いを
2025-06-11 18:23:31
1885文字
Public 刀神
 

よく似て非なる薄皮一枚

青嵐
・紫垂月さん【Metol_P】
お借りしています。

 南天の赤い実を美しいと思えるように、植物を美しいと思い得る心がまだあることに安堵したことがある。
 美しいと思える心があるのなら、私がまだ人間であるということだ。ただし「それ」が、他人にどう映るかは分からない。人間は肉のからだに心という魂が入りできあがるものだと思っている。その心が他人と同じであるかは些細なことかもしれないが、他人と違うことは当たり前のことだと考える。
 心とはきっと、かたちのない美醜だ。

 青灰色の水平線が見える。その線も、ぼんやりと烟っている。砂浜に草履が沈む。足袋との間に砂が入り込んだ。
「後悔したことがあるんです」
 乾いた喉からは掠れた声しか出ない。目の前にこれだけ巨大な水が横たわっているというのに、おかしな話だ。きっと潮を運ぶ風が喉を枯らすのだろう。
 ――昔、ある罪を犯し、罰として沖縄に生涯立ち入らないことを承諾した。
 けれどそれは自分のために犯した罪であり、後悔するということは今までの生き方を否定するようなものだ。それではない。そんなことでは、ない。
 沖縄ではなくとも生きてこられたのだから。思ってもない自由とともに。
「人間は後悔する生き物だろうからね」
 藤色の布地がとなりで揺れる。
「十五年ほど前、清流でカワセミを初めて見ました。美しい……本当に美しい色をした羽でした」
 あれほど鮮やかで目の冴えるような色を見たことがなかった。
「その色を真似て、一度式神を作ったのです。ですが、失敗しました。何度作っても、あの色には近づけなかった。そして気付いたんです。私がしようとしたことは、故郷を蹂躙した人間がしたことと、同じだと」
「君は、日本人が嫌い?」
……どうでしょう。けれどもう、昔のことです。昔のことを蒸し返して、わざわざ苦しむ必要はもうないはず」
 忘れることと苦しまないことは違うのだ。
「私の怒りは決して忘れない。そう、思って――いたのですが」
 白波がたち、朝靄が太陽を霞ませた。
「毒されたようです」
「毒されたのではなくて、ただ、覚えたんじゃないかな」
「許すことを?」
 彼は目を細めただけだった。自身の言葉で繋げることを分かっていたように。
 あごを上げて、ぼやけた水平線を見つめる。そうかもしれない。許す、と胸中で呟いた。青嵐が許さなくとも、世界は勝手に回り、収まるべきところに収まる。世界は個人が許そうが許すまいが関係なく続いていくのだ。
「故郷を奪われた者の憎しみと怒りは同じく故郷を奪われた者にしか分からない」
 彼――紫垂月頼宗にも、かえることができない場所があるのだろうか。奪われたことが、あるのだろうか。
「青」
 やわらかな声だった。
「同じにならなくてもいい」
 心はひととは違う。そう思ったことを思い出す。
「許すも許さないも君の自由だよ。思いたいように思えばいい。君がそれを楽だと思えるなら」
 つま先に海水がふれる。足袋がぬるく湿った。
「楽……。考えたこともありませんでした」
 くちびるの端がピリリと痛んだ。乾いた指先でふれると、すこし血がついていた。
「だれでも傷をもっているものですね」
 ゆるやかに弧をえがく。傷でも、傷跡でも。塞がっても塞がらなくても。たしかに傷だし、傷だった。
「故郷であろうと現状だろうと、傷は、」
 傷の痛みは他人には分からない。想像するしかない。
 口を閉じ、彼の横顔を見つめる。
――紫垂月殿。私の夢は、だれも呪わずに死ぬことです」
「それは難しいね」
「だからこその夢です。簡単に叶ってしまったら面白くないですから」
 潮騒がつよく聞こえる。
 流木やどこからかやってきた乾いた藻が、てんてんと落ちていた。
「賭けをしましょう」
「賭け?」
「私が呪わずに死ねたら私の勝ち、呪ったらあなたの勝ちです」
 紫垂月頼宗の睫毛がうっすらと動いた。
「僕が勝ったら、なにをくれるんだい」
「あなたがその時いちばんほしいものを」
「君が勝ったら?」
 雲がゆっくりと流れていく。こうしてずうっと穏やかな時間が流れていればいい。けれど世界は絶え間なく動いているからいずれ、終わりが来る。自分の、命にも。
 目を細めてそれを見上げる。命の行く先を見るように。
「さて……。なににしましょうか」
 今囁いてしまったら終わりがきてしまうような気がして、はぐらかす。
 なにを望もうと、そのときは命の終わりだ。今はきっと秘密のままでもいい。
 手強い賭けになりそうだ。ふふ、と笑う。朝ぼらけの空。その笑声はほの明るい空の下にかき消えた。