めぐるくん
2025-06-07 21:54:36
32817文字
Public 峯大
 

呼ぶ聲/峯+大

8/28 追記● くろすほりおクンにアップロードしましたので、パスワード無くしました🔑

7月13日開催「星に願いを - day2 -」内
白峯に座する不動の王 にてお配りしたしおりから読めるお話
本当は「IKAROS」というえすしぴネタの話が無配になるはずでしたが、せっかくの〜𝑆𝑢𝑚𝑚𝑒𝑟・𝟐𝟎𝟐𝟓〜なのでホラーに変えました
3万字超ありますがどこで切ればよいかが分からず、一枚でバァ〜と載せています ごみんね

<このお話の特徴>

・巻き込まれ世界第三位・𝐷𝐴𝐼𝐺𝑂 𝐷𝑂𝐽𝐼𝑀𝐴──
・田舎ホラ〜〜
・痛い表現がある
・虫が出てくる
・土地名をはじめ、すべて清々しいほどフィクション(参考は「賽の河原」←花屋じゃない方)
・♡距離はやや近いけど出来てないみねだい♡
・いつも厄介ごとを持ってくる神田ニキ(出番なし)
・恥ずかしながら有名なホラー話(おーい、というやつ)を知らずに書いたのでどこか被っているかもしれない

☆*:.。. ㊗︎みねだいオンリー㊗︎ .。.:*☆


 本部の古めかしい窓枠越しに外を見ると、如何にも夏らしい強い日射しが木々や石畳に降り注いでいた。本部に来る最中に感じた、スーツに張り付くような湿気はここにはない。息がしやすかった。
「視察?」
「はい。一緒にどうかと思いましてね」
 快適な温度と湿度が保たれた執務室で、峯義孝は目の前に座る男の顔に視線を戻した。峯と彼の吸う煙草の煙がふたりの間に細く棚引いている。峯は続けた。
「こないだ言ってらしたでしょう。あー、俺もどっか行きたい、と」
「それ、俺の真似か?」
 似てない、と言って、男は笑った。
 男──堂島大吾は峯にとってひとつ年下の上司で、命の恩人でもあり、また己の命を賭しても守りたいと思える、この世で唯一の存在だ。峯は大吾の顔を眺めながら、詰めた眉の根を緩めた。
「それで、視察ってのは?」
……先日、神田の兄貴から白峯会に持ち込まれた案件がありましてね。錦山組に多額の借金をしている田上という男が、これからの借金返済の担保として自分の持っている土地を納めたいと。書類を見てみましたが、これがまあかなり広いんです。といっても山奥にある土地で、山林や農地も含まれているんですが……それの視察に来週行こうかと思っていまして、大吾さんもどうかなと」
「ふうん。場所は? 何で行くんだ?」
 大吾は笑みを引き摺ったまま、組んだ足を組み替えた。その顔からは、彼の心の弾みようが滲み出ている。
「山梨ですが、長野に近い鬼ヶ谷という場所です。周辺の交通の便がかなり悪いようなので、車で向かいます。都内が混んでいなければ、二時間半から三時間といったところですかね」
「忙しいおまえがわざわざ出向くのには何か理由が?」
……まあ、息抜きも兼ねてたまにはコンクリートジャングルから抜け出すのも悪くないかと」
 嘘だ。それも下手だった。日々押し寄せる有象無象からいっときだけでも大吾を遠ざけてやりたくて、峯は自ら「自分が行く」と組員に言った。
「そうか、おまえも息抜きしたいとか思うんだな」
「ええ、たまに会議をすっぽかして昼まで寝てやる、と企むくらいには」
「はは! 嘘だな。おまえはそんなことしない」
 大吾は峯の思惑を正しく汲み取り、声を上げて笑った。口元に笑みを残したまま最後のひとくちを吸い、大きな灰皿に揉み消す。峯は少し気恥ずかしくなったが何も言わなかった。下手な気遣いをすぐに察する大吾を、峯は愛していた。
……ありがとな、峯。また詳細決まったら教えてくれ」
「ええ、すぐに」
「ところで」
「はい」
「そこへはお前の車で行くのか?」
 この流れはまずいのでは、と峯は片眉を上げた。
「俺、おまえの車乗りてえなあ」
 峯のスポーツカーは日本の狭い山道に適しているとはとてもいえない。しかし、誰でもない大吾に言われてしまうと、諾と答える他なかった。大吾は峯の兄弟分である前に、東城会六代目会長という名の親なのだ。
「大吾さんが運転してくださるんですか」
 書類を纏めて束にし、底をローテーブルで叩いて揃える。向かい側で大吾もおなじようにした。
「いいけど、俺ペーパーだぜ。あちこちボコボコにしちまうかも」
「それは別に構いませんが……では今回は俺が運転します」
「うん、決まり。そしたら、そろそろ柏木さんの小言でも聞きに行くか」
 大吾が腰を上げると、峯もつられるようにして立ち上がった。ふたり並んで長い廊下を歩き、会議室へ向かう。その足取りはここ数ヶ月のうちで一番の軽やかさだった。

 翌週は朝から見事な晴天で、道中の大吾のはしゃぎようと言ったら、まるで子供と大差なかった。見た目と声で大人と判別されるだけだ。やれサービスエリアに寄りたいだの、何処そこの蕎麦を食べてみたいだの、看板に書かれた場所が気になるだのと言って、追従する白峯会の組員たちと峯を翻弄した。
 こうなるって分かってたら六代目は連れて来なかったのにな、というのは、黒塗りのセルシオを運転していた組員の言葉だ。彼は前を走る黄色いスポーツカーが正ルートを逸れてウインカーを出すたびに、次はどこに行くのだと気が気でなかった。
 とはいえ、峯はこうなることを予め織り込み済みであったのか、先に現地に行っているという債務者田上との待ち合わせ時間よりも相当早くに東京を出た。明日の集合は朝五時だ、と言われたときは組員全員が目を剥いたが、彼の判断は正しかったということになる。
 手当ては弾んでやる、と途中のサービスエリアで峯に耳打ちされたことで組員の気分も上向いた。定時に向こうに着かずに待たせることになったとして、好きなだけ待たせておけばいいのだ。そう開き直ってしまえば、六代目に手渡されるソフトクリームも大層美味く感じられた。
 陽炎が熱を吸ったアスファルトに色なく揺らめいている。最後の休憩を終えてからは予定どおりの道を進み、本当にこの道で合っているのかという細い山道を速度を落として走った。
「この先に人が住んでるなんてな。コンビニとかないんじゃないか」
「さっきこの道に入る前に最寄りのコンビニまでの案内板がありましたよ」
「あるんだ? 見てなかった」
「ええ、ここから三十五キロ、とありましたね」
「それは……かなり便利だな」
 間近に迫る木の枝や葉を助手席のウインドウから眺め、大吾が笑った。時折何かが弾ける音が聞こえるのは、ボディや窓に枝葉が当たるからだ。それぐらいに、道は狭かった。季節的に木々が旺盛だったというのもあるだろう。
「おまえとドライブするの、かなりいいな」
「そうですか」
 前を見据えたまま峯が言うと、視界の端で大吾が頷くのが見えた。
「仕事の話もくだらない話もいっぺんに出来るだろ。盗聴の心配もない。バーもいいけど、ホントのふたりきりって訳じゃないしな」
「確かに。お望みとあればいつでも出しますよ」
 表情を保ち切れず、思わず口元に笑みが浮かぶ。峯にとっては、乾いた砂の心に染み込むような言葉だった。
「ありがとう。そういや今日ってどこのホテルだっけ」
「ああ……今から行く鬼ヶ谷ってとこからは結構戻りますが、確か河口湖の近くですよ。いいところが見当たらなかったもんで」
 様々を考慮すると、宿泊先はかなり限られる。別隊が既にチェックインして、周辺も見回っているはずだった。
「別に俺は素泊まりでも何でもいいけどな」
「まさか。だって大吾さん、夕飯と朝飯美味いもの食べたいんでしょう」
「それはまあ、うん、そうだ。でも本当、別にそんな気遣わなくてもいいんだぜ。どこもムショよりはマシだろ」
 大吾は二十代の頃に五年服役している。峯の知らない世界だ。坊主にしたんだろうか、と少し気になった。
「六代目にそんなところ泊まってもらう訳にはいきませんよ」
 木々を掻き分けるように進むうち、徐々に道が広くなってくる。端のひび割れたアスファルトから、きちんと整備された道へ出た。
 田舎は車社会だ。ひとり一台が当たり前だから、車のためのインフラ関係はいの一番に手をつけられる。
「やっと開けたとこに出たな」
「ええ、ここからはもう道なりに行けばいいはずです」
 ナビに出ないからと、田上がわざわざ地図を寄越してきていた。大吾は赤い印のついたそれを膝の上に広げたまま、ウインドウの外に目を向けた。
 鬱蒼とした山々に囲まれた土地はしかし、高い建物がなく、電線も多くない。白んだ青空に浮かぶ入道雲はどれもくっきりとして、触れば綿あめよりもずっと固いのではないかという姿形をしていた。
「綺麗だな。雲すげえ。まるで絵画みたいだ」
「あの雲ひとつで五百トンくらいあるらしいですよ。浮いてるから軽そうに見えますがね」
 峯の言葉に、大吾が呆れたように笑った。
「情緒の欠片もねえやつだな。でも俺、おまえのそういうとこ好きだぜ」
 峯は眉を上げ、ドリンクホルダーからコーヒーのカップを抜き取り中身を煽ると、口に入り込んだ氷を噛み砕いた。
「事実を述べたまでですが……しかしこの辺、本当に何もないですね」
「だからいいんだろ。でもなあ、流石にウチで使えるかとかは、考えるのが難しいか」
「どうでしょう。価値が高いとは言えなさそうですが……いっそ大吾さんの別荘でも建てちまいますか」
 起伏のある道ではあるが、見通しの良い一本道だ。峯は煙草を抜き取ると、火を点けた。
「じゃあ引退したら一緒に畑でもやるか?」
 大吾の軽口に、峯がふっと吹くように煙を吐く。
「魅力的な提案ですが、それよりまずは東城会の立て直しですよ」
「ううん、だなあ。隠居生活にはまだまだ遠そうだ」
 氷の溶けたコーヒーをストローで吸い上げ、大吾は靡く緑の稲穂を目で追った。日常ではまず見ない光景だ。時間の流れすらも普段と異なる気がした。
 畑の向こう側に農道が見える。そこに二匹の犬がいた。雑種だろうか。リードに繋がれている訳でもなければ、首輪も見えない。この時世に野良犬がいるとも思えないが、開けた周辺に目をやっても、人の姿はなかった。
 あそこに犬が、と言いかけて、大吾は目を瞠った。戯れあう一匹の顔がこちらに向いたときに、人の顔に見えたからだ。眩い夏空の下で見る異形に、大吾は思わず言葉を失った。
 目は良い方だという自負はあるが、やや遠目ではあるし、見間違えかもしれない。否、そうに違いない。大吾は峯を振り向くと、いつもどおりに美しいその横顔に安堵した。
「どうかしましたか」
「いや……
 再び窓の外を見る。犬たちは奥へ続くあぜを走り、山の方へ向かっていた。
「犬がいた」
「この暑い中ですか」
 訝しげな声に対して、うん、とだけ返し、大吾はシートに背を沈み込ませた。
 頭に引っ掛けていたサングラスを下ろす。ここのところろくに休んでいなかったから疲れているのだと、たった今見たものは忘れることにした。 

 辿り着いた鬼ヶ谷は、正に日本の原風景というに相応しい場所だった。
 山々に囲まれた坂の多い道に、大きな家がぽつぽつと点在している。そのほとんどが、長くここに根ざした百姓だろう。家々の距離を見るに、それぞれの持っている土地が広いのだ。田上が持ち込んだ書類上の数字があれだけ大きかったのも、実際の様子を見ると頷ける話だった。
 青々と繁った木々が少しも葉を揺らさずに、灼けつくような日差しを浴びて佇んでいる。畑や田んぼは多いが、そこに人の姿は見当たらなかった。
 峯と大吾は車を降り、辺りを見渡した。遠く蝉の声が聞こえる。山間だからか、あるいは昨日雨が降ったからか、思っていたよりも湿気が多く、風がなかった。田舎は涼しいだろう、という安易な憶測は見事に外れたという訳だ。
 少し歩いて辺りを見て回る。夏の花はもちろん、秋口に開く花も、ここでは既に咲いていた。厳しい日差しを受けているにも関わらず、その花弁は隅までピンと張っている。おなじく車を降りた組員らは、ふたりの背後でそれぞれ電話を掛けていた。
「誰もいませんね」
「ああ。暑くて参ってるのかもな。こんなときに農作業なんてしたら死んじまう」
 脱いだジャケットを腕に引っ掛けて、大吾が言った。その額や首筋に早くも汗が滲んでいる。シャツの襟ぐりが濡れ湿って、細く色が変わっていた。
 この村のメインストリートと思しき道には、郵便ポストやシャッターの閉まった工場らしき建物、自販機、それから小さな万屋があった。
 ガラス戸を覗いてみると、中には誰もいない。かかった暖簾の奥が住居になっているのだろう。今時コンビニでも見ないようなパンや日用品が棚にずらり並んでいた。
 道路を挟んだ向かいの坂の上に、田上が姿を現した。峯たちを認めるなり、慌てたように坂を下って駆け寄ってくる。先立って確認していた写真よりも萎びて見えるのは、この風景と彼の身なりのせいかもしれなかった。
 彼は六十手前にしてほとんどが白髪で、背が低く、背中も丸まっていた。歳を知らなければ、七十と言われても信じたかもしれない。峯と大吾が田上本人に会うのはこれが初めてだった。
「暑い中こんな遠方まで来ていただき、ありがとうございます」
 田上は峯たちに向かって深々と頭を下げた。
 直接彼と話をするのは白峯会の幹部である今井だ。今井は不動産関係で働いていた経歴を持っている男で、元を辿れば堂島組にいた。
 堂島組の解体後に柏木のところへ籍を移したが、白峯会を立ち上げるにあたり、大吾が指名したのだ。腕っぷしが強く、頭も切れて口も上手い。白峯会立ち上げ当初から、随分と活躍を見せていた。
 今回の件も、引き継ぎから──といっても、ろくなものではなかったが──今日までの一切合切を取り仕切り、手配したのは彼だ。
「えらい遅なってすんませんでしたなあ。とりあえず暑いし、田上さんとこ入らせてもろてよろしい? 挨拶はその後で」
 今井が言った。田上が首に巻いたタオルで汗を拭う。
「ええ、ええ、もちろん。さあ、どうぞ」
 胸の下辺りに両手を握るのは不安からだろう。赤べこのように頭を上げ下げしながら来た道を登る田上に続いて、五人はぞろぞろと歩き出した。
 一見すると坂に見えたが、一応階段になっているらしい。とはいえ、雨が降れば泥濘んで坂と変わらなくなるだろうという曖昧な段の連続だ。革靴で来たのは失敗だったな、と、五人の誰もが考えていた。
「この辺りがこんなに蒸すことはないんですが、近年の異常気象のせいでしょうか。すぐに冷たいお茶をお出ししますので」
 田上が前方で言う。峯はその声につられるように足元に落としていた視線を上げた。ここ数年の内に葺き替えたと思しき瓦屋根だけがやけに鮮やかに目に写る。前もって入手していた測量図のとおり、段々畑に続く坂の途中に広大なスペースがあり、そこに母家と離れがあった。
「さあ、どうぞどうぞ。お話ししていたとおり、ここは私の両親が住んでいたんですが、もう誰もおりませんで」
 昔ながらの日本家屋で、玄関が広い。炎に似た形の一枚板の衝立が、上がり口にずっしりと鎮座していた。
「懐かしいな、この感じ」
 大吾の言葉に、峯が振り向いた。
「そうなんですか」
「ああ、おふくろの実家がこんなだった。あの人、ああ見えて良いとこのお嬢だったからな」
 靴を脱いで、通された客間に銘々腰を下ろす。隣接する居間の鴨居にずらり並んだ遺影の多さが、この一族の歴史を物語っていた。
「冷たいだけの茶ですが、どうぞ」
 盆を持って現れた田上が、膝をついて茶の入った器を配る。組員たちはこの蒸し暑さに堪らず手をつけたが、大吾は礼を言って薄っすら微笑むだけで、口にしなかった。
「それで、田上さん。まずこことあっちの離れ見せてもらいますけど、先に紹介だけ。こちらが東城会六代目、こちらが白峯会会長です」
「どうも、田上さん。ぞろぞろと大人数で押しかけて申し訳ない。びっくりなさったでしょう」
 大吾が言うと、田上は空の盆を取り落とし、土下座する勢いで頭を下げた。
「東城会の会長さんまで……ご迷惑をおかけして本当にすみません」
「顔を上げてください。俺は我儘言ってついてきただけだから、お気になさらず。話はこれまでどおり今井にお願いします」
「はい、はい、何もありませんが、どうぞゆっくりお寛ぎください」
「ええ、じゃあお言葉に甘えて。休憩したらちょっと見て回っても?」
「はい、もちろんです。もしお嫌じゃなければ、畑にある野菜も勝手に食べていただいて構いません。飲み物なんかは冷蔵庫にありますので、お好きなだけ」
 萎縮しきった田上に向かって、大吾は柔らかく微笑んだ。
「何から何までありがとうございます」
 大吾が今井に目配せをすると、今井は頭を下げて立ち上がった。
「ほな、田上さん。行きましょか。書類のコピーってそっちでも持ったはる?」
 ふたりが客間から姿を消してややしてから、大吾は組員たちを見回した。
「暫くは自由行動だな。つっても、おまえたち疲れただろう。あの感じだとちょっと時間かかるだろうから、昼寝しててもいいぜ。冗談じゃなくてホントに」
 型の古い扇風機が、生温い風を掻き回している。都会に住まう者からすれば信じられない話だが、この家にはエアコンがなかった。
「峯、ちょっと見て回りたい」
「先に台所行きましょう。会長も何か飲まれた方がいい」
 ふたりは連れ立って台所へ向かった。飴色に鈍く光る木板が、一歩歩くごとにミシミシと軋む。よく手入れされた家だったが、長きに渡る人々の生活が隅まで染み込んでいるのがよく分かった。
 掛けられた暖簾や置かれた壺、置き物はまるで骨董品のようだ。こういった場所に縁のなかった峯にとっては、かなり居心地が悪かった。
 台所の冷蔵庫を開け、中を覗き込む。水や茶のペットボトルの他に、缶ビール、酎ハイ、その他調味料や、料理の入ったコンテナが詰め込まれていた。
 田上ひとり分にしては随分と物が多い。近くにスーパーやコンビニがないから、一回の買い出しで大量に購入するのかもしれないが、それにしても借金で首の回らない者の家とは思えなかった。
「大吾さん、何飲まれます」
「うーん、お茶かな」
 峯が緑茶のペットボトルを取り出し、何も異変はないかとつぶさに見る。至って普通のそれは未開封だった。蓋を回し開けて、ひとくち飲む。身体が待ち望んだ冷たさが喉を滑り落ちた。
「これ飲みますか」
「うん、飲む」
 背後に立っていた大吾が手渡されたペットボトルを煽る。田上にそんな気は毛頭なかっただろうが、知らない人間に出されたものをおいそれと口に出来ないのが、東城会六代目というものだった。
 過去に毒殺された極道者は少なくない。実際、大吾は幼いときにそうして命を落とした幹部を目撃したことがあった。もっとも、当時毒を仕掛けたのはその幹部と小競り合いを起こしていた別の幹部であって一般人ではなかったのだが、幼かった大吾はその後暫く、インスタントものと母親の作ったものしか食べられなかった。
「なあ、おまえの車後ろも乗れるだろ。問題なさそうだし、もうちょっとしたら今井以外は先にホテルに向かわせたらどうだ」
 腰に手を当て、昔ながらの小花柄のビニールフロアを眺める。何もかもが懐かしく、まるで幼い頃にタイムスリップしたような心地になった。
……まあ、あいつらはここでやることもないですからね。大吾さんがそう仰るなら、そうしましょうか」
「うん、そうしてやれ。朝から俺に振り回されて疲れてるだろ」
「あんなちょっとの寄り道程度でへばられちゃ、俺としては立つ瀬がありませんがね」
 峯が茶や水のペットボトルを取り出し抱えると、背後で大吾が含み笑いをした。
「この暑さだ、そう言ってやるなよ。俺たちゃ都会っ子だから仕方ない」
「あなたは優しすぎますよ」
「小言はいいから、ちょっと探検しようぜ」
 客間に戻り、峯は暑さに伸びる組員ふたりに冷えたペットボトルを渡すと、先に宿泊先に向かって別隊と合流するようにと言いつけた。その足で玄関に向かい、軒先に並んだプランターのコスモスを眺めていた大吾と母屋の外周や離れを見て回る。
 離れの奥には、蔵と思しき古い建物があった。扉は締め切られていて、掛けられた錠前を見るに、相当な年数開けられていないようだ。まるでこれだけ時代が違うもののようだった。
「暑いけど、ちょっと慣れてきたな」
「そうですね。日が傾いてきたのもあるんでしょうが」
 ペットボトルを度々傾けながら、ふたりは観光客のように歩き回った。
 田上の持つ土地は家屋だけでも相当な坪数だが、周りの農地や山林も含めると都心ではまず見ることのない数字になる。
 ここを東城会が持つとして、担保に相当し得るものになるかは甚だ疑問だ。田や畑は農地扱いとなり、宅地にするとなると転用許可がいる。
 山林や原野も、農振地域に指定されていると煩雑な手続きを踏まなければ物は建てられないし、つまるところ、後々売るにしても手に余るのだ。
 この土地の極道組織との摩擦が生じないことは既に分かっているが──大吾はそういったことに敏感だ──、ここから金が生み出せるとも思えない。
 峯は、無しだな、と考えながら煙草をソフトケースから抜き取った。暑さと湿気で、心なしか細筒がくたりとしている。
 煙草を手に、木陰に入って涼む大吾に歩み寄る。その峯と大吾の姿を、離れから田上がじっと見つめていた。

 土地の確認にはそれなりに時間を要し、その間、峯と大吾は車を出してこの村の隅までを見て回ることにした。
 途中、山の麓を流れる川を見つけて、沢に下りた。しゃがんで触れた水はかなり冷たく、暑さにだれた気分を慰める。ひるがいるかもしれない、と言いながらも裸足をつけ、ふたりは人目がないのをいいことに少年のようにざぶざぶと水と戯れた。
「なんだあれ」
 足首から先が氷のように冷えた頃、大吾が川縁に不思議なものを見つけた。水流によって削られ丸くなった大小の石が、塔のように積まれている。その三つの塔を囲むようにして、古びた縄が円を描いていた。
「なんかのまじないかな」
「さあ……賽の河原の石積みのようにも見えますが」
 縄で丸く囲われているのには覚えがないが、地域によって風習が異なるのかもしれない。峯の言葉に、盆に子供でも来て遊んでたのかな、と大吾は首を捻った。
 石塔に触れることなく川を上がり、車に乗り込んで田上の家の方面へ戻る。
 本当に人がいるのかと疑っていたが、日暮れが近付くと、家の軒先で立ち話をする高齢者を見つけた。麦わら帽子や手ぬぐいに隠れて顔は見えないが、楽しげに肩を揺らし、笑い声を上げている。その頭上に蜻蛉がいくつも飛んでいた。
「誰もいないのかと思ってたぜ」
「ええ、いましたね。少なくともふたりは」
 八月の後半ともなると、山の日暮れは早い。白んだ青に橙が混じり始めた空が、山の木々の縁に光っていた。
 今井から終わった旨の連絡を受け、田上の家に入る。客間に座って三本目のペットボトルを煽っていると、細かい羽虫が至るところに飛び回っていた。どこから入り込んだのか、畳の隅に小さなコオロギまで跳ねている。如何にも田舎の夕方らしい光景だった。
「ほな、土地の件は一旦持ち帰って。これからどうしていくかもまた向こうで話しましょか」
 書類を揃えて、今井が鞄に仕舞う。大吾はそろそろ腹が減ってきていた。
「じゃあ、俺たちはここでお暇しようか。田上さん、飲み物とかお菓子とか、沢山いただいちまってすみません」
「六代目さん、ろくにお構いも出来ませんで、大変失礼しました」
「とんでもない。いい息抜きさせてもらいましたよ」
 ところで、と田上が落ち窪んだ目で上目遣いに大吾を見た。
「もう日暮れですが、お泊まりはそこの民宿ですか?」
 こんなところに民宿があるとは驚きだ。田上の問いには峯が答えた。
「いや、宿泊先までは一時間半くらいですね」
「そうですか……この辺りは夜危ないんです。夜の山は真っ暗ですし、慣れていらっしゃらない方は山中で立ち往生することも少なくない。獣も出ますし、慣れている者でも肝を冷やすポイントが幾つかありますから……あの、もし皆さんさえよろしければ、今夜は泊まっていかれませんか」
 田上の申し出に顔を見合わせる。大吾は峯に肩を竦めてみせた。構わない、という意だろう。
……ではそうさせていただきます」
 ここに田上の家族はおらず、他に脅威となり得るものもない。峯が申出を受けると、田上は安堵したように笑みを浮かべた。
「離れを使ってください。最低限の世話しかしていない場所で恐縮ですが……すみません、私がもっと早くにお聞きしていれば」
「いえ、帰り道のことまで考えてなかったこっちが悪い」
 大吾が言うと、田上は腰まで大きく曲げて頭を下げ、食事の準備をしてくると言って席を立った。その姿を、笑みを顔に張りつけたまま今井が見送る。
「六代目、峯会長、ワシは母屋に泊まりますわ。一応、田上のこと見ときたいですし」
 今井が声を潜めて言った。
「ああ、そうしてくれると助かる。今日は何から何までご苦労だったな。これ後であの人に渡しておいてくれ」
 ジャケットの内ポケットから財布を取り出し、大吾が十枚ほどの万札を今井に差し出した。それを受け取った今井が、鞄から封筒を出して入れる。
「で、今井から見てここはどうだ? 俺と峯からすりゃあ一文の価値もないんだが」
 煙草を揉み消した手で羽虫を払い、今井が頷いた。
「まあ、そうですなあ。ワシもおんなじ意見です。担保としての価値はないでしょうな。裏の山にロクとか捨てに来る言うんやったら、まあ使い道としては悪くないかもしれませんけど、流石に遠いわなあ。若いのに畑やらす訳にもいかんし」
「でも寄り道しなけりゃ二時間半くらいだろ? 無しではない、か」
 考え込む大吾を前に、今井が己の膝を叩いた。 
「とりあえず、先にホテルに向かわせたやつに連絡入れときますわ。ついでにビール取ってこよ」
「俺のも。酎ハイがいい」
「はいはい、分かってますて。ハイボールあったらそっちでしょ。峯会長、ビールでよろしい?」
「ああ」
 幼い頃から大吾を知っているだけに、ふとした瞬間に身内らしさが滲み出る。今井は立ち上がると、台所へ続く居間へ消えた。ここに泊まりか、とやや険しい顔をしていた峯に、大吾が尻に敷いた座布団ごとずり寄る。 
「なあ、おい。俺たち以外誰もいないぜ。いや、今井はいるけど、なんか旅行みたいでワクワクするな」
 あなたとの旅行ならばもっといいところを選んだ、とは言わず、峯は眉間の皺をそのままにぎこちなく微笑んだ。
 大吾はこういう風に笑う峯の顔が好きだ。何でもそつなくこなす兄弟分の、唯一不器用なところが笑みという形で現れる。彼の愛すべき隙だった。
「着替え、持っていかせなくて正解でしたね。先に離れに置きにいっちまいますか」
「うん、そうしよう」
 母家を出て、外の階段を下る。足元が薄暗い。空から青を追いやる橙とピンクの下から、暗闇が星を引き連れて這い上がってきているのが山の向こうに見えた。
 車から荷物を取り出し、峯は広い道路の両端を左右に見た。山へと続く道の灯りの数は乏しく、既に森は暗い。まるでこの閉鎖的な土地に閉じ込められたような気になる。

 おおぉい。

 それは突然のことだった。どこからか、声が聞こえた。峯は母屋がある方を振り向いた。田上か今井に呼ばれたのかと思ったのだ。
「大吾さん、今呼ばれませんでしたか?」
「ん? なんか言ったか?」
 後部座席から頭を出した大吾が、荷物を手に小首を傾げた。
「ああ、いや……誰かに呼ばれた気がしたんです」
「なんも聞こえなかったけど。今井かな?」
 今井にしてはやけに声が低かったような気がする。しかしどこかで聞いたことのある声に思えた。誰のものだったのかは判然としない。
「あっという間に夜だな」
「ええ、夏の終わりって感じがしますね」
 再度左右を見渡しながら、峯は大吾に続いて緩やかな階段を登った。先程はちらとしか見て回らなかった離れに向かい、セキュリティという言葉からは程遠い掃き出し窓を開け放つ。目の細かい網戸の向こうには遠く畑や田が、右には蔵の端が見えた。
 ヒキガエルが其処ここで鳴いている。峯はその地を這うような鳴き声に、ひょっとすると自分はこれを誰かの声と間違えたのではないだろうかと考えた。
「あ、オセロある。後でやろうぜ」
 峯が振り向くと、二間続きの奥側の部屋で大吾が何かを見ていた。畳を踏み締め、側に立つ。重厚な箪笥の上に、幾つかのボードゲームが重ねてあった。
 そのどれもが古く、箱の端は擦り切れて黄ばんでいる。親戚が集まったときなどに遊んでいたのかもしれない。
「大吾さん、オセロ強いですか」
「俺? 結構強いと思う」
「俺も強いです。多分負けません」
 峯が不敵に片方の口端を吊り上げると、大吾も隣で鏡のように口角を上げた。
「泣かしてやるからな」
「ええ、どうぞ。出来るものなら」
「幾らか握ってやろうぜ。それか、今度飲みに行くとき負けた方が奢り」
「どっちでもいいですよ。どのみち払うのは大吾さんですから」
「言うなあ、おまえ」
 うふふ、と大吾が目を細めて笑う。早く食事も風呂も済ませてしまって、勝負に挑みたかった。
 母屋に戻り、今井を交えて酒を飲む。汗を掻いた身体にアルコールと炭酸がよく染みた。
「そういえば俺、寝間着ない」
「もうパンツ一丁で寝たらええんちゃいます。どうせ暑うて着てられへんでしょ」
「あの、浴衣で良ければご用意出来ますが……
 台所から姿を見せた田上が、料理を並べながら言った。鳥もつ煮や小粒のじゃがいもの煮っ転がしに味噌汁、漬物と、豪勢ではないが手のかけられたものが次々置かれる。一般家庭で作られたものが苦手な峯からすれば、地獄の光景だった。
 かといって、箸をつけない訳にもいかない。空腹でもあったから、峯はなるべく表情を崩さず、何も考えずに黙々と口に運んだ。
 食事を終え、青緑色のタイルが敷き詰められた広い風呂で汗を流す。峯も大吾も、結局借りた浴衣に身を包んだ。
 並べられた布団の間に覗く畳にオセロの盤を直置きにして、煙草を片手に勝負をする。日中に比べ随分と気温は下がっていたが、蒸した空気は大して変わらなかった。
「あー! クソ、負けた」
「ごちそうさまです、六代目」
 一戦目は峯が辛勝し、二戦目を始めようというときだった。ふいに、コトン、と音がした。
 家鳴りだろうか。ふたりは一斉に音のした方へ顔を向けた。
 離れといってもなかなかに広く、八畳ほどある部屋が格子のように配置されている。真ん中に柱があり、障子をすべて開け切れば全体を見渡せるが、トイレや裏口へ続く短い廊下にかかった暖簾の先までは光が届かず、暗かった。
 音は暖簾の奥から聞こえた。大吾が盤に黒石を置いたとき、再びコトン、コトンと続けて音がした。
「なんかが当たってんのかな」
 大きめの虫が裏口の扉か何かに当たっているのかもしれない。一度気になると、人は確かめずにはいられないものだ。
 大吾は立ち上がると、暖簾を手で避けて裏口を見た。暗くてよく見えない。廊下の電気を点けて裏口の扉の側まで行ってみたが、特に何も見当たらなかった。
「虫、いました?」
「いや、なんも」
 峯は座ったまま、首を捻って大吾の向かった方向を見ていた。大吾が戻ってくる。大吾が電気を消した瞬間、暖簾の下に人の足が見えた。
「大吾さん」
「ん?」
 ここには自分たち以外に誰もいないはずである。峯は素早く立ち上がると、空の部屋を横切り、大吾の腕を手前に引いた。身体を入れ替え、手で暖簾を払い開ける。
「なに? どうした?」
 誰もいない。他人が知らぬ間に入り込んだのではないという点では良かったが、峯はこのとき初めて背筋が冷たくなった。今見えたものは一体なんだ?
「いや……誰かがいた気がして」
「え、そういうのやめろよ。おまえ霊感とかあるのか?」
 大吾が背後を見る。その手が、峯の前腕をがっちりと掴んでいた。
「そういったものは一度も見たことありませんが……
「じゃあおまえの見間違い。マジでやめろ。俺、あんまり得意じゃないんだって」
 すみません、と言いながら、峯はもう一度暖簾を掻き分けてじっと裏口を見た。何もいない。念のためにと裏口を開けて外を見ると、手のひらサイズの石がふたつ重ねて置かれていた。
 表面の滑らかな石は、川縁で見たものに酷似している。明らかに誰かが置いたものだ。どうすべきかと思ったが、峯は石をそのままに中に戻った。
「なんかあったか?」
「丸い石が」
「石? 何だそれ」
 大吾がオセロの盤を退け、足で布団をきっちりとくっつける。枕まで近付けられて、峯は訝しげに瞬いた。
「何してるんですか」
「え、一緒に寝ようぜ」
「元々一緒に寝ますが……そんだけ近いと流石に暑くないですか」
「暑くてもいい。おまえ、今夜は俺の抱き枕になれ」
 大吾の言動を鑑みるに『あまり得意でない』どころの話ではなさそうである。峯は特に揶揄うことも笑うこともなく、了承した。
……なあ、変なこと言うんだけどさ、昼間に犬見たっつってただろ。あれ、一匹顔が変でさ……なんか人間みたいに見えたんだ」
「人面犬ってやつですか。昔のテレビとかでありましたね」
 この集落自体、何かおかしいのではないか。そんな思いがふたりの頭を過る。壁掛け時計を確認すると、時刻はまだ十時半を過ぎたところで、朝は遠かった。
「今井の方、大丈夫だよな」
「連絡してみますか」
 携帯電話を開いて画面を見る。いつからそうなっていたのか、圏外になっていた。
 峯は端のテーブルに置かれていた大吾の携帯に手を伸ばすと、断りもなく開いた。おなじく圏外になっている。
 夕方までは確かに電波は届いていたはずだ。やはり何かがおかしかった。
「今井のところへ行ってきます」
 峯が玄関へ向かうと、大吾は峯にぴたりとくっつく勢いでついてきた。靴を履いて外に出る。下の大通りに灯りはあるが、家の周辺は真っ暗だった。
 何も異変はないかと離れの掃き出し窓に外側から近付くと、防犯用の人感センサーライトがパッと明るく辺りを照らす。プランターに植えられたコスモスが僅かに頭を垂れ、眠っているのが見えた。
 光の届かない場所にヒキガエルが鳴いている。峯と大吾は母屋へ向かうと、離れとおなじ掃き出し窓に近付いた。
 センサーライトがつく。つい数時間前に食事をしていた客間に布団が敷かれていて、そこに今井が仰向けに横たわっていた。
 眠るにしては早いが、早朝からの活動で疲れていたのかもしれない。峯は網戸を開けて縁側に上がると、今井に近付いた。余程熟睡しているのか、ぴくりとも動かない。外のライトがちょうど背に遮られ、寝顔はよく見えなかった。
 上から顔を覗き込む。瞬間、身体が思わずぎくりと硬直した。
……今井!」
「どうした!?」
 峯の上げた声に靴も脱がず、大吾は縁側に上がった。峯と並び立ち、見下ろした先にある今井の姿に絶句する。
 ぽっかりと開いた口の中に、大量の血が溜まっていた。溢れた血が下頬を流れ伝い、影より黒く枕を染めている。見開かれた目が、虚空を見つめていた。
「クソっ」
 大吾は膝をつくと、今井の顔を横に傾けて血を吐かせ、胸に耳を当てた。ぬるんだ肉の下からは何も聞こえてこない。顔を上げて今井を見ると、血の抜けた口の中に舌が見当たらなかった。
「田上を探せ」
 明かりが要る。大吾は立ち上がって室内灯から垂れ下がる紐を引っ張った。何度引いても電気が点かない。台所の方から、コツ、と微かに音がした。
「大吾さん、別行動は危険です」
 峯は靴を履くと、もう一度縁側に上がって大吾の腕を引いた。異様な空気が身体に纏わりつく。一旦ここを離れた方がいいような気がした。
 そもそもふたりは浴衣姿で、丸腰だ。銃は離れのスーツジャケットの中にある。取りに行く必要があった。
 脅しをかけるように、外のライトが消える。途端に辺りは暗闇に包まれ、互いの顔も見えなくなった。
 コツ、コツ、と音が近付いてくる。足音というよりは、石同士を打ちつけるような音だ。峯は携帯電話を開くと、画面の明かりを前方に向けた。
 薄ぼんやりとした光が、客間のほんの一部を照らし出す。見える範囲には何も確認出来なかった。
「一度向こうに戻りましょう。銃と灯りがいる」
 足元に横たわる今井の死体をそのままに、峯は無言の大吾とともに母屋を出た。大股に離れに戻り、周辺に注意を払いながら銃を手に取る。セーフティロックを確認して腰帯に挟み込むと、ふー、と大吾が側で大きく息を吐いた。
 その手が震えている。恐怖で震えているのではない。煮え滾るような怒りで震えているのだ。
「懐中電灯探しますか」
……ああ、それと刃物か何かも欲しい。とりあえずここをざっと探索したら母屋の台所に行こう」
 携帯のライトを頼りに各部屋を見て回ると、細身の懐中電灯がひとつだけ見つかった。
「もうひとつが見つかるまでは俺が持つ。峯、進むときはおまえが前だ。俺が後ろから照らす。今の状況だと前も後ろも大して安全じゃねえが、俺はおまえよりはこういった場面に慣れてるから、恐らくこれがベストだ」
 大吾は銃の扱いにも長けていて、全体の把握も上手い。峯に異論はなかった。
 離れを出て、再度母屋に向かう。虫の鳴き声や、雲の隙間から見える星空がやけに非現実なものに思えた。
 田上の車が動かされた形跡はない。中を覗いてみても、潜んでいるということはなかった。
……どこに行ったんでしょうね」
「さあな。まだ家ん中にいるとしたらなかなか肝が据わってやがる」
「殺しますか?」
 大吾は、先程見た今井の変わり果てた姿を思い出した。今井は寝ているところを襲われたのだろうか。今となっては、田上がひとりであるかも疑わしい。協力者がいるかもしれない。
「状況次第だが……なるべく生かしておきたい」
「分かりました」
 掃き出し窓から土足のまま中に入り、居間を抜けて台所に足を踏み入れる。
 あんなに飛び回っていた羽虫の気配もなく、家全体が不気味なほど静まり返っていた。
 大吾はシンク下を開けると、そこに収められていた出刃包丁を手に取った。逆手に持ち、灯りになるものを漁る。その姿はまるで彼こそが殺人鬼のようだった。
「いっそ着替えちまっても良かったな」
「戻りますか」
「いや……いい。早く田上を探したい」
 大吾は畳んで置かれていた暖簾を手に取ると、それを縦に裂いて襷の代わりにした。
 峯もそれに倣って襷掛けにする。乏しい光源の中に見る、憤怒に燃える大吾はそれは美しいものに思えた。
 先程まで子供のように恐怖に縮こまっていた彼はもう何処にもいない。峯は大吾の下瞼に落ちた睫毛の影に数秒視線を奪われた。
「バットか鉄パイプ……農具でもいい。見つけたら、包丁これはおまえが持て。刃は上下逆さにする。その方が刺さりやすい。この布切れも持っとけ。刺すときに滑ってうっかり指を切りかねないからな」
「はい」
 腰帯に裂いて残った布きれを引っ掛けられる。峯は従順な学生のように頷き、探索を再開した。
「ありました、懐中電灯」
 大吾が持っているのとおなじタイプのものだ。光源としてはやや範囲が狭く物足りないが、これ以上大きいと重くて使いにくいだろう。ふたりは離れすぎないようにしながら、峯の頭の中にある間取り図を頼りにひとつずつ部屋を潰していった。
 離れとおなじく、母屋も平屋だ。最後に今井の遺体がある客間へ戻ると、その姿が布団の上から忽然と消えていた。
……田上が戻ってきてたのか?」
 今井はかなり大柄で、恰幅かっぷくもある。あの田上に運べるとは到底思えなかった。それに、他の箇所を見て回っていたとはいえ、峯も大吾も相当に気を張っているし、この静けさの中、気付かない訳がないのだ。
 ──やはり協力者がいる。ふたりはそう考えた。
 今井が横たわっていた布団の上には、血濡れた平たい楕円の石があった。離れの裏口にあったものとおなじだ。これに何らかの意味があるとすれば、やはり呪いじみたものなのかもしれない。
 掃き出し窓から外に出る。人感センサーライトは点灯しなかった。ふたりの持つ懐中電灯の細長い光線だけが、暗闇に包まれた集落を照らし出している。
「さてどこから探すか」
 言いながら、大吾は辺りをぐるり見回した。暗闇に慣れ始めた目に、離れの奥に立つ蔵が映る。
「蔵に隠れるってのは有りか?」
「田上がですか」
 ふたりの立つ位置からは、蔵の入口が見えない。峯を前方にして、ふたりはじりじりと蔵に近付いた。
 いつの間にかヒキガエルが鳴き止んでいる。風もなく、他の虫たちも不自然なほど黙りこくっていて、外にいるにもかかわらず痛いほどの静けさだった。
 峯は思わず大吾を振り返った。大吾が小首を傾げて峯を見ている。この瞬間、峯にとって大吾だけが現実だった。
「俺が前行くか?」
「いや、大丈夫です。あなた怖がりですから」
 前に向き直る。蔵の入口を照らすと、古びた錠前と血痕が落ちていた。
 理由は判然としないが、今井の遺体がここに運ばれたのかもしれない。ふたりは注意深く、一歩、また一歩と蔵に近付いた。
 張り詰めた空気の中、ふと違和感を覚えて立ち止まる。大吾もおなじく立ち止まった。何かがおかしい。難解な間違い探しの答えを探るように、峯は目を細めて前方を睨んだ。
「何か──」
 言いかけて、峯は口を噤んだ。ふたつの明かりに照らし出された蔵の扉が、ふたりの目の前でゆっくりと開いてゆく。ありえないことに、何の音もしなかった。
 知らず息が浅くなり、心拍が速くなる。悪夢の中に迷い込んだような気がした。
 最初に見えたのは、乾いた藁のようなものだった。するすると音もなく、扉の隙間から這い出てくる。ふたりが動けずにいると、まず峯の持つ懐中電灯が点滅し始めた。
 藁だと思ったものは、髪だった。乳白色の髪。否、面などについている、馬の尾で出来たたてがみといった方が正しいかもしれない。
 隙間に顔が半分覗く。爛れたマグマのようにあちこちが隆起した赤黒い顔だった。黄色い目が、峯と大吾を見ている。頬まで裂けた口からは、獣のような牙が生えていた。
 次いで鋭い突起の無数についた棍棒がぬっと現れる。峯が構えるよりも先に、大吾が銃を構えた。
「あれは……なんだ? 鬼の面か? おい! 田上! 止まれ!」
 大吾が扉の下方を狙って撃つと、銃声が辺りに響き渡った。古い木の扉の一部が抉れる。扉の隙間から覗く者の動きは止まらない。ずるりと全貌を現したそれを見て、ふたりは瞠目した。
 それは、優に二メートル半はあるだろうという巨躯に襤褸を纏い、裸足だった。手足の爪は肉を食らう獣のように尖り、歪んで分厚い。膨れた腹に隠れた腰帯から、干からびた人の顔が幾つもぶら下がっていた。
 正に鬼だ。カビと獣臭が混じった匂いが急に鼻をつく。
 確かにそこにいるのに、衣摺れも足音もない。鬼は一歩ずつゆっくりと距離を詰めてきた。
 これはこの世のものならざる存在だ。ふたりはそう直感した。
 鬼の背後、蔵の中から、光を求めるように白く細い腕が何本も伸びてくる。
 それを見て、峯はいよいよ点灯しなくなった懐中電灯を左手に、大吾の腕を右手で掴んで母屋の方へ駆け出した。家屋の前を抜け、階段を下りる。長く伸びる大通りに出たところで振り返ると、上から異形がこちらを見ていた。
「とりあえずあいつから身を隠そう。なんかヤバそうだ」
……ええ」
 チカ、チカ、と点滅し、峯の持った懐中電灯が息を吹き返す。峯はスイッチを何度か切り替えて動作を確認すると、電気を消した。隣で大吾も消す。ふたりの考えることはおなじだった。
「暗い……けど、完全に見えないって訳じゃない。しばらくこのままでいよう。目が慣れればもっと見えるようになる。それから……やっぱりリーチの長いもんがいる。あいつ、何かエグいもん持ってただろう」
 大吾は額に浮いた汗を手のひらで拭い、浴衣に擦り付けた。
「鬼の金棒ってやつでしたね、正しく」
……やっぱあれって鬼なのか?」
 暗さと焦りに自然と顔の距離が近くなる。普段では有り得ないほど、ふたりは身を寄せ合ってしゃがみ込んでいた。
「どうですかね……もしあれが特殊メイクを施した人間だったとしても、殺したいですが」
 峯の物騒な物言いに、大吾は声を立てずにひっそりと笑った。
「一緒にいたのがおまえでよかった。同感だぜ」
 頭を低くして、上からなるべく見えないように移動する。一体どこが安全であるのかは皆目検討もつかなかったが、動かない訳にはいかなかった。
「物理攻撃が効くのかどうかは試してみないと分からないが……ガキの頃からホラーゲームやりまくってるから、任せとけ」
「それは……頼もしいですね」
 道路沿いの掘っ立て小屋に侵入し、携帯の画面の明かりで照らして──懐中電灯だと光が強すぎるため──、簡素な棚や壁に立て掛けられた農具を物色する。土と肥料の匂いが充満していた。
 使い込まれた三日月鎌や平鍬の中から、大吾は剣先スコップを選んで手にした。長さはそこそこだが、固い土を掘り起こすのに特化したそれは硬く重量があり、剣先というだけあって先が鋭い。大吾の腕力ならば一撃で人を殴り殺せるだろう。あるいは突き殺すことも可能だ。
「包丁よりも違うものの方がいいと思いますか」
「そうだな……棒って使ったことあるか? バットとか」
「振り回したことがあるかって意味なら、ありません。接近戦の方が役に立てると思います」
「じゃあこれにしとけ。鋸鎌っつって、多少固いもんでも切れる。こう、当てて引け。振り被って叩き切ってもいい。この包丁より使いやすいかもしれない」
 手渡された鋸鎌を目の前に翳して緩いカーブを描く刃を見る。峯は次いで大吾の顔を見た。
「なんでそんなに農具に詳しいんです?」
「農具にっていうか……まあ、刃物には多少詳しい。いざってときになんでも使えるように覚えとけって散々仕込まれたから。知識だけのもんも勿論いっぱいある」
「なるほど、ヤクザの英才教育ですね」
「そうだよ。おまえは実地で覚えてけ」
 小屋の中は昼間の熱が残留していて暑い。ふたりは各々武器を手に外に出ると、小屋の影から周囲を見回した。
「とにかく田上だ。捕まえて色々と聞かなきゃならねえ」
 この暗さの中、人ひとりを探すとなるとなかなか骨が折れるが、幸い、鬼の姿は辺りに見当たらなかった。目も随分と暗闇に慣れてきている。惜しむらくは、月が細いことだろう。雲がかかっていようがいまいが、そもそも光源としては期待出来ない。
「最悪、バラバラになっちまったらこのデカい道路に出よう」
 ふたりは目配せし合うと、掘っ立て小屋から一番近い家を見ることにした。集落にある家の総数は十二だが、今日目にした人間はふたりしかいない。向かっているのは、そのふたりを見かけた家だ。軒先で話していたのだから、どちらかひとりはこの家の住人だろうと考えた。
 田上を匿っている可能性があるから、正面から尋ねる気は毛頭ない。峯と大吾は田上の家でもそうしたように、掃き出し窓から中の様子を確認することにした。
「誰か見えるか」
……いいえ。別の部屋で寝ているのかも」
 顔こそ見えなかったが、昼間に見かけたふたりは明らかに老人だった。とすれば、もうとっくに眠っていてもおかしくない。
 家の明かりはひとつ残らず消えている。センサーライトはこの家には無いようだ。峯は滲んだ汗を拭いながら、目を凝らして窓の中を見た。薄ぼんやりと物の輪郭が分かる。しかしそれだけだった。
 大吾は周囲に目を配っている。峯はその姿を眦に捉えながら、懐中電灯を点けて中を照らした。
 照らし出した範囲に人影はない。光をゆっくりと右にずらしていくと、中途半端に開いた障子の向こうに老婆の後ろ姿が見えた。暗闇の中で背を丸めて座るその姿は明らかに異様だ。声を掛ける気も起こらなかった。
 峯が照らし続けていると、老婆がこちらを振り向いた。発光するような白さがぼんやりと浮かぶ。泥眼でいがんの能面がその顔に張り付いていた。
 勘弁してくれ、と思う。大吾ほどではないにしても、こういった類のものを気味悪く思うのは峯も変わりない。
「大吾さん」
 囁くように呼ぶと、大吾も光の先に目を向けた。その眉間の皺が深くなる。今はまだ怒りのおかげで気を保っているが、嫌なものには変わりない。
 ふたりは老婆の様子を注意深く窺った。あれが人であるとすれば、撃ち殺す訳にはいかない。危害を加えてこようとするなら強硬手段に出るまでだが、その見極めが難しかった。
 例えば老婆の身体が何かに操られているだけだとしたら? 荒唐無稽だが、そう考えるとすぐさま動くことは出来ない。
 大吾は腰帯に挟んだ銃に指を掛けながら老婆に声を掛けた。
「おい、婆さん、田上を知らないか」
 老婆がぎくしゃくした動きで立ち上がる。峯はその足元を見て、即座に銃を抜いた。大股に窓に近付き、勢いに任せて開け放つ。ガタン! と大きな衝突音がした。
「待て! 撃つな!」
 言いながら、大吾は縁側に一歩で乗り上げると、そのまま老婆に近付き剣先スコップを振り下ろした。鈍い打撃音がする。声もなく崩折れた老婆の面はずれもせず、顔に張り付いたままだ。

 たがみ、田上、タガミ?

 老婆のもんぺいの裾から、ぞろぞろと大小の虫が這い出てくる。大吾は「うおっ」と声を上げて後ろに飛び退いた。
 打撃は効くようだが、一撃死とはいかないらしい。峯は後ろから大吾の肩を引くと、油の切れたブリキ人形のように動く老婆の側頭部に鉛玉を撃ち込んだ。開いた穴から黒い液体に混じって虫が湧く。懐中電灯の光が直撃していないことだけが救いだった。
「虫はダメだろ……!」
 大吾は粟立った己の腕を摩りながら、老婆だったものを見下ろした。ほどけた身体は目の前で黒い塊になり、液体と虫に姿を変えて畳を闇より深い色に染める。残された泥眼の面だけが、濡れ光るように白かった。
 ふたりは興奮と動揺に肩で息をしながら、互いの顔を見た。一軒目はどうやら外れだったようだ。
「何故撃っちゃ駄目だと?」
「弾が勿体ない場面だったからだ。それに音がデカすぎる」
「あなたのそういう、咄嗟の判断力には惚れ惚れしますね」
 峯が言うと、大吾は肩を竦めた。
「峯はなんで婆さんがおかしいって気付いたんだ?」
「ズボンが離れで見たのとおなじだったからです」
 裏口を確認しに行った大吾の背後、暖簾の下から一瞬見えたあれだ。古臭い衣服だったから、すぐに記憶と一致したのだった。
 峯が残された能面と衣服に懐中電灯を向ける。まだ虫が蠢いていた。大吾はなるべく見たくないのか、離れはしないものの廊下や奥の台所に光をのばして遠くを見ている。
「昼間に見たのも人間じゃなかったと思いますか」
 峯の問いに、大吾はちらと峯を一瞥した。
「分からねえ。けど、だとしたらもうひとり居た婆さんだか爺さんだかもこれと一緒で……つまり俺たちは田上以外にこの鬼ヶ谷で人間を見てないってことになるな」
 小さな集落とはいえ、人がひとりもいないなど、そんなことは有り得るのだろうか。広がる幾つもの田園は荒れた様子もなく美しく実っていたし、家屋も、ひとつとして廃屋には見えなかった。
 異形や自分たち以外は至って普通なのだ。分からないことが多すぎる。大吾は肩口でこめかみの汗を拭った。
「携帯はまだ通じないよな?」
……ええ、繋がりませんね」
 峯は携帯の画面を確認すると、頷いた。
「応援は見込めないか。真島さんでも来てくれりゃ、心強かったのにな。なんか強そうだろ、こういうの」
「確かに」
 口元を緩めると、僅かだが身体の強張りが解ける。峯にとっては、大吾の方が真島の万倍心強かった。
「とにかく、しらみ潰しに見ていくしかないな。来るもん全部殺っていいってことだろ」
「そうですね」
 念のため家の中をざっと確認して、外に出る。家のひとつずつを見て回って、あと数軒かという頃には、時刻は丑三つ時に差し掛かっていた。
 肝の冷える現象には幾つか出会したが、あれから鬼は見ていない。吹き出す汗と緊張で、喉はからからだ。大通りに出ると、峯と大吾はおなじタイミングで田上の家を見上げた。
「一回戻って水分補給しますか。あの鬼がいないなら、蔵も調べてみてもいいかもしれません。今井の遺体も、まだ見つかってませんし」
 峯の提案に、大吾は頷いてそちらに足を向けた。階段の途中、大吾が母屋を見ながらあそこがセーブポイントか、などとぶつぶつ呟く。こんなところにそんなものがあってたまるか、と峯は砂を薄く纏った己の革靴を見た。
……大吾さん、もうちょっと早く歩けませんか」
 後ろにぴったりとつくようにして、大吾の太腿と尻の境目を掴んで押す。弾力のある肉の感覚を手のひらに感じながら、峯は大吾を急かした。
「なに、なんだよ。またなんかあったのか?」
 もう驚かねえぞ、と言う大吾を、峯は後ろから更に押した。
「無いですが、煙草が吸いてえんですよ」
 峯は再度足元に目をやった。階段の両端の草叢に顔が敷き詰められている。峯はこのひしめく顔の幾つかに見覚えがあった。
 彼らは峯がこれまでに地獄に突き落とした者たちの顔だ。直接屠った者もいれば、困窮に追い込んだ末に自害した者もいる。見覚えのないものは、もしかしたら大吾がそうした者たちなのかもしれない。老若男女問わず、夥しい数だった。
 たとえこれが幻であったとしても、ギョロつく目で一様に見てくるのが気味が悪い。峯はなるべく見ないようにと大吾の背を見ていたが、登り切る寸前、大きく口を開けた『おじさん』の顔が見えた気がして、胃がひっくり返りそうになった。
 大吾を身体で押して登り切り、大きく息を吐き出す。振り返る気にもならない。時間が経つにつれ、こういった怪異は徐々に増えてきていた。
 辺りを窺いながら鍵のかかっていない玄関から母屋に入り、台所へ進む。冷蔵庫を開けると、電気は切れていたが中はまだ十分に冷えていた。それぞれ飲み物をほぼ一気に飲み干して、息を吐く。家の中にはやはり人の気配はなかった。
……なあ、このまま家回るのもいいんだけどよ、蔵確認したらあの川行ってみねえか?」
「川ですか」
「うん。変なのあっただろ。離れの裏口にも今井の布団にもおんなじような石が置いてあったとなると、あそこで見たあの石の塔をどうにかすりゃ、なんか変わるんじゃねえかって。まあ、希望的観測ではあるんだが」
「どうにか……。壊すとかそういう? それはゲームから得たヒントですか」
「ううん、まあ、そんなとこ」
 大吾の言うことにも一理ある。元を辿ればホラーゲームも何かしらの伝承を元にして作られているものが多い。あながち馬鹿には出来ないか、と峯は腕を組んだ。
 田上はふたりが川に行ったことを知らないだろうし、ひょっとするとそこに潜んでいるかもしれない。
 とはいえ、この真夜中にこの状況だ。森の奥深くにある水場に行くのはなかなか気が引けた。峯が答えあぐねていると、大吾が汗に湿った前髪を掻き上げた。
「いや、おまえの考えてることも分かる。こんな状況で川なんて行きたくねえんだろ。俺だってそうだけど、潰せる可能性から潰しておきたい」
 どうだ、と言われては、頷く他ない。まだ数軒残っているとはいえ、行く先々にあるものといえば怪現象ばかりで、手詰まりといえば手詰まりだ。峯としても、何か突破口が欲しかった。
 今井の荷物を手に一度離れに戻り、煙草を吸いながら着替える。乾いた衣類に替えるだけで、随分と身体は軽くなった。汗に濡れ湿った浴衣を畳に放り、今一度弾の装填を確かめる。ジャケットは暑くてとても着ていられないから、荷物と共に峯の車に載せることにした。
「流石におまえの車は安地だよな」
 シャツの袖を肘上まで捲りながら大吾が言った。
「あんち?」
「安全地帯ってこと」
「そうであることを祈ります」
 ホルスターに銃を入れ、ふたりは荷物を縁側に置くと、離れの奥に佇む蔵にそうっと近付いた。中途半端に開いた扉から白い腕が伸びてくることはない。それでも、ここからあの鬼が出てきたのだと思うと、やや腰は引ける。
 峯は大吾に目配せをすると、観音扉の片方を一気に引いて開けた。灯りと銃を構えた大吾がすかさず中を確認する。
 中に今井の死体はなかった。十畳ほどの空間には、壁沿いに簡素な棚がコの字に設置されている。古びた段ボールや置物、書物が置かれているだけで、これといって変わったところはない。
 異様だったのは、ぽっかりと空いた部屋の中央に大きな黒箱が置かれていたことだ。高さは一メートル弱といったところだろうか。被せ蓋の裏側が天井を向いて落ちている。まるで内側から跳ね除けられたようだった。
「大吾さんはそこで照らしていてください」
 ふたりで入って扉が閉まってしまえば終わりだ。峯は一歩中に踏み込むと、大きな黒箱に近付いた。ほとんど真四角の立方体だ。古びて埃も被っているが、塗装は漆だと思われた。
 黒箱本体にも被せ蓋にも、びっしりと札のような紙が貼られていて、すべてが破れている。開けたときに破れたのだろう。
 峯が中を照らして覗き込むと、膝を抱えるようにして押し込まれた今井の死体があった。その半分ほどが、黒い液体に沈んでいる。手を伸ばすのを躊躇う不気味さだった。
……今井がいました」
「本当か!」
 堪らず、といった風に大吾は大股に箱に近付いた。今井の姿を確認して瞠目すると、下唇をわなわなと震わせる。ふたりは暫し無言だったが、大吾は眉尻を吊り上げると、突然箱の縁を掴み、横に引き倒した。勢いよく流れた大量の液体が棚の下にまで広がる。
 大吾は汚れるのも厭わず液体に塗れた今井の死体を引き摺ると、蔵の外まで運んだ。今井の身体から黒い帯がのびる。峯はそれを追うように蔵を出ると、足を持って離れの布団に横たわらせた。
 付着した黒い液体はやや粘ついている。唯一救いだったことは、あの能面の老婆のときのように虫が湧かなかったことだ。もっとも、もし虫が湧いたとしても大吾は変わらずここに今井を運んだのだろうが。
 死亡から数時間経っているにも関わらず、今井の身体にはほとんど硬直が見られなかった。最初に発見したときとは違い、今は目を閉じている。まるで今にも起きて動き出しそうだった。
……今はここまでしか出来ませんから、手ェ洗って川に向かいましょう」
「ああ……そうだな」
 怒りや悲しみを呑み込むためか、大吾は汚れた手で煙草のソフトケースを摘み出すと、振って出した吸い口を咥えた。峯が腕を伸ばしてジッポライターの火を翳す。首を前に出して先を燃やすと、大吾は胸に蟠った苦しみを押し出すように煙を吐いた。
 その表情を痛ましく思いながら、峯も煙草を取り出し、咥えた。オイルが切れかかっているのか、火がなかなかつかずに苦戦していると、大吾が煙草を咥えたまま徐に顔を近付けてくる。火種を分けようとしているのだ。
 峯は煙草の先同士をつけると、何度かに分けて空気を吸った。侵食するように火が移り、ふたりの間に気怠げに渦巻いた紫煙が立ち上る。大吾は伏せられた峯の真っ直ぐな睫毛をじっと見つめていた。
「どうも」
……峯、おまえは死ぬな」
 峯は視線を上げると、大吾の目を間近に見つめて頷いてみせた。
「俺がこんな風に火分けんのはおまえだけだ」
 もう一度頷く。胸の奥底に甘い毒が回る。
 己の身体の中に今あるものを外に放出してしまうのが勿体なく思えて、峯は刹那肺に詰めた煙を息を止めて押し留めた。

 煙草を吸い終わり、準備を済ませて坂の下にある峯の車に向かう。幸い、先ほど見た顔の群れはない。峯は密かに安堵の息を吐いた。流石に堪えたからだ。
 車のキーを操作して、後部座席に荷物を放り込む。川までは歩くには少し距離がある。乗り込んでエンジンをかけると、ヘッドライトをハイビームにして川を目指した。
 この際、獣だろうが異形だろうが、前に出てきたものはすべて轢き殺してしまえばいい。そう肚を括ってしまえば、恐怖心も薄れる。大吾の言ったとおり、慣れ親しんだこの狭い空間は安地なのかもしれなかった。
 今のところ、ホラー話によくあるような現象は起きていない。峯はバックミラーを一瞥すると、再び前を見た。
 何事もなく、ものの数分で大通りを走り抜け、川に下るための小道よりも手前で停車する。万一、急いでこの場を離れなくてはならない場合に備えてそうしようと、大吾が言ったのだ。
「なんにもなくて良かったな」
「ええ、まず普通に車が動いたのにホッとしましたね」
 ドアを閉めて、懐中電灯を灯す。光線の滑ったカナリアイエローのボディに、無数の黒い手形がべっとりとついていた。思わず固まる。無事ここまで走ってこれて良かった、というのが、ふたりが最初に思ったことだった。
……洗車代は田上に請求するとしますかね」
「明日一緒に洗ってやるよ」
 軽口を叩いていたが、森へ続く小径を前にふたりは口を噤んだ。
 明らかに雰囲気が違う。奥は真の暗闇だ。此処こそが敵の本丸なのだと、肌に纏わりつく重苦しい空気がそう告げていた。
 懐中電灯ふたつで照らしてもまだ暗い。光は数メートル先でぽっきりと折れたように闇に呑まれた。

 おおぉい。

 暗闇から声が聞こえる。峯が昼間に聞いたものとおなじだった。誰かの声に似ていたが、やはり誰なのかは思い出せない。
「今の声、なんだ?」
「俺が昼間に聞いたものとおなじだった気がします。しかも聞き覚えがある」
 歩を進めながら峯が言うと、大吾が訝しげに眉を顰めた。
「聞き覚え? 確かか?」
「ええ……何故ですか」
「いや……
 大吾は唇を舐めると、それきり黙った。峯は、何かおかしなことでも言ったかと、やや後方を歩いていた大吾を振り返った。

 おおぉい。

 また声がする。今度は近くの木の陰から聞こえた気がした。
 古い記憶の蓋がずれる。峯は声の聞こえた方角に目をやった。
「峯、あんまり離れるな」
 大吾の声にハッとする。気付けば目前に一本の木があった。いつの間に、なぜ不用意にこの木に近付いたのか、峯にはよく分からなかった。
 足元には薄く靄がかかっている。濡れた草葉の隙間に、舌のない口を大きく開けた今井の顔が覗いていた。思わず後ずさる。背に何かが当たり、心臓が大きく跳ねた。
「おい、平気か?」
 抱き止めるように両肩を大吾に掴まれる。峯は背後の大吾の頬や口元に無遠慮に手のひらを滑らせて、その存在を確かめた。夜になり僅かに伸びた髭が柔く皮膚を刺す。
「なに、何だよ、どうしたいきなり」
「いや……自分の頭がおかしくなったのかと」
 大吾は峯を身体ごと自分に向けさせると、その整った顔を両手で挟んだ。
「気を確かに持て。おまえがそんなんじゃ、俺、すぐやられちまうぞ」
「それは……困ります」
「そうだろうが。俺ァビビりなんだから、峯がちゃんとしててくれなきゃ困る」
 峯が薄く何度も頷くと、大吾は峯の双眸を見つめた後、手を離した。脇に挟んでいた懐中電灯を手に峯をぐっと抱き寄せ、背中を二度叩く。どれもこれも、目の覚めるような力強さだった。
……もう平気です」
「うん、行こう。マジ、手がもう一本あったら繋いでおきたいぜ」
 大吾は身体を離すと、困ったように眉を下げて峯に微笑みかけた。
 気を取り直して、前方にライトを向ける。鼓舞したところで、闇の深さは変わらない。僅かに聞こえてくる川のせせらぎが、唯一のこの世との繋がりのように思えた。
 田上はまだ生きているのだろうかとすら思えてしまう。人を呪わば穴ふたつだ。この数々の怪現象や鬼を起こすのに、代償がなかった訳ではあるまい。
 それとも、その生贄こそが自分たちだったのだろうか。深淵のごとき暗闇はじりじりと、しかし猛烈なスピードでふたりの心を蝕んでいった。
 沢を目指してひたすらに歩を進める。道幅を思うと、並んで歩くことは出来なかった。変わらず前を行くのは峯だ。彼がそうしたいと言った。
 生き物の気配がまるで無い。しかし奥に進むにつれ、其処ここから幾つもの笑い声が聞こえた。
 せせらぎと笑い声に混じって、男の呼ぶ声がする。様々な音に四方を囲まれていると、皮膚がひりつき、平衡感覚が狂ってくる。ふたりはそれでも奥へと進んだ。乏しい光で足元や辺りを照らす。

 おおぉい。

 聞き覚えのある声が呼んでいる。見てはいけない、と本能ががなり立てている。峯が声の引力に負けて声の方に目をやると、木陰に『おじさん』の姿が半分見えた。忘れるはずもない。あの半袖の薄水色のシャツは、彼のお気に入りだったものだ。
 ああ、そうだった。あれはおじさんの声だった。何故忘れていられたのだろうと思うと、古い記憶の蓋が完全に口を開けた。
 顔こそ見えなかったが、少し丸まったあの薄い背や、細い腕。すぐそこに、かつて愛した人間がいる。

 おおぉい。おおぉい。

 峯はライトを向けた。白い光に照らし出されたおじさんの骨張った腕が木陰から手招き、呼んでいる。しかし峯は近付くにつれ、違和感を感じた。
 今の声は、本当におじさんのものだったのか? 彼は自分のことをあんな風に呼んだことがあっただろうか。
 疑念が膨らみ、同時に身体の右側が総毛立った。違う。あれはおじさんではない。そもそも、ここに彼がいるはずがないのだ。彼はずっと昔に、峯を置いて死んだ。
 自分は何故今、一瞬でも心惹かれてしまったのかと、恐ろしくなった。何かの境界が曖昧になっている。例えば彼岸と此岸、あるいは人ならざるものと人との──。
「峯!」
 突如後ろからシャツの後ろ襟を引っ張られ、峯は目を覚ましたように立ち止まった。
 足元を見る。崖のように土が切れ、そこから随分下の草叢に大きな岩があった。その岩の側で、かわずの能面を被った誰かがこちらを見上げている。
 あと一歩踏み出していれば、滑落していただろう。峯は言葉なく大吾を振り返った。
「危ねえ。大丈夫か?」
……ええ」
 謝罪の言葉すらも出なかった。今し方大吾に鼓舞されたばかりだというのにこの有様だ。峯は自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「いちいち落ち込んでる暇ねえぞ。お化けって、弱った心に付け込むんだぜ」
 俺が先に行く、と言って、大吾は少し進んだところから川へと下り始めた。湿った草葉に靴底が滑る。辺りは当然、真っ暗だ。目印がある訳でもなく、昼間に自分たちがどの辺りで遊んでいたかなど、分かるはずもなかった。
 相手に位置がバレるかどうかなど、最早考える余裕もない。光があろうがなかろうが関係ないだろうと踏んで、大吾は手にした懐中電灯を上下左右に振って己の視界を確保した。
 峯のことも心配ではあるが、大吾自身もかなり精神を摩耗していた。昔遊んだホラーゲームに当てはめるならば、SAN値というやつだ。しかしゲーム画面のようにゲージの長さや残りが可視化されているはずもない。自分の正気はいつまで保たれるのだろうと、柄を短く握った剣先スコップに力を込めた。
 せせらぎに、コツ、コツ、という音が混じってくる。それと共に、男の嗚咽が聞こえた。今まで耳にしたどれよりも現実味のあるものに思える。これは田上の声だ、と大吾は直感した。
 噴き出た汗を首筋に伝わせたまま、声の出所を探して懐中電灯を左右に振る。目を凝らすと、光のぎりぎり届く範囲に積み上げられた丸石が見えた。
 砂利を踏み締め、立ち止まる。大吾はスコップを持った方の腕を斜め下に伸ばして背後の峯を止めた。
 ふたつの光線が川縁を彷徨う。ひとつは田上を、ひとつは犇めく石の塔を照らし出した。
 川縁に正座し、背を丸めて俯く田上の白髪は毛羽立ったように乱れている。彼は嗚咽を漏らしながら、新しく石を積んでいた。
 その横顔に見える目からは、黒い涙が伝っている。鼻や口からも、おなじものが垂れていた。

 ──はやくしないと……あの人たちもはやく箱にいれてしまわないと……

 ぶつぶつと呟いている。光が自分に向けられていることにも、田上は気付いていないようだった。
 二本の足が田上の側に見える。光を上にずらすと、先ほど峯を崖下から見上げていた、蛙の面を顔に張り付けた老人がこちらに顔を向けていた。その背後にふたつの黒箱がある。ひと抱えほどの、正方形のそれ。漆塗りが鈍く光を反射している。
 一体どれから手をつけるのが正解なのか、検討もつかない。そもそも、あそこに座る田上は本当にまだ生きているのだろうか?
 ふいに獣の荒い息遣いがすぐ側を駆け抜ける。それは二匹の犬だった。犬たちは田上の周りをぐるり回ると、その痩せ細った前腕に噛み付いた。ぎゃっと田上が悲鳴を上げる。肉を噛み千切らんと頭を振る一匹の顔は、人の造形をしていた。
 皮の破れた田上の腕から血が溢れる。その鮮やかな赤を見て、大吾は我に返ったように銃を犬に向けた。すべての元凶が田上であると分かっていてもなお、捨ておくことは出来なかった。
 銃声が森に反響する。人の顔をした犬の両方がその場に倒れ伏した。黒い液体が滔々と流れ、砂利に染み込む。大吾は銃と明かりを構えたまま田上に近付くと、田上を蹴り倒した。
「おまえをどうこうすんのは後だ。どうすりゃ収まるのか言え」
 倒れた田上は答えない。白目まで黒くなった双眸は、崩れた石塔を見ていた。
「鬼……鬼に喰われてしまう」
「んなことは聞いてねえんだよ。早く言え」
 側に佇んでいたはずの蛙の面が見当たらない。大吾は田上に銃を向けたまま、峯を振り向いた。峯の顔のすぐ横に蛙の面がぬっと浮かび上がる。三途の川から去ることの出来ない、凄惨で憐れなその顔。薄く緑がかっている。
「峯!」
 音のないその存在に、峯は瞬きひとつ分遅れて気が付いた。咄嗟に一歩前に踏み出し、振り向きざま握っていた鋸鎌を横に振るう。古ぼけた作業衣が裂け、中から虫がどっと湧き出た。
 峯はそれに構わず鋸鎌を振り被ると、面目掛けて斜めに振り下ろした。刃が硬い面にヒビを入れる。そのまま力を込めると、落雷のような音を立てて面が割れた。
 溶けた黒い顔が嗤っている。カビと土の混じった酷い匂いが鼻をついた。
 後ろに倒れたその身体から、あの泥眼の面のときとおなじように無数の虫が這い出てくる。手のひら大の蜘蛛や百足、山ごきぶりや蛾がわらわらと砂利や草叢に散った。
「ああ! ああ! 親父が!」
 田上が叫ぶように言う。大吾は足元の田上を振り向くと、その胸ぐらを掴み上げた。
「親父だと? 随分親不孝なことするじゃねえか、え? どうすりゃいいかさっさと吐け! とんでもねえもんに巻き込みやがって、責任は取ってもらうぞ」
 凄む大吾の足元を虫が這う。締め上げられた田上がもがき、咳き込むと、その口からも小さな虫が吐き出された。
「うわっ」
 大吾が思わず田上を離すと、田上は咳き込み、上半身を大きく前に倒しながらも、また石を積み始めた。
 身体の中を虫が這い回るのか、苦しげに片手で喉元や胸を引っ掻いている。それでも石を探る手は止まらず、田上は呻き声を上げながら幾つ目とも知れぬ石の塔を建てた。
 まるで賽の河原で石を積む子供のようだ。大吾が光を向けて田上を呆然と見下ろしていると、ふいに懐中電灯がチカチカと点滅し始めた。
 ここで光を失うのはまずい。懐中電灯を振ると、暴れる光線の隙間に禍々しい金棒の先が見えた。
 不規則な点滅を繰り返す光を前方に向ける。鬼がいた。
「大吾さん!」
 峯は大吾の目と鼻の先に立つ鬼の巨躯に銃口を向けると、躊躇わずに引き金を引いた。数メートルの距離が当たらない。峯がもう一度引き金を引くと、ガチ、と音がした。弾詰まりだ。偶然なのかどうかは分からなかった。
 撃てば暴発して指が飛ぶ。峯は銃を放ると、大吾に駆け寄った。鬼が金棒を振り被る。峯が大吾に飛びかかると同時に、凶悪な金棒が振り下ろされた。
 ゴッ、と鈍い音がする。ややして、場を切り裂くような叫び声が辺りにこだました。
 地面に強くぶつけた肩と砂利に擦り切れた肘や前腕が痛い。大吾が目を開けると、すぐ側にいた田上の顔が苦悶の色に塗れていた。
 己に伸し掛かる峯と顔を見合わせる。縺れるようにして横に転がり田上から離れると、黒い液体を目や口から出した田上の側にあった石の塔の上に、再び金棒が振り下ろされた。
 石が弾け、破片が辺りに飛び散る。鬼は繰り返し石の塔を潰すと、大吾たちには目もくれずに再び田上に向かって金棒を振り上げた。
 その行動は正に獄卒の鬼のそれだ。賽の河原で石の塔を端から壊し、石を積む子供を痛めつけて死に追いやる。五逆罪を生んだ子供らは、死んでもまたすぐに息を吹き返し、おなじことを永遠に繰り返すのだ。
「田上が死んじまったらどうすりゃいいのか分からなくなる……!」
 大吾は峯を押し退けると、座ったまま銃を構えて鬼を撃った。二、三と続けて鉛弾を撃ち込むと、鬼の軌道が逸れた。その間に、峯が転がるように田上に近付き、引き摺ってその場から遠ざける。鬼に打たれた田上の脚は脛の途中で折れ、骨が飛び出ていた。
「死にたくねえなら早く言え」
 峯が田上の顔を殴ると、ようやく正気を取り戻したのか、田上は震える指で黒い箱を差した。
「あそこに、あそこに供物を入れないと……入れて仕舞わないと……
「供物ってのはなんだ」
 痛みに喘ぐ田上の目から新たな黒色が流れ出る。まるで墨のようだった。
「人の──あ、あんたらの、肉、骨、」
 聞かされた内容に、峯は眉を顰めた。
「俺たちの? 何故だ」
「頼んだ、神に頼んだんだ、外道を地獄に連れていってほしいと……
「自業自得のくせに、恥ずかしい奴だ」
 峯は田上をもう一度殴りつけると、側にしゃがみ直し、汗の浮いた鼻下を腕で拭って、ついでにこめかみに伝った汗も捲った袖で拭った。
「おまえのじゃ駄目なのか?」
「え?」
 口端に赤黒い泡を溜めたまま、田上が瞬く。峯は黒い筋に塗れたその顔をじっと見つめた。
「あんたらの、の前に、人の、って言っただろう。おまえの血肉じゃ、神とやらには通じねえのか」
 田上の目が、身体が、恐怖に細かく揺れる。この田上の反応こそが答えだと、峯は数回頷いた。
「大吾さんが選んでくれたもんはやっぱり正解だったな」
 峯は迷いなく田上に向けて鋸鎌を振り上げると、骨の割れて飛び出た脛に刃をめり込ませて手前に強く引いた。田上の絶叫を耳にそれを数回繰り返し、脚の一部と左手首から先を手に黒箱に走る。
 箱は二つある。それぞれ別の人間である必要があるか否かは、峯には分からなかった。もしもふたり分必要であるとして、そのときはそのときだ。自分の指でもなんでも切って入れればいいと、そう思っていた。
 銃声が止んでいる。横目に大吾を確認すると、大吾は銃を手にぶら下げ、川の向こうをじっと見つめて立ち尽くしていた。
 その横顔に、鬼が迫っている。峯はふたつの被せ蓋を跳ね除けると、それぞれに田上の身体の一部を放り込んだ。ぼちゃん、と中で音が立つ。蓋を被せて振り返ると、たった今までそこにあったはずの鬼の姿が跡形も無くなっていた。
「大吾さん!」
 峯が大きく呼ぶと、大吾はびくりと身体を揺らして、ゆっくりと峯に顔を向けた。川の向こうと峯の顔を視線で往復し、徐に銃のセーフティロックを掛ける。ホルスターに仕舞うと、のろのろと峯に近付いてきた。
「最後らへん、よく覚えてねえ」
「必死でしたから」
 峯は己のスラックスのポケットに二指を差し込むと、ハンカチを摘み出して大吾の顔についた黒い液体を拭いてやった。この液体が一体何なのかは、最後まで分かりそうにない。
「おまえどっか怪我してるんじゃねえのか」
 峯の頬や首筋に付着した血飛沫に、大吾が眉を顰める。峯は緩く首を横に振った。
「俺のじゃないんで、大丈夫ですよ」
 ふいに風がふたりの間を駆け抜ける。ここに来て風を気持ちいいと感じたのはこれが初めてだった。
 気付けば、起き抜けの鳥たちの声も聞こえている。木の葉の隙間から覗く空の色が薄くなっていた。
……もうすぐ朝じゃねえか」
 いざ目の前から怪異が去ると、夢でも見ていたのではないかという気にさえなる。しかし、足元に積まれた石の塔や並んだ黒い箱、拉げた古い作業衣や割れた能面が、この夜にあった悪夢のような出来事を確かなものにしていた。
「田上は?」
「死んでるかもしれません」
 ふたりは田上に近付くと、その苦悶と恐怖に満ちた顔を見下ろした。穴という穴から黒い液体を流して、ぴくりとも動かない。失血だけが死因であるようにはとても見えなかった。
 残った右手には、血に濡れた楕円の石がしっかりと握り込まれている。彼はこの先もずっとここで石を積み続けるのかもしれない。


 明朝、運び出された今井の遺体を見送った後、ふたりは田上の家の縁側に座って棒アイスを食べていた。
 大吾が組員に強請ったのだ。彼らは大吾が食べる棒アイスのためだけに、大量の氷とアイスボックスを手配して遥々車を走らせてきた。
 昨日の蒸し暑さこそが一番の怪異だったのではないかと疑うような、秋の気配を帯びた涼しい風が吹いている。何も植わっていないプランターの乾いた土の表面が、その風に薄く削り取られていった。
 階段の下には、峯の車を洗う組員の姿が見え隠れしている。峯は「色々あって」としか言わなかったが、ふたりの姿と峯の車を見た組員たちはその有り様に色々の内容を察したらしく、日中にも関わらず震え上がりながらもすぐに洗車に取り掛かった。今はその作業の終わりを、寝不足のままぼんやりと待っている。
 夜明けとともにふたりで運んだ黒箱は、蔵に入れた。田上が「仕舞わなければ」と譫言のように言っていたからだ。
 大吾が引き倒した一番大きな箱にも、田上の一部を入れておいた。後になって、半分乾いた今井の舌をその箱の側に見つけたからだ。今井の舌は、遺体とともに回収させた。
 この方法が正解かは分からないが、固く閉ざされた蔵の扉を開くのは、そのうちこの土地を東城会から買い取る業者か個人だろう。峯と大吾にはもう関係のない話だった。売買の際、書類の最後に付記くらいはしておいてやってもいいかもしれない。
「ん、なあ」
 大吾は咥えていた棒アイスを口から抜き取った。
「おーいって、ずっと聞こえてただろ。あれ……おまえ、聞き覚えがあるっつってたよな」
「ええ、はい」
 唐突な質問に、峯は曖昧に頷いた。
「そんなはずねえって思ったんだ。俺にはずっと、自分の親父の声に聞こえてたから」
 峯は、昨夜あの森の小径で訝しんでいた大吾の顔を思い出した。
「おまえが俺の親父の声を知ってるはずない。だろ? だから、おまえには別の誰かの声に聞こえてるんだろうって」
 大吾はそこで言葉を切った。頭の中には、暗い森の中、迷子のような顔で誰かを求めていた峯の横顔がこびり付いている。
 あれは峯が誰にも見せない、自分さえ見たことがない不可侵領域に隠した表情だったように思う。だからこそ、大吾は誰とまでは尋ねなかった。
「大吾さん、俺も訊いていいですか」
「ん?」
「川の向こうに見えたのも、父親でしたか」
「ああ……そうだな」
「やっぱりそうですか」
 あのとき、あの川は、この土地は、向こう側と繋がっていた。あるいは、あやかしがふたりの記憶を吸い上げて幻影を見せていたのかもしれない。いずれにせよ、今となっては確かめようもなかった。
「ろくな人間じゃなかったけど、死に目に会えなかったから、こっち来いって手招かれると、つい行きそうになっちまったよな。別に大して好きでもなかったくせに……あのとき、おまえが呼んでくれてよかったよ、峯」
 大吾が小首を傾げて峯を見る。峯は大吾に向かって、不器用に微笑んでみせた。
「火を──火を分け与えるのは俺だけだと言ってくれたでしょう。だから……何があってもあなたと一緒に生きて帰りたかったんです」
 言ってから「ああ、いや」と峯は薄っすらと伸びた髭を手で摩った。
「もちろんそれがなくても俺はあなたと帰りたかったんですが」
 峯の言葉に、大吾は下唇を突き出した。
「改めて言われるとちょっと恥ずいな。本当のことだけど、誰にも言うな」
 食べ終えたアイスの棒を放り投げ、大吾が煙草を咥えて火を点ける。ふたくち吸うと、その煙草の吸い口を冷えた峯の唇に挟んだ。
「あー、きったねぇし、匂いがヤバい。早くホテルで風呂入りてえ。このスーツってやっぱり捨てた方がいいよな」
 立ち上がって、大きく伸びをする。
 目の前には、枯れてひび割れた田園と、素知らぬ顔をした豊かな山々が広がっていた。


(呼ぶ聲/了)