久々知から「泊まりにおいで」とお誘いを受けた。今日は尾浜が不在らしい。恋人と2人きりでお泊まり。普通ならえっちな展開を期待して然るべきだが、久々知に限っては全く期待できない。何度もお泊まりしているというのに、ちっとも手を出してくれないのだ。綾部がどうしてもと強請ると渋々同じ布団に入れてくれるが、毎度健全に睡眠を摂るだけで朝が来る。恋人として不甲斐ない限りである。しかも、綾部の身体に興味がないわけではなさそうなのが、余計に悔しい。もうひと押しな気がするのに、そのひと押しが難しいのだ。
けれど今日はいつもとひと味違う。なんと、媚薬を手に入れたのだ! この好機を絶対に逃すわけにはいかない。問題はこれをどうやって飲ませるかだ。綾部は今日こそ抱かれてみせると決意を固めた。
「これは媚薬です。今から飲みます」
久々知の部屋を訪れると、挨拶もそこそこにそう宣言して媚薬の入った小瓶を掲げて見せた。蓋を開け、口許へ寄せると、案の定久々知は大慌てでそれを阻止してきた。
「待て早まるな。一旦話し合おう!」
「止めるなら先輩が飲むか素直に抱いてください」
完全に脅迫だったが、まともに話し合いをすれば何のかんのと言い包められるのが目に見えている。久々知が冷静になる前に勝負を決める。これが綾部の作戦だった。
「十数える間に決めてください。じゃなきゃ僕が飲みます。じゅーう、きゅーう、はーち」
「えっ嘘、本気で言ってる!?」
「なな、ろーく、ごー」
「わかった! 飲む! 俺が飲むから!!」
「わかりました。どうぞ」
カウントダウンをやめて小瓶を差し出すと、久々知ががくっと脱力してその場に膝をついた。
「普通ここまでするか……?」
文句を垂れながらも約束を反故にするつもりはないようで、綾部の方に近づいてくる。綾部の「抱いてください」というお願いを何度も突っぱねているので、この件について多少なり思うところはあるのだろう。
綾部が小瓶を差し出すと、ひったくるように奪っていった。
「なんでこんなもの持ってるの」
「成り行きですね」
「その成り行きを聞いてるんだけど」
「話の流れで立花先輩に『久々知先輩が手を出してくれないんです』って言ったらいただきました」
「それ、面白がってない?」
久々知の疑問は尤もである。というか綾部もそんな気がしている。それでも縋りたいくらいにはこの状況に手をこまねいているだけだ。それに、立花と同じくなんだか面白そうだという気持ちもないわけではない。
「そうかもしれません。でも潮江先輩はイチコロだったと聞きました」
「潮江先輩が……?」
久々知が手元の小瓶に恐ろしいものを見るような目を向ける。
個人差が大きいらしく、製作者である善法寺は「留三郎には全然効かなかったけどね」と笑っていたが、それは黙っておく。プラシーボ効果は重要だと力説されたからだ。潮江は普段から「気合いでどうにかする」などと言っているから、思い込みが激しそうな気はする。勝手なイメージだが。
「先に言っておきますけど、飲んだ後僕から離れるのはダメですからね。けど、飲んだ上で何をするのもしないのも先輩の自由です」
「わかった」
久々知は恐る恐る中身を確認している。綾部も確認したが、中身は黒っぽい半固体だった。匂いからして明らかに苦そうで、なるべくなら飲みたくない。久々知は検分しながら顔を顰めている。
「これ、なに入ってるの?」
「強壮剤の類だと聞いています。詳しい材料は忘れました」
「ほんとに飲まなきゃダメ?」
「抱いてくれるなら飲まなくてもいいですよ」
「飲むよ、飲むから!」
久々知が抱こうとしないのは大事にされているからだとわかっていても、そんなに嫌か、と思えば些か面白くない。
綾部の視線に急かされるようにして、久々知は大きく深呼吸をすると、鼻を摘んで一気に呷った。どうやら見た目通り不味いらしく顔を顰めている。自分で飲むことになった時のために用意しておいた水差しを差し出すと、受け取ってがぶがぶと中身を飲み干した。うへぇ、と呻き声を上げる。
「どんな味ですか?」
「すごく苦いのに仄かに甘い。2度と飲みたくない」
やはり不味いらしい。自分で飲むことにならなくて良かった。綾部が安堵しつつ久々知に身を寄せると、すかさず引き離された。
「待て待て待てそれは卑怯だろ」
「なんでです? 僕から離れるのはダメって言ったじゃないですか」
「えっあー、えー、そういうこと?」
久々知はしばし唸っていたが、先程の言葉の意味を理解したのか、観念したらしい。がくりと項垂れた久々知の肩に綾部がしなだれかかっても、もう逃げはしなかった。
しばらくはくっついて他愛のないお喋りを楽しんでいた。媚薬を飲んだからといって、効果が出始めるまでは幾許かの時間がかかる。はっきりとした時間は聞いていないが、「イチコロだった」と言うからにはそう長くはかからないだろう。
一刻程経つと、久々知が落ち着きなくそわそわし始めた。きょろきょろと視線をあちこちに飛ばし、何度も脚を組み替える。これはそろそろ効いてきたと思っていい。ここからが勝負所だ。
といっても、久々知がどんな風に誘われると弱いのか、綾部にはとんと見当がつかない。何せ今まで試したありとあらゆるお誘いを全て躱されているのだ。思いつく全てに効果が薄いということしかわからない。とりあえず口付けでも迫ってみるか、と久々知の上に覆い被さると、肩を押されて拒絶された。
「ごめん、それは勘弁して」
「それは効いてるってことですか?」
「たぶん……」
「どんな感じです?」
「うーん、なにかしなきゃならないことがあるはずなのにどうしても思い出せないみたいな……」
思いも寄らなかった感想に首を傾げる。
「それは本当になにか忘れてるわけではなく?」
「思い出せないからわかんない……。どっちかというと『大きな忍務の前に緊張して居ても立っても居られない』の方が近いかも……?」
「先輩でもそんなことあるんですね」
「そりゃあるよ」
久々知は一切目を合わせてくれないが、綾部を組み敷きたいのを我慢しているようにはとても見えない。このまま無理やり口付けたところで流されてくれるようには思えなかった。
潮江と食満が具体的にどんな症状だったのか聞かなかったことを後悔した。久々知の今の状況がどちらに近いものなのか、はたまたどちらとも違うのかも綾部には判断がつかなかった。
どうしたものかと思いながら一旦身を起こすと、久々知がそわそわと綾部から距離を取る。
「ねぇ、ちょっと走ってきてもいい?」
「そのまま逃げるつもりです?」
「逃げないよ。着いてきていいから。じっとしてるの落ち着かない」
「僕のこと抱いてもいいんですよ」
「こんな状態で抱くわけないの、喜八郎だってわかってるでしょ」
久々知の真っ直ぐな視線に捉えられ、ごくりと唾を飲み込んだ。媚薬を飲んでから1度もこちらを見なかったくせに、こんな時ばかり狡い。自分がもっと狡い手を使っているのは棚上げしてそう思ってしまう。
「初めてってだけでも優しくできるか自信ないのに、こんなわけわかんない薬で傷つけたくない」
「先輩はいつでも優しいですよ」
「俺が優しくしたいと思ってしてるの。お願いだから優しい先輩のままでいさせて」
さっきは拒絶したくせに、ぎゅうっと抱きしめられる。久々知の熱い腕の中で、綾部もしっかりと抱きしめ返す。心音がいつもより速い。本当はきっと、そんなに余裕があるわけではないのだろう。だってきっと、久々知だってこういうことは初めてなのだ。なのに試すようなことをして、悪かったと反省する。媚薬を飲んだって久々知ならきっと優しくしてくれるだろうと思ったのは、綾部の甘えだ。こんなことだからいつまでも歳下扱いされるのかもしれない。
「いいですよ。走りましょう。朝までだって付き合います」
「朝までかぁ〜それだと明日の授業に支障が出そうだね」
ふふっと笑った久々知はそれでも怒っているようには見えなくて、綾部にとってはやっぱり優しい先輩だった。
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