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瀬一
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雷鉢
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こわれやすいものを腕に抱き
足手まといになったらどうか捨てていってくれと頼む三郎と、どうか捨てさせないでくれと願う雷蔵の話。
目蓋を閉ざしてやった、やさしい手をおぼえている。
あれは確か、年次が上がる直前のことだったように思う。
「
……
いくらさあ、今期最後の実習とはいえ」
「ああ」
「しんがりに混じって敗走しろだなんて」
「酷なものだ」
「ほんとうにね」
噛みしめた唇の端から、白い息がこぼれては消えてゆく。
敵に発見される恐れがあるそれを極力立てぬよう、ひとすくいの雪を口に含みながらひそり矢羽音を発した三郎に、雷蔵もまた頷いて肩をすくめてみせた。爪先の感覚も鈍い脚を踏み出すたび、ざくりざくりとふたりの足許で雪が鳴る。
見はるかす限り、視界は白銀に閉ざされていた。吹雪かぬうちを狙っての雪中行軍とはいえ、降りつもる氷雪のせいで、部隊の歩みは遅々としたものになる。おまけに足裏からひたして芯まで凍み透る厳しい寒さが、否応もなく兵たちの体力を奪っていった。
伏せた目で雷蔵がちらと窺えば、彼らの疲労しきった横顔には、いつ敵軍が迫るとも知れない恐怖と不安が色濃く滲んでいる。
(
……
厳しいなあ)
このなかの何人が生き残ることだろう。
雑兵の一団が進んだ雪の上は、泥以外にもところどころがくすんだ赤で汚れていた。その浅深に差はあれど、ほとんどの者がどこかしら手傷を負っている状態だった。一刻前からまた降りはじめた雪だけが、嘘のように白く、深く、静かに彼らの足跡を覆い隠してゆく。
四半刻の休憩を挟み、もう半刻も進んだ頃だったろうか。
ふいに、さきに行っててくれ、と耳打ちして、三郎が隊列の後方へと駆けていった。肩越しに振り返れば、最後尾のさらにその後ろ、特に遅れている人影がある。
肩を貸し合いながらなんとか進むものの、その歩みはいずれも鈍く、明らかに隊との差が開いてしまっている。どうやら、うち一人が深手を負っているらしかった。
「さきに、いけ
……
すぐ、おいつく、から
……
」
苦しげな呼吸。かすれた声。止血が追いつかず、その胸元から口許から、新たな血があふれては落ちる。
彼らのもとまでたどりつき、傷口を見てとった三郎は、無言でちいさく、しかしはっきりと首を横に振った。途端に肩を貸していた青年が目を見はる。
「捨て置けって言うのか
……
!」
噛みついた声とその顔つきは意外にも若かった。まだ少年とも言える年頃だろう。ひょっとしたら同い年くらいかもしれない。
「このままふたり揃って死ぬつもりか」
応える三郎の声は、いっそ敵軍の大将かと思うほどに冷徹だった。聞くものを芯から凍えさせる冬の
北風
ならい
か凍て風のようだった。なによりそこに含まれるまぎれもない透徹した真実の響きに、少年の眸がまどうように揺れる。
しまいには焦れた三郎が少年の身体を無理やり引き剥がし、その尻を蹴り飛ばして寄こした。顔中をくしゃくしゃに歪めた少年が、それでも拳を固く握って走り出すのをみとめて、雷蔵はそっと詰めていた息を吐く。ほどなく三郎も追いついてくるだろう。そう思って前に向き直ろうとした瞬間、雷蔵は見てしまった。
雪原にくず折れた身体と、そのかたわらに膝をついてかがみ込んだ親友。
――
ゆっくりとのべられた三郎の指が、地に伏し動かなくなった者の目蓋を撫で、ぬぐうように閉ざしてやるのを。
やがて音もなく立ち上がった三郎は、雷蔵のまなざしに気がつくと、すぐにすっと表情を消した。まるで恥ずべきところを見られてしまったとでもいうみたいに。そのまま唇を引き結び、無言で歩を進めてくる。
一足ひとあし、雪を踏みしめて歩み寄る姿を、雷蔵は少しだけ細めた目で見つめていた。その足跡にも雪が降りかかる。
三郎は雷蔵のかたわらに立つと、ただひとこと低い声で、
……
行こう、と言った。その声音にはなんの感情も浮かんではいなかった。三郎はいつも綺麗に押し隠してしまう。でもそれは秘められただけで、消えたわけではないことを雷蔵は知っている。
だから、その伏せられた面差しを目にすることのないように、彼の後ろを少し遅れて歩き出しながら、そういった含羞も含めてすべて、三郎がいとしくてかなしくてしかたなかった。
肩を並べる間際、ふいに三郎がぽつりとこぼした。まるであどないこどもの内緒ごとのような、それでいて雪のひとひらみたいなひそやかな囁き声で。
「雷蔵。きみも頼むよ」
どうか頼む
――
手向けられた信頼のことば。
いつか同じように、足手まといになる日が来るかもしれない。もしそうなったらそのときは、どうか迷わず私を捨てていってくれ。
そういう、まっすぐな信頼のことばだった。
想いも色もすべて沈めて、振り切るように歩いてゆくその背を見つめる。彼ならきっと、このうえもなく大切なものに対するよう、そうしてくれるのかもしれなかった。
⌘
間違いなく託したはずだ。あの雪の日、わたしはきみに、こうしてくれと手本を見せたつもりでいたという、のに。
「置いていけ、って
……
」
いまの三郎が力ない手で叩いても、促しても、どんなにすがっても、雷蔵はこちらの肩にまわした腕を決して緩めようとはしなかった。
「いやだ」
はあ、と吐いた呼気が荒い。息が上がっているくせに、平然とそんなことを言う。常なら迷いを見せるくせに、ほんとうに、昔からこうと決めたなら思いのほか情のこわい相棒だった。もう体力だって底を尽きかけているだろうに、なあ。
「雷蔵」
「断る」
「あとから、いくよ」
「ともにいけばいい」
「聞かん坊のこどもになるな
……
たのむから」
「おまえな。自分だって出来もしないことをひとに頼むんじゃないよ」
こんなやりとりをいったいいくつ続けただろう。
どんなに三郎が請うても、雷蔵は一顧だにしなかった。しまいには、存外におまえは諦めがわるいなあ、なんて無理に口の端を上げてうそぶく。それを聞いた三郎の心に、透くようなかなしみといとしみがないまぜになっていっぺんに沁みとおったのを、先を急ぐ彼は気づかずにいたかもしれなかったが。
少し休もうと、茂みに覆われた木蔭に降ろされる。
水を汲んでくるから待っていて。すぐ戻るから、と言葉を残して木立に消えた雷蔵の後姿を見送り、三郎はちいさくため息をついた。そのまま自分を置いて逃げてくれたらどんなにいいだろう。けれどもきっとそうはならないことをもう知っていた。
心のうちで、ほんとうはわかっていたのだ。ずっと前から知っていた。雷蔵が三郎を見捨てることはない。絶対に。それは三郎が雷蔵を決して見限らないのと同じくらい、ひどくあたりまえの、この世でゆいいつの真実ともいえた。
……
だからといって、このまま片割れの命まで潰えるのを許すつもりはない。
なあ雷蔵。他でもないきみがいちばん、わたしの気持ちをわかっているはずだろう。おなじだよ。きみを生かすためなら、なにも惜しくはないんだ。
そうして覚悟を決めて歯裏を舐めた瞬間、ふいに伸びてきた腕が、三郎の首裏を捉えて強く引き寄せた。
「なっ
……
」
そのまま奥まで抉るようにくちづけが深まる。
「んっ
……
ふ、ぅ」
ただでさえ苦しいのに、歯列を割られ、容赦もなく舐めあげる動きに息が詰まる。呻くような声が洩れる。力が抜ける。熱が集まるまなじりにじわりと涙がにじんだ。
「
……
っは、あ」
長かったそれからようやく解放されると、唇の端からどちらのものともつかない唾液がこぼれ、おとがいを伝った。涙でにじんだ眸で見上げる。
肩で息する三郎と同じくらい呼気を荒げている雷蔵は、険しい表情で濡れた口許を拭うと、ついさきほど三郎が飲みくだそうとしていた丸薬を吐き捨てた。やっぱりな、と無理に感情を押さえこもうとして失敗したような、ひびわれた声が落ちてくる。
「毒か」
「らいぞう、」
「三郎、たのむから」
――
ぼくが生きるために必要なものを、おまえがたやすく投げ出さないでくれ。
肩口に額を押し当てて、祈るように囁かれる。もう隠す気もないらしい、波打つように揺れる声音に思わず目蓋を閉じた。
……
あの雪の日、目蓋を閉ざしてやったひどくつめたい手を、やさしい手だと言って、そっと繋いでくれたことをまなうらにおぼえている。
その腕は今、まるで流れ舟を引き留めて離さない
艫綱
ともづな
にも似た強さで、こちらを守るように、魂を結び留めるように覆っていた。やがてちいさく息をつき、肩をすくめた三郎は、重たい腕を苦労して持ち上げると、雷蔵の肩口から手をまわし、かすかに震えるその背をゆっくりと抱いてやった。
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