空中庭園の生態システムが、下弦の月を映した夜。地上と同じように、満ち欠けや天候によって月が翳るよう精密に再現されたプログラムの中で、珍しく月が綺麗に見える日だった。
時刻はあと十分ほどで二十四時半になる頃。宿舎棟も静寂に包まれ、ワーカホリックと称されるほど仕事に没頭していた指揮官も流石に眠りに、
「……やっぱりあと五分だけ仕事したらだめかな」
……眠りにつかなかった。毛布に包まれ、寝不足のアイメイクを目元に携えた指揮官は、明らかに疲労が滲んだ目でこちらに訴えかけてくる。
「いい加減に寝てください。…貴方は人間なんです。ある程度は睡眠時間を確保しないといけないことくらい分かっているでしょう」
どれだけ働くつもりなんだという意を込めて、指揮官の訴えを即刻却下した。仕事熱心なのは結構なことだが、一体いつからこんなワーカホリックになってしまったのだろう。
はぁ…と溜め息を零せば指揮官は慌てたように付け加える。
「で、でも、明日は休みだから遅く起きても問題はないし」
「明日が休みで遅く起きて良いからと言って睡眠時間を削るのは良くないでしょう。一度、休日が何のためにあるのかを考えた方が良いのでは?大体、貴方のあと五分は五分じゃないんですよ。以前もあと五分と言いながら結局一時間仕事をしていたのをお忘れですか」
「………耳が痛い」
「自業自得です」
つらつらと並べられる小言に、指揮官は耳を塞ぐような動きをしながら毛布の中で丸くなる。まるで猫のようだと思いながら眺めていれば、諦めたように布団から顔を出した。
「もう、分かった…分かったから、ちゃんと寝るよ、寝るけどさ…………リー、は…もう、行くの」
「…いいえ、貴方が仕事をしないように眠るまでは此処にいるつもりです」
ほんの僅か、彼の言葉の端に寂しそうな感情が滲んだことには気付かないふりをした。そんなことを知らない指揮官は悲しげに眉を落とし枕に頭を沈める。
「あまりにも信頼が無くて悲しくなるな…ちゃんと寝るって…」
瞬きを繰り返す薄い灰色は微かな月明かりを反射し、自らが月だと言わんばかりに淡く輝く。それはあまりにも綺麗で―出来るならずっと見ていたいと思うほど。
しかし指揮官には休養が必要だ。そこまで強い光ではないにしろ、少しでも暗い方が眠りやすいだろうか。遮光カーテンを閉めようとして、ジャケットの裾を軽く引っ張られるというあまりにも優しい引き留めに、意識がカーテンから目の前の布団の中に身を埋める人間へと移る。
「リー」
何かをねだる、というよりもささやかな『お願い』をするときのような声色で指揮官は僕を呼んだ。
「…まだ、此処にいるなら…ひとつ、だけ、お願いしてもいいかな」
「構いませんが…もしかして、寝かしつけをご所望ですか」
「別に、寝かしつけ、じゃ、ないけど…」
歯切れが悪そうに紡がれた言葉を最後に、部屋には一時的な静寂が訪れた。呼吸という人間の本能で刻む規則正しいリズムで静寂を彩られる中、僕は指揮官の言葉を待ち続けていた。
「えっ、と…です、ね…」
たどたどしい声だった。指揮官が言葉を紡ごうとする度、どういう訳か彼の頬と耳の赤みは増していく。
そしてようやく意を決したように口を引き結ぶと、指揮官はこちらの手に擦り寄るように頭を差し出した。
「………ん」
その行動の真意は容易に読み取れた。が、想像もしていなかった要求に一瞬だけ意識海が振り回されそうになったのは隠しておこう。
「…………………………猫ですか貴方は…」
「……たまに、は、いいだろ、甘えたって」
たまには、どころではない。指揮官が自ら、こうやって要求してくることは非常に少ない。正直レアケースと言っても過言ではないだろう。
『指揮官』という立場としてなのか、実年齢は置いておいたとしても、仮にも年上なのだという矜持か。それとも単に甘えるのが下手なだけか。…恐らく全て当てはまるのだろうけれど。
だからこそ―叶えてやりたくなる。甘やかして、慈しんでやりたくなるのだ。
『人類の未来』というたった一人の人間が背負うにしては重すぎる明日が、世界が。この少しでも力を入れたら折れてしまいそうな細い体に乗っている。『英雄』という輝かしい名を背負い、日々喪失と隣り合わせて戦っているこの人が、こんな時くらい穏やかに過ごせるようにとほんの僅かな祈りも込めて。
「仕方ありませんね」
そんな慈しみや祈りを悟られないように。貴方にお願いされたから仕方なく、という体を装って。そっとベッドに腰を下ろし、指揮官の髪に指を通した。
機械の指を撫で、風のように滞りなく通り抜けていく感触。濃紺を溶かした黒の髪も相まって、それはまるで夜風のようで。
心地良い感触を追いながら彼の頭を撫で続けていれば、顔から赤みは消え、いつの間にか機嫌の良さそうな笑みが浮かんでいた。
「……ふふ」
「…なんですか」
「いいや、いつになく…優しいなと思って」
「たまには甘えたい、と言ったのは貴方ですよ」
「うん…そうだね」
簡潔な肯定で指揮官は会話を終わらせた。あまり多くを話そうとしないのは、きっと髪を梳かれる感覚を追っているからだろう。あまり口にしようとしないが、指揮官はこうやって髪を梳かれることを好んでいた。
「…しあわせ、だな」
宵闇に溶け、消えてしまいそうなほど小さな声で指揮官は呟いた。
機体に搭載された優秀な聴覚モジュールは鮮明に指揮官の言葉を拾い、しっかりと意識海にそれを焼き付けた。が、僕はそれに何を言うわけでもなく、ただ髪を梳いていた。
こんな日常の、些細な幸せに目を向けられないほど忙しくなってしまったのはいつからだろう?戦況が変わり、良化しても悪化しても、その度にただでさえ多い指揮官の仕事は増えていく。
…思えば、こうやってふたりで過ごせる時間というものも多くはない。この長く続くパニシングとの戦争、更にはその最前線に立っているのだから。
『こういう時間は、大切にしようか』
意識海の奥で記録の残響が揺れた。この夜と同じような優しい夜の中で、指揮官がそんなことを言っていたのはいつのことだったか。
『僕たちには、普通のひと達よりもこうやって過ごせる時間は少ないでしょう?だから……君と、こうやって過ごせる時間は…大切に、したい』
ああ、そうだ。あの日もこうやって彼の髪を梳いていた。いつもより少しだけ素直な指揮官とこんな『なんでもないありふれた』夜を過ごしていた。
ただふたり、互いを確かめるように寄り添い合って息をする。そんな夜を指揮官は大切にしたいと言った。
…僕も、同じですよ。
いつかの彼の言葉と、先程零れ落ちた呟きに髪を梳かし続けることで返事を示した。
こんな誰かにとって『ありふれた』、平穏な夜ほど僕たちが望んでいるものはないのだから。
「………ん…」
控えめな欠伸の後、もそもそと布団の中を動く指揮官はとても眠そうだった。
眠っても構いませんよ、と声をかければ半分以上眠気に沈んだような、とろんとした目でこちらを見つめる。
「……まだ…りー、いる、でしょ…」
「僕のことは気にしなくて良いですから。今は休んでください」
「……でも」
「でも、じゃありません。何を心配しているのか知りませんが、僕は此処にいますので」
「……うん…」
此処にいるという言葉に安心したのだろうか。曖昧な返事と微かな衣擦れの音の後、部屋に訪れたのは深更の静けさだった。
繊月の光が指揮官の表情を照らしている。既に眠っているのか、目を閉じているだけなのか分からないが、僅かな明かりに照らされたその表情は酷く幼く見えた。
…叶うならば。貴方が幼子のように眠れるこんな夜が続けば良い。
物資不足も、積み上げられた事務作業も、過酷な戦場も、目を逸らせない喪失と隣り合わせの現実も。全て忘れて眠れる、こんな穏やかな夜が…どうかまだ、明けませんように。
そんな願いを抱きながら、窓の外で降行く生態システムの宵闇に包まれていく。
二十四時半の可惜夜。朝焼けは、まだ遠い。
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