メルトと一緒にいるようになって、しばらく経つ。互いの仕事が忙しい中なんとか一緒に過ごす時間を作って、ちょっとずつ仲を深めているような、そんな関係。いつでも使っていいから、と渡した合鍵を使ってもらうのももう何度目になるか、今日もメルトが待っている我が家までなんとか帰ってきたところだ。玄関を開けて発したただいまの声は、蚊の羽音レベルかってくらいか細くて、言った自分がびっくりするくらいだった。そんな羽音も聞き逃さずに(たぶん玄関の開く音に気付いただけだと思うけど)メルトが廊下の奥から顔を出す。
「姫川さんおかえりなさい……ってうわ、めちゃくちゃ疲れてるっすね」
近寄ってくる足音はぴょこぴょこと効果音が聞こえるようだ。小動物のそれ。かわいい。疲れによく効くお薬が自分から寄ってきてくれる。なんてありがたい世界だ。なんて思っていることをおくびにも出さずに平静を装いながら、靴を脱ぐ時によろけてしまったのを、メルトがさっと支えてくれる。優しい。
「あっぶね、ふらふらしてる」
「……ありがと、倒れるかと思った」
柔らかなお嫁さんの腕の中を堪能する、というつもりはなかったのだが、なんだか自分が思ってたより疲れてたらしい身体が、家の玄関を開けたら、いや、きっとメルトに会ったから、張っていた気が抜けたようで急に地球の重力が重く感じた。そのまま身を任せて寄りかかっていると、メルトはとんとんと背中を優しくさすってくれた。
「着替えだけしてくれたら、あとは片付けとくから寝る?」
「せっかく、メルト、待っててくれてたのに」
「いいのいいの、疲れてる時はしっかり休むのも大事」
「……お言葉に、甘える」
「おっけ」
テキパキした手際のいい介護士さんの介助つきで服を着替えて、スウェットでのそりとしたところで肩を貸してもらいながら移動、ベッドに座らされ、そのまま肩を押さえられてダイブインさせられた。きゃっ、押し倒されるっ!なんてドキメキもなかった。いつもならはしゃぎ倒すのに、今日は普通に疲れてんなこれは。
メルトが出て行って静かになった部屋で、お付き合いが始まる前にふたりで寝ることを夢見て買った特注ベッドに包まれて、眠気がどっと押し寄せてくる。俺の周りだけ十倍の重力が掛かっている気がする。だっていつもよりベッドに沈んでる。それにしても高級ふわふわベッドまじ神だわ。
もう少しで赤ちゃんのように秒で寝入ってしまうところで、コンコンと扉がノックされた。聞き覚えのある蚊の羽音のような空気音で返事すると、様子を伺うようにそっとメルトが部屋に入ってきた。
「姫川さん、起きてる? お邪魔します」
「んー」
さささっとベッドの隣に膝をついたメルトは、握りしめた手を寄せて、捧げ物をくれるみたいにゆっくり手のひらを解いた。あの、と伏目がちに呟くの堪らん。
「おれ、栄養ドリンク持ってるから良ければ、と思って」
「さんきゅ」
正直もうこのまま寝てしまいたいのだが、ずっと帰りを待ってくれていたこともあるし、俺自身二人で過ごす時間を楽しみにしていたことに嘘はない。この疲労感さえなければいっちゃいちゃの楽しい時間を過ごしていたはずなのだ。お付き合いしている健気で可愛い子の厚意を無駄にしてはいけない。
重ったい体をなんとか起こし、眼鏡を掛けながらもう片方の手でメルトが差し出してくれた栄養素ドリンクを受け取る。うーん思ったより小さめだな。これどこのメーカーのやつ、と眼鏡越しに瓶のラベルを見た俺は、脳の処理が一瞬止まった。だってこれは。
「……あの、メルトくん。これどこで手に入れた?」
「これは、昨日鴨志田さんに——」
『おっ、メルトじゃん。ちょうどいい、イイモノやるよ』
『イイモノ?』
『そ』
『たたなくなってもすぐ元気になる薬』
(立たなく?立ち上がる元気もないくらい疲れてる時にってこと?)
『栄養剤?』
『そうそう』
『ふーん、ありがとう』
『ま、高校生はまだまだ元気か〜』
「——って貰った」
「………………」
それは“勃たなく”だろ絶対!
メルトになんてモノ渡してるんだ鴨志田朔夜!!
わなわなと震える俺を見て、メルトが心配そうに慌てる。きゅるきゅるのおめめが揺れて、申し訳ない気持ちになる。
「あっ、もしかして姫川さん苦手なやつ? だったら無理しなくていいから——」
「飲む」
反射的に言葉が出た口をバッと押さえたが、時既に遅し。不安そうに揺れていた瞳は安心の色に変わって、強張りかけていた表情も弛んだ。なにより、安心した顔がかわいい!
自分の失言への後悔よりも、メルトの不安を取り除けたのなら幸いだ。たとえこれが、そういうおくすりだったとしても。
大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。深呼吸して覚悟を決める。飲むって言っちゃったし、この可愛いお顔をまた曇らせることはしたくない。飲んでも効果がバレなければ良いのだ。姫川大輝、お前は何のために役者をやっている。何のために最優秀男優賞なんてもらったんだ。今この時のためではないのか。
勢いに任せて瓶を傾ける。内容量の少ないこれは二度三度と喉を通せばなくなるほどで、味は何とも言えない。栄養ドリンクと言われればおかしくない苦味だ。
メルトに適当に理由を伝えて、部屋から出て行ってもらえるように頼んでみたのだが、「心配だから寝るまでそばにいる!」と手なんか繋いでくれちゃって、普段の時ならスキンシップに期待して胸を弾ませるところなんだが、今の鼓動はなんだかそんな健康そうなものではない。
飲んですぐ効果が出るなんて絶対にあり得ないのだが、緊張したせいか疲労のせいか、はたまたふにふにの手のせいか、すぐに心臓が跳ねるように鳴り始めた。体温が上がって、なんだか息苦しくなってきた気がする。頭も痛い。何なんだこれは。
呼吸が荒れる。息が段々深くなった。酸素を求めて、吐き出して。正直に言おう、思ったよりキツい。
身体中の血が一ヶ所に集まっているに違いない。頭がくらくらするのは寝不足なのか、違うのか。
俺の様子がおかしいことに気付いたメルトが顔を覗き込んでくる。なんでもない、という意図で片手を振って遮りながら顔を背けた。役者スイッチの自信がない。顔を見られたらバレてしまうかも、と思って。出来る限りの平静を装った。
そんなことを知らないメルトはきょとん顔で首を傾げる。
「あれ? 姫川さん、勃って」
「ません!」
「え、でもそれ」
「なんでもない! なんでもないから!」
全力で否定しながら布団を手繰り寄せる。下ろした前髪の間からメルトの様子を見ると、さーっと顔色が悪くなっていく。
「待って、まさか、あのドリンク……?」
「違う違う! そうだけど、違うから!」
「やっぱり俺のせいで……」
「違う! 俺が勝手に飲んだ! 自業自得だから!」
手をぶんぶん振って否定するも、メルトはショックを受けて真っ青な顔で俯いてしまった。違うんだ、そんな顔をさせたくないから黙って飲んだのに。
全力否定でさらに息が上がる。さっき布団で押し隠した股間が痛い。意識し始めるとそのことばかりとことん考えてしまう。カッチカチなのだ、痛いほどに。
肩を落として俯くメルトを宥めた方がいいのかどうすればいいのか。スキンシップ慣れしていない俺に肩を抱いて慰めるとかそういった大胆なことは出来ない。とりあえず言葉で安心させようと、大丈夫だと何度も言葉にした。
あとほんと、ツラいの。
「すみません、俺……」
「いいっていいって。だからちょっとひとりに」
「責任、取ります」
「————は?」
ずっと繋いでいた手をメルトがぎゅっと握った。真剣な瞳でまっすぐに見つめられて、ついドキッとしてしまう。真剣なお顔かわいい。股間もギュンとなる。
じゃなくて。
「ちょ、待てメルトっ」
一旦距離を取ろうとするも、握った手を更に強く握りしめて、メルトは唇を震わせた。
「お、俺たち一応付き合ってるんですもんね。大丈夫そういうこともあるって理解してますし」
「だめだめだめだめ」
「知らなかったとはいえそもそもこれは俺のせいで」
「待て待てメルト!」
ふらふらと目線を彷徨わせながらメルトがベッドに膝を掛ける。ぐっと近付く顔。潤んだ瞳も、震える睫毛も、恥ずかしげに赤くなる頬も、全部かわいい。
一瞬、このまま流されてしまってもいいかも、なんて不埒な考えに傾きそうになるのを何とか踏み止まって、近付くメルトの肩をぐっと押さえる。
「だめだから! 高校生にそんなことさせるなんてできないし、成人向けになっちゃうから!」
「俺は、姫川さんとそういうこと、できます……!」
「だめだって、お前が許しても法律が許してくれねーの!」
「十八になるまで守ってる奴なんていませんよ!」
「いるいないの問題じゃなくて!」
なんでこんなに押し強いの? かわいいお顔でも男子高校生だから? こっちはおくすりでふらふらなんだって!
迫り来るメルトから、腕に力を込めて距離を保つ。メルトの眉が八の字に垂れていくのがとてつもなく申し訳なくなる。うー、ごめんなさい。
真剣な瞳でメルトの目を見る。俺は月九主演俳優、俺は月九主演俳優。
「落ち着けメルト」
「……はい」
「俺はこういう形じゃなくて、お前とゆっくり関係を築いていきたいんだ」
「……うん」
「知らなかったんだからこれは事故だ。お前がくれたものだからってわかってて飲んだ俺が悪い」
「そんなこと、」
「メルトは何にも悪くないから。疲れてる俺を気遣ってくれてありがとう。でもこういう状況だから、ちょっとだけひとりにしてくれないか?」
あくまで優しく。こちらの焦りやなんやらは感じさせないように優しく話す。正直こんなこと全部放り投げてひとり遊びに集中したいくらいだが、なんとか残っている理性でギリギリ耐えている。かわいい年下の恋人との関係がなにより大事に決まっているじゃないか。自分の一時的な欲望で壊してなんてなるものか。
綺麗な言葉を並べてもツラいものはツラいので、なんとか一人にしてもらいたい。あとはメルトがうんと頷いて部屋から出て行ってくれればそれで……。
「うっ、ごめ、なさ、」
「いいから、さすがに強制力あってキツいから、な?」
「ごめ、おれ、……ッ」
泣きじゃくるメルトの肩をぽんぽんと宥めるように撫でる。大きな瞳が涙で潤んで、いつもよりさらにうるうる……。
「おれ、しってた……」
え。
??????
はてなマークがたくさん浮かぶ。
えっと待って。なにを??
メルトは目尻を擦りながら、ヒクヒクと嗚咽混じりにゆっくりと続けた。
「うっ、瓶も、見たことあったし、鴨志田さんが言ってたこともちゃんとわかってた。……なのに俺、姫川さんに飲んでもらえたら、恋人らしいこと、できると思って、こんなことになるなんて、ひめかわさん、ごめんなさ、」
しゃっくりのように時々声を上擦らせながら、メルトは「ごめんなさい」と繰り返した。ずっと俯いて泣くメルトの、目尻を拭ってびしょびしょになった袖口ごと両手を握った。これ以上目元を擦ったら赤く腫れてしまう。
「ごめん、やっぱ俺が悪いわ」
ふるふると首を振るメルトの髪を撫でる。セットされた癖っ気がぴょこんと跳ねるのが、かわいい。
「ちょっと浮かれてたっていうか、年下の恋人が可愛くって、大事にしたいと思ってた。お前の不安わかってやれなくて、ごめん」
拭う手を塞がれ、溢れて零れ落ちる涙をいっぱいに溜めた瞳がぐちゃぐちゃの顔で俺を見る。
「おれのほうこそっ、ごめんなさい」
「いいよ、大丈夫」
頭を撫でて、引き寄せて、抱きしめた。肩口が温かく濡れるのも愛しかった。
「ゆっくり、お互いのこと知っていこう? な」
「……うん」
メルトが俺のシャツを握りしめて離さず、呼吸が落ち着くまでとんとんと背中をさすった。
愛しい、かわいい。男同士だとか、年下の恋人だとか、ゆっくり進めようだとか、全部自己満足でしかなかった。メルトと話して、お互い納得して、二人で進めていく関係だったはずなのに。
メルトの瞳から離れた涙がシャツをひんやりとさせ始めた。まだ震えるメルトの肩をそっと抱きながら、俺はグッと目を瞑った。
メルトを抱きしめていると言っても、腰は可能な限り引いていた。その存在感は一部始終全然まったく忘れることができなかった。痛い。つらい。しかしメルトに必要以上に悟られてはいけないと必死に頭の中で誤魔化してきた。必死に耐えていたのだが、静かなこの状況では意識を逸らすものもそう思いつかないし、むしろメルトの髪とか匂いとか、泣き顔もたまらんし、乱れた呼吸とか、さっきの上擦った声なんて、そんなのまるで。
想像を掻き消すように奥歯に力を込める。だめだだめだ、違うことを考えよう。ほら、今食べたいものとか。そういえばメルトがご飯作ってくれて待ってくれてたらしい。そんなのもうお嫁さんじゃん。かわいいふりふりのエプロンなんか着て、おかえり♡なんて言われようものなら、そんなもの。
無理だ! やはり耐えられない! 普段はそんなことないのに、想像が全部ソッチに引き寄せられる。やっぱりおくすり怖い!
覚悟を決めて、メルトの体をそっと離した。泣き腫らして少し赤らんでしまった目元が痛々しくて、まだうるんだ瞳で上目遣いに見上げられれば、これはもう据え膳————ではない! だめ! ぜったい!
「あの、メルトくん、そろそろひとりにさせて」
「俺、見てちゃだめ?」
「だめ! です!」
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