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ミナコ
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7月発行予定のkiis本「WITHOUT」の1話目「all delight, at daylight.」の全文です。
未来if、遠距離恋愛している恋人同士の二人があることを機に再び二人で暮らすようになり、その距離感に戸惑ったりする話の本になる予定です。
発行前なので修正される可能性があります。
遠距離恋愛してるのはこの1話くらいです。
既に出来上がっている二人なので、いちゃいちゃしています。
※2025.6.11までの本誌を読んで書いています。
──のそ、と身体を起こす。
カーテンを引いた薄暗い室内で目を覚ました彼、潔世一は、ヘッドボードに置いてある時計を一瞥したあと、携帯を手に取って設定しておいたアラームが鳴るよりも前に停止させた。
万が一、起き上がれなかった時を想定して午前八時に鳴るようにしていたが、現在は午前七時、アラームの一時間前だが普段よりも随分遅い時間に目覚めたことにそっと息を吐き、これぞ怠惰極まれりってやつ、と心の中で呟いて携帯を元の場所へと戻す。
腕を伸ばそうとした潔は、途中で動きを止めた。正直で素直な潔の身体が健気に『覚えていた』とはいえ久しぶりであったし、先日同じことをしてうっかり早朝から悲鳴を上げたのを思い出したのだ。潔はアスリートなので体力もあるし比較的痛みにも強い方だが、理由が理由なだけに色々と耐えられなかったのである。まあ『これ』に関しては潔も同罪だから、文句を言うつもりはない。
今日は大丈夫だろうかと恐る恐る身体を動かしてみるが、想像していたよりも簡単に身体が動いて潔は瞬いた。ここのところ起き上がることすら億劫だったというのにどうしたことか、ぱちぱちと瞬きを繰り返した潔はしかし、これ幸いとばかりに腕を持ち上げて身体を伸ばす。動けるなら丁度良い、毎日朝食を任せきりだったから久しぶりに振る舞うチャンスだ。潔は軽く上半身を捻る、鈍痛が身体を駆けていくが問題はない。
よし、と心の中で拳を握った潔は少し迷ったあとで横へ視線を向けた。
起き上がった潔の身体を離すまいとするような長い腕、あちこちへ跳ねている金とシーツに落ちる青の毛先、腕を動かした所為でリネンが中途半端な状態でかかっているだけの身体は実に逞しく、しっかりとした肩や厚みのある胸板が潔の目を惹きつける。
普段、人目のあるところで見せている冷たさと鋭さが形を潜め、他者の気配や動きにすぐ気付く性質も今は必要ないとばかりに休憩中のようだ。潔にだけ気を許した寝姿に胸の辺りがくすぐったい気持ちになり、もぞもぞと身体を動かす『それ』をだらしない笑みを浮かべて数分見つめたあと、潔は腰の辺りに巻きつく腕をそうっと外した。
本当は起こすべきだと分かっている。でも、穏やかな寝顔の前に声をかけるのは憚られた。それに、身体がまともに動く今日こそは朝食を用意するのだ、と決意したばかりである。相手は寝ていた方が潔にとって都合が良い。
そうなれば早くベッドルームを出て準備をするべきだがその前に──相手が目を覚ますことのないよう外した腕を慎重にシーツへと下ろし、潔はベッドを降りる前にひどく緩慢な動作で上体を傾ける。どうか起きませんようにと胸中で祈り、寝ていても美しさが損なわれることのない顔貌、その頬へと潔は柔らかな口付けを落とした。
相手が寝ている時は羞恥もなく好きに触れられるので、これは潔だけに許された行為だ。見られていない状態は潔を強気にさせる。
ん、と低く擦れた声が耳朶を打つ。唇を離して潔はうっとりと息を吐く、色っぽい。腹の奥が反応するのに慌てて相手と距離をとり、潔は今度こそベッドを降りた。
素足を床に下ろし、運良く近くに落ちていた自分の下着を身につけてから暗い室内へ目をこらす。昨夜、ベッドから放り投げた服がどこかにあるはずだ。照明をつけるかカーテンを開ければ話は早いが、そうすると起こしてしまう可能性があるので暗闇の中で探すしかない。飾り気のない黒のシャツだ、潔が一歩踏み出した瞬間、爪先に何かが触れた。
布の感触。潔は床のそれを持ち上げ、目の前に広げてみる。暗いのでよく分からないが、部屋の闇に溶け込むみたいな濃い色のシャツだ。恐らくは自分のものだろう、早く見つかって助かった。潔はいそいそとシャツに袖を通し、ボタンを留めながら音を立てないよう静かに足を動かす。
扉を開けて光が僅かに差し込むと、やけに袖が長いことに気が付いた。手の甲どころか指先まで隠れている。何か変だ。とりあえず扉の側にあったルームシューズに足を突っ込み、自分の身体が通れる最低限の幅だけ扉を開けて部屋を出ると、潔はゆっくりと扉を閉めたあとで両手を持ち上げて袖を折った──瞬間、ふわり、と鼻腔をくすぐる良い香りが広がる。
すん、と鼻を鳴らして香りを吸い込む。慣れ親しんだ香りだ、この一週間、潔の側に在って離れずにいたもの。
決して強い香りではない。
どこか清涼感のあるスパイスとローズやカルダモンの華やかな香り、柔らかなサンダルウッドに加え、深い甘みを感じられるバニラとアンバー。時間が経ってほんのり香る程度ではあるが、ずっと側にいたため潔のシャツへ香りが移ったのだろう。香水の類に詳しくない潔が覚えるくらいに相手が愛用しているらしいオードパルファムは、潔にも馴染んだものだ。同じ香水を潔の家にも置いてある、いや、置いていってもらった。
ふふ、とひとには聞かせられない浮ついた声を上げる。相手の纏っていた香りが潔の服へ移るのは今までにも度々あったが、今はそういうことがないので新鮮な気持ちだ。まあ、この香りが潔に合うかといえばそうでもないのだが、微かに残った香りを堪能している間に潔の香りと混ざり合って溶けるだろう。
今日は気分が良い。早めに起きれただけでなく動けるし、好きな香りには包まれているし、良い朝だ。潔は軽やかな足取りでリビングを進む。
ベッドルームの扉を開けた先は白を基調としたリビングとダイニング、それからキッチンへと続いており、一人で暮らすには十分な広さがある。セキュリティ面を考慮して選ばれた物件らしいが、この辺り、市の中心部から程近い場所においては標準的な単身者向けのアパートメントとのことで、余計なものを排除したシンプルな造りになっている。なお、部屋があるのはアパートメントの四階だ。
リビングの窓に近付いた潔は二重になっているカーテンのうち少し厚みのある遮光のそれを掴んで横へ引き、薄いカーテンの向こうから差し込む朝日に目を細める。
場所によって気候の違いはあれど、カーテンの隙間から見える空は快晴、雲ひとつない初夏の空の透き通った青はどこで見ても変わらず綺麗だ。生まれ育った日本で見たものも、そのあとミュンヘンで見たものも、今、ここで──マドリードで見ている空も。
カーテン越しに朝日を浴びながらぼんやりとしていた潔は、視界に入った時計の針を見て慌てて足をキッチンへ向けた。朝食の用意をしようとしていたのだ、ここ数日は毎日寝坊してしまっていたので今日こそ己の手料理を振る舞おうと先程決めたばかりである。
キッチンに辿り着いてすぐ冷蔵庫の中身を確認し、潔はてきぱきと朝食の準備に取り掛かった。
ヨーロッパ、ドイツ、バイエルン州の州都であるミュンヘン──潔が活動の場を欧州へ移したのは、もう四年も前の話だ。
潔は日本を熱狂の渦に巻き込んだ青い監獄計画を経て、数多のチームの中からドイツはバスタード・ミュンヘンのスカウトを受け、高校を卒業したあと早々に欧州へ渡りプロフットボーラーとしての道を歩み始めた。とはいえ、順風満帆に、とはいかない。いかに青い監獄計画で著しい成長を遂げていても、当時行われたアンダートゥエンティワールドカップの日本の優勝に貢献したとしても、潔は『プロ』としては新人だ。そう簡単に事は運ばない。
バスタード・ミュンヘンのスカウトを受けたもののすぐにトップチームへ上がれるはずもなく、潔はまずバスタード・ミュンヘンのセカンドチームへ籍を置くことになった。
当然と言えば当然だ、通っていた一難高校のフットボールの戦績は今ひとつであったし、試合で活躍することもなく二年次に離れて青い監獄計画へ参加したため、潔個人の実績はほぼないに等しい。潔が評価されたのはその『青い監獄計画』内の試合であり、二年前に現役を引退したノエル・ノアとのやりとり、バスタード・ミュンヘンの下部組織の選手たちと競い合ってプレーしていた姿が、新英雄大戦で最終的に二億四千万の価値を生み出した。
──でも、それだけだ。
その後、アンダートゥエンティワールドカップで優勝杯を手に入れたものの、日本代表に選ばれた他のストライカーたちも同様に評価されていたわけであり、青い監獄計画で一位を争った糸師凛と『ブルーロック代表』として矢面に立たされるくらいで、別段、潔だけが特別だったわけではない。
勿論、青い監獄計画の頂点を獲った冠は他とは別格だ。それに、総指揮であった絵心甚八に負けず劣らずのエゴイストぶりを発揮する潔であったので、自分の在り方には自信を持っている。だがしかし、世界は広い。青い監獄計画であらゆる国のプレイヤーと熾烈な戦いを繰り広げたとしても、それは世界の一部分でしかないのだ。
これまでの経験や手に入れた強さには意味がある。
潔がフットボーラーとして成長するのにあらゆることを吸収、自分のものにして覚醒を遂げたのも大きな成果だ。でも、一度や二度の成功で『望んだ全て』は手に入らないのである。そんな簡単なら面白いとは思わないし、ここまで熱狂することもないだろう。そういったことを含め、プロの世界では選手を厳しい目で見ている──要するに、東の国を騒がせた潔がトップチームに相応しいかどうかを『彼ら』は手元に置いて確かめたいわけだ。
それならそれでいい、と思う。確かめたいなら気がすむまでやればいいのだ。
潔は自分がどこに置かれようとも常に前を、上を見て折れることなく走り続けるだけであり、結果が必ずついてくることを自身が歩んできた道から学んでいる。自分の力は自分で証明すればいいだけのこと、潔はそうやって戦ってきた。第一、青い監獄計画では底辺からのスタートだった、この程度の扱いには慣れたものである。
元より、欧州リーグは自分が選んだ場所だ。世界一のストライカーになるという夢を、自身の望みを、潔が諦めたことは一度もない。甘いところよりも厳しいところの方がいい、未だ見ぬ強者が多ければ多いほど潔もやる気が出るし、勝って、下して、もっと先へと進む。やることは何ひとつ変わらない。
そうして、潔は一年ほどセカンドチームで自己研鑽に努めた。トップチームとは異なり二部リーグに所属するセカンドチームであるが、さすがは欧州、二部リーグでも相当にレベルが高い。プロの世界でプレーをし始めた潔は、新しい環境で練習に打ち込み、他のクラブチームとの試合を経て、一段一段、着実に上へと進んだ。
東の国から来た潔に対する差別や偏見は最初の頃こそ酷かったが、セカンドチームをあっという間に平らげて中心的存在になってからは少なくなり、半年もすればチームメイト達との関係はレギュラーの座を争うライバルでありながら気安い関係に落ち着いた。敵視してくる相手を練習や試合で使い倒して潰す様を見て、お前フィールドだとマジで性格変わるよな、と笑って話されても冗談を返せる程度には。
拙いドイツ語も一年現地にいて聞き続けて口にしていればかなり上達するもので、まだ分からない言葉も多いが、日常生活や練習、試合などで困ることはない。ただ、煽られたり嫌味を言われたら絶対に言い返したいので、それだけは完璧だった──あの男を思い出したから、である。
──ミヒャエル・カイザー。
トップチームに籍を置くカイザーとは、ほとんど顔を合わせることはなかった。
同じバスタード・ミュンヘンというクラブチームに所属しているとはいえ、一部リーグと二部リーグでは練習や試合のスケジュールは異なる。更に、潔はバスタード・ミュンヘンが用意してくれたクラブチームの管理する選手寮に住んでいたけれど、カイザーはミュンヘン市内で既に一人暮らしをしていたため、プライベートで会うことはほとんどなく『偶然見かける』程度でしかなかった。青い監獄計画時代が嘘のように。
時折、トップチームの練習を見る機会があると、潔はカイザーの姿を探した。色々な意味で目立つ男なので探すのに苦労はしないし、カイザーを視界に捉えることは潔にとって『慣れたもの』だ。青い監獄計画時代、試合中は意識しなくてもカイザーの存在を感じとることが出来ていただけでなく、相手も目を合わせずに潔の場所を把握していたのだから。
試合も出来る限り観ていた。敵味方共にレベルも質も高い試合は自分のプレーに活かせる技術や戦術が多く、非常に参考になる。青い監獄計画やアンダートゥエンティワールドカップを経て成長したカイザーの、更に磨き上げられた苛烈で高火力を誇るプレーは圧巻だ。
潔はトップチームの練習や試合分析を欠かさず行い、学び得たものをセカンドチームでの己のプレーに反映させていった。強敵に事欠かなかったのは幸いだ。潔はコーチやチームメイトにも話を聞き、貪欲なまでに『強さ』を求め、フットボールプレイヤーとして自身を高めることに妥協は一切しなかった。
カイザーとは一年、終ぞ言葉を交わすことはなかったけれど、潔がバスタード・ミュンヘンのトップチームの練習を見る際は必ず目が合ったし、試合観戦では何万といるサポーターの中から彼は潔の姿を探し当ててみせたし、言葉がなくともお互い『ここにいる』という感覚はずっと持っていたように思う。
どうしても、意識せずにはいられない。
潔はひとりでありひとりでないような不思議な感覚を抱えたまま、バスタード・ミュンヘンが寄せた期待を裏切ることなくセカンドチームで活躍を続け、シーズン後半ではフォワードとしてワントップを任されるか、戦場の指揮権を容易く握るような緻密なゲームコントロールを行い、尚且つ、積極的に点を取りにいくオフェンシブミッドフィルダーとしてフィールドを駆けた。
瞬く間に一年を駆け抜け、多少なり調子を落とすこともあったが潔はワンシーズンでチームの誰よりも結果を残し、トップチームへの切符を手に入れた──ドイツ、ミュンヘンへ渡って丁度一年後の初夏のこと。
セカンドチームのリーグ優勝を盛大に祝い、色々問題はあったが良きチームメイトに恵まれた潔は皆の激励を受けつつ、オフシーズンに入ってすぐ籍を移す手続きを行った。本人が確認しなければならないのは理解するが、非常に細かい内容は読むのに目が滑る。他チームから移籍してくる選手や、逆に他へ移籍する選手達に混ざって事務処理をこなし、潔は正式にバスタード・ミュンヘンのトップチームに名を連ねるに至った。
新しいスタートを切ったこの夏、潔はようやく近くて遠い『彼』の手を掴んだ。それは、ドイツに渡ってから一年越しに叶った『再会』である。
──運命の女神は実に気まぐれで、天秤を傾かせるのも突然だ。
潔がトップチームへ昇格した年、新たなシーズンが始まる前、バスタード・ミュンヘンのチーム全体の士気を高めるために決起集会のようなものが行われた。
ミュンヘン市内にある五つ星ホテルの豪奢なホールを貸し切り、スポンサーなど選手以外の関係者も招いて行われた大々的な会は、あまりの煌びやかさに目が眩む。だが、不参加、というわけにもいかない。潔は上がってきたばかりであるしトップチームの一員だ、それに、今後も似たようなことはある。仕方ない、と潔は青い監獄計画時代やセカンドチームの一年で着慣れたスーツを身に纏い参加した。
開始は十七時、終了予定は二十時。
窮屈さを我慢して聞いていた『偉いひと達』の長ったらしい挨拶が終わると、立食形式のパーティが始まった。
スポンサー企業に関係する着飾った紳士淑女が歓談を楽しみつつ、バスタード・ミュンヘンの上層部や選手たちへ励ましの言葉をかけたり、また、別企業の関係者と腹の探り合いみたいな話がホールのあちこちで飛び交う。選手のための決起集会とはいえ、裏を返せば社交の場だ。とはいえ、用意された料理や酒は一級品であるし、社交辞令が含まれていてもプレーに対する賞賛は選手のモチベーションを高めるのに効果がある。
そんな中、豪華絢爛な催しに慣れない潔は空気の重さに耐えかね、オードブルを適当に口に放り込んだあとはちびちびとシャンパンを飲んで壁沿いに設置された椅子に身を縮めて座っていた。自分だけ場違い感がすごい、としか思えなかったのである。
渡独してから所属したセカンドチームでも決起集会は行われたが、さすがにここまで規模が大きくもなくラグジュアリーな空間でもなかったし、堅苦しさがあまりないアットホームな感じだった。勿論、バスタード・ミュンヘンのトップチームのスポンサーほどではないが、セカンドチームを支援してくれている企業は多数ある。でも、トップチームとは雲泥の差だ。参加者を見ても『質』が違う。
トップチームに上がったのは良いけれど、こういう場の空気は前の方が潔の性に合っていた。フットボールだけしていたいのが潔の本音だが、バスタード・ミュンヘンのトップチームに籍を置く選手はつまるところ『顔』である。そして、クラブチームに資金力が大事なことは潔もよく分かっていた。
ビジネスパートナーに気持ち良くお金を払ってもらうのに、顔を売って円満な関係を築いておくことは大事だ。理解はしているが、慣れないものは慣れない。
料理も酒も美味しいけど早く終わらないかな家に帰って寝たい、と思っていた潔はホールの隅から対角に出来ている人だかりへちらりと視線を向けた。
様々なひとが集まるその中心にいるのは、金と青のグラデーションに染まった髪をひとつに結え、特徴的な青薔薇を上等なスーツに押し込めた美丈夫──ミヒャエル・カイザーである。
赤の差す瞳に気付かれない程度の苛立ちと鬱陶しさを乗せ、話しかけてくる人に慣れた様子で対応している姿は普段の彼を知る潔からすれば胡散臭いことこの上ない。恐らく、カイザーもパーティは面倒だと思っているのだろうが、表に出すことをせず『大人』の対応を心掛けているのだろう。トップチームでも圧倒的に目を惹く派手な外見に引き寄せられるひとは多い、ご苦労なことだ。
遠くから見ても、カイザーがどこにいるかはすぐに分かる。青い監獄計画時代、新英雄大戦、各チームとの試合の最中、潔はずっとカイザーを見ていた。彼も潔をずっと見ていて、その思考と行動をトレースして、お互いの動きを常に意識していたのと同じである。
潔はカイザーのことを無意識に目で追っているのに気が付いて、うわ最悪、と胸中で悲鳴を上げてカイザーから目を逸らした。
多分、習慣になってしまっているのだ。セカンドチームにいた時も、トップチームの練習や試合を見る度にカイザーを探していたのを思い出す。フットボールに関係することならまだしも、今はフィールド外。身に付いてしまった癖とはいえ、なんて嫌な癖だ。セカンドチームにいた頃には何も思わなかったのに、今更、無意識に、無自覚に、カイザーを見ていたことが恥ずかしくなる。
これから同じチームでまた一緒にプレーをするのに、変な態度を取っていたら不審に思われるだろう。でも、目が勝手に動く。改めて自覚してしまったらどうにもならなくて、潔はもう一度カイザーを見ようと視線を向けた。先程見た時と表情に変化はないが、カイザーの苛立ちが笑みの下に見え隠れする。
潔選手ですよね、と聞き取りやすい英語で声をかけられたのは、カイザーの憎らしいくらいに完璧な『取り繕った』笑みの仮面に、潔が何とも言い難い感情を抱いた時だった。
グラスをテーブルへ置いてから声のした方へ顔を向けると、そこに立っていたのは淡い色合いの清楚なドレスを纏った可愛らしいひとで、潔はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
この会場にいるひとの八割くらいの顔を潔は知らないが、チームの関係者には見えないのでスポンサーに連なるどこかの企業のご令嬢であることは間違いないはずだ。しかし、上流階級に座す令嬢が自分に声をかけてくる理由が分からず、潔は首を傾げる。
可憐な令嬢と面識はない。
トップチームに昇格して日が浅い潔はまだ公式戦には出ていないし、練習は非公開のものしか行われていないので、どこで潔を知ったのかが不明だ。だが、セカンドチームから上がって早々にレギュラーメンバーに選ばれたそうですね、とにこやかに言われて合点がいった。セカンドチームを呑み込んでトップチームへ昇格した異国のプレイヤーの名前は知れ渡っているので、彼女は潔の容姿から当たりをつけて英語で声をかけてきたのだと思われる。
無下にも出来ず、潔は立ち上がって彼女へ失礼にならない程度の距離感を保った挨拶をした。カイザーの『表向き』は穏やかな笑みを張り付けた顔を見て潔はすぐに学んだのだ、対応は慎重にするべきだ、と。
当たり障りない話題を潔でも分かるように丁寧な英語で話してくる彼女はしかし、どこか探るような感情を言葉の端々に乗せてきた。
打算的な思惑などは特に感じられなかったものの会話の主導権は常に彼女にあった、何せ、潔はこういった場での『駆け引き』は苦手なのである。フィールドでなら喜んで応じるが、ここは令嬢が本領を発揮するテリトリーであるホテルのホールで、彼女はそれなりの立場があるひとだ。場慣れしていない潔では太刀打ち出来ない。
ホールの隅で適当に料理を摘んで酒を飲んでいるだけの潔と、恐らくは企業か親の意図を汲んで明確な目的を持ってこの場に臨んでいる彼女とでは『覚悟』が違う。
名が知られてから話しかけられることはかなり増えたが、積極的なひとを相手にしたことがなく、女の扱いも不慣れでどうしたらいいのか分からず、曖昧に笑って相槌を打つ以外に手がなくなってきた頃だ。声をかけてきた時から一貫して崩れない令嬢の笑みに僅か、獲物を捕らえるような鋭さが宿った。今の会話の流れのどこかに隙があったのだ、見逃さない辺り見た目に反して強かな令嬢である。
冷や汗をかく。
後ろは壁で、目の前は令嬢。
スーツを着るのには慣れたはずなのに、きちんと留められたボタンとネクタイの所為で妙な息苦しさを覚える。礼を欠く行動や言動には注意しなければならない上、潔は現状、打てる手が何もない。潔に相応しいとは思えない言葉を連ね、令嬢の嫋やかな腕が潔へ伸ばされる。上手く躱せるスペースがない、潔がひくりと口元を引き攣らせ──すい、と長い腕が潔と令嬢の間を遮った。
黒のスーツ、長い腕、手首を這う荊棘と手の甲に刻まれた王冠の刺青。
指先が伸び、テーブルに置かれた潔の飲みかけのシャンパングラスを掴んで持ち上げる。流れるような仕草でグラスを揺らし、いつの間にか隣に立っていた美しい男が潔の肩を右手で抱いて微笑んだ。
目に映る酷薄な笑みに、ひゅう、と喉が鳴る。
何も知らないひとが見れば完璧なその微笑は、カイザーがひとを欺くのに使う『仮面』のひとつだ。カイザーは感情の見えない顔と声で、世一がご迷惑をおかけしたようで、と言ったあと続けて、あまり酒に強い男でないので粗相をしていても寛大な御心でお許しいただけますかレディ、と淀みなく口にする。有無を言わさぬ雰囲気とカイザーの美貌に瞬いた令嬢は、それにも揺らがずゆっくりと頷いた。
遠くにいたはずだ、潔が遠巻きに彼を眺めていた時は距離があった。なのに、カイザーは令嬢へ視線を向けたまま、素知らぬ顔をして潔の肩をやんわりと抱き寄せている。
令嬢との間に自然に割って入ったところを考えると、多分、潔の様子を見ていたのだ。対応に手間取り、戸惑っていた潔を見かねて助けてくれたのが分かる。でも、何故、困っていることが分かったのか──あ、とカイザーの横顔を見上げて思う。
見ていたのだ、本当に。潔がずっと彼を目で追っていたのと同じように、カイザーもまた潔を見ることが癖になっているからすぐに気が付いた。言葉も声もなく視線ひとつで意思疎通を図ろうとしたのは、今この時だけではない。
ぱくぱくと口を開閉させて言葉を失った潔を他所にカイザーが令嬢へ向け、世一のお相手を有難うございますあとは私が預かりますのでレディはどうぞごゆっくり、と聞いたことのないくらい綺麗な言葉遣いで告げる。どう考えてもこの場を離れるための方便だが、息を呑むほど美しい笑みを向けられた令嬢はとうとう耐え切れずに顔を真っ赤にして近くにあった椅子へ倒れるみたいにして座り込んだ。
同年代か年下と思われる令嬢に対して一切容赦がない、如何にパーティに慣れた彼女といえどカイザーが意図的に作り出した黄金比の仮面の前では無力である。恐ろしい、目的のためなら使えるものは何でも使う、といったところか。
声が出ずこくこくと頷くのに精一杯な様子の令嬢を見下ろし、カイザーはすぐに表情を失くして潔の肩を抱いたまま歩き出した。切り替えが早すぎる、相手の視界から外れた途端に『いつもの』カイザーだ。
ホールの壁へ沿うようにして歩くカイザーに倣い、潔も足を動かす。肩を抱かれているので強制的な移動ではあるが、人の少ないホールの出入り口へ向かっているのが分かるので抵抗はしない。途中、ボーイへシャンパンのグラスを預ける代わりに水の入ったグラスを受け取ったカイザーが、それを無言で差し出してきた。潔は素直に従って受け取り、口をつける。そこまで酔っているわけではないが、緊張で口が渇いて仕方なかったので有り難い。
中身が空になるとカイザーにグラスを奪われ、彼はすれ違った別のボーイへそれを預ける。スマートだった。いかにも『慣れている』カイザーの行動に、ちくり、と心臓の辺りが痛む。いや、痛むというよりも『もやもや』するという方が正しい。行き場がなくて昇華も出来ない不確かな感覚。
カイザーは場数を踏んでいるのだから当然のことなのに馬鹿らしい、自分だけなわけがないだろう──そこまで考えて、潔は微かに頭を振る。
自分だけだと思い込んでいる、潔はすぐに思考を停止した。青い監獄計画時代は手が届くほど近くで、セカンドチームの頃は遠くから見るだけで離れて、トップチームに上がってまた距離が近付いたから感覚が変なのだ。カイザーが潔と同じように自分を見ていたからといって、潔だけが特別なわけではない。カイザーにとって潔が因縁の相手であることに間違いないけれど。
ホールの外へ出ると人並みに逆らって廊下を進み、角を曲がった先にある円状の休憩スペースへ辿り着くと、カイザーはすぐ手前の椅子へ潔を座らせた。潔は隣に腰を下ろすカイザーを見て視線を彷徨わせたあと、ありがとう助かったよカイザー、と礼を述べる。カイザーが何を思って行動を起こしたのかは分からないが、結果的に助かったのは事実だ。
素直に礼を口にしたことを茶化されるのかと思いきや、カイザーはじっと潔を見つめたあとで唐突に指を伸ばしてきた。なんだろうと思ってカイザーの指先を視線で辿ると、潔のネクタイのノットに指を引っ掛けて位置を下へ動かす。次いで、きっちりと留められているボタンをひとつ、片手で器用に外した。どうやらカイザーは潔が苦しそうだったのを見て襟元を寛げてくれたらしく、窮屈ならそれくらいにしておけこの場なら許容範囲だ、と言う。
カイザーと直接顔を合わせたら、絶対、青い監獄で出会った時のように嫌味を言われるか煽られるのだろうなと身構えていたのに、潔の様子を見て水をくれたり首周りを楽にしてくれたりと、やけに柔らかな雰囲気を纏っていて拍子抜けだ。考えてもいなかった穏やかな空気がむず痒い。
なんだよこの感じ変というか俺たち前はこんなじゃなかっただろうが、と心の中で焦る。フィールドで睨み合って酷い言葉の応酬を繰り広げていた過去の自分達はどこへいってしまったのか。
返事が出来ず黙り込んだ潔に、お前は本当に変わらないな、と目を細めて屈託なく笑うカイザーの顔を見てきゅっと胸が締め付けられる感覚に襲われる。ホールで人に囲まれていた時や令嬢を遠ざけてくれた時に見せた顔と、まるで別人だったからだ。潔に向けられる年相応の表情は、揶揄い混じりでありながら、どこか、潔が変わっていないことに安堵しているようにも見えた。
他の誰にもしない、潔だけが特別──先程放棄したばかりの有り得ない思考が、現実味を帯びてくる。
馬鹿にしてんのかよと苦し紛れに放った潔の言葉がスイッチの切り替えになったのか、世一くんはいつまで経ってもお子様だなって言ってんだよとカイザーに返されて、いつかの二人の空気が戻ってきた。渡独して一年、セカンドチームにいた頃は接点という接点がなかったのに、離れていた年月など関係がないという彼とのやり取りに安心する。カイザーが潔の在り方に安堵しているように見えたのも、同じ理由だったのかもしれない。
それから二人は、離れていた間のことを色々と話した。二人だけの休憩スペースは、存外、居心地が良かったのである。
主にトップチームにいたカイザーへ潔が質問してばかりだったものの、彼も彼で潔がやってきたことに興味があるらしく、フットボールの話になれば昨シーズンの試合について意見を交わし、健在だったカイザーのマウント癖もあって口喧嘩を間に挟みながら互いにホールでは見せなかった顔をした。
ぷつりと会話が途切れたのは、休憩スペースへ来て三十分近く経った頃だ。沈黙が降りたあと、少し迷う素振りをしたカイザーはお前がいないとクソ退屈だと言って潔を見てきた。これからは潔がいるから退屈しないと言われているのだと分かって、潔は高揚した気分で頷く。フットボールについて彼にここまで言わせられたことが、潔を最高の気分にさせたのだ。
他者を蹂躙し踏み潰してきた、捻じ曲がった性格の男が言う、その破壊力たるや。
──紙一枚で認められたトップチームへの昇格を、潔はここで実感したのである。
探しましたよ、と疲れた顔をして休憩スペースへアレクシス・ネスがやってくるまで、潔は時間を忘れてカイザーと話を続けた。決起集会が始まった時は早く終わらないかなと思っていたのにも関わらず。
なお、ネスもバスタード・ミュンヘンのトップチームに籍を置き、変わらずカイザーと共にいるが前よりかなり我が強くなったらしく、カイザーに負けじと言い返す姿を見せている。潔に対するネスの態度も変化はないけれど、やっとトップチームまで来たんですか世一遅すぎです、と彼らしい『歓迎』の言葉を述べてくれたので思わずにまにまと笑ってしまった。なんですか気持ち悪いと言われたが、潔は気にしていない。
この日を境にして、潔は再びカイザーと言葉を交わすようになった。視線だけを合わせていた日々が、もう随分と昔のことのよう。
潔とカイザーは急速に距離を縮め、最悪な面をお互い散々見せてきたため気を遣う必要もなく、明け透けな物言いでぶつかっては周囲が止めに入るほどの口論をし、青い監獄計画時代さながら試合で支配権や得点数を賭けて競い合ったかと思えば、手を組んで敵を蹴散らしたりした。
同じチームでフィールドにいるとやりにくいけどやりやすい、言葉にすると多分これだ。
相反する感覚を持て余しつつ、潔とカイザーはトップチームで暴れに暴れた。その狂騒はシーズン前半を呑み込み、個性的な選手達を束ねる監督が二人の使い方に頭を抱えたほどである。
気を張らず、嫌な面を見せ、意外にも静かなところがあるカイザーとプライベートも共にすれば、フィールド外では両親に似てごく普通で穏やかな性格の潔の気持ちに変化が起きるのは必然──つまり『それ』は不可避のこと。トップチームに上がった年のウインターブレイクを前にして、潔はカイザーへの好意を自覚した。勿論これは友愛などではない、数多の欲を含んだ潔の『初恋』だ。
そう、恋、である。
嘘でも冗談でもなく、潔はあろうことかカイザーを好きになってしまった。言い合いを繰り返すような仲なのに、知らない面を知って長く側にいたらいつの間にか落ちていた。我ながら単純だと思う、だが、理由なんてあってないようなものだ。
なんでカイザーを、とか、さすがにこいつだけはあり得ないだろ、とか、様々なことを考えた。シーズン後半が終わるまで半年ほど自問自答を繰り返したがしかし、いくら考えても潔の感情は変わらない。付け加えると、カイザーも潔のことを憎からず思っているような節があった。
笑顔の素敵なひとが好みだったはずなのに、潔が現実で好きになった相手はよりにもよってカイザーである。自分のあまりの趣味の悪さに思い悩んだが、それでも好きなものは好きだったし、フットボールは上手いし話も出来るし、見目とは裏腹に粗野で口が悪くて性格も捻くれているのに、勤勉で努力家で真面目──カイザーの隣は気が楽で、潔が今いる場所を他の誰かに渡すのは嫌だなと思ったら、認めざるを得なかった。
──潔世一は、ミヒャエル・カイザーが好きだ。
初めての恋に戸惑った潔だったが、カイザーを相手にして様子見が出来るような余裕はない。難のある性格を差し引いても整った顔立ちはひとの目を惹きつけるし、彼は何よりもフットボールが上手い。カイザーに懸想するひとは多いのだ。迷っている間に邪魔をされる可能性はある。横槍を入れられるのは癪だ、奪われるなんて以ての外。出会いから考えるとスタートダッシュに出遅れているのは否めないので、速戦即決が望ましい。
恋をしたことがないためアプローチも何も分からない状態ではあったが、フットボールに置き換えれば行動指針は定められる。うかうかしていられない、と腹を括ったら潔の行動は早かった。
幸いカイザーが特定の誰かを側に置いている様子は見られないので、仕掛けるなら今だ。潔は夏のオフシーズンに入ってすぐ、カイザーと休暇を過ごす約束を取り付けて自分の家へ招いた。敵を落とすなら、有利な状況を作れる己のテリトリーで退路を断って戦うべき、と考えたからである。
舞台を整えた決戦の日、潔はカイザーを前にして何の捻りもなく奇を衒うこともなく、真摯に感情を込めて好きだと告白した。
真っ直ぐに告白をしたが、カイザーは潔の言葉に戸惑った顔をして黙り込んだ。恐らく、潔から好意を寄せられているとは一ミリも思っていなかったに違いない。普段の潔とのやりとりや二人の出会いを考えれば、カイザーの反応は当然だ。
でも、好意とはかけ離れた関係の中にだって、分かりにくい優しさや不器用な歩み寄りがあった。潔だけはそれを知っている、たとえ、カイザーにその自覚がなくても。
誰が誰を、俺がお前を、その好きはどういうやつだ、恋人になりたいって意味だけど、マジかよ、マジだよ、世一、なに、エイプリルフールは過ぎたぞ、俺の誕生日なんだから知ってるに決まってんだろ、あーなんだオメデトウ、はいはいありがとう今よりもぎこちないお祝い当日に聞いたっつーの往生際悪いな──意味不明な会話をしたあと、カイザーは潔を見つめて口を閉ざす。
現時点では潔が優勢だ。告白を受けて嫌悪感があれば、カイザーは即座に断るか切って捨てる。それをせずに無関係な話題で会話を引き延ばして考える時間を稼いだということは、少なくとも、彼は潔の好意を前向きに受けとめてくれているはずだ。潔は焦らず、カイザーの様子を観察した。
目が合う、十秒経過、無言、カイザーの視線が僅かに下を向く。
油断したところで攻勢に出るのは勝負において定石だ、潔はカイザーが驚きと困惑で何も言わないのをいいことに、いかに自分が彼を好きか切々と語った。まずは潔の気持ちが嘘ではないと信じてもらうことが大事だ。
だがしかし、潔は色恋に関係する語彙力が皆無なため上手く言葉が出てこない。罵詈雑言であればいくらでも言うことが出来るのに、好きだと伝えることは難しかった。でも、明確な返事をもらえてないのに引き下がるなど御免だ。欲しいものは欲しいと主張する、潔はここぞとばかりに押して押して押しまくり、最後に駄目押しで愛してるとまで言った。恥ずかしくて仕方がなかったが惜しんだら負けである。
カイザーを頷かせるためなら何でも使う。いつか、彼が見知らぬ令嬢を突き放したように。
静まり返った室内で、潔とカイザーは目を合わせたまま固まった。赤の差す美しい青が潔を捉え、複雑な色を見せる。心の内側を見透かされている気分だったが、潔がカイザーへ口にした好意に嘘はひとつもないので真正面から彼の青を見つめ返した。堂々としていればいい。カイザーに向ける恋慕を隠さず瞳へ乗せ、潔はきゅっと唇を引き結ぶ。
数分か、数十分か。
だんだんと嫌な方向に思考が傾きかけた時、突然カイザーが堪えきれないといったふうに声を上げて笑った。お前が本気かどうか試しただけだ、泣きそうな顔すんなよ、世一から好意を向けられるのも悪くねぇな、愛してるは効いたぞ、と一頻り笑ったあとでカイザーが次々に告げた言葉が右から左へ抜けていっても仕方がないと思う。
つまり、なんだ──本当に好かれているのか判断がつかなかったので洗いざらい吐かせた、ということである。冗談で告白するわけがないのに、なんというか、そう、好意の受け取り方が下手くそな男だ。素直にそのまま受け取ればいいものを。
呆れ返った潔にカイザーは、これで嘘と言われたら洒落にならねぇからなほら石橋を叩いて渡るってお前の国では言うんだろ、と続けた。恋人になってと健気に願った相手に対してこの仕打ちである、俺が悩んで言葉を尽くした時間を返せこの野郎。潔は憤りを感じたが、揶揄いつつも珍しく嬉しそうな表情を隠さずにいるカイザーを見たら何もかも全部馬鹿らしくなってしまった。
カイザーは左手を伸ばし、潔の頬に掌をあてる。肌を撫でるそれに潔が顔を寄せると、どこか満足そうに──俺も、と聞き逃してしまいそうなほど小さな声でカイザーは潔の告白に応えてくれた。好きだと言わせられなかったことは悔しいが、この時のカイザーに出来る精一杯の返事であることに違いなかったので、潔はカイザーの手を掴んでしっかりと頷く。彼の頬が少しだけ赤みを帯びていたのは、黙っていてやることにした。
こうして潔の思いは驚くほどあっさりと成就し、二人は晴れて恋人同士という関係を手に入れたのである。
あの『ミヒャエル・カイザー』と恋人の関係になるなど、人生、何がどうなるか分からないものだ。出会った時の最低最悪のやりとりが懐かしい、青い監獄計画時代の潔が今の潔を見たら、嘘だろどうかしてるマジで冗談だと言ってくれ考え直せよ、などと混乱して全く信じないだろう。
「──折角だし、今度はスペイン料理にもチャレンジしてみようかなぁ」
懐かしい記憶の再生を終了した潔は、ハムとトマトときゅうりをバゲットに挟んだサンドイッチを木製のプレートに並べ、ほうれん草とじゃがいもと玉ねぎを使ったオムレツを切り分けて皿へと移しつつ、恋人の胃袋は掴んでおけっていうし、と思考を切り替える。
アスリートとして、フットボーラーとして活動するために必要な栄養などを考慮するなら、料理のレパートリーが多くて困ることはない。折角『本場』にいるのだから、スペインの料理を食べ歩いて味を覚え、今後の食生活に新たな彩りを加えたいところである。マドリードへ来てから一週間、観光という観光もあまりせずにこの部屋で過ごすことの多い潔はスケジュールを頭の中へ浮かべ、プレートと皿をダイニングテーブルへ持っていく。
本来であればドイツのミュンヘンにいるはずの潔が、どうして活動拠点より飛行機で約三時間離れたスペインのマドリードにいるのかといえば、今、ブンデスリーガは初夏のオフシーズンであり、潔はそのバカンスをマドリードで過ごしているからだ。
何故か。
答えはひとつしかない、潔の恋人が、ミヒャエル・カイザーがマドリードに居を構えているのである──そう、カイザーは、潔とバスタード・ミュンヘンでふたつのシーズンを共に駆け抜けたあと、一年前の夏にスペインはラ・リーガで圧倒的な強さを誇るクラブチーム、レ・アールへ移籍をしたのだった。
欧州五大リーグのひとつであるラ・リーガに所属する、本拠地をスペインのマドリードに置く世界でも上位に座す大規模なクラブチーム。
フットボールチームだけでなく他にも様々なスポーツチームを抱え、マドリード都心の北東、マドリード・バラハス国際空港の近くにあるバルデベバス公園の敷地内に世界一の広さを誇る巨大な練習施設を持っている。どの面から見ても一流であり最高峰、数多のアスリートが籍を置いてプレーすることに憧れるチーム──それが、レ・アールだ。
そんなクラブチームに、カイザーは二年契約で移籍をした。二年という期間で交わされたその契約には、様々な理由がある。
レ・アールは規模の大きさに比例して選手層も厚く、どの選手もトップチームで起用出来るひとばかりである。カイザーのポジションであるフォワードだけでもかなりの人数を確保しているが、クラブチームは有望な若手選手の獲得に常に精力的で各ポジションは人員不足と無縁だった。主力選手が欠けても持ち堪えられるだけの底力がレ・アールにはある。
だがしかし、二年前のシーズンは違った。
怪我による複数の前線選手の離脱、長くチームを支えた選手の引退、攻撃の要となる選手の移籍、更には下部組織での育成が追いつかない事情が加わり、レ・アールは早急にトップチームの補強が必要となったのである。即戦力且つ攻撃力に秀でて、今ではチームの心臓でもある糸師冴のパスを難なく受けられ、前線を張るレオナルド・ルナというストライカーと肩を並べられるか、それ以上のプレイヤーが。
そこでレ・アールが目をつけたのが、当時、バスタード・ミュンヘンで潔と共にチームのツートップを担っていたミヒャエル・カイザーだ。
元々、レ・アールはカイザーの獲得に対して意欲的だった。カイザーはフットボールプレイヤーとして申し分ない実力を有し、ドイツではナショナルにおいて圧倒的な火力でもって敵をねじ伏せる、スペインから見れば国際試合などで辛酸を嘗めた相手である。だがしかし、言い換えればそれはレ・アールが欲しているプレイヤーの証でもあった。
即戦力になる上に高い攻撃力を持ち、冴と同じ新世代世界十一傑に名を連ねた、レ・アールの不足をひとりで補える選手。獲得に動かない理由はなかった。
でも、カイザーはバスタード・ミュンヘンでトップに立つプレイヤーだ。移籍の交渉をするにしてもタイミングがあるし、カイザーは現チームとの契約が途切れたことはない。
やはり縁がないかと思われたが、レ・アールは運を掴むことに成功した。カイザーはこの年、タイミング良くバスタード・ミュンヘンとの契約更新の境にいたのである。今までは時期が悪くカイザー自身やバスタード・ミュンヘンに素気無く断られてきたものの、季節は折しも初夏、各国リーグは短い移籍期間の最中、レ・アールはカイザーというトッププレイヤーを手に入れるために多額の移籍金を積む用意があった。
──役満だ。
斯くして、レ・アールとバスタード・ミュンヘンはカイザーの移籍に関して長く交渉を重ね、一年前の夏の移籍シーズンにカイザーはレ・アールへ籍を移した。この辺りは公にされていないので潔も詳しい事情は分からないが、半年やワンシーズンといったレンタル移籍を選ばずに二年契約を結んだ理由は恐らく、様子見であったのだろうと思う。
カイザーほどのプレイヤーなら一年もあればチームは呑み込める、そのあと、戦線離脱していた選手達が戻ってきた時にどうするか、チームへ新たに加わった選手たちとの相性、そして何より、ラ・リーガで最多優勝を誇るレ・アールに更なる勝利をもたらせるかが鍵だ。残りの一年はそのための時間。まあ、バスタード・ミュンヘン側が、二年経ったら返せ、と迫ったとも考えられなくはないが。
真相を探ったところで無意味だ。とにかくカイザーは、あと一年、レ・アールとの契約が残っている。その先のことは双方のクラブチームとカイザーが考えるものだ、他者が口を挟むことではない。
潔は彼がどんな決定を下そうとも構わないと思っている、何故なら、二人にとって物理的な距離は問題でないし、フットボーラーである自身のキャリアを考える上で移籍は常に選択肢のひとつだからだ。相手が将来を見据えて出した結論であるならば、フットボーラーとして、恋人として、快く背を押し、時には支えてやるべきだろう。移籍については潔も他人事ではないし、それに、どうせ『最後』は一緒なのだ。
二人はとうに、互いの人生を預けた仲なのである。
「──世一、勝手に離れんな」
ぎゅう、と潔の身体を背後から覆うようにして長い腕を巻き付けてきた相手が、不機嫌さを隠そうともせずに言う。
王冠から荊棘の刺青が目に入って、潔はゆるゆると口角が上がるのをどうにか堪えて代わりに溜息をついた。寝起きが悪いのは相変わらずで、普段、ちゃんと練習や試合に間に合っているのが不思議なくらいである。潔は頭を後ろに立つ男の肩へくっつけたあと、己の腹部を覆う刺青を撫でた。
朝に弱い男の、恋人の拗ねた様が可愛く見えてしまうので、怒るに怒れないからどうしようもない。めちゃくちゃ浮かれてんなぁ、と思う。
「お寝坊さんだな、カイザー。おはよう」
ゆっくりと顔を傾けた先にあったのは、潔がベッドの上で起こすのを躊躇った相手、己の恋人であるミヒャエル・カイザーのぼんやりとした表情だ。元々顔貌が整っているからだろう、寝起きの凶悪な顔だというのにカイザーは爽やかな朝の陽光が霞むほどの眩い美貌を維持している。
好みはあるものの、潔は基本的にひとの外見に興味や関心があまりない。だが、そんな潔ですら見慣れているはずの美丈夫の姿に思わず惚けてしまうことは少なくない上、カイザーの容姿は年々磨きがかかっていて手に負えない方向に突き進んでいた。
更に恐ろしいことを言うと、カイザーの非常に麗しい容貌は『素材の良さ』がそのほとんどを占めているため、別段、特別な手入れを必要としてない。美容に熱心なひと達が聞いたら、なにそれ羨ましい、と口を揃えて言うだろう。アスリートとして各種ケアは当然行うが、使う物もやり方も潔と大差ない、いや、嘘でも冗談でもなく。
ツラの良さなんざフットボールに何の関係もねぇだろうが、とはカイザーの弁だが、自身の外見に無頓着ながら他者に己がどう見られているかを良く理解している男であり、人前に出る際はきちんと整えられることもあってか、相乗効果でカイザーの美形の度合いは今に至るまで天井知らずである。
そんなカイザーへ好みを聞くと、世一、と間髪入れずに返ってくるので優越感を抱いているのだが、それは当然ながら秘密だ。
鼻先をカイザーの美しい輪郭に押し付けた潔は、ふ、と笑みを浮かべてからそこへ軽く口付けた。伸ばした手で髪に触れ、寝癖を指で梳いて整えてやる。すっかり恋人の距離感と触れ合いを覚えた潔のキスに、カイザーが頬を擦り寄せることで応えた。
「
……
おはよう」
「離れるな、なんて言うなら手加減なんかしなきゃよかったのに」
「
……
世一が、今日はマドリードの観光をしたいって言ったからだろうが」
じゃなかったらいつも通りにしてる、と未だ夢現を彷徨いながらカイザーが言うので、潔は殊勝じゃんと揶揄おうとした言葉を喉の奥へと引っ込めるしかなかった。まあ、それはそうだろう、カイザーが何も考えていなければ潔は今でもベッドの住人だ。これでもかなり遅い起床だが、身体の状態を考えると先週よりはかなり『マシ』と言える。朝起きた時に驚いたものだ。
潔がマドリードへやってきて、カイザーの元でオフシーズンを過ごし始めて一週間、二人は離れていた時間を惜しむようにして互いの身体を貪った。
最初の三日間はカイザーのベッドルームとバスルームを往復するだけで、必要最低限の食事を摂取するくらいしかしていない。二人きりの褥で朝も夜も関係なく耽り、カイザーの手でどろどろに溶かされ甘やかされた潔がねだって誘って、誰に憚ることもなく互いに溺れて過ごした。その後の四日間は一応『まとも』な日常生活を送ったが、欲望に忠実だった三日間の余韻もあって部屋から出れるような状態ではなく、結果、丸々一週間爛れた生活になったわけだ。
──反動が強すぎた、と潔は思う。
昨年のウインターブレイクは、旅行がしたい、と言った潔にカイザーが同意して、イタリアのアマルフィで穏やかな休暇を過ごしていた。冬は比較的ひとが少ないようで、天候にも恵まれ、気温もミュンヘンより高くて実に過ごしやすかったのを覚えている。そんな冬の休みの間、潔は『日中に観光をして夜は疲れて眠る』という行動を繰り返したため、恋人らしい夜は休暇にもかかわらず両手で数えられる範囲だったのである。
故に、今夏は家から一歩も出られない事態に陥った。カイザーが欲しがるだけ与えたのは潔なので自業自得だが、休暇全てがベッドの上では味気ない。
「さすがに二週間もここにいるのに、一度も観光しないってのは勿体無いじゃん。折角、マドリードまで来たんだし
……
それに、カイザーだって案内するって約束したの忘れてないだろ?」
「
……
してやるが」
むす、と不機嫌な表情を崩さないカイザーを見て息を吐く。
潔がマドリードに滞在する期間は二週間もある、だが、二週間しかないとも言える。
一年のうち、二人が予定を合わせて一緒に過ごせる時間はオフシーズンに限定される上、お互いの生活や仕事を加味すれば夏と冬の休暇を足しても二ヶ月程度だ。スペインとドイツという離れた土地でプレーをしているため、潔もカイザーと二人きりの時間を大事にしたい気持ちは勿論ある。しかし、毎日部屋にこもって爛れた生活を送るのも違うなと思うのだ。いや、別に、嫌じゃないけど。
プロフットボーラーであるので人目の多いところは難しいものの、こうして二人揃って過ごせるオフシーズンだ、潔はイタリア旅行と同じようにカイザーと二人でマドリードの街を歩いてみたい願望があった。ミュンヘンにいた頃も二人で出かけることはあったが、それはそれこれはこれ、である。
潔の住むミュンヘンも観光地として名高いが、マドリードにも観光名所が多い。博物館、美術館、植物館や広大な公園は出来る限り見てみたいし、少し足を伸ばして世界遺産に登録されている街にも行きたいし、料理の腕を上げるためにもマドリードの市場やバルで色々な食べ物を口にしたいと思っていた。
あとは、そう、カイザーが籍を置くレ・アールのホームスタジアムは外せないところだろう。絶対にここだけは自分の目で見たい場所だ。
マドリード市街地北部にある巨大なスタジアムは、約八万人を収容可能とし、過去の改修においてアリーナ型スタジアムへ転換した上に全天候に対応出来るよう屋根を備えており、フットボールの試合以外にも使用されることがある。スペインで行われたワールドカップの決勝の会場にも使用されたスタジアム。
バスタード・ミュンヘンのホームスタジアムもとても美しい外観をしているが、レ・アールのホームスタジアムも無骨ながら層状の外観が目を惹く。スタジアムツアーも行われており、優勝杯を中心としたミュージアムを見ることも出来るので、試合観戦以外でも訪れてみたい場所として潔がマドリードへ来る前から行くのを楽しみにしていたところだ。
だって、潔はプロのフットボーラーとしてもこのスタジアムのフィールドに立てていないのだ──カイザーが移籍してから、バスタード・ミュンヘンとレ・アールの対戦がここで行われたことはない。
例えば昨年のチャンピオンズリーグだと、バスタード・ミュンヘンとレ・アールは決勝まで残らないと当たらない状態であったので、レ・アールのホームゲームとは縁がなかった。付け加えると、バスタード・ミュンヘンは準々決勝のセカンドレグでミスを連発して敗退、レ・アールは昨年優勝を逃したこともあって過剰戦力を投入し、見事優勝杯を手にしている。さすが、優勝数が圧倒的に多いチームだ。
リーグが違うし、対戦に関しては潔たち選手が関与出来るわけもないので仕方がない。だからせめて、見に行くくらいは、と思うのだ。カイザーがいれば色々と解説してくれそうでもあるし。
「俺、カイザーがマドリードを案内してくれるの楽しみにしてたんだぜ? 二人で、その
……
デートすんの、ひ、久しぶりだから」
なんだかんだ理由を連ねたが、結局、潔がしたいのはカイザーと二人で出かけることであって、久しぶりのデートを楽しみたいだけだから場所はどこだって構わないのだ。勿論、マドリードの観光をしたいのも本当である。
「
……
」
「言わせといて無反応はやめろよ、俺、めちゃくちゃ恥ずかしいヤツになってんじゃん」
「
……
外に出るなら最低限の変装はしろ」
「分かってるって!」
どう考えてもこのスペインの地で目立つのはカイザーの方だが、潔もこの数年で欧州ではそれなりに名の知れたプレイヤーになっている。面倒事に巻き込まれるのを避けるためには必要だし、それに、カイザーと二人でいるところを邪魔されたくない。普段であれば応援してくれるサポーターを邪険に扱いたくはないけれど、プライベート、しかもウインターブレイク以来、半年ぶりの逢瀬なので許して欲しいと思ってしまう。潔はカイザーに対し、意外と独占欲が強いのだ。
「
……
ところで、世一」
「うん?」
カイザーの手が腹部から胸元を辿っていき、その指先がシャツの襟を摘む。つい、と軽く生地を引っ張ったカイザーが悪い顔をして至近距離で微笑んだ。指の間で揺れる黒の襟が、視界の端で揺れる。
「俺の服の着心地はいかが?」
話の流れとは無関係の言葉が発せられて反応が遅れる。意味を把握するのに時間がかかり、潔はぽかんと口を開いて間抜けな声を上げた。
「
……
は? え?」
惑う潔へ向け、にた、と口角を上げたカイザーに身体を強張らせた。慌てて視線を下へ落とし、己の太腿辺りにある裾を見る。
着た時はあまり気にしていなかったが丈が長い、キッチンへ来るまでに袖も折った。妙にサイズが大きい気はしていた、側にいたから香りが移ったのかもしれないと考えもした、なのに、ベッドルームの床から適当に拾い上げて身に付けたシャツがカイザーのものだと、潔は指摘されるまで分からなかった──なるほど、潔を抱き込むカイザーが上半身に何も纏っていないわけだ。
いやクローゼットから新しく出して着てくればいいだろうに、と冷静な自分が頭の隅で言ってくるのだが、自分にも当てはまる上に今はそれどころではないのですぐに真っ当な考えは霧散する。とにかくシャツだ、潔が着ている黒のシャツ。同じ色のシャツを同じ日に着ていたのが運の尽きだった、今更だが。
「あッ
……
! い
……
いや、これはその、別に
……
部屋が暗くてよく見えない中で探したのを適当に拾って着ただけで、色も同じだったし
……
カイザーのだって分からなかったから
……
クソ、今返す!」
「待て」
何故か静止を促そうとするカイザーを無視して引き剥がし、彼を正面に捉えた潔は顔を真っ赤にしてシャツのボタンをいくつか外した。だがしかし、赤い痕が無数に残された胸元が露わになったところで気付く。
昨夜は潔もカイザーもお互いの熱を分け与えるのに夢中で、部屋に二人しかいないのを言い訳にしてシャワーを浴びたあと何も身に纏わず眠った。そして今朝、潔はベッドを降りたあと暗闇で手にしたシャツに袖を通しただけだ。下着を身に付けるのを忘れなかったのは良かったが、つまり、潔はこのシャツを脱いだら──下着一枚という心許ない格好だ。
同じチームに所属していた時は練習や試合後のシャワールームで汗を流す時に、プライベートでは言わずもがな、潔の裸身はカイザーに幾度となく見られている。フットボーラーとして鍛えた身体は決して見苦しくないと思うけれど、積極的に見せたいものでないのは確かだった。カイザーに見られて嫌悪はないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
シャツの合わせに指をあてたまま、うぐ、と唸る。このままカイザーのシャツを着ているのは持ち主本人に見せつけているようで嫌だ、しかし、ここはダイニングであり他の服が置かれているわけがないのですぐには脱げない。葛藤する。
自分一人だけの空間ならまだしも、ここはカイザーの部屋だ。恋人の側だとしても下着一枚で部屋をうろつくのは避けたい。故に、答えは部屋に戻る一択だ。
羞恥と緊張で指先が上手く動かず、潔は震える手で外したボタンを留め直す。出来立ての朝食を放って着替えに行くしかないだろう、今着ているシャツは上半身に何も纏わないカイザーへ返せばいいのだ。シャツから香る匂いに頭がくらくらしそうになるのを堪え、潔はシャツの裾を引っ張る。いつもなら下着くらい見られても構わないが、どうにも今は覆い隠したくて仕方がなかった。
そんな焦る潔を楽しげな顔をして黙って眺めていたカイザーが、いい、と言ってやんわりと腕を引く。
「待て、と言っただろうが。話を聞かねぇヤツだな
……
いいから、世一はそれをそのまま着てろ」
「いや、でも」
「どうせあとで出かけるのに着替えるんだ、二度手間になるぞ」
「
……
」
「それとも、俺のシャツは着心地が悪い? 香りが気に入らない?」
小さく笑って問いかけるカイザーを睨み、潔は口を閉ざす。カイザーのシャツは肌触りも着心地もとても良いもので、彼の香りだって自分に移ってもいいくらいに好きだ。わざわざ言葉にして突きつけられた現状が単純に気恥ずかしいだけで、潔はカイザーの服を着ることに何の抵抗もない。むしろ、好きなものに包まれているので気分が良かった。
溜息をひとつ。カイザーは潔がどう思っているかを分かって聞いているので、肯定も否定もしてやらない。潔が素直に反応してカイザーが喜ぶのであれば、好きだ、と返してやるのも吝かではないが今のカイザーはただ潔を揶揄いたいだけである。それくらいはもう見れば分かる、この性悪め。
「
……
お前さぁ、本当にそういう言い方すんのだけは上手いよな」
「お褒め頂き恐悦至極」
「褒め
……
あー、もぉ
……
いいよ、分かった、このまま借りとく。間違って悪かったな」
「そこはクソどうでもいい。正直、俺はシャツに着られている世一が見れて満足だ」
ふ、と目を細めたカイザーが潔の胸元へ触れた。
何をするのか問う間もなく潔が留めたばかりのボタンを上から三つほど外すと、カイザーはシャツの襟を整える。突然、着ていろ、と言われた服を脱がされかけて潔は距離を取ろうとするが、カイザーにシャツの襟を掴まれている所為で動けない。声を発することも出来ないでいると、カイザーはシャツの裾を指で摘んで下へ引っ張った。ぴん、と生地が伸びると襟の高さが変化する。
そこで潔はようやくカイザーが何を『してくれて』いるのか気が付いた。よく見ないで留めたから、ボタンを掛け違えていたらしい。
「俺の服を着ている世一を見るのは、なかなかにクる。満更でもないなら、またやってくれ」
「
……
気が向いたらやってやるよ」
今度は揶揄うつもりがない。カイザーは言葉通り本当に気分が良くて、潔のこの格好をまた見たいと思って言っている。
自分の服を着る恋人、所謂『彼シャツ』を見たい気持ちは分からなくもないが、じゃあカイザーが潔の服を着ているところを見たいかと聞かれたら悩ましい。サイズが合わないし丈も足りないしで非常に滑稽な格好になるのが想像出来るだけに、揶揄いたい時くらいしかやってほしくないのが本音だ。間抜けで可愛いなと思わなくもないが、無理に着て服が伸びても困る。だから、服に『着られている』潔のどこを気に入ったのか理解出来なかった。
それでも、潔のこの姿を喜ぶだけでなく欲も覚えるらしいカイザーの気持ちを汲み、応じてやる器量は持ち合わせているつもりだ。カイザーが不機嫌になった時にすると喜ぶリストに追加していいかもしれない。自分に対するダメージがかなり大きいのは難点だが。
「と
……
とりあえず飯にしようぜ! 今日は俺が作ったんだ。まあ、作ったって言えるものはスペイン風のオムレツくらいだけど」
「ほうれん草多めのやつ」
「それ」
「あれは、世一の料理の中でもクソ美味いから好きだ」
「
……
今度、インタビューで得意料理聞かれたらそう答えとく」
「恋人が好きなんでって?」
「ばか」
軽口を言いながらダイニングテーブルに並べた料理を挟んで向かい合って座り、いただきます、と潔だけでなくカイザーも慣れたように口にして朝食を口に入れる。
親元を離れて生活し始めてから自炊はきちんとするぞと意気込んで努力してきたが、さすがに数年も経てば『それなり』になるものだ。目に見える成果は自信になる。だが、今日作った料理、ほとんど具材を挟んだだけのサンドイッチは置いておくとして、オムレツは味が薄かったかもしれない。慣れたとはいえ完璧とは言い難い、伸び代があると言い換えられるが料理はもっと勉強する必要がありそうだ。
ベーコンかチーズを足した方が良かった気がする、と改善策を考えてカイザーを見れば、彼は黙々とオムレツを口へ運んでいた。美味しい時は言葉がなくなる男なので、カイザーには合ったらしい。クソ美味い、と評しただけあって本当に潔が作る料理の中で好きなものなのだろう。次は絶対にもっと上手く作ってそのツラを笑みに変えてやる、見てろよ。
「そうだ、世一」
「ん?」
「来年は俺がドイツへ行く」
「お、マジで? じゃあ、良い酒でも用意しておいてやるよ」
食事の最中の会話に違和感はない、だからこの時、潔はカイザーの言葉を文字通りに受け止めた。
来年、夏のオフシーズンはカイザーが古巣であり潔の住むミュンヘンへやってきてバカンスを過ごすのだと、何の疑問も抱かなかった。まさか、カイザーの『来年はドイツへ行く』が『来夏の移籍期間でバスタード・ミュンヘンに籍を移す』という意味であったとは、全く思わなかったのである。
二年契約でレ・アールに移籍したとはいえ、今シーズン、チームのリーグ優勝に多大な貢献をしただけではなく個人戦績も高い順位に名を連ねるカイザーを、クラブがそう簡単に手放すとは思えない。青い監獄計画時代からカイザーを高く評価して望んできたクラブチームだ、普通に考えて契約延長で彼をチームに引き留めるだろう。そうなれば、カイザーがドイツへ、バスタード・ミュンヘンへ戻ってくる確率は限りなく低い。
欧州どころか世界でも有数の資金力を誇るのがレ・アールだ、金銭面だけでみたらバスタード・ミュンヘンは向こうに敵わない。市場価値で全てが決まるわけではないが、公にされている数字が存在している以上、無視出来るものでないことは潔も重々承知の上だ。言い方は非常に悪いが、金がないと何も出来ない、というわけである。
だからこそ、この点に関してバスタード・ミュンヘンよりもレ・アールにアドバンテージがあるのは『当然』だった。クラブチームの規模と資金力の差はすぐに埋められるものではない、恐らく、誰しもがそう考えたはずだ。
次は何年の契約になるのか──潔が考えられるのはそれだけであり、バスタード・ミュンヘンへの移籍が叶うとしてもかなり先だと思っていた。いつかまた同じチームで競い合うようなプレーがしたい、そう願う程度にはこの一年で慣れたやりとりだったのだ。疑う余地もない。
「戻る時は連絡する、色々あるしな」
「うん──楽しみに待ってる」
カイザーの『連絡する』時期が『前日』であること、また『色々ある』が思った以上に多くの事柄を指しているのだと、次のバカンスはミュンヘンか、と呑気なことを考えていたこの時の潔は知る由もない。
一年後の初夏、オフシーズンに入ってすぐ、スペインから送られてきた荷物を前にして潔は苛立った声を上げることになるのだが、マドリードの観光をどうするかで頭が一杯になっていた潔は思いもしなかった。
美味しいと言ってくれた料理を光差す中で二人揃って食べる、そんな穏やかで優しい朝食の時間をカイザーと共に過ごすことが──何よりも大事だったので。
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