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那須野
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寿月
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暮れのしじまに
【寿月】数年後同棲プロ時空*スタンプラリーデートに行くふたり。
そのポスターを見つけたのは、日課にしている散歩の途中、住宅街の角にある古びた掲示板の横を通りがかったときだった。
自治体が主体の企画で、近隣数キロメートルほどの圏内にある商業エリアや公的施設、史跡を巡る散策コースがいくつか設定されている。目印となる各ポイントには判子が置かれており、専用のチラシに規定個数以上の判子を押して集めることで、最終的になんらかの景品と引き換えられる
――
いわゆるスタンプラリーである。
スタンプラリーが趣味の恋人が知れば、多少なりとも喜ぶに違いない。
そんなことを考えながら歩いていれば、気付かぬうちに鉄道駅(どうやらスタート地点になっているらしい)のロータリーから件の専用チラシを二枚、自宅に持ち帰るのも必然だろう。
丁寧に四つ折りに畳み、ウェアのポケットにひそませて帰ってきたそれを見て、いまや同居人でもある男はすぐさまぱっと瞳を輝かせた。
「散歩もスタンプラリーもできて一石二鳥やね」
今度のオフ、晴れとったら絶対行きましょ。
屈託ない笑顔と弾んだ声に、自身もやはり素直に頷いて返したのが、およそ半月前のことになる。
日が近づくにつれそわそわと天気予報を見る姿が増えてきた毛利を微笑ましく思いつつ、この様子なら天気も心配はなさそうだ、とつられるように安堵した。
せっかくだからと数種類あるコースのうちもっとも距離が長いものを選び、軽い運動用の身支度を各々整えて家を出る。出発したころには薄曇りだった空も、昼過ぎにはすっかりと晴れ渡り、抜けるような青が頭上に広がっていた。
季節は夏の初め。気の向くままに寄り道をしつつふたりで歩く街は、暮らし始めてしばらくが経つというのに初めて見る場所も多く、新鮮な心地がする。
今度はこのカフェに行こう、こんなところに書店があった、改装工事中のビルのテナントには何が入るのか。表通りから一本奥に入った小さな公園の木陰では、野良猫たちがのんびりとたむろしていた。
あちらこちらに目をやりながら歩く道中、他愛ない会話は尽きず、上機嫌な男の赤茶色の癖毛がふわふわと風に揺れているのをそっと眺めて、目を細める。
公園内で猫たちがくつろぐ様子を、少し離れたベンチに座って見守りながら昼食を摂り(近くの個人経営らしい惣菜屋で購入した弁当だったが、バランスも整っていてなかなかに美味かった)、いささか名残惜しく思いつつ場を離れる。
散策の目的である判子も順調に集まり、寄り道をしていても日が傾き出すころにはひとしきりポイントをまわりきっていた。あとは帰り道にスタート地点の駅へ立ち寄って係員からの確認印と景品を受け取れば、スタンプラリーも散策も完遂だ。
充実した良い休日だった。
傍らの男のやわらかな中低音に心地好く耳を傾けながら、声に出さず内心だけで呟く。茜色の濃くなってきた西の空を満ち足りた気分で眺めていると、ふいにちいさな雫がぽつりと頬を打った。
「あれ、」
同じく水滴に打たれたらしい男からも驚いたような声が上がる。
見た目には晴れたままの空から零れ落ち、ぽつ、ぽつ、と地面を濡らし始めた雨粒は、またたく間に大粒のものに変わって頭上からひといきに降り注ぐ。
通り雨。その言葉が脳裏に浮かぶのと、知った感触の手にぱっと指先をさらわれるのはほとんど同時のことだった。
「
月光
つき
さん、あっち!」
先ほど最後のひとつのスタンプを集めに立ち寄ったばかりの建物
――
図書館を、毛利が声と視線で示す。手のひらに引かれるままに駆け出して、駐輪場らしい軒下へ潜り込んだ。
軒の向こうでは煙るような雨が夕暮れのしじまを染めている。通行の妨げにならないよう通路の端、コンクリート造りの壁際にまで移動し足を止めたところで、どちらともなくゆるく息を吐いた。
「ひゃ~
……
えらい急に来やったねえ」
「
……
ああ」
「近くに屋根あってよかったですわ。 ええと、タオルタオル
……
」
肩掛けのスポーツバッグを漁る男のつむじを、自分も鞄からタオルを取り出しながらじっと見下ろす。視線に気付いたらしい男がふいとおもてを上げて、一直線に目が合った。かちり。
「
月光
つき
さん?」
「いや、」
わずかに冷えた指先に、自分のものではない体温の感触が染み込むように残っている。ここで目を逸らすのも不自然に思え、小さく首を横に振るに留めておいた。
男は不思議そうにきょとりと首を傾げてから、探り当てたタオルで濡れた肌や服を拭いだす。自身も同じように水気を取りつつ、雨音に耳を澄ませる。沈黙と一緒に、湿った空気と濃い雨の匂いが肺に入り込んでくる。
空は明るいままだから、そう長いあいだ降りはしないだろう。幸いずぶ濡れにならず済んだおかげで風邪を引く心配もなさそうだ。鞄に入れていたスタンプラリーの台紙の無事を確かめそっと息をつく。肩にタオルを掛けた毛利が、ひょいとこちらの手元を覗いて小さく呟く。
「これやと景品の引き換えの時間過ぎてまうかもしれんね」
「そうだな」
毛利の言う通り、景品の受け渡しは十七時までと記載されている。折り畳み傘の持ち合わせもないため雨が止むのを待つほかないが、そこから徒歩で移動する時間を考えると、時間内に手続きを済ませることは少々難しいかもしれない。
「濡れてもうたし、雨が止んだらそのまま帰りましょか」
「いいのか」
「引き換えはもうちょい余裕あるみたいやし
……
。 っちゅうか、正直景品なくても
月光
つき
さんと色々回れただけで大満足やよ、俺。 この紙だけでも特別賞や」
「
…………
、」
「濡れっぱにはならんかったし大丈夫やろうけど、やっぱ早めに帰って風呂入ったほうがエエですやろ。 ね?」
こちらを見上げて笑う男のまるいひとみを数秒見つめ、引き換え期間を確認したあと納得とともに頷いた。続けてじゃれるように寄越された「一緒に入りますか」の声に返す言葉を探していると(嫌ではないから返し方に困るのだ)、体の横に下ろしていた手に男の指先が軽くふれる。
壁に背を預けるように隣り合って立っているためぶつかってしまったのかと思ったが、
――
どうやら違うらしかった。
「雨止む前に、冷えてまうとアカンから」
「
……
そうか」
下ろした位置はそのまま、厚みのある手のひらがこちらのわずかな身じろぎごと指先をつつんで握る。
……
あたたかい。
男の目線は、知らずのうちに前に戻っている。
まばたきをひとつ。
少し考えを巡らせて、同じように前を向くことにした。
「
……
ね、
月光
つき
さん」
「なんだ」
「オモロかったですね」
「ああ」
降りしきる雨音に紛れて、ぽつりぽつりと言葉を交わす。指先のかすかな冷えは、男の手を握り返しているうちにいつの間にかほどけてわからなくなっていた。
雨は、まだ止まない。