kanaco
2025-06-08 16:17:07
3037文字
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【四信】優柔不断な男

《四信》恋人にはならないと決めた2人のはなし。

雷鳴が鳴り、激しく雨が降る夜だった。

自室のベッドで横になっていた四仔は、あるはずのない“人の気配”と“腰への重み”に違和感を覚えて目を覚ました。ゆっくりと開いた瞳に映ったのは、薄闇にそびえた人型のシルエット。そして窓から射す激しい雷光によって照らされた、血の気が失せた虚ろな表情。腰に跨っていたのは四仔も良く知る男、信一だった。

自分の寝床に不法侵入したのは見知らぬ人間ではなかった。しかしそれに安堵して良いのか四仔には判断がつかなかった。なぜなら信一の様子が明らかに異様だったからだ。白いシャツがしっとりと濡れて肌に張りつき、若い青年の素肌を艶めかしく透かしていた。鼻腔へ仄かに漂ってくるのは雨と泥と血が混ざりあう匂いだ。一見では血の滲みが見られなかったが、それでも気にかかる。

外から帰ってきたばかりなのだろうか。まさかこんな雷雨激しい夜に闇に葬るの秘め事でもあったのか。龍捲風が亡き後に九龍城砦を取り仕切っているこの若い男が、わざわざ出向くほどの何か大事が

四仔が目を覚ましたのに気がつき、信一が能面のようだった顔に薄っすらと笑みを浮かべた。しかし、そこにはいつもの華やぐような明るさや溌剌さ、無邪気さはなかった。四仔がこれまで向けられたことのない、氷のような冷たい美しさを孕んでいる。その口元が甘えるようにそっと囁いた。

「なぁ、抱いてくれない?」

気をつけて聞かなければ、雨音にかき消されてしまう。そんな吐息混じりの艶やかな声だった。四仔は目を見開き、一瞬言葉に詰まる。それでも自分の狼狽が露呈しないように努める。

何を言っている。こんな時間にどうした」

声をかけても、信一はまるで貼りつけの秀麗な表情をピクリとも動かさない。
「そんな恰好では風邪をひく。ケガをしているなら見てやるから...そこをどけ」
自分の上から動く気が感じられぬ信一を腰にのせたまま、仕方なく無理やり上半身を起こそうと肘から身を立てる。

その瞬間。抵抗を一切許さぬ勢いで、信一が四仔の首を掴んだ。驚いた四仔が息が止まる程の力に逆らえず、強い力で枕に頭を押し戻される。
「ぐっ」
ベッドに大人しく沈んだ四仔を見て、信一がいまだ薄い笑みを浮かべて手を緩めた。目の前の喉仏を労わるようにサワリサワリと撫でる。そうして四仔が小さく咳き込むのを愛しそうに眺めた。息が整い始めた四仔の目尻に浮かぶ生理的な涙を、信一の人差し指がそっと拭う。

「どうして起きるの」

そう問う。信一の顔がゆったりと近づいてきて上半身だけが四仔に覆いかぶさり、息が触れる程の距離になる。先ほど四仔の涙を拭った信一の右手に残された人差し指が、龍捲風の死後から伸ばしたままの長髪を束ねたゴムを外した。湿った黒髪がそれでもいくつかハラリと四仔へと落ちる。広がった髪と一緒に外気、血の匂い

そして眩むような色香がフワリ、と舞った。

「お前が欲しいって言ってるじゃん」

「黒社会め」
四仔は苦味つぶしをするかのようにそう呟き返した。実際、気分はひどく苦々しかった。大きな戸惑いと抵抗をいとも簡単に押しのけてしまいそうな、誘われるままに手を伸ばしてしまいたい艶麗さと妖美さがそこにはある。それでも正常な精神ではないことが明白な友人を傷つけたくないと理性が叫んでいた。今夜に何があったかは知らない。でも龍捲風を失ったことによる信一の傷はまだ少しも癒えてはいないことを、四仔はよく知っていた。

「黒社会?」
信一がコトリ、と首を傾げた。不思議そうな表情を浮かべる。冷たかった表情が一気に溶けて、今度はただ幼い表情だけが取り残される。
「そう。四仔には俺がそう映るの」

再び激しい雷鳴がなった。苛烈さを感じるほどの熱光が2人の顔を照らし、四仔は信一の顔が子供が泣きだすようにクシャリと歪むのを見た。

たまらず、反射的に腕を伸ばして信一を掻き抱いた。それは今までで一番強い衝動だった。その勢いのままに体を起こすことになったが、今度は信一も抵抗をしなかった。ただ成すがままに腕の中におさまり、動く気配がない。引き寄せられたまま力なく四仔にしな垂れているだけだ。信一の頭が四仔の頭の横に並ぶ。四仔の耳と信一の耳がひっついて、彼の耳たぶのあまりの冷たさに四仔は心が震えた。泣かせたくはなかった。でも相手の表情を伺うことができず、泣いているのかどうか判断することはできなかった。

信一が繰り返すのは、同じ言葉だ。

「なぁ、抱けよ」
「だめだ」
「恋人にして?」
「できない」
「寂しい」
だめだ」
「どうして」
「俺では、お前を一番に愛してやることができない」
「それでもいい」
「お前に二番でいいなんて思いをさせる気はない」
「俺が良いって言ってる」
「寂しさを埋めるだけなら良いかもしれない。でもお前が求めているのはそうじゃない」

四仔は信一が龍捲風を愛していたことを知っていた。龍捲風が信一のことを四仔が知らぬ”誰か”の次に愛していたことも知っていた。そして信一が自分が”二番め”であることを知りながら、それでも愛し続けていたことも。

本当は、誰よりも一番に、自分を愛して欲しかったことも、知っていた。

四仔には想い続けている”彼女”がいる。そんな自分が信一を受け入れてしまえば、信一はまた”二番め”になってしまう。それも仕方ないんだと寂しく笑って、誓った相手の全てを受け入れて尽くしきってしまう。

今の寂しさを慰め合うことはできる。それができるくらいには自分たちはお互いに心を砕いている。それを四仔は分かっていた。だがきっと自分たちはいつか破綻し、耐えられなくなる。少なくとも四仔はそう考えていた。

「四仔」
願うように名前が響く。
「信一」
祈るように名前が響いた。

お互いの名前を呼んだ。どちらともそれ以上言葉が続かず、そのまましばらくの沈黙が流れた。雷と激しい雨音だけが部屋に響いて2人が生むその間を埋めていく。四仔はそれにひどく救われる思いだった。

やがて、ポツリ、信一が口を開いた。
「抱いてくれやしないのに、お前は俺を抱きしめるんだな」
受け入れることはできないのに、突き放すこともできない。

「お前のそういう優柔不断なとこ、キライ」
四仔は抱いた男の背に回した腕の力を強めた。放せはしなかった。だからそれしかできなかった。

「でもそういう優しいとこ、スキ」
本当に優しくて、俺は、心配だよ。

信一は静かにそう言った。ずっとだらりと垂れている信一の両腕が、四仔の背に回されることはない。それで良かった。

そして今日何度目かの静寂が2人を包んだ。



「ごめんな、四仔」

そう言った信一の声は、いつもの若者らしい軽やかさと気さくな暖かさを持つ声音に戻っていた。ずっと四仔の背に回らなかった腕がゆっくりと回る。優しく四仔の体を包み込んで親愛なる“友達”を慰める。

「大丈夫、大丈夫だ」

指が欠けた手のひらが、その腕ごと大きく動いて四仔の背をさすった。左手は上ってあやすように髪をポンポンと優しく撫でる。

「本当に、俺が全部悪かった」
分かっていたこと、だったのに。
ひどいことして、ひどいこと言ってごめんな。

とても、困り果てたような優しい声だった。

「だから泣かないで、四仔」

そうして四仔は、泣いていたのは自分であったことを知った。