっかり、アビスの肌に唇が触れる。予想通りしっとりした感触に本能が刺激されて、ほとんど無意識に舌を出してぴと、とちいさくそこを舐る。ほの甘い匂いに反して、舌先に微かな塩気が触れた。
「……? …………?」
どうして自分がそうしたのか、ルシアンにはわからなかった。ただまた本能が「齧りたい」ととんでもないことを言い出して、それがとんでもないことだというのだけ分かったので、代わりにアビスのシャツの襟を噛んでその訳のわからない衝動をやり過ごした。息を吸うと、若い少年の甘酸っぱい寝汗の匂いがする。メトロノームみたいに単調なアビスの鼓動と、少しテンポのずれたルシアンの鼓動の音。すうすうと穏やかな寝息と、ふうふうとやや上擦った呼吸と。耳を撫でる手はやまない。鳩尾の中で蜜蜂が騒いでいる。いつの間にか、二人の少年の足が互い違いに折り重なっていた。毛布の中はあたたかい。
やがてルシアンは気づかないうちに眠りに落ちて、翌朝、自分のベッドを見下ろして大声をあげるアビスの声が耳を劈くまで、白パンを齧る夢を見ていた。
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