アユム
2025-06-08 15:19:46
4811文字
Public khmdワンドロワンライ
 

秀才ピアニスト

こは斑ワンドロワンライ【楽器】ドラマでピアニストを演じるこはくと、ピアノを教える斑

 たまの休日である。日課のランニングを終えた斑はシャワーを浴び終え、髪を拭きながらミネラルウォーターを煽る。さて、これからなにをしようか。バイクを走らせるのもいいかもしれないが、なんとなく気分ではない。楽しいことはないかなあ。思わず声に出た。
 そのままソファに腰掛けて半分乾いた髪にドライヤーをかけようかとしたその時だった。けたたましく着信を告げるホールハンズ。見慣れな名前、そして面白そうななにかに惹かれ、斑の指が通話ボタンをタップする。
『もしもし斑はん? おはよ』
「こはくさん! おはようございまああす!」
ついでだ、この際こはくを誘ってどこかに出かけようか――動き出した斑の思考を遮って、
「受かったんよ!」
興奮気味のこはくの声が響いた。
『主役のな!? 天才ピアニスト少年っち役に受かってな!?』
興奮気味のこはくの声が耳に流れ込んで止まらない。一度キーンとハウリングの音。
「おお! おめでとう! 確か最近話題の漫画があるよなあ。それかあ?」
斑の声も元気に弾み、今、二人の声が端末越しに共に楽しい色を奏でている。宙が見える『色』でなくとも、きっと誰が聞いてもわかる、それぐらい楽しい色だった。
「コラ。まだ発表前やから言いふらすんとちゃうで」
「それに関しては信用してもらおうか  だから君も知らせねてくれたんだろう?」
そう告げれば返ってくるのはいつものため息。それが少しだけわざとらしくて、こはくもこの状況を楽しんでいるのが手に取るように伝わってくる。
「俺様天才ピアニスト、格好いいこはくさんならきっと似合うぞお!」
「思ってもない言い方しよってからに!」
そしてまた二人、笑う。
……でな」
「うんうん」
「もちろん演技指導はしっかり入るんやけど、自分でも弾くシーンがあるっちわけで練習期間もあって。わしだけ顔合わせも前に楽譜渡されてな」
「ふむ」
……斑はん、かなりピアノ弾けたっち聞いたけど」
少しだけバツが悪そうに声のボリュームが絞られ、
「おっとお! 俺にコーチになってほしいってことだなあ!? こはくさんに頼りにされると嬉しいなあ! 力になるぞお!」
斑の大音量がこはくの耳をつんざいて、またハウリングの音が重なって耳を襲う。
そして、それが収まった一瞬の沈黙のあと、
……そう言われると癪やけどな! 背に腹はかえられん」
電話口のこはくは再び口を開く。
「素直じゃ無いなあ。相棒の助けにぐらいなるぞお?」
「ほな……よろしゅうに。斑はん」
「よろしくこはくさん! ビシバシ鍛えるから覚悟しておいてくれ!」
かくして、暇な休日は正しく使われることとなる。斑は大きく伸びをして口角を上げたのだった。

 爽やかな風を受けて、既に早朝の仕事そのままにコズプロの事務所で待つこはくを迎えに走る。
が、しかし、既にビルのエントランスで斑を待ち受ていたこはくの姿に笑みが漏れた。微笑ましい。これは相当に張り切っているらしい。

 斑が家を出る前にレッスン室をレンタルしてある。――こうして二人でレッスン室に入るのは解散して以来だ。とても不思議な、くすぐったくて懐かしい。それだけでは言い合わせない心地がした。

 ピアノの前に腰掛けたこはく。その右隣で、受け取った楽譜を捲る斑。
「『練習曲 ホ長調 Op. 10-3「別れの曲」』――ふむふむ。で……実際引くのは冒頭の八小節程度なんだろう?」
「それでも指が動く気がせぇへんのよ。手元も顔も抜かれるやろうし、井桁のマーク四つも付いとるなんて聞いてへん」
口を尖られたこはくを前に斑は吹き出した。これが時たま発揮されるこはくの末っ子たる気質だ。
「シャープって言うんだぞお?」
思わずその顔を覗き込んで揶揄うのも許してほしい。
「Crazy:Bの曲にもあっただろう」
「知っとるわやかましい! Double Faceにもあったやろ! 『=EYE=』に四つくっ付きよったわ」
そしてそれには応えない斑。瞬間的にこはくの足が斑の脛を蹴り上げた。
「いたた!」
「相変わらず腹立つことしよってからに」
 そう強く告げるこはくの声に、徐々に笑いが混ざった。今はきっと、この予定調和の二重奏が楽しくて仕方がない。それは斑も、こはくもだ。

 貰ったという件の動画の音声を耳に馴染ませてから、まずは譜面通り、片手ずつの練習が始まる。一小節目だけ、次は二小節目だけ。それができたら一小節目と二小節目を通して弾く。気の遠くなるような作業をするのが練習だ。斑が言えば、ダンスと同じやねとこはくは笑った。

「いやあ、やっぱり君は飲み込みが早いなあ」
……誰かさんがどんどん先行くから必死で練習するのは慣れっこじゃ」
そして応えない斑の脛をもう一蹴り。いたたた! 斑は大袈裟に笑ってみせた。
「けど、……なんか違うんよ」
それだけで譜面に向き直るこはくの、その実直さが、一生懸命な姿勢がたまらなく愛おしい。そしてやはり、それを告げてやりはしないけれど。
「いやいや! ゆっくりでも音が鳴らせるだけで十分上達は早い。まるで経験がないとは信じない人もいるんじゃないかあ?」
「そうやったらええけどな」
少しだけど口を尖らせるこはく。
「そもそもここまでかなり練習しただろう? 練習のやり方がわかれば、これから毎日一人で練習するのもやりやすくなるし――
「まぁ、お仕事やし当然や。けど……
そこでこはくの声が詰まる。
 鏡張りのレッスン室に、眉間に皺を寄せたこはくの顔がいくつも並ぶ。気づいて思わず笑いそうになったが、さすがの斑もそれは堪えた。大切な相棒の一大事だ。悩みに寄り添いたいと、いつの間にかそう思ってしまうほど、斑は彼に真摯に向き合っている……のだと、思う。きっと。
「んーーーー……
煮詰まったこはくの声で我に返った斑は、声を挟むのを再び堪えてこはくの丸い後ろ頭を見下ろしている。
……音がガミガミやかましくて汚いな、わしのピアノ」
 こはくが出した問題点はそれらしい。それは斑も感じている。
「すぐつっかえて気持ち悪い音になってまうんよ。それだけやない、全部の音が汚い……っちうか、乱暴な気ぃする」
 そこまで零して、楽譜を見ていたこはくの目は鍵盤に落とされた。弾くのをやめようとしない指が、それでも悔しそうに丸められる。
「ああ。それはほら、指に力が入りすぎているからだ」
斑の口が迷いなく音を紡いだ。
「天才ピアニストが、曲に情感を持たせつつも余裕綽々で弾いてしまうシーンだろう? 一音一音大切に優しく弾きながらそう見せないといけないなあ」
わかっとる! と、少し気の立った返事。一度むすっと頬を膨らませたこはくが、
……お手上げやな」
珍しくそんな弱音を吐くものだから。斑の口が、動く。
「ほら、圧弾というのがある」
「あつだん?」
少しでも力になりたい。突き動かされる気持ちに嘘はなかった。
「鍵盤を押すときに、指に加える力はどの程度か……どう鍵盤に触れるかによって、音の強さや響きが変わる。それのことだ」
 口々についてでる言葉は、すべてすべてこはくのためだ。斑の胸が熱い。それに気づかない振りを、もうできなくなった。
 こはくの右隣から腕を伸びして、オクターブ高いドの鍵盤を、力いっぽい押す。
「これが、今の君の弾き方」
こはくはその手を凝視して顔を上げない。固唾を飲んで斑の声を、音を、聞き逃すまいと目を見開きて耳をすませて。
「今なんかは、鍵盤を弾くときに指の腹の真ん中で、しっかり、でも優しく、そっと鍵盤を真下に引き下ろす」
斑の人差し指が、再び同じ鍵盤を弾く。こはくの目に光が宿るのが見えた。
「間違えないようにと一生懸命になると、力が入って肘が上がる。それにほら」
斑の手がこはくの右手を取れば、促されるままにらこはくも目の前のドの音を押す。
「こはくさんの指は、まだ固くて鍵盤の上でパカパカ跳ねて暴れるような動きをするだろう?」
「あっ……ああ……そうかも」
「それを、こう……卵を握る形のまま……
そう言うなり、こはくの右側から奏でられる一オクターブ高い『別れの曲』。斑の指が優しく優しく奏でる『別れの曲』は、こはくの世界を一転させた。

 なんて悲しい、哀しいんだろう、なんて寂しいんだろう、どうしてこんな音を奏でられるのだろう――まるで、こはくの瞳がそう言っているようだった。

……どうしたあ?」
途中で手を止めた斑の音に心底うっとりと、そして少しだけの驚きを隠せないこはくの瞳。
……随分、綺麗な音色なんやね。ピアノっちうのは」
次に紡いだ言葉はこれだった。隣の斑を見上げ、こはくの声がこころなしか厳かに紡ぐ。
「そうだろう? ピアノのブランドやそのグレード、年数や保存環境なんかで変わるものだし」
「いや、ちゃうよ」
つい音楽のあれこれを教えようとした斑を遮ったのはその声だった。
「ぬしはんの、斑はんの音……が」
言いかけたこはくは桜色の髪から覗く耳を赤くして、
「あー、わしも狡い男に惚れたもんやな!」
そう叫んで笑って皮肉を込めて、こはくの目が斑を見た。
「ははは! それは随分な褒め言葉だなあ♪」
そうして笑う斑の目もこはくの目を見て細められ、一瞬の沈黙のあと。
……練習、するわ」
こはくは楽譜に向き直る。決意も新たに深呼吸をして。
……
……なんや、急に黙りこくってからに。休憩には早いやろ」
「俺は、天才ピアニストのそれより、たどたどしくても一生懸命な音が好きだけどなあ? いつか一曲すべて聴かせてほしい!」
 大声で言ってやれば、
「〜〜っとに!」
こはくは鍵盤に突っ伏しながら斑の脛を蹴り上げる。
「照れ屋さんだなあ! 謙虚で結構! あいたたたた!」
「そんときは『別れの曲』なんて弾かへんからな! 覚悟しとき!」


 それから一ヶ月半近くの時が流れた。映画並に力を入れたドラマと話題だ。こはくの練習にはあれきり付き合っていないが、結果は見届けたい。そんな口実を作って、ドラマをリアルタイムで見ることにした。今日は寮には帰らない。しっかり練習の成果を見届けるために、マンションで、一人で、静かに鑑賞するのだ。録画も忘れない――御託を並べ、ソファに座り、そのシーンを今か今かと待った。素直やないな、と、こはくの声が聴こえた気がする。
「おお……!?」
 ついにその時は訪れる。
 ピアノの前に対峙したこはくは、『俺のピアノは高いぜ』なんて、あまりに陳腐なセリフをもっともらしく演じた。まずそのセリフでしらけないだけの演奏をしなければならない。お手並み拝見といこう。

 そのまま挑発的な笑みを浮かべたこはくは、悠然と、見事に冒頭を弾いて見せた。それどころか、手元と表情を舐めるようにみせるカメラワークだ。それでも違和感がほとんどない。
 思わず斑は息を飲んだ。
 これは――
 斑より白い指が踊る。
 内蔵をえぐり出し暗器を使うその器用な指が、悔しいくらいに優しく情熱的に斑を求めるあの指が、優しく切ない音色を奏る。

〝いつか一曲すべて聴かせてほしい!〟

 そんなセリフを吐いた覚えは記憶に新しい。ふざけて言ったが本心だった。しかし、まさか。途中で入る回想シーンで途中は手元こそ映らないが、BGMになっているこれは――

『これで満足か?』

 四分三十秒。

 弾き終わった瞬間の挑発的な目とセリフだった。そして画面は暗転する。
 画面越しの音に鼓膜と心を揺らしながら、斑は天を仰いでいた。
「こはくさん、本当に君って人は……

 本当に狡い男に惚れたのは、斑の方かもしれなかった。

fin.

こは斑ワンドロワンライ
【楽器】
60min+60min