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悪夢と灯火
モリア様のトラウマと幼いペローナ
乳白色のフィルムが掛かったような光景が広がっている。辺り一面がそうなっていて此処が広大な場所なのか、それともすぐ傍が行き止まりなのかも分からない。
耳にもそのフィルムが掛かっているのだろうか、音がボヤけて上手く聴こえない。
前方に手を伸ばし進むと、ドーンという音が木霊のように遠くで響いた。あれは砲撃の音か。
乳白色に灰色の筋が加わった。あれは煙だ。次は広がる視界の下半分に赤色が加わった。少し黒が混じっている。泥と鉄の匂いがしてきた。
これは、この光景は死体だ。全て部下の死体。投げ出されて、動かない肉の塊たち。
溺れた者が水面に急上昇したかのような、必死に息を吸い込む大きな音でモリアは目覚めた。強く吸い込んだ反動で胸が激しく上下している。目を見開いて視線を彷徨わせた。
ここは根城のスリラーバークだ。そして時刻は真夜中。自室でいつも通りに横たわり就寝の真っ最中だった。
よく見慣れた天井をじっと見つめると、突然の浮上で混乱していた意識が元に戻っていく。
一度フゥ、と大きく息を吐き出すとモリアは起き上がった。
なんて悪夢だ。最近は殆ど見ていなかったのに。頭にまだ不快な残骸がこびり付いているような心地がして、彼はゆっくり呼吸をする事に集中した。そうすると思考が澄んでいく。けれど胸の内は何故か隙間が出来てしまったようになっていた。幾ら息を吸って吐いても、穴が空いた風船のように萎んでいく。
モリアはそんな自分に苛立ち、居ても立ってもいられなくなった。寝床から立ち上がると、自室から飛び出した。廊下を足早に歩きある場所を目指す。
目指す場所へ近づくにつれて気温が下がっていく。館の研究室、ホグバックが作り上げたゾンビ達が眠る部屋だ。扉を開けると、沢山の棺がモリアを出迎える。
屍が腐らないように部屋は吐く息が白くなる程に寒い。
立てかけられた棺の中で眠る者、手術台に横たわり改造途中の者。様々なゾンビが当然、何も喋らず部屋中に居た。
それらを視界に収めるとモリアは安堵とも感嘆ともつかない溜息を吐いた。ささくれだっていた気持ちが凪いでいく。
――
全員、死んでいる。生きていない。最初から何も無ければ失うなんて事態は起きない。もうおれは何も失わない。
モリアは少し目を閉じて心を研ぎ澄ませていた。呼吸する度に冷えた外気が胸を満たし、先程の忌々しい穴が埋まっていく。
冷たい外気を取り込み過ぎたのか、頭が少々ピリリとした痛みを感じ始めた。
「
……
キシシ」
笑い声と共に吐き出された呼気が、白く染まって広がり消えていく。それを見上げると凍りつきそうなモリアの身体が軋む音をさせた。すっかり冷気が彼を包んでいる。
何でもいい。満たされるのなら。未来の海賊王に欠けたところがあってはならない。
満ち足りた自身を確認すると、モリアは部屋を後にした。これで寝床へ戻れば心置き無く眠れるだろう。来た時よりも足取りは穏やかになっていた。
「
……
ゲ」
自室の扉を開けて真っ先に目に付いたものに対して、モリアは思わず声を出してしまった。
寝床に場違いな色彩が一つ。桃色の小さな小さな娘がちょこんと座っていた。
「あ、モリア様!帰ってきたっ」
顰めっ面の部屋の主とは反対に、娘は丸い目をくりくりさせて嬉しそうな顔をした。弾んだ声のまま寝床から立ち上がると、モリアの傍まで駆け寄る。足の間をうろちょろされて踏みつけてしまいそうだ。
「おい大人しくしろペローナ。ったく、ほらこっち来い」
身を屈めて娘に手を伸ばすとペローナは両手を上げて、モリアの手のひら目がけて走り寄る。遊んでもらっているつもりなのだろうか、大きな手に収まり良く包まれたらホロホロと笑った。
モリアはそんな娘の様子を見ると溜息を吐いた。寝床にうず高く積まれているクッションの一つへ娘を降ろしてやると、その隣へモリアが片肘をつきながらゆっくりと横たわった。傍から見ると、二人には猫と子ネズミくらい大きさの差がある。今の状態でやっと視線が同じ程になったくらいだ。
「それで。おれの部屋に上がりこんで何の用だ」
「寂しいから一緒に寝ようと思った。ねぇ、モリア様いいでしょ?」
大体というか、ほぼ確定的に予想していた答えにモリアはまた溜息を吐いた。その息吹でペローナの巻き髪がバタバタとはためくが、本人は全く物怖じしていない。
モリアが甘やかし過ぎたのかペローナはよく一緒に寝たがる。世話を焼く彼自身は子どもならこんなもんだろと構ってやっているつもりだ。しかし微塵も拒否されるとは思っていないかのように、主人をじっと見つめるペローナの態度が何よりの証拠である。
頑なな娘に対してモリアは面倒くさそうに目を細めた。
「ダメだ。そんなのは赤ん坊がする事だぞ。それにな、前から思ってたが一緒に寝るのは危ねぇんだよ。何かの拍子におめェを潰しちまう。
……
死んじまうぞ」
言葉尻が僅かに揺れて、モリアは頭の片隅で胸の内の穴が疼き始めるのを感じた。最後に発した言葉の意味を深く考えないようにしている。眉根を寄せ口を気まずそうに噤んだ主人を見て、ペローナはパチリとつぶらな瞳を瞬かせた。
「死ぬのは怖くないぞ。だって死んでも、モリア様がゾンビにしてくれるでしょ?」
鈴を転がすような声色でペローナは言い放った。無邪気な発言だ。首を少し傾げて主人を見上げながら疑いようがないと、問うている姿はよりその事を強調してくる。
今は触れたくないものを何の気なしに投げ渡され、モリアの頭は上手く受け止められず、それが胸へ落ちて沈んでいく。
対して娘はその事
――
死についてあまり理解できていない。だからこその発言にモリアは息を呑んだ。頭の中に霧のようなモヤが湧いてくる。丁度それは悪夢の中で見た乳白色に似ていた。
「ペローナ、それじゃダメなんだ。お前をゾンビにはできねェ。
…………
お前の死体は、見たくねぇ」
目の前の娘に言い聞かせていたのに、途中から自分にもそうしているような口ぶりになった。モリアの脳内を今や支配している例のモヤに、研究室で眠るゾンビ達の姿が浮かぶ。そこへ瞬間、娘の影が重なってぼやけた。
モリアは目を見開いた。有り得ない幻視のために思わずペローナへ手が伸びて、小さな身体を掴んでいた。
手中の娘は突然大きな手に包まれて不思議そうにすると、そこから己の腕を引っ張り出してモリアのそれへ手を添えた。
包んでいる身体全体か、或いは極小さな、小枝にもならない娘の手から暖かさが伝わってくる。その熱がモリアの中で凍り埋まっていたものを溶かしていく。大丈夫と思っていたものが不格好に解凍されて、崩れてしまいそうになる。
そんなザラザラになった心へ、か弱過ぎるペローナの温もりが触れている。今もきっとそうしようと思えば、モリアの親指一本で潰せるくらいに娘は小さく儚い。
モリアの口元が見る間に震え目が泳ぎ出すと、ペローナは添えていた手を気遣わしそうに撫でた。
その仕草にヒクリ、と裂けて出来た傷のような彼の口が一際強く
戦慄
わなな
く。握っている手に力が入りそうになって、すかさず思いとどまった。
娘は生きている。小さくて温かくて、他愛ない。そんなちっぽけな命に触れて、モリアは無性に嬉しさが芽生えるのと同時に怖くなった。
あのモヤはいつの間にか無くなっている。代わりに胸へ光が溢れモリアは照らされ、熱によって焦がされていた。
ペローナを静かにクッションの山へ再び降ろすと、モリアは己の腕へ顔を埋め、うつ伏せに身体を丸めてしまった。
小さな山のようになった主人を傍から眺め、クッションからジャンプするとペローナは軽やかにその小山を登る。肩口まで登ると地面が、モリアの身体が震えていた。
「?モリア様、どうしたの
……
あれ、シーツが濡れてる
…………
どこか痛いのか?ねぇ、モリア様。泣かないで、モリア様」
遥か下の柔らかなシーツに染みが広がっている。モリアはいつも強くて不敵に笑っているのに。眼下で大きくなる染みがとても不可解で、ペローナは眉を下げる事しか出来なかった。心許なくて、すぐ傍にあるモリアの耳元辺りに手を添える。耳から正面に向かう顔は腕で隠れていて、か細い嗚咽が漏れ始めていた。
「死ぬな。ペローナ」
切実な声色が絞り出されて、洞窟の奥から呼びかけるが如く響いた。ペローナはその声にただ耳を傾けた。
「何処へ行ってもいい。死ぬな」
「おれの前から消えちまっても」
「死ぬな。ペローナ」
平素の彼ならば滑らかに言葉を紡ぐ口が、語る端からブツ切りになっている。その都度、息を吸い込む音とぬかるんだ水音がする。
終いには、死ぬな。と繰り返し呟くだけになってしまった。
主人が何かに取り憑かれてうわ言を唱えるように己を呼びかける姿は、ペローナには巨大に見えたし、その実、小さくも見えた。
手を目一杯広げても、モリアの身体には到底届きはしない。それでも抱きしめて撫でてやりたくなった。目の前の壁のような身体へ、娘の小さな身体を全部使って労わってやる。
「わかったよ。私は死なない。でも、でも。私はモリア様のそばにいるよ」
涙を拭いてやる奴が居ないと。ねぇ、モリア様。
ペローナは目を閉じてモリアへ静かにそう捧げた。
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