吐く息が白い。吸い込んだ空気が肺に落ちていくのが空気で分かる。熱砂の焼けるようなそれとは真逆の、凍てつく空気。生物としては危険を感じるレベルでも、新鮮さが勝って感動すら覚える。
白さは時に暴力的なまでに死の象徴なのだ。広がる雪原にそんなことを思う。陽光を弾く白と、青い影のコントラスト。空に広がるそれらとは違う色彩が眩しくて、目を細めた。
存在は知っていた。知識もあった。春先の厄介事で寮内に大雪が降って雪かきをする羽目になったから、実物だって経験していた。
けれども、目の前に広がる大自然はそんなものではなかった。比べるまでもない。圧倒的な何かだった。
「防寒魔法を切るのは自由だが、程々にしておきな」
宿の主人の言葉を思い出す。これでもかと防寒着を着込んでいるのに、防ぎきれない冷気が足元から這いあがってきて、外気に直接晒されている顔が痛い。このまま防寒魔法を使わずにいれば、すぐに芯から凍えて震えが止まらなくなりそうだ。寒い、寒くて痛い。もう足先は感覚が鈍くなり始めている。すぐにでも暖の効いた部屋に戻って温かいスープを飲みたい。そう思うのに、体験したことのなかったこの感覚を手放したくないと惜しむ、子供みたいな自分がいる。何故かそれが愉快で仕方なかった。
猫ではないので、大人しく防寒魔法を唱える。保温魔法を編んだわけではないのに、冷気を遠ざけただけで身体が熱を持った気になる。これも新たな発見だった。
脳裏に強く景色を焼き付けて、名残惜しさを抑えて踵を返す。この辺り一帯の日暮れは早く、明るい今の内から引き返さねばならない。自業自得とはいえ、冷えた身体で戻るのであればリミットだ。
踏みしめる大地はやはり馴染みのない感触で、心躍ると同時にどこか落ち着かない。熱い砂の感触が恋しい気がした。
一年中雪に覆われたこの地にジャミルが辿り着いたのは昨日のこと。来るだけでも草臥れてしまい、宿の手続きもそこそこに、食事を摂る余裕もなく眠りこけた。起床時刻を気にしなくてよい眠りだったことも忘れて、常を大幅に過ぎた時間に目覚めた瞬間はひどく慌ててしまったのは笑い話だ――誰にも言うつもりはないが。
華はないが、素朴でどこか懐かしい朝食もとい昼食をいただきながら、宿の主人の話を聞いた。観光業で食いつないではいるが近年は観光客も減り、ジャミルのような若い客は特に珍しいのだそうだ。確かに、苦労してこんな辺境の地に来る物好きは少ないだろう。観光資源が自然そのものというのも目新しさがない。
「暑い国の出なので、すべてが新鮮ですよ」
伝えれば、そりゃ確かにそうだろうと主人は快活に笑った。嫌になる程堪能してってくれなどと言われれば、笑って返すしかなかったのだが。
一番眺めがいいのだという小高い丘まで行くのなら早く出た方がいいと言うので、食後すぐに宿を出た。思った以上に圧倒的だった眺めについ防寒魔法を解いてはしゃいでしまったのは予定外だった。この歳にもなって。歩いている内に冷静になって恥ずかしさが勝ってきた。何をしているんだか。
宿に戻ると、主人が談話スペースの薪ストーブに薪をくべているところだった。炎による柔らかな熱が辺りを満たしていて、ほうと力が抜けていく。
「凍えて帰ってくるだろうって予想が当たったな」
快活に笑って言われては、虚勢も張るに張れない。有難く火に当たることにした。
この集落唯一のこじんまりとした宿に、客が自分ひとりだけというのは昨夜の時点で聞いていた。その所為か、特に愛想が良いわけでもない自分に、主人はよくしてくれている。料金分だと言われてしまえばそれまでだが。
冷えて少し赤くなった指先を、薪ストーブに翳して温める。少し休んだら、夜の準備をしなければ。
「お前さん、夜も行くんだろう? 魔法の灯だけじゃあ獣が寄ってくる。ランタン持ってけ」
「ありがとうございます……獣除けは効かないんですか」
「効かないことはないが、万全じゃねえ」
「なるほど」
夕食は早めに用意してやる、という言葉に、再度礼を重ねた。他にすることもないからと、人好きのする笑みを浮かべて、主人は追加の薪を投げ入れる。
爆ぜる火花。揺らめく焔。熱砂で使っていた薪ストーブに比べれば質素ではあるが、齎される暖に変わりはない。熱砂とは正反対の雪国に来て、親しみを覚えるとは思わなかった。
その後、早めの夕食をいただいた。貴重なものだろうに獣肉を振舞われ、素朴な味付けをしただけのそれが何故か胃の腑に沁みた。硬いパンと、じっくり煮込まれた野菜スープ、塩漬けの山菜、華のない質素な食事なのに、とても満たされるものだった。
「カギはこれ。返すのはチェックアウトの時でいい。ランタンは火を落としてその辺置いといてくれ」
「分かりました」
「保温魔法は切るんじゃねえぞ。それから、荒れる様子はねえが万が一の時は動き回るな。防寒と保温を合わせて一晩耐えてくれりゃあ迎えに行ける」
鍵とランタンを渡され、日が落ちて間もない薄明るい外へ出る。ぽつぽつと存在する家々の明かりだけが光源の集落は、既に宵闇に沈んでいた。マジカルペンに光を灯し、ランタンと共に掲げ持つ。ぼんやりと、明かりに照らされた場所が浮かび上がる。
「気をつけて行って来いよ」
「はい。色々ありがとうございます、おやすみなさい」
「おう」
主人の見送りを受けて、昼間訪れた丘を目指す。一年中雪に覆われた厳しいこの地で、かつて集落の人々の生活を支えた程の観光資源、今回の旅の目的がソレだった。
集落を離れれば、辺りは闇に包まれる。日没後の日の名残りもとうに失われ、手元の明かりと淡い月明りだけが頼りだ。
雪に音が吸われてしまう為に、生物の気配が遠い。ぎゅ、ぐ、と雪を踏みしめる音、防寒着の衣擦れ、ランタンとマジカルペンが奏でる微かな金属音、時折吹き抜けるやわい夜風。生物の息遣いが遠く、どこかでするような、しないような。
似ている、と思う。遥か離れた生まれ故郷、熱砂と此処とは天地程に違うというのに。砂漠の夜は、寒く、静かだ。あの、耳が痛くなる程の静寂を思い出した。
――世界の果てはどこなんだろうな!
勢いよく流れていく夜空、眼下の砂漠、風に靡く純白の髪、月明りに煌めく紅玉のような瞳。
何故今思い出すのだろう。此処は遠く離れた北国で、一歩一歩地面を踏みしめて、夜空を連れ回され飛び回ったあの頃とはかけ離れているというのに。雪道を照らす球状の明かりの中、ターバンを翻して笑う姿を幻視する。
はしゃいだままに駆けだして、雪に足を取られて転びかけるまでが鮮明に思い描けてしまい、自分に呆れた。折角離れたのに、何もしなくていいジャミル一人の旅だというのに、ちらちらとその姿や記憶が映り込んで仕方ない。鼻の頭を赤くして体いっぱい、この雪国の自然を味わうのだろう。些細なことに驚き、感動して、喜んで、笑って。喜色に揺らめく双眸が、それを共有せんとジャミルを映す。其処に映る自分は――……。
幻を振り払って、足を動かす。そろそろ目的地だ、と、自然と下がっていた視線を上げた。幸いなことに今夜は空は澄み渡り、満天の星々が輝いている。人工の光の少ない土地ならではの、瞬きの少ない、星霧まで視認できる天穹だ。
遙か遠くの宇宙で輝く星々の光。砂漠で見上げるそれらと同じ筈なのに、どうしてかひどく胸を打つ気がする。
見晴らしの良い丘の上、辺りが一望できるこの場所が、観光地であった理由。そのひとつがこの見事な星空ではあるが、メインではない。わざわざこんな寒く不便な場所に来なくとも、少し人里から離れれば、美しい星空を売りにしている観光地などいくらでもある。苦労をしてまで訪れてまで、見たいと思わせるものが此処にはあるのだ。それを見ることができるかは、運次第なのだが。
防寒魔法の向こうから、防ぎきれなかった寒気が浸み込んでくる。それを誤魔化すように両腕を擦りながら、星屑が散らばる濃紺の天穹を眺めた。運が良ければ、そろそろ時間だ。
「……そう、都合よくはいかないか」
たった一晩だけのチャレンジだ。元より見られるとは思っていない。けれどやはり、口惜しくないと言えば嘘になる。
これがあいつだったら見られるんだろうな、と、根拠のない感傷を抱いて自嘲した。馬鹿馬鹿しいにも程がある。自然現象がたった一人の人間に左右される訳もない。それでも、もしかしたらと思わせる何かがあるのだということを、痛い程知っているのも自分なのだ。
実際に影響力があったとして、実際問題あいつが此処に存在するのは不可能で、此処にいるのは自分一人。
現実なんてこんなものだろう。置いていたランタンを回収して踵を返す。月明りがあるとはいえ、満天の星空に慣れた瞳には帰り道は暗く慣れるまで少しかかりそうだ。
ふ、と足元の光が揺れる。ランタンの光にしては妙だった気がして、振り仰いだ。
ぶわりと、満天にエメラルドが弾けていた。
「――ッ、これ、が」
先程まで濃紺に広がっていた天穹が、がらりと姿を変えていた。まるで天上の衣のように、何層もの光のヴェールがゆらゆらと靡いている。見惚れている間にもヴェールはその姿を刻々と変化させていき、エメラルド、アメジスト、アクアマリン――オパールやフローライト、トルマリンもかくやという複雑で美しい色彩が繰り広げられていく。
オーロラ。自然がつくりだす神秘。この極光を見るべく、かつて多くの人が此処へ足を運んだというのも納得の、圧倒的なまでの美しさ。
瞬きすら惜しい。ランタンを取り落としていたことにも気付かなかった。
星送りの流星も比ではない。何もかもが、自分の抱える全てが些末事だったのではと思えるような、天上の光だ。
そう思ったら、思わずスマホを手にしていた。この美しさを写し取ることなど不可能だと理解しているけれども、それでも夢中で記録し続ける。
だって、思い浮かべてしまった。此処にあいつが、カリムがいたらきっと、と。
折角一人で旅をしてみたというのに、ずっとずっとちらついて仕方がなかった。此処にいたらこうするのだろうな、という動作まで思い描いてしまう始末で、できるだけ考えないよう、考えないようにしてきたのだが。
そもそもが、土台無理な話だっただけだ。気付いたら傍にいて、それからずっと、カリムが生活の中心だったのだから。今更物理的に距離を置いたところで、それがなくなる訳でもない。
だから、考えないようにするのを止めた。仕方がない。仕方がないから。
「少しくらい、分けてやるよ」
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