ひさね
2025-06-11 15:41:56
13644文字
Public 偶像、夢を見る事
 

偶像、夢を見る事

番外長編『偶像、夢を見る事』第1章第1話。
変な夢の話。

 変な夢を見る。と言うか、今、見ている。悪夢ではないけれど。多分。
 目の前は真っ暗闇。薄暗いとか、深夜の色とかいう話ではなく、本当に真っ黒だった。ぺたっと地面――と言っても地面とそれ以外の境目が全く真っ黒で良く分からなかったけれど、取り敢えず座ってはいたので、そのまま首を回して見渡してみる。けれど、四方八方全部黒くて、どうにも変な空間という事しか分からなかった。
 ここに来る前までしていた事を順番に思い出してみる。
 学校から帰って事務所で日課のトレーニングを何時も通りこなして、お風呂に入って、夕飯を何時も通り平らげて、きょうだいと今日あった事を話して、ベッドに潜った。課題も期限が近いわけじゃなかったから、教科書だけ読んでから寝た。以上。
 意外に意識がはっきりしている。
 視界を手にやって、青と金色の刺繍が入った裾に気が付く。青色と金糸を辿って肩、胸元を確認する。生地が厚くて、でも滑らかなケープと白いリボンに緑色の石が光っていた。はっとしてシャツもズボンも見てみると、フリルは全く無いし、手触りはつるつると心地が良い。
 寝る前のパジャマはもっとシンプルだし、アイドルをやっている時の衣装だって、言っていいかは分からないけれど、こんなに質が良い訳じゃない。何時もと全く違う服を着ている。
 だから、夢だとは思うけれど。
 耳を傾けても物音は全く無くて、自分の心音すらも聞こえない。風とまでは言わないけど、空気がほんの少しでも頬を掠っていく感じもない。
 ここには何にもないのかな。そう思うぐらい、単に空間があるだけだった。
 取り敢えず手を握ったり開いたり、指を摘んで引っ張ったりしてみるけれど、現実と同じように動いて、現実と同じように指が伸びたりしなければ絡まったりもしない。
 夢の中の割に支離滅裂な現象と思考が当然、みたいな錯覚が全然ない。そもそも夢の中で夢について考えられるのが既に変なのかも。
 一人、首を傾げる。それから、ゆっくり立ち上がった。
 座って悩んでいても仕方がないから。それに、こういう変な現象も、変な場所も、半年前に終わった旅の中でうっすらと慣れてしまっていた。
 探索しない事には何も分からないし、探索しても駄目な時は駄目だ。こういう怪奇じみた事に巻き込まれたら最後、上手く行くように願うしかない。一つの運試しだ。
 今はもう、やたらと目立つ銀髪を靡かせて助けに来る人は居ない、と思うから、尚更。変な諦めが潔くなって、良い事か悪い事かいまいち分からないけれど。
「何もしないよりはマシだもんね」
 独り言を呟いて、真っ黒で何の区別も付かないから、足が地面に着くか確かめてから、一歩を踏み出した。

 ***

 鼻歌が三周するぐらいの時間、歩き回って分かった事。
 一つ、進行方向が全く分からない事。何せ黒色以外には何も無いから、前も後も左右も、ボクの顔の向きでしか決められない。
 来た道はすっかり分からない。戻っても仕方がないし、戻らないと決めていたから、顔が向いている方向を前って事にして歩く。
 二つ、ここは何もないけれど広すぎる事。今の所、壁らしい壁はない。縁とか端がないのかもしれない、と根拠もなく考えている。あるいは何処かでループしているとか。夢とかおかしな場所なら、良くある仕組みだ。知らない公衆電話が出てきた時はそうだった。同じ風景ばっかり繰り返されると段々認識が、場所に似合った感じにおかしくなってくるものだけど。
 持ち上げた右足を、地面についている左足を基準にちょんちょんと振ると、すかすかと揺れるだけで、あって欲しい地面に落ち着く事はない。
 三つ、どうやら穴があるらしい事。これだけは全部同じって訳ではない。でも落ちたらどうなるかは分からない。深さを測ろうにも手頃な石や手に持てる何かなんてものはない。
 方向を地面がある方へ変えて、ゆっくり歩く。
 ここには、本当に何にもない。
 顔を思い切り上に向ける。天井か空か、あるいは何でもない黒が広がっている。のっぺりと。
 情報らしい情報はない。
 はあ、とため息を吐く。心音とか腹の音とかは聞こえないのに、こういう自分から出したものの音は聞こえる。おかしなぐらい音はないのに完璧な無音じゃないから、逆に違和感が凄い。
「いっその事穴に突っ込んでみる……のは流石に危ないよね。どこに落ちるか分かんないし、そもそもちゃんと落ちれるかも分かんないし」
「大抵底が無いのが答えだから。懸命な判断だ」
「そういう事。明け透け過ぎて逆に罠な事、多いから」
 それからちょっとだけ良く考えて、罠じゃない事もあるけどねって、相手に補足しようとしてつっかえた。
……って、誰?」
 声がした方を振り返ると、下の方できらりと銀色が光った。あっと思って目線を下げる。
 その先には少年がいた。身長から見て七、八歳ぐらい。背中にかかる銀色の髪と深い紫色の瞳。髪と同じ色の睫毛も長くて、色白で、面立ちも、チープで陳腐で全く足りないぐらいの表現だけど、とても綺麗で。
 全く同じ、は正確ではないけれど、これがそのまま成長した後の顔を知っている。
 だから断言できる。美少年だ、天地がひっくり返るぐらい。
 少年は淡々と続ける。
「そうやってこんな所で直ぐに返事をするのも、迂闊な話だが」
「それはそうかもだけど、話しかけられたら答えちゃうのは仕方ないじゃん」
 しゃがんで彼の顔を見上げると、少年は腕を組んで眉を顰めた。
「久し振り。というか、ちゃんと会ったのは初めてだから、初めまして?」
 正しい挨拶が中々ピンと来なくて、うーん、と首を傾げると、目の前の少年は焦れったそうに、ぶっきらぼうに「どっちでも良いだろう」と呟いた。
「見た事があって話した事があるのは、変わりがないのだし」
「んー、まあ確かに。元気してた?」
……消えない程度には、順当に」
 少年は見た目に合わず、でもボクを見返しては時折青っぽく輝いて、吸い込んでいきそうな瞳には不思議と似合っている語彙でできた答えを口にした。
「なら良かったよ。いる事が大事だからね」
「レノは」
 それから半音上がらずに、ぶつりと切れたボクの名前。
 たどたどしくはないけれど、話し慣れてはいないんだろう。そのまま口を結んでも逸れない紫色の目を見て、また思った。理由はないけれど。
「んー、ぼちぼち、かな! いつもよりはちょっと疲れてるかも」
 溢れたものを落とさないように答えたら、少年は微かに眉を上げて「そうか」と呟いた。
 淡々としながらボクを気に掛けるのも、勿論見た目も、変わっていない。薄暗くて何もない部屋と逆光の中に居た時と、全く。いや、変わっていたって良いんだけど、それでもまた会いたいなって望んでいたから。
 とにかく初めて会った、というか話した時の印象がそっくりそのままボクの前と中にあった。髪がさらさら揺れる所と、落ちる影と、瞬いてこんな所でも光を跳ね返す目を見つめて、何だかんだ同じだと分かれば安堵して笑ってしまうのは、悪い事じゃないって思っている。
 口角が上がって仕方がないボクを映したまま、彼は怪訝そうに、不思議そうに首を傾げた。
 だから、わざとだって分かりやすく頬を膨らませてから、少年の鼻先にちょんと触る。ほんの微かに睫毛を震わせて「何だ」と呟く彼に、ずっと、半年間とちょっとはみ出た時間、持て余していた疑問を、重くなり過ぎないように口を尖らせて、弾ませた。
「なーんか急にいなくなっちゃうしさ! 写真の中にいたのに、どうして? 元々動いてたし、喋ってたけど」
「なら、それぐらい、今更。……良くもまあ、そんな代物を持ち続けてたものだ」
「君がケント兄の懐から匿ってくれーって言ったんじゃん。これでも結構さあ、寂しかったんだよ?」
 へへ、と笑い声で包めてしまえば、少年は押し黙って俯いてしまった。顔にかかった前髪を鬱陶しそうに右目だけで睨んで、小さくて白い手で黒いベストの裾をぎゅっと握り込む。
 不味い事を聞いたかな。短いけれど確かな沈黙を拭おうと、彼の右目をちくちく触る毛先を、人差し指で掬い上げた。同時に、瞼が持ち上がった。
「巻き込むつもりはなかった」
 落とされた言葉に、あんぐりと口を開けた間抜けなボクが紫の瞳に映っていた。

 ***

 半年前の事。旅をしていた頃の事。確か、月が一ミリだって浮かばなくて、家の中の明かりだけが灯るような、良く晴れた夜の事。
 部屋の電球が急にぷっつり切れたものだから、ケント兄が新しいのを貰ってきてつけ直していた。椅子の上で背伸びして手首をくるくる回す度に、ケント兄の腰より長い銀色の髪が揺れて、キラキラ光る。外の光も中の明かりもないのに勝手に輝くそれが、今、ここでは、切れた電球よりずっと大事な気がして。
 ケント兄の手元より足元を見ていたから、それが急に床まで下がって、ほんのちょっとだけびっくりした。
 そんなボクを気にも留めず椅子から下りたケント兄は、器用にボクの手からかつて点いていた方の電球をするりと抜いた。ポケットとかに入れていたら気が付かなかったかもしれない、手際の良さに声も出ない。
 そう言えば、地元――つまりスラムでは良く、やっていたらしい。こういう事を。本人曰く。
 どこも、後ろ暗い所は同じ形をしているんだなあ、と今も思っている。幸せが同じ形をしているって言うのなら、尚更。
 ケント兄はもう光らないそれを、雑に袋に突っ込んでテーブルに転がして、側のリモコンを手に取る。それから、ボタンをちょっと睨んでから、赤い丸が付いたのを押せば、新しい電球はベッドと最低限の家具だけ突っ込んだような二人部屋を煌々と照らす。
「おー、点いたな」
「ありがと」
「気にしなくて良いぞ」
 ケント兄は暗い紫色の目をゆるりと細めた。
 それは、昼間のにぱっとした人懐っこい笑顔とは全く正反対で、微かに持ち上がる口角に、差し込む蛍光灯を仄かに赤っぽく跳ね返す瞳は不透明だ。端正がすぎる顔で一番に想像する、とても理想的な微笑みを浮かべている。
 これを、昼間にケント兄とほっつき歩く公園の子供達も、ケント兄と話してお土産をくれるバザールの大人達もきっと知らない。なんたってケント兄は気風が良くて、はきはき喋って、気の良い皆の兄貴分だから。
 逆に、これしか知らない人も十分いるんだろう。暗い所が好きらしいし。怪物とか魔物とか、よく分からないものを千切って投げる時も、大体こんな感じで、淡々としていて、顔に似合いすぎているし。
 つまり、ケント兄の微笑みというものはこわいのだ。過言ではない。きっと。
 とにかく全体的に綺麗すぎる顔に似合いすぎる表情をされて、寒気が背中を走っていく。普段は色々なもので埋もれている顔の良さを思い出してしまうものだから、尚更。
「どうした?」
「んー、別に。大した事じゃないけど」
 一瞬の寒気を誤魔化すようにテーブルの上に転がった袋に手を伸ばしかけて、今の時間を思い出す。夜の十時は未だに深夜なのかそうでないのか、よく分からない。もしかしたらあわい、と言うのだろうか。
 遅くはある時間だし、明日捨てればいいか、と手を引っ込めた。
 そして、引っ張り出した椅子を元に戻す背中を見る。揺らめく髪は光を得てもっと光るので。気が付いたら聞いていた。
「ケント兄の髪って光るよね。反射板みたいに」
「そんな……反射板はないんじゃないか? 少なくとも」
「そっか。光がなくても光るもんね。じゃあ蛍光灯」
「何でもっと強くなるんだ……?」
 困惑気に腕を組むケント兄の顔にはもうあの微笑はなくて、ゆるゆる眉を下げて、ぱかっと口を開けていた。締まりがないとも快活とも言うけれど、いつも通りの方がやっぱり落ち着く。
 あはは、とボクが漏らした笑い声に、ケント兄は首を傾げる。
「嘘。太陽だよ」
 月ってガラじゃないし、と続けたら、ケント兄はきゅっと口を閉じて神妙な顔をした。かと思えば、それから顎に手をやってくすくす笑う。
「それじゃあ目が潰れてどうしようもないんだぞ」
「良いじゃん、それだけ惹かれるって事だよ。その髪とか、目も。あと顔も。眩しくって珍しいからさ」
 あんまり身長は変わらないのに、ケント兄はボクを見下ろして――それだけの圧が若干はあって、まじまじ見つめた。それから、ただ呼吸をするだけ。お互い。時折微かな衣擦れがあるか、ないか。それぐらい。
 どうしたのかと息を吸うと同時に、ケント兄は何かを確かめるみたいに聞いてきた。
「レノは見た事ないのか? ぼくみたいな顔の人間」
「そんなのわんさか居たらアイドルやってらんないんだけどボク」
「聞き方が悪かったぞ。……そうだな、ぼくみたいな髪とか目の人間は見た事ないのか?」
「そっち? んー、どうだろ」
 何だかとんでもない誤解をしてとんでもない早口で答えてしまったのは、まあ、気にしない事にして。
 肩をすくめるケント兄を視界から外して、天井を見つめる。埃がちらちら舞っているのを眺めながら、頭の中身を掻き出してみる。
 まず真っ先にきょうだいと両親。ボクと同じなので除外。次に仲間達。ケント兄を除くと黒髪、茶髪、金髪で、銀色の瞳は浮かんでも紫はケント兄だけ。それから学校の友達と先生達。こっちは赤、青、黄色、緑にピンク、他諸々。多彩だけど、でも不思議と銀に紫は見た事がない。ご近所さんもファンも同様。
 考えれば考えるほど、そもそも銀色の髪も、紫色の目も、単品ですら見た事がない、かもしれない。腕を組んで、妙に固くなってきた首を傾げる。
 そもそもが微妙な色なのでは。銀は灰色に見えて、紫は明かりとか血色とかで桃色あるいは青色に化けて、ぱっとは分からない気もしてきた。だから、精密に測らないと分からないぐらいの銀と紫は見た事があるかもしれない。けれど。ケント兄みたいって言うなら、ちゃんと一目で分かるぐらいじゃないと駄目、だと思う。
 他に人を見る場所。往来や住宅街。石畳を浮かべて歩いてみる。それこそ肉屋のおばさんに八百屋のおじさん、床屋の理容師に古本屋の店主。そこここに通う人達。でもこんなに目立つ色、すれ違えば真っ先に出てきそうなものだけど。名前を知らないなら、尚の事。
 じゃあテレビとか? 事務所にはあって――所長が大枚はたいて買ったのをもったいないからと、液晶に投影し続ける魔術の効果を保持するための回路が高いんだって熱弁する同僚の分解行為を止めながら、ぼんやり広間のソファで眺めるけれど。あそこにも人は映る。結構鮮明に。
 でも、ニュースぐらいしか――
「あ」
 ケント兄を見る。
「何だっけ。隣の、遺址の国のニュースとか言って、見た事あるかも。テレビで。貴族とか、信仰とか、何とか……
 貴族、と言ったら、微かに見開かれた目。アメジストなんて誰かが言っていたけれど、それよりもっと深くて不透明で、底が見えなくて、覗きたくなる目。
 ううん、と首を捻る。液晶越しに見たその人、推定貴族の目はそんなに引き込まれる事はなくて、寧ろ澱んでいて嫌だな、と他人事に思ったのを思い出す。その時の発言内容が信仰に偏りすぎているというか、時代錯誤な感じだったからかもしれないけど。
「うん、大体誰か分かったぞ。だとすれば、殆ど同じ色だと思うんだが」
「だったらボクが覚えてない訳ないでしょ!」
「でも思い出すのに大分時間掛かったんじゃないか?」
「それは、そうだけど」
 けらけら揶揄うように笑うケント兄にいなされるのが納得が行かなくて。指先をいじくり回して、ずるずると言い訳を続けていた。
「でも。何か、あんまり。何と言うか……ぱっとしなくて。目と髪は、同じ色だった、かもしれないけど。雰囲気とかさ。あるじゃん。そういうの」
 何だか上手く言えなかった。喉と胸の間で、ずっとぼんやりした何かが詰まっているような、掴めないような感じ。気持ちが良くない。
「とにかく、ぱっとしなくって!」
「何で? 何が違うんだ?」
「それは……!」
 うんうん唸りながら、言い訳を完成させたくて。テレビで見た筈の顔を思い出そうとして。
 ふっと気が付いた。
「分かんないんだ」
 脳裏には澱んだ目と、髪の色しか浮かばない。
「何が?」
「顔とか……大体全部。色以外、全部」
 鼻も口も耳も、髪型だって、声色だって、その時着ていた服の色すら、何にもない。ただ、目と髪の色だけ、情報だけ。たったそれだけしかない。
「珍しいな。すれ違っただけの人間も財布ごと覚えてるのに」
「何か言い方がなあ。でも、何でこんなにぱっとしないって思ったんだろ。顔って一番分かりやすいのに」
 ふうん、とケント兄は思案顔で気のなさそうな返事をした。顎に当てた手はピタリと動かない。多分、考え事をしている。ケント兄は考える時は、割と、静かになる方だった。ぱち、ぱち、と白い瞼が落ちて上がって、落ちて、上がる。
 じっ、と瞳を全く動かさないで、ただただ虚空を見つめ続けて。
 不意に「ああ」と沈黙を裂いた。
「そういう事か」
 一人で勝手に頷いて、人を惹き付けて止まない瞳がにぱり、と閉じられる。
「上手くやったもんだな、本当に」
「やるって何を? 誰が?」
 ボクが尋ねても、ケント兄は昼間の笑顔を浮かべるばかり。それで、一足飛びの結論だけ言われても。ボクは眉を下げる。いつもそうなんだけど、もっと、分かりやすく説明してほしい。
 あるいは、説明する気がない?
 ぐるりと回りかけた思考を、ケント兄は、あっと大きな声を上げて遮った。
「ソウの所行くんだった! 寝てて良いぞ」
「え、いや、何しに?」
……夜中の探索! シオンと、今日はニアも居るんじゃないか?」
 これにはちゃんと答えるのになあ。深夜に出歩くのは大人の特権だけど、秘密ではないらしい。少なくともケント兄にとっては。……面子的に凄い事をしているのは想像つくんだけど。
 良く分からない、と思う内に、ケント兄はじゃあな、と真っ青な上着を颯爽と翻して出て行った。
 青い裾からはらりと、真っ白い紙が落ちる。同時にぱたりとドアは閉じて、足音はさっさと何処かへ行ってしまった。
 ドアを見つめる。十数秒。全く動かないし、越して聞こえる音も全く無い。視線を落とす。茶色いフローリングの上で、やたら目立つ紙。
 気がついてしまった以上、床に置きっぱなしというのも良くないし。別に中身を見ようって訳じゃないし。拾った時、見えてしまうのは不可抗力だ。
 しゃがんで、そろそろと手を伸ばして、触れてみる。光沢はあるけど、意外に滑らない。角に指を引っ掛けて捲る。
 大きい窓。さんさんと降り注ぐ太陽光。出窓に腰掛ける七、八歳の少年が一人。
 それだけ。完全な逆光のせいで少年の顔は真っ黒でよく見えない。部屋の中も同じぐらい黒だった。物らしい物は置かれていなかった。窓の大きさとか枚数を見るにお屋敷って感じだけれど、まだまだ幼い子供がいて、そんなに物が何もかもないなんて事、あるのだろうか。
 そもそも誰が写っているのだろう。
 特に意味もなく、天井の明かりに透かして見る。実際にこっちで逆光にしたって何も見える訳がないのは、分かっているんだけど。
 それでも、微かに光る髪が銀色である事に気が付いた。
 もしかして。腕を下ろして照明で照らせば、過った予想を跳ね返すように、写真用紙が白く光った。
 ともかくケント兄の持ち物だから、テーブルの上に置こうとして、写真からちょっと目を離して、重し代わりの電球を掴んだ。
「おにーさん」
 不意に柔らかくってハキハキした声、子供の声がした。
 呼ばれている。何を思ったか、その時は直ぐに写真を見下ろしたから、すぐに目が合って息を呑む。
 少年が目の前に立っている。写真の中だけど。つまり、出窓から立ち上がって、最大限、近づけるだけ近付いている。
 少年の顔は不思議とはっきり見えた。睫毛まで、良く。周りは逆光のままだった。
 瞬き一つして、はは、と少年はおかしそうに笑う。
「暇なら少しだけぼくとお話しようよ。今じゃないと、次があるかも分かんないし」
 ケント兄の写真の子はにぱり、と目を閉じた。黒いベストの裾を掴みながら、口角を思い切り上げて、人畜無害そうな、まるでケント兄みたいな笑顔を浮かべている。
 なので、乗る事にした。呼ばれたら、そうするしかないから。
……うん、良いよ。夜更かしも嫌いじゃないし?」
 潔く頷けば、ぱちりと瞼が上がる。
「ん、話が早くて助かるぞ。……まあ、暇がなくても付き合ってもらうつもりだったけど」
 くすりと息を漏らしては口元に手を当てて、ふっと目を細めた。これも、ケント兄がやるみたいな、薄目のこわい方の微笑。
 子供がする表情ではないな、と裏で呑気に考えていた。
 細く覗く紫色の瞳は、微かに青っぽく怜悧に輝いていた。
 それは半年以上経った今でも、何もない部屋より何もないここでも、変わらない。気まずそうに静かに目を伏せる彼に尋ねる。
「巻き込んだってどういう事?」
……鈍いのか鋭いのか、相変わらず分からないな」
「分かる事しか分からないよ、ボクは」
 はあ、とため息を吐いた少年は自分のこめかみを摘んだ。眉間にシワがちょっと寄っている。
「まず、何処から説明すれば良い」
「取り敢えず始めから?」
……その始めは何処からだ」
「んー、適当に話してくれれば適当にボクから聞くけど」
 でも、それが出来ないから困っているのか。きゅっと睨む少年に続ける。
「じゃあ、ここってどこなの? 夢? 寝た記憶はあるんだけど」
「夢」
 ぽつりと少年は呟いた。こめかみの手を、ちょうどケント兄がやるみたいに顎に移して黙ってしまった。目はもっと細くなって、瞳はゆっくりと、それでも右往左往、往復していく。
……まあ、概ね。恐らく」
 少年は諦めたように目を閉じて、返ってきたのは歯切れの悪い答え。
「夢の割に結構意識がちゃんとしているのが、ちょっと不思議なんだけど」
 はて、と首を傾げて見つめると、バツが悪そうに、躓きながら続ける。
「正直な所、ここが何かは、おれも良く分からない。夢、と言われても、おれは、もう、縁がないし。それに、ちゃんとした、生者がここに居るのは……初めてだから」
「なるほど? ボクが例外すぎて良く分からないって感じ?」
「そういう事だ」
 少年は浅く頷く。ボクは頬をひっかく。
 ちゃんとした生者、なんて。含みのある言い方がどうしても引っかかって、ぐるぐる頭の中を飛び回る。ううん、と一つ唸る。
「生きている人は初めてって言ってたけど」
 ぼかした裏に凄まじい何かがあるのは、流石に分かっている。少年がどういう存在かは、あの時、直に聞いた訳だし。
 けど、気になってしまうものは気になってしまうので、ままよ、と唸った勢いで聞いてしまう。
「死んじゃった人はいたの?」
「おれ」
……いや、それは。ええと」
 どう答えるのが良いんだろう! ヒヤッとする言葉に胸がきゅっと締まる。でも否定するのも違うのだろうから。
 ちょっと考えて、結局。
「君以外だとどう?」
 ハッとした割にぱっとしないまま話を続ける事にした。
……居るには、居る」
 その、と言葉は途切れる。でも沈黙は少年自身の思案声で訪れない。
「匿ってくれと言った、だろう。…………その、関連で」
 少年は更に裾を強く握る。
 シャツの襟元は折り目正しいのに、裾はしわくちゃになっているのに、今更気が付いた。
 多分、ずっと長くここに居るのだ。ボクが感じていた半年より。
 どうにも目の当たりにしなきゃ分からないのが、嫌になってくる、けど。今の会話には関係がないから脇に置く。
「そっか」
 それから。片膝をついて伸ばした手で、目の前の彼の頭をわしわし撫でる。さらさらと指の間を流れる髪の毛が気持ちが良いし、頬を擦れば冷たいけれど、生きているのがあり得ないぐらい冷たいなんて事はない。柔らかくって心地が良い。
 にへら、と笑っていると、少年は露骨に顔を顰める。
「大の大人に良くも、まあ。憚らず触れるものだな」
「見た目に引っ張られちゃってさ。どう見ても子供の姿の君に言われると少し変な感じ」
「これでも。おれの方が結構早く生まれているんだが」
「あはは! 良いじゃん、関係ないよ。君とボクの仲でしょ?」
……少し話しただけだろうに」
「あと立体なの、良いなあって感じ」
「物の言い方」
 頬をやわっこく両手で挟んでいると、紫色が僅かに、数ミリぐらいだけれど、ほんのりと細められた。口角は上がらない。
 本当に初めて会った時とは正反対。今では寧ろ、なんであそこまでにぱにぱ笑って、まるでケント兄みたいに振る舞えたんだろう、なんて気になっている。
 演技が上手いと言えば、それまでなんだろうけど。でもそれだけで、今のほのかな表情から、太陽のように大口開けて笑えるものなのか。表情って物理的には筋肉に依存する訳だし。それに言葉に仕草だって、台本なんかないから常にアドリブな訳で。
 一体この少年は――って。
「そういえば、君の名前って何?」
 モヤモヤ巡る難しい事なんかより、ずっと大事だ。どうして見落としてたんだ、と自分に驚いて仕方がない。
「凄い今更ではあるんだけどさ?」
「別に。何でも良いだろう」
「困るよー? ずっと君呼びって、何か落ち着かないし」
 淡々と返す彼に咄嗟に食い下がったら、彼は眉間にしわを寄せて、神妙な顔で矯めつ眇めつ首を傾げる。
「おれだと分かれば十分なんだろう。なら、好きに決めれば良い」
「いやいや、名前ってそういうものじゃないでしょ?」
 うりうりと軽く頬を押したからか、彼はもっと眉間のしわを深くする。ふっと目線を左上にやるけど、首が傾くばかりだ。心底、分かっていなさそう。
 そんな寂しい事が現実にあるのは。ちゃんと知っている、つもり。
「君だけのものなんだから、ちゃんと握っておかないと」
 少年は目を見張った。微かに睫毛が震える。
 瞳が一瞬青白く瞬いた。かと思えば。
……それは」
 たちまち暗く、濁ってしまって。まぶたを一切閉じて、口をつぐんでしまった。
「ま、無理して聞くつもりはないよ。……あ。あるんだよね」
……一応は」
「じゃあ良いや! 今日の所は。満足」
 そろそろ解放するか、と手を引っ込めると同時に、彼はきょとんとボクを見つめる。だから笑いかけて答えた。
「だってあるんなら、その内教えてくれる……かもしれないじゃん。なら良いかなーって」
……つくづく、普通の――
 少年はぼそ、と呟いて、頭を振った。
「まあ良い。そもそも次があると思っているのか」
「あれ、違うの? こういうのって長く続くタイプだと思ってたんだけど」
「間違ってはいない」
 そろりと裾から手を離して、彼は腕を組む。それから、息を一つついて続けた。
「元々、おれが探されて呼ばれているから。これが、どうにかなるまでは、終わらないと思っている。……レノが今更来たのは、おれに関連するから、だろう」
「縁とかそういうやつ?」
「概ねは」
「なるほど。長い付き合いになりそうだね」
…………いや。割合、長くならないようにする」
 絶対、とまで言い切った。真っ直ぐにボクを見る。
 その目がボクの目の裏っかわを刺すぐらいだった。過剰に真っ直ぐすぎる気がして、逆に不安になる。これが良い方向に行くのなら、問題ないんだけど。
 ちょっと乾いた喉を唾を飲み込んでごまかす。
「でも、誰に探されているの? ほら、ボクも当事者な訳だし。知っておいた方良いかなーって」
……そ、れは」
 少年はとうとうボクではなく、前を見て。
「あ」
 微かに、ほとんど息みたいな声を溢らした。ひゅ、ときっと吸えていないけど、息の音。
 ボクの後ろに誰か居る。確信して、後ろ手に少年の肩やら服やらに触れて、立ち上がりながら振り返る。
 一瞬、捉えたのは黒と白。遅れて輪郭を見つけた。
 そして目を見張る。
 黒いのはこの場所の色で、白いのは立襟だ。首から下は一点を除いて人。首から上は遠近感ゼロの黒。
 要は、頭がない。
 彼が言っていたのはこの人の事だろうか。でも、その割に――
 疑問が頭をもたげる。顔があるべき所を見つめても当然何も見えないけれど。背も意外に少ししか変わらないけれど。でもボクを見下ろしているのは感じた。
 誰、と尋ねる前に、その人は音もなく腕――人の腕からかけ離れた真っ白な翼そのものを横に払う。邪魔なものを雑に退かすようなジェスチャーのよう。
 途端、視界が白む。真っ黒すぎた周りとのコントラストが激しすぎてただ単純に眩しい。反射で目を閉じれば、そのまま瞼が重たくなって。眠気に負けるときみたいに、意識が霞んでいく。立っているかどうかもよく分からなくって、足元がふわふわ浮いている気もする。少年は後ろにいる? 掌の感覚もおぼつかない。
 落ちそうな意識に抗いつつ自分の体を見る。別に、服以外はいつも通り。胸元で大きなブローチが輝いている。
 ぴかぴか瞬くのを見ている内に。
 次第に思考する言葉も解けてしまった。

 ***

 ぱちり。
 雀の声。カーテンのはためき。秒針の音。太陽の光が降ったり、途切れたり。ぼんやり、明るくなったり暗くなったりする天井を見つめる。
 よく知っている。毎朝、毎晩、見ているから。
 階段を上がってくる足音。ノック、後に間を持たずにドアノブがカチャリと鳴った。
「お兄ちゃん」
 耳あたりの良い、きょうだいの声。ドアの方を見れば、髪を一つに縛って小さい尻尾ができているし、濃い灰色のスラックスもネクタイもバッチリと決まっている。
「エレン。おはよ」
「はい、おはよう」
 寝ぼけ眼を擦れば、きょうだいはふわりと笑った。
「珍しいね。いつも五時過ぎに起きてるのに」
「そうかも。今何時? 見た感じ、遅刻ギリギリかな」
「今六時になった所」
 小さなイタズラが成功したみたいにニコニコ笑う顔をまじまじ見る。あのエレンが。ちょっと、本当に驚いて、喉で声が詰まった。
……じゃあエレンの方が早すぎるじゃん。いっつもボクが起こしに行ってるのに」
「たまには良いでしょ、こういうのも。サプライズってやつ」
「何時もこうなら楽なんだけどね」
「えー! それは無理!」
「何だよー。今日できたならできるって」
 肩を叩かれて、あはは、と軽口を叩き合って。
 ちゃんと現実だ、と肌で感じる。
 真っ暗な夢と朝が来た現実の区別をつけている所にエレンが言う。
「朝ご飯できてるから。今日は寝癖、直す前に食べたら? お母さんもお父さんも少し気にしてたし」
「りょーかい。着替えたら行く」
「ん。じゃ、下で待ってるから」
 素直にぱたり、とドアを閉めるエレンを見送ってから、姿見の前に立つ。
 ちゃんと、シワもそこそこあるいつものパジャマを着ていた。寝癖は縦横無尽で凄い事になっている。毎朝見る自分の姿に他ならない。
 つるつるしたボタンを外して、一回脱ぎ捨てて、姿見の隣に掛けていたハンガーから制服を抜き取った。真っ黒なそれに袖を通して、ボタンを止めつつ、首にくっつく詰襟のプラスチックを微妙に調整する。
 ぐるぐる頭の中では夢の事がこびり付いていた。
 結局、あの後どうなったのだろう。
 掌を見つめる。銀色の髪に触れて、冷たいけどやわっこい頬を触って、最後に服が擦れて。
 ただの夢で片付けるには、少年に触れた感触も、後は声もはっきりと思い出せてしまう。
 それに、あの最後に現れた、あの人。頭がなかった人。
 あの人は誰なんだろう。少年の反応を見れば、ひきつった呼吸を聞けば、彼を探して呼んでいるのはあの人なのは分かるけれど。
 でも、ボクへの害意とか敵意は感じなかったのが不思議だ。少なくともボクに害がある事はしなかったのは、現実の醒めた頭で思い返しても確かだった。
 だからちょっと気になる。それだけ歯牙にもかけていない、吹けば飛ぶって思われているだけかもしれないけれど。単純に好奇心かもしれない。
 ぐるぐるぐるぐる。思考が二巡、三巡する内に姿見の中では寝癖以外はちゃんと形になったボクを見て、一回頷く。
 ともかく、起きている内は現実を優先しないといけないのも事実だ。少年だって、長い付き合いになるって認めていたし。
 事実は今晩寝れば分かる事。ただの夢だったら、ちょっと寂しいけれど。
 現実では現実の事を考えなくちゃ、と頬をぱちぱち叩く。
 それからお腹がぐるる、と鳴って思わず一人笑ってしまった。取り敢えず朝ご飯を食べよう。それから、今日は燃えるゴミの日だ。ボクがゴミを集めて、捨てて、学校に行かなくちゃいけない。
 くわ、とあくびと一緒に一回伸びをする。固くなった部分が伸びて気持ちが良い。脱ぎ捨てたパジャマを折りたたんで、ベッドの上に乗せた。
 それから、鞄を引っさげて部屋を出た。階段を降りてリビングに着いたら家族がいて、もうテーブルを囲んでいる。
 やわっこい視線がボクの一身に集まるから「おはよう。ちょっと寝過ごしちゃった」とけらけら笑った。ちゃんと元気だって分かるように、単純に寝過ごしただけって分かるように。