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2025-06-13 22:37:13
2390文字
Public DC
 

敢高掌編2


 しとしとと降る雨音は気分をリラックスさせる効果があるという。じめじめとした不快な湿気も快適な空調の下では感じることは無く、高明は白く清潔な印象を持つ待合室で持参した文庫本を開いていた。
 今読んでいるのは犯罪心理学の新書で、実際に起こった少年犯罪を例に挙げ人間が犯罪に至ってしまうまでの心理を丁寧に解説している。話題は哲学にまで及んでおり、なかなかに面白い一冊に出会えた。書店の新刊コーナーに平積みにされていた本を何気なく手に取ったのだが、当たりだったらしい。同じ著者の関連作品を追ってみるのも良いかもしれない。
「悪い、待たせた」
 頭上から降って来た声に思考の海に沈んでいた高明は顔を上げる。ジャージのズボンにTシャツというラフな格好の敢助は、テーブルを挟んで高明の前の席に座って持参した紙コップからお茶を飲んだ。
 いえ、と言いながら高明は読んでいた本に栞を挟む。いつの間にか半分以上を読み終えていて、腕時計を見るとこの席に座ってから二時間ほどが経過していた。
「リハビリの経過は順調ですか?」
 すっかりぬるくなってしまった紙コップの中の紅茶を飲む。香りも無く安っぽい味だ。だが、病院の待合室で自販機の紅茶を飲んでいるのだからそんなものだろう。
 週に一度のリハビリを終えた敢助は首にかけたタオルで首元の汗を拭いながら、細かい雨の降る窓の外を見ている。同じように高明も視線をやると、四階にある待合室の窓からは灰色に煙った街並みが見えた。
「無茶をしすぎなんですよ、君は」
 敢助は眉間に深い皺を作り、高明を睨む。
「何も言ってねーだろ」
「最近の君を見ていればわかります」
 チッと舌打ちをした敢助は、苛立ったように頭を掻いてため息を零した。
「ただの関節痛だ。股関節がちょっとばかし炎症を起こしてるってよ」
「そうですか……帰ってからは大人しくしていてくださいね」
「リハビリで筋肉痛やら関節痛やらはつきものだろうが。別に」
「専門家に言われたのでしょう?」
 ぐ、と敢助が言葉に詰まって黙り込む。もうじき杖を外せるだろう、と言われたのが一ヶ月ほど前のことだ。それ以来、彼が過剰なほどに脚を動かしリハビリをしていることを高明は良く知っていた。
「無茶をしては治るものも」
「お前にはわかんねーよ、このイラつきは」
 高明の言葉に被せるようにして放たれた言葉は鋭かった。彼の気持ちが、酷く苛立っているのがわかる。恐らく梅雨のせいもあるのだろう。気圧や気温の変化が激しいこの季節は、古傷が痛む。高明が冬に負った太腿に残る銃創も昨日の夜から引きつった小さな痛みをもたらしているくらいだ。顔にも脚にも、雪崩による大きな傷を体中に負っている敢助には辛い季節に違いない。
……悪い、八つ当たりだ」
 ため息と共に吐き出された小さな声。わかっている、という意味を込めて頷くと敢助が自嘲気味に唇を歪めた。
「前まで自由に動かせてた体が、咄嗟の場面で動いてくれねーのはなかなか堪える」
 大和敢助は、十ヶ月前に雪崩に巻き込まれるまでは子どもの頃から大きな病気も怪我も殆ど無い、体力自慢の男だった。真っ先に現場に駆け付け、犯人を追ってその立派な体躯でどんな凶悪事件にも怯むことが無かった男が、思うように体を動かせず視界の半分までも奪われてしまったのだから、彼の焦燥と苛立ちは相当なものだろう。
 眼球を失った左目はもう、どうすることも出来ない。せめて脚だけは早く治したい、と過剰なリハビリを続けてしまう気持ちは高明も分からないでは無かった。
「帰りましょうか。薬局に寄ったら、どこかでお昼にしましょう」
……いや、弁当でも買って帰るわ」
 わかりました、と言って高明は二人分の紙コップをゴミ箱に捨てる。リハビリに通う敢助の運転手を務めるのももはや両手の指の数でも足りなくなってきたため、薬局に寄り処方された鎮痛剤を受け取ってからどこかで昼食にする流れが定番コースとなっていたが、今日は外で食べる気分では無いようだ。
 杖を使い歩いてくる敢助の動きがいつもよりぎこちない。療法士によってじっくりと動かされたため関節と筋肉が痛むのだろう。半年間も眠っていた体は、以前より細くなっている。雪崩の際に負った傷のせいだけでなく、人は半年も眠っていればどれだけ屈強な男であっても筋肉はどんどん落ちていくものだ。生命力に満ち溢れていた敢助とて、例外ではない。筋肉をつけるため、痛みが伴うのは彼の言う通りリハビリにはつきものではあるが、それが大きなストレスになるのも確かなはずだ。
 だが、脚は治らないわけでは無い。こればかりは、敢助自身が頑張る他無い事であり、高明はこうして送り迎えすることくらいしか出来ない。
 受付を済ませて外に出ると、本格的に雨が降り出していた。傘を広げると敢助に少し待っているように言って駐車場に向かう。
高明コウメイ
 不意に、背中に声がかかった。振り返ると、敢助の右目が真っすぐに高明を見ている。
……ありがとうな」
 思いもかけない言葉に、高明は驚いて目を丸くする。だが、すぐに、ああこれは思いのほか参っている顔だなと思った。薬を受け取ったらすぐに飲ませた方が良さそうだ。まったく、相変わらずわかりやすいのかわかりにくいのか……
「聞こえなかったので、もう一度言ってください」
 唇に笑みを乗せてそう言うと、敢助はすぐに眉尻を吊り上げてさっさと行けというジェスチャーをする。ざあざあと激しく降る雨が、アスファルトを打ち付けて白い水煙が立っている。
 高明はスラックスの裾を濡らしながら小走りで駐車場に向かう。こうして彼を病院に送迎するのもきっと、あと数回に違いない。
 この時間を、高明は愛おしく思っている。
 きっとそれを、敢助は知らないだろう。