erewhon
2025-06-08 15:48:53
4590文字
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冬の雷


Phantasia


 B.E.は軽い衝撃を感じて目を開けた。

 視界が暗い。夜目が利くはずの自分が、なにも形あるものを視界に捉えない。
 身体が重い。指一本動かすこともしたくない倦怠感。
 だが頭は冴えている。自分が使い物にならない状態にある、ということを自覚できるくらいには。

 B.E.は久しぶりに「術者」という言葉と、その姿を頭の中に思い描いた。
 それは本当にどれくらいぶりだったろう――かつてこの地上に当たり前にあった「魔術」と「幻術」は、時代が下るにつれてその領域を減じた。ファンタジーはサイエンスに還元された。不思議はだいぶ減った。
 でも、完全にではない。
「自分」という存在がここにこうしてまだ在るから、それが証明される。だから、いっぽうで「術者」なる者がまだこの世に在り、この自分を打ち倒そうとしていてもおかしくはない。

 といったことを考えるうちに、泥の色に塗りつぶされていた視界のあちらこちらがぼんやりと明るくなり、丸く黄色く滲み出した。
 室内灯?

 ふいに、人の声がした。女性のやわらかな声だった。
「いかがでしたか。よくお休みになれましたか」

 B.E.はひと声呻いて手を床に突き、腕を張った。床、と思えたそれは、柔らかいシーツだった。B.E.は寝台の上にいたのだ。
 そのまま上体を起こす。頭がぐらぐらする。額と四肢が熱い。
 とはいえ、いったんそうして身体を動かすと、中世のファンタジーは急激にB.E.の周囲から退いた。B.E.の身体をこうして重くさせているのは術者の術などではなく、おそらくはなんらかの薬物、女性の「よく休めたか」から推測するに、人を強制的に休息させるためのそれだった。身体を起こしたはずみで外れたらしい点滴の管が、振り子のように暗がりに揺れている。とはいえ、いまだファンタジーの領域に残されているものもあって、それは「いま自身がいるこの場所にも、置かれている状況にも、いっさいの覚えがない」ということだった。

「どうかな。眠ってはいたかもしれないが……
 女性の問いかけに答えかけてB.E.は、そこで初めて、自分の声が自分の声ではないことに気がついた。
 寝起きだから声がしわがれている、というようなものではない。明らかに違う。ここで、いちど退いたファンタジーが一気に息を吹き返す。
 術者は術者でなく、医師か看護師のたぐいで、わたしに掛けられた術も、点滴液に混合された栄養剤だか鎮静剤のたぐいだ。だが、わたしは誰だ?

 B.E.は自らのあばらの上にとっさに手を伸ばし、「それ」を掴んだ。起き上がったときから感じていた違和感、小さな金属の感触がそこにあった。
 ペンダント状にして、首から提げている護符?
 護符といえば――まずは十字架だが、「それ」が実際に十字架の形状をしていたところで、じかに触れ、握り締めてもなんらダメージを受けないのがB.E.の強みであり、B.E.をうんざりさせもする要素だった。だがB.E.の触れた「それ」は、十字架の形をしてはいなかった。ごく小さな円形をしていた。筒? 輪?
 指輪だ。

 女性の声がした。
「またお兄さまのことをお考えになっていたのではないですか」



 消防車のサイレンの音に顔を上げる。
 顔を上げてから考える。
 このように、近くに音を感じるのはおかしい。なぜなら、自分の私室は、地上二十数階建てのビルの最上階にあるからだ。
 窓から外を眺める。外は闇だが、とたん、身体が地に落とされ、押しつけられている感触をおぼえた。
 ここは地面だ。自分は地べたを這っている。

「このサイレン、学校のほうではないな」
 背後から、声がした。
 おそるおそる、声がしたほうを振り返った――よく知っている顔が、こちらを見下ろしていた。見下ろす? 自分はソファーに座っていて、相手は立っているからだ。
 その相手は兄の顔で苦笑をし、兄の声でこう言った。「この近辺でああいう音が鳴り響くと、ひやっとさせられるな」

「⋯⋯ああ」
 考えるよりも前に、当たり障りのない相槌を打っている。その声が自分のものではない。
 その声は、自分の声よりも重く、厳かで、冷たかった。
 自分は自分の柔らかい声が嫌いだった、とイアンは考えた。自らの兄を抱こうとするには貫禄不足の声だ、とつねづね感じていた。それが、いまやこの声だ。この声の主を自分は知っている――イアンは大声で笑い出したくなった。再び窓を見た。
 目を凝らすうちに「自ら」の姿が窓に映された。白いシャツに黒いスラックスの、ひじょうに端正といっていいが、端正さよりもまずは抜き難い触れ難さを感じさせる男の姿。イアンの兄の上司で、名は――

「B.E.、その、大丈夫か?」

 背後からの、再びの兄の声に、イアンは窓から兄を振り返った。
「大丈夫か、とは?」
「いや、少し……疲れているように見えるから」
 兄が、遠慮の覗く調子で答える。上司たるB.E.へ敬語でないのは驚きだ、とイアンは考えた。ここにはふたりしかおらず、他人の目を気にする必要がないからか。B.E.――奇妙な呼び方だが、イニシャル?
 そうではない。

 もはやB.E.自身となっているイアンは、「自分」の正確な名を「自分」の中に探るが、答えを得られないことに驚いた。この男は自分でも自分の名を知らない、もしくは忘れている。
 となれば、やはり、すべてが兄にふさわしかった、とイアンは確信した。不可思議さから削り出したような存在である兄へは、より大きな謎を!

 イアンはこの時点ですでにこれらのことを悟っている。いま自分がいるこの建造物、平屋造りで地面がすぐそこ、がB.E.の自宅であること、兄がそこを訪れている最中だということ。
 兄がB.E.を――慕っていること。部下としてではない。いや、部下としてでもあるかもしれないが、それは全体の一部にすぎないこと。
 そうして兄はこれからこの家を辞し、自身の自宅へ帰ろうとしているらしいこと。兄の手には、兄のものと思しき鞄とコートがある。
 冗談ではない。

「であっても、きみが泊まっていくなら問題はないな」
 B.E.の姿をしたイアンは、B.E.の声で、兄へそう答えた。
 兄の――ヒューゴーの眉が、不審げに寄った。
「B.E.?」

 読み違えたか?
 いや、そんなはずはない。そんなはずはないと自分はもう知っている、とイアンは考えた。そしてそんなことは、いまこの瞬間よりもずっと前、兄が自らの就職を自分へ報告してきたときからわかっていたのだ。

 だから兄のこの不審げな反応は、兄の、B.E.の気を惹こうとするあざとさ、焦らしに他ならなかった。イアンはそのことにこめかみが割れそうなほどの嫉妬と怨嗟を覚えながら、しかし自身の――B.E.の顔にはB.E.の笑みを浮かべて、こう続けた。
「きみがここに泊まっていくなら、わたしのこの疲れも癒されるんだがな、と言っている」
……はは」
 ヒューゴーは少し笑い、黙り、また少し笑った。眉が下がり、わずかに泣き笑いに見えなくもない顔になっている。「まさかあなたのほうから、そういうことを言うとは」
「いやか?」
「ばかな」
 ヒューゴーの手からどさり、と鞄とコートが床に落ちる。自らの腿に兄の膝が掛かり、その兄の胴を両手で迎えながら、ではこの男はいつも兄に誘わせるほうなのか、とイアンは思い、あらためて憤りを深くした。




 はるか遠くで雷が鳴っている。
 B.E.は寝台のヘッドボードに背を預け、脚を前に投げ出し、その脚を眺めながら、手は「自ら」のあばらの間にあるペンダントヘッドを弄んでいる。
 プラチナの指輪。フットランプしか灯っていない部屋でも、そのわずかな光を集めて静謐に輝く。

 この指輪と同じものを、B.E.は別のところで見たことがあった。
 B.E.の知るそれは、最初は、ある兄弟の弟から兄へと贈られた護符だった。次に、兄の誤解によって呪いの道具になった。誤解が解かれて護符に戻った。
 そうしていまは依代、橋になっている。対に作られたのであろうこちらの指輪と呼応して、B.E.の身体からB.E.を追い出し、こちらの指輪の持ち主を憑依させている。追われたB.E.が空いたこちらがわに入ることができたのは、B.E.がヒトではないからであり、奇跡に近い。

 この部屋はひどく高くにある。外から覗かれる心配がない高みにあるためにカーテンもブラインドもない窓から、音もなく夜景が視える。
 どこかのヘリポートが照明に白く照らされている。海に掛かる橋が赤く光を灯している。車のランプは小さすぎて個々には視えず、連なって陸を流れる輝く河に見える。
 この部屋には重厚なデスクやキャビネットなどは置かれていない。バーカウンター、応接のためと思しきソファーやテーブル、そして自分がいま身体を横たえている寝台などから、まったくのプライヴェートな空間と思われた。
 遊興と、怠惰の残り香がうっすらと感じられる。先ほどこちらへ問いを発してきた女性も、看護師には違いないがそれだけでもないらしい。個人的な厚意に端を発して、互いの合意から、遊びのついでに自らの調合した「疲労回復薬」を時折りこの部屋の主に投与してやっているらしかった。

「お兄さまのことなど、もう忘れたらよろしいのに」
 声は優しく笑っていた。「不肖のお兄さまだったのでしょう? あなたの地位が脅かされることなど、もうありませんよ。心配なさらずとも大丈夫」

 なるほど、そのようにこの部屋の主は彼女へ「説明」したか、とB.E.は考えた。
 それなら確かに、負担は最低限で済んだ。頭が痛んだり、眠れない理由を「兄のせいだ」とだけ言えば事足りる。嘘はついていない。「兄が煩わしいから」ではなく「兄を愛しているからだ」といちいち補足してやる義務も義理もべつにない。

 B.E.は「してやられた」とは感じていなかった。来るべきものが来た、と感じているだけだった。
 いつかヒューゴーは弟とのことを語るとき、こんなことも言っていた。「神の思し召しで、鉄槌だよ」と。
 言葉にするなら、確かにそれがいちばん近いと思われた。サイエンスにいまだ侵されていない領域の話だから、原理や根拠を追求するだけ無駄なことだった。

 厚い雷雲を隔てた遠くから、かすかに、官能の歓びの叫びが聞こえてくる。
 あちらのほうでいま、罪がひとつ行なわれている。B.E.は目を閉じた。

 正確に言うなら、B.E.にはいま行なわれているだろう「それ」が罪なのかはわからなかった。
 だが兄のヒューゴーにとっては間違いなく罪で、その事実を彼が知ったとき、彼がどうなるかはそれこそ神のみぞ知るだった。B.E.は閉ざした目の奥で、かつて自らが手にした剣や祈祷書の形や重みを思い浮かべた。それらには退魔の力があったからだ。が、昔の話だった。
 口の中では、祈りの文句を唱えた。これも細部は思い出せずに、自らの願いをそのまま言葉に換えたものになった。過ちよ、汝を犯した兄弟を殺すこと勿れ。かれらもまた神の子らのひとりなれば。