桜霞
2025-06-08 16:57:57
2793文字
Public 【RKRN】夢
 

【RKRN】残り香【ZAT夢?】

青風さん(@aokaze_dream)のRKRN夢企画「煙と恋」参加作品です。
本編の大捕り物を書こうとすると中編になるので番外編だけです(?)。
以下注意書きを読んでダメな方は廻れ右だ。

※江戸時代パロです(雑渡さんは御庭番で主君が某暴れん坊です)(?)。
※夢主が喋らないし姿も出てこないです。
※なんでも許せる人向けです。





 忘れられない、香がある。





 ◆





 時は享保。
 天下泰平の世にあって、お江戸は今日とて晴天に恵まれている。日差しは明るくも力強く、白洲から湯気のように立ち昇るほどである。
「では、沙汰を申し渡す」
 公事場から朗々とした声が響いた。茣蓙の上に連座させられていた男たちは一様にびくりと肩を震わせ、上縁に低頭していた男はぎしりと奥の歯を軋ませた。
「勘定方、山宮宗衛門。公方様による御恩情により、切腹を申し付ける」
 清々しい晴天の下、男たちの命運が定まった。悲鳴とも絶叫ともつかぬ声が蠢き、喉奥で唸っていた山宮は「御免!」と叫ぶや否や懐から抜刀して一歩踏み込んだ。
 鉄錆が香る。血飛沫がまだらに円を描く。斬ったのは与力である。懐刀は跳ねて転がった。
 南町奉行は、微塵も動かなかった。ただ険しい顔のまま、小さく嘆息した。





 ◆





 ぱん、と乾いた音を立てて薄い木板が中心から真っ二つに割れた。
「そうか」
 側用人が新しい木板を素早く立てる。ひし形に置かれた木板には、中心に小さく、墨で菱形が印されている。直後、寸分違わず、菱形を矢が射抜いた。
「お見事」
 抑揚の無い声音に、弓を引いていた男は答えなかった。矢筒を抱えていた側用人が、男から弓を恭しく預かる。
「残念だな。あれは欲に目が眩まなければ、なかなかに良い働きをする男であった」
 男が移動する。濡れ縁に腰かけた男に、水と手拭が差し出された。汗を拭った男が右脱ぎを元に戻す。
「此度の件、迅速に処理できたのはそちの働きあってこそ。褒美を取らそう。何が良い。なんでも申してみよ」
「勿体なきお言葉でございまする」
 静かに跪いていた男は、さらに低頭した。内心、褒美を取らせるという男の言葉の嫌味の無さに感嘆する。この世の実質的な権力の頂点にあって、ここまで爽やかに在ることができるのも、いっそ空恐ろしいものである。
「しかし、我ら御庭番、御下命に従ったまで。恐れ入り奉りますが、此度は殿のご慧眼あってこそなれば」
「過ぎた謙遜は嫌味だぞ、雑渡」
 顔を上げずとも分かる。この主君は、紀州に居た頃から変わらぬ、いたずら小僧のような笑みを浮かべている。伏せたまま、雑渡も小さく口角を吊り上げた。
「御庭番はすべて旗本に昇格させる。身分があれば市井に溶け込めぬだろうというお前の言に添ったが、此度のことでよく分かった。町人のままでは潜り込めぬところも多かろう」
「は。仰せの通りにて」
「で。無いのか、何か」
 んー? と雑渡の方を覗き込む砕けた態度の主君に、何を言わぬでも雄弁な視線がそっと向けられる。雑渡は苦笑を噛み殺した。
 江戸の城に詰め込まれたところで、性根の変わるわけでもなし。己が主君は相変わらず、身分の垣根など感じさせないあっけらかんとした性格であった。
「では。沈香を頂戴したく」
「沈香?」
 男が意外そうに瞬く。
「お前、匂いのするものは厭うていたのではなかったか」
 雑渡が顔を上げる。視線が合って、男は何故雑渡が宗旨替えをして香などを求めたのか、理由を聞こうとした口を閉じた。
「分かった。沈香だな。追って届けさせる」
「有難き幸せに存じまする」
「では、戻るか」
 瞬きひとつ、気安い空気が霧散する。踵を返した男の後を追う側用人が背後を顧みたときには、御庭番の姿は忽然と消えていた。





 ◆





 忘れられない、香がある。





 ◆





 下賜された沈香を、雑渡は切り刻んだ。
 煙草は、糸よりも細く、髪よりも柔らかく細かに刻まれている。沈香も同じようにして、それぞれの塊から少しだけ摘まんで引きはがし、指の腹で潰すように混ぜる。やがて小さく丸くなったそれを、煙管の火皿に優しく詰める。吸い口を咥え、そっと息を吸い込みながら、煙管盆の小さな炭に火皿を近づける。
 音もなくほんのりと炭が明るくなると、やがて火皿から煙が立つ。口の中に広がった香を呑んで、雑渡は煙を吐き出した。
 ふと華やかな甘さが弾けたかと思えば、手指をすり抜ける爽やかさが頬を撫でる。決して後には残らない、不思議と軽く、しかし一度知れば目を離せなくなる。
 賑やかな楼閣の中で、むせかえるような白粉と甘怠く絡みつく情を、雑渡はほんの数瞬だけ忘れた。
 現世の苦界にあって、花の吉原は日々絢爛豪華に彩られている。生温い人いきれ、肉欲と紙一重の情念、嫉妬と見栄がごうつくばって、仄暗い陰謀を巧みに隠蔽していた。主人に命ぜられた雑渡は動かぬ証拠を得なければならず、そのためには吉原きっての大店に忍び込まねばならなかった。
 豪奢な着物や派手な御膳、賑やかな宴の裏にあるのは、蔓延する飢餓、病、貧困だった。女たちは拐されてきたか、口減らしで売られたか、兎角地獄を背負っていて、それを白粉で艶やかに包み隠している。情熱的に口説いてくれる間夫か、或いはかつての純な想いか、なにがしかに救いの糸を見て情に縋り、店の不利益になるようなことがあれば、容赦のない折檻が待ち受けている。たとえ大金を積まれて遊女双六を上がったところで、やにさがる親父の妾として小さな屋敷にひっそりと囲われるが関の山だ。そこに自由はありはしない。
 しかし、雑渡の目に、沈香を纏った女は自由に映った。どこにでも行けるのに、ただ気分でそこに佇んでいるだけのように見えた。気紛れに筆をとっては男の気持ちを弄び、大金を掌の上で転がして、刹那の綱渡りを危ういとも感じていないような、生きているのか死んでいるのかさえ、どこか曖昧なひとだった。
 色に惑わされることがないように、雑渡は幼いころから折檻ともとれる鍛錬を乗り越えてきている。女の肉の柔らかさに手綱をかけて、いいように操る術を知っている。甘い悦楽を利用することさえ躊躇わない。
 沈香が雑渡をすり抜ける。
 瞬間、雑渡のそれはすべて小手先の技に成り下がる。そして女の前にそれが通じないことを、まざまざと突きつけられる。
 気の強いわけでも、愛嬌に溢れているわけでもない。
 ただそこにいるだけですべてを支配する存在を、雑渡は初めて知った。
……
 香を吐き出す。
 眼前には、頑是ない光景が広がっている。よく整理された床の間にはうららかな日差しが差し込んで、小さな庭に松が張り出し、塀の向こうでは町人たちの賑やかな声が聞こえ、遠くからは気風のよい啖呵が響いている。火事と喧嘩もまた、江戸の華である。
 雑渡は殊更ゆっくりと煙を呑んだ。火皿には、もう灰しか残っていない。
 忘れられない、香がある。
 けれどもそれは、忘れなくてはならないものでもある。
 穏やかな風が、煙を掻き消した。後には何も残らなかった。雑渡はしばらく、煙管を手指で弄んでいた。