kimagure_laz
2025-06-11 23:55:36
4155文字
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せんせい、あのね!


「ねーゾロせん聞いてよお」
「おー、誰が付き合って誰が別れて誰がいい感じで誰が浮気されてんだ、順序立てて話せよ」
「対応が雑ぅ!」

雑にもなるわこんなもん。
年若い女子の姦しさと底抜けのパワーの凄さは仲間連中でよく知っていたつもりだったがとんでもない、人数が集まれば集まるだけその勢いは増すのだと、ゾロはこの数年ですっかり骨身に染みて理解した。
元警察官の男だということと顔立ちの威圧感で遠巻きにされていたのも今は昔、どこから漏れたか同居人の男がいること、なんならそれが恋人であることがバレたあたりからは急激に距離を詰められ始め、どういうわけだか体育教官室は生徒たちの放課後の溜まり場になりつつある。話題は専ら惚れた腫れた──ゾロが最も縁遠かったはずのそれである。

「ぜっっっったい浮気してんのあいつ、LINEの返信雑いし共同垢にもログインせんし」
「現場押さえてねーと証拠として弱すぎんだろ」
「出たゾロせんの現場主義〜、フツーの女子には無理ゲーだって」
「あー?そうか?」
「てかゾロせんの彼氏医者じゃん爆モテじゃん、浮気とか心配せんの」

次の指導要領をどうするか、運動量の少ない現代っ子に何をさせるかをぼんやり頭の中で組み立てながら聞き流していた話題の水を自分に向けられて、ふむとのけ反った背中で体重をかけた事務椅子がキイと鳴く。
うわき。浮気ねえ。今日もべたりと両目の下に隈を貼り付けてやや青白い顔で出勤していったくせに行ってきますのキスだけは欠かさなかった律儀な恋人の顔を思い浮かべて、ついでに「今日は多分何もなければ夕方には帰れると思うんだ」とフラグを立てていったのを思い出す。

「心臓外科医の多忙さナメんなよ、シフト通りの勤務してんの見たとこ今月3回だけだわ」
「もう今月終わりますけど」
「だろうよ、これで合間にヨソに手ェ出してんなら見上げたもんだ」

なんならゾロ相手ですらご無沙汰な上にやや潔癖のきらいのある男だ、そうそう他所で無駄撃ちなどできてはいまい。
そう考えるままつるりと口から滑り出た台詞が、よくよく頭を回すと『自分が相手の一番手である』ということを疑ってもいないものだと気付いたところで後の祭りだ。ゾロが気付くようなことは、色恋ごとに聡い年頃の女たちはよっぽど早く飲み込んでいる。

「ふぅーーん、お熱いこって」
「お前ら今度のマラソン一周追加」
「ねえそれしょっけんらんよー!!」

にたにたとしたり顔で揶揄われて黙っていられるタチのゾロではない。ぴしゃりと言いつけたところで、空のピアスホールが三つ並ぶ耳殻がとんでもなく赤くなっているので威圧感も何もあったものではない。ったく、仕切り直すように椅子に掛け直すと、別の女子生徒がひょいと向き直る。

「てかゾロせんってケーサツいたのに彼氏のために転職したってほんと?」
……ウソップだな」

苦虫を噛み潰した顔で眉間に深く渓谷を刻んだゾロに、とたん生徒たちが慌て出す。殺気でも漏れ出していたのだろうか。
些か珍しいゾロの転職経歴の内情を知るのは、非常勤講師として偶然同じ学校に配属になった昔馴染み一人だけのはずだ。

「わーーゾロせんおねがいウソせんのこと殺さないでごめんごめん!!」
「話もおもろいしレポートで点数くれるいい先生なの!!」
「アホかツレだわ、誰が殺すか」

じゃあ今ボールペンがミシッて音を立てたのはなんですか、と聞ける勇気のあるものはさすがにこの場にいない。威圧感で黙らせられない相手でもないが、さすがにそのやり方はまずいだろうと思う程度の常識はゾロにとてある。
怯えたのは一瞬で、また興味で爛々と目を輝かせはじめた生徒に向かって溜息をひとつ。吐き出したひそやかな声は、指導教官のそれというよりも、大切な相手の話をするだけの、ただの男のそれだった。

……あいつのためっつーか、あのままだとマジで顔見れる日の方が少ねーなって思っただけだよ」

日勤と夜勤と明けを繰り返すゾロと同じ勤務パターンのはずなのに、やれ学会だやれ論文だ研修だ、やれ急患だとどんどん休みの予定が塗りつぶされていく恋人の、今よりさらにげっそりしていた寝顔ばかりを思い出す。そうだ、あの頃は起きている顔より疲れ切った寝顔を眺めることのほうがよほど多かった。
警察官という仕事に拘りがなかったわけでも、せっかく就いた職を変えることに迷いがなかったわけでもない。同僚や上司からはひどく惜しまれたし、ゆくゆく術科指導員になれればとまで言ってもらえたが、今のゾロに必要なのは『将来』ではなく、『ローと過ごすためのいま』だったから。
どんなに相手が不規則な勤務でも、自分がある程度規則的な動きをしていれば顔を見られる機会も増える。ゾロが転職して三年、ようやく少しばかりまともな顔色になってきたのではないだろうか。
まさか自分が恋人のために職を変えるような人間だったとは思っていなかったけれど、決して恋人への献身のために変わったわけではない。ゾロが変わったのは、ゾロ自身のためだと言い切れる。
なんならローのためですらない、ゾロがそうしたくて決めたことだと、食い下がられるたびにそう言い含めたのも二度や三度のことではなくて。
──ただゾロが、自分のために少しでも長く、あの人相の悪いお人好しのそばにいたかっただけなのだから。
さすがにそんな内側までは晒さずにさらりと流したつもりでいたが、生徒たちはぽかんと呆気に取られたのと砂糖を口に詰め込まれたのと半々の表情を晒していて。口火を切った一人が、すっかり感心した、という様子でため息のように呟いた。

……え、ゾロせんかわい〜……
「ああ?」
「いーやまじで、大好きじゃん、超愛じゃん」
「うわなんか彼氏と通話したくなってきた!ねーゾロせん今度恋バナしよーね」
「するか!」

姦しさを取り戻した体育教官室に最終下校のチャイムが鳴るのはまだ少し先のこと。
ゾロの左手首に巻き付いたスマートウォッチの通知画面に『ロー』という名前と「今から帰る」という短いメッセージが表示されたのに目ざとく気付いた少女たちが、揃ってきゃあと歓声を上げた。



========



「ゾロ!」
……っ、ロー?」

今から帰る、確かにそうメッセージを受け取ったはずだった。まっすぐ帰っていればとうに家に着いているはずの時間に最寄駅の出口で出会した恋人の、背の高いシルエットを見つけて早足で駆け寄る。
安定しづらい道だったが、ようやくゾロも三十分もかけずに家に辿り着けるようになったはずの最寄だった。ローと一緒ならなおのこと、なんなら十分もかからない日だってある(珍しく仕事帰りの時間が合って他愛無いことを話しながら夕焼けの中を並んで歩く、そんな時に限って最短タイムを記録してしまったりして、少しくらい時間がかかったっていいのにと思う日が、ないわけでもない)。
ついにローまで家への道が安定しなくなってしまったのだろうか、そう考えながら見上げたゾロの顔が相当気遣わしげだったのだろう。ローはウソップあたりが見ていれば鼻を鳴らしそうな蕩けた顔を苦笑の形に歪めて、ゾロの頰を甲で撫でた。

「違うぞ、道を見失ったわけじゃない。帰り際にちょうど患者に呼び止められちまってな、少し立ち話をしてたら遅くなった」
「そうか」

ならよかった、いや良かったのか?結局夕方とは言い難い時間に帰宅することになったローを思うと簡単には頷けないが、なんだか機嫌は良さげなのでまあいいかとしたいようにされてやる。体温の高いゾロの頰に触れるローの手の甲が冷えているのもまたいつものことだ。

「一応約束通りだな、セーフだろ」
「七時は夕方とは言わねーよ」
「こんなに外が明るいのに?」

くすくす、屁理屈をこねながら平日は外しっぱなしでがら空きのピアスホールに指先が伸びる。もちもちと耳朶を揉まれ始めたので、流石に往来だと苦笑して長い腕の中から抜け出した。

「夕飯どうする?食って帰るか?」
「んん、それもいいが……冷蔵庫に昨日解凍しちまった塩サバなかったか?」
「いけね、そうだった」

昨日はお互い予定にない残業ですっかり帰りが遅くなってしまって、夕飯にする予定の食材が手付かずのままだった。じゃあ米はセットしてあるから魚焼いて、味噌汁何がいい?キャベツと卵落とすか。お、いいな。そんな当たり前の会話をしながら当たり前に肩を並べて帰路を辿る、それが『あたりまえ』でないことなど、生徒たちに囀られずとも知っている。

「なあロー」
「ん?」
「おまえの今度の休み、準備しとくからその気になれよ」

普段は何となくそういう雰囲気で始まる夜の触れごととて、当たり前ではいけないだろう。もしかしたら少し囀りに感化されたかもしれない、そんな思いつきが口を突く程度には。
回数を重ねてもゾロからのお誘いなど稀も稀だ、どうしてもローのほうが手慣れていて、いつだってゾロを欲しいと真摯なほどにまっすぐ告げる。
だからたまには自分から、けれどまだ残る照れに引っ張られて多少回りくどく袖を引いたその先で、角張った肩にびしりと力が入って咆哮が一つ。

…………ハア!?!?」
……っんだよ、嫌か」
「なわけあるかお前な休みってのは小さい妖精みたいなもんなんだぞデカい声出したら逃げるって相場が決まってんだろ!」
「いやお前の声のがデカいって、つか何の話だよ」

突然すごい勢いでよくわからないお伽噺と一緒に捲し立てられて目をまばたくゾロの、空だった左手がぎゅっと握られる。この一瞬でひどく体温を跳ね上げたらしいローの手だ、と気付いて思わず首を傾げた。

「え、おい、ロー?」
「まだ火曜だってのにふざけやがって、もう頼むからこれ以上可愛いこと吐かすな」
「はあ?」
「もうこれで休みの予定が潰れたらおれは世界を呪うことになっちまう、何てことしてくれたんだゾロ」

ぐんぐん、脚の長さのコンパスに見合った速度でどんどん道を進んでいくのに半ば引きずられながら見上げた男の顔に、込み上げるのを堪えることとなくゾロは高く声を上げて笑ってやった。