ザクロジュースを持ってモーディスの部屋に向かう前に、今から行くよ、と念のためもう一度連絡をしておく。わかった、と短いメッセージに反対にファイノンの心臓は大きく音を立て、石板を握る手が震えはじめる。
強敵を前にしたってこんなに緊張しないだろう。すーはーと深呼吸を何度も繰り返しているうちに、脳裏に「死にたくなければ三秒で冷静になれ」といつだったか、モーディスに叱咤された言葉を思い出した。
あれはまだモーディスと知り合って浅い頃、目の前で彼に死なれた後のことだった。足を滑らせたファイノンを突き飛ばし、目の前で左胸を正確に矢で貫かれて崩れ落ちた男が、数秒後に胸から矢を引き抜き、動揺するファイノンの肩を掴んで、眼前の敵を見据えながら淡々とした声で口にした。
君、今死ななかったか?
震える声で尋ねたファイノンに、モーディスが「余裕だな、救世主」と煽るように言う。唇の端を持ち上げた男は、けれどもファイノンを一瞥せず、飛んできた矢を籠手で殴り飛ばし、四足獣のような体勢で身を低く屈めると、一直線に飛び出して行く。
――その時の事を思い出し、剣を握る。これから自分がしようとしていることがまるで生死をかけた一大事だとでも言うように、体の震えがピタリと止まる。
上手く行かなくたって死ぬわけじゃない。そう言い聞かせて、ようやく部屋を出る。
足取りは重いのに、心はどこかふわふわして落ち着かなかった。普段より時間をかけてモーディスの部屋のドアの前に立つと、石板の認証鍵が反応して、自動的にカチカチとロックが外れる音がする。
石板にお互いの部屋の鍵をいれたのは随分と昔のことだったが、そう言えば、「お前を部屋に運ぶ際に面倒だ、鍵を寄越せ」と言い出したのはモーディスだったことにファイノンは今更気が付いた。
君だけ僕の部屋に自由に入れるなんてフェアじゃないだろ、とヒアンシーに包帯を巻かれながら口にしたその日、「なら俺の鍵もいれてやる。それでいいな」と言われ、あまり疑問に思わず、対等になったことに満足していた。
よくよく思い出して見ると、ヒアンシーは何か言いたそうな顔を一瞬見せてから、ファイノンが不思議そうに首を傾げたのに気づき、「いえ」とにっこり笑っていた。
「……あれ」
ドアのロックが解除され、勝手に開くのを見ながら、ファイノンはそこでぴたりと足を止めた。
(もしかしなくとも、普通、鍵は渡さないんじゃないか?)
怪我をしてモーディスに運ばれたり、飲み比べでへろへろになったモーディスを部屋に運んだり、先日のように夢見が悪くて起き上がれない日にモーディスが勝手に部屋に入ってきたり、そんな風にお互いにお互いの部屋に「侵入」することに何故か違和感を持たずに今日まできたけれど、よくよく考えればおかしな話だった。
なにしろ、アグライアにだって部屋の鍵は渡していない。勿論、彼女がそれを一度も望まなかったからと言うのもあるし、そもそも開けようと思えば彼女はオクヘイマ中の扉を自由に開けられることを知っていたからと言うのもある、だろう。
「……主、救世主。おい。部屋の前で硬直してどうした。さっさと閉めろ」
ハッとしたファイノンの眼前には、いつのまにかモーディスが腕を組んだまま立っていて、怪訝そうに眉を跳ね上げている。普段の戦闘装束ではなく、ゆったりとした白と赤の布地を巻きつけたようなガウン姿に、思わず上げた視線をすぐに逸らしてしまう。左耳のピアスが揺れて、小さく音を立てる。その音に、心臓が跳ねた。
少し前から、モーディスのこんな姿を見る度にファイノンはなんとも言えない違和感を覚えていたが、それが恋から来るものだとは思っていなかった。
目の前がちかちかと瞬き、輝くような錯覚がするのと同時に、胸がぎゅっと鷲掴みにされるような感覚がする。
そんな錯覚を断ち切るように、無理やり笑顔を作った。
「あ、ああごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「まだ疲れが取れていないのか? それとも樹庭から帰って来るほどの体力もなくしたか」
ふん、と笑うモーディスに、むっとして「どちらでもないよ。考え事をしてただけで」と答えると、室内に足を踏み入れる。ファイノンの背後でカチカチとドアのロックが再びかかる音がする。
モーディスの室内はいつものように清潔で、いい匂いがしていた。壁にかかったドライフラワーのリースはきっと子どもたちに貰った花冠のうちのひとつだろう。
窓には精緻なレース編みで出来たカーテンがかかっており、室内の床や家具に美しい影を落としながら揺れている。床に敷かれた赤い敷き布の上を歩き、バルコニーへ向かうモーディスの背を追う。
カーテンに指をかけながらモーディスが振り返り、それで、とファイノンが手にしていた小さな鞄に視線を向ける。
ファイノンはレースの影がモーディスの頬に落ちるのを見、なんだか、ヴェールのようだな、と考えてしまう。
「樹庭のザクロで作ったものか」
ぼんやりと視線を向けて再びかたまってしまったファイノンを気にせず、モーディスは言葉を続ける。
「先日メーレを常備していないと言っていたが、まさか詫びのつもりか」
モーディスの表情は凪いだ穏やかなものだったが、声音には「気にし過ぎだ」とでも言いたそうな色が混ざっていた。そういうやり取りがあったことすら知らないファイノンは、勝手に胸が悪くなってしまい、自分の未熟さにぐっ、と我知らず拳を握りこむ。
もしファイノンが土産を渡す口実を上手く切り出せなくても、物の正体がわかればきっとモーディスが勝手に理解して、円満に収まるだろうと彼女は予測していたかのようだった。気にするようなことでもないはずなのに、なんだか、自分よりモーディスのことをわかっていると言われたような気がして、何故か少し心がささくれだったような気がする。
(悪い考えだ)
なんでそんな気持ちになるんだ? おかしいだろ。そう自分に言い聞かせながら、少し距離を開けて並んだリクライニングチェアの一つに腰を下ろしたモーディスの隣に座る。テーブルの上に鞄を置き、持ってきたジュースの瓶を取り出す。
「詫びとかじゃないよ」
勢いで言ってしまうとしたが、再びファイノンの心臓は強く跳ね、舌が震えそうになる。弁論大会の前だってこんなに緊張したことないのに、と慌てそうになりながら、「なに?」と瞳を瞬かせるモーディスの目をまっすぐに見つめる。
「その、……君に麦のお礼がしたくて、何かいい案はないかって彼女に聞いたんだ」
「…………………………」
僅かにモーディスの眉が動き、余計なことを、とでも言うように目許が歪められたのが見えた。あまりに微々たる変化で、彼に近しいものでなければ気付かなかったかもしれないと思うほど些細なものだったが、長い間モーディスの傍でその姿を見て来たファイノンにはすぐにわかってしまった。
「あのさ、率直に聞くけど……どうしてヒアンシーから預かったなんて誤魔化したりしたんだい?」
「…………………」
普段は問いかけに視線を逸らしたりしない男が、気まずそうに視線を落とす。
オクヘイマの夜は朝と殆ど様子は変わらない。どちらも同じ静けさで、同じ明るさのままだ。だから、例え夜であろうと、沈黙が続く間も、ミハニの陽光がモーディスの健康的な肌に注がれ、美貌がほんのわずかに紅潮する様を白日の下に晒した。
ファイノンは自身の心臓が一際大きく跳ねるのを感じ、そっと服の上から左胸を押さえる。
君のそれってどう言う感情? と聞きたくなるのを堪えて、もう少しだけ、モーディスの言葉を待つことにした。
「……それを聞いてどうする」
どのくらい答えを待っただろう。ようやく零された言葉は、ファイノンの予想から少し外れていた。
モーディスはバレたのであれば仕方がないな、とでも言いたそうに肩を竦め、まるで先ほどの気まずそうな表情はファイノンの見間違いだとでも言うように、彫像めいた美貌に戻してしまっている。
「どうって」ファイノンは言葉を誤魔化したくなるのを堪え、息を吸う。「君からの贈り物だって素直に言ってくれた方が、ずっと嬉しかったよ」
「…………………………」
「別に隠す理由もないだろ? そりゃあ、確かに君に心配されてしまったのは情けなくて恥ずかしいけど、わざわざ気にかけてくれた好意を無碍にするほど恥知らずな人間じゃない。……エリュシオンの麦はまだ昏光の庭にしかなくて、どこにも流通していない。それをわざわざ僕のために取りに行ってくれたのは驚いたけど、本当に嬉しかったんだ」
モーディスは不機嫌そうに片眉を跳ね上げ、反論しようと口を開いた。ファイノンは「お前のためではない」、と返って来るのを予想したが、そうはならなかった。勿論、ヒアンシーから真実を聞いている以上、そんな言葉が返ってきたところで、ファイノンはその言葉を嘘だと断じることができる。
一度言葉を飲み込んだ男は難しい顔で腕を組み、「隠そうとしたわけではないが……」と歯切れ悪く口にした。
「俺がお前を侮っていると誤解するかもしれんと思ったのは事実だ」
「侮る?」
「心配されすぎても不愉快だろう」
気まずそうに口にするモーディスに、ファイノンは少し返答に困った。確かにそうだ、と思う気持ちと、君に心配されるのが不愉快だって? と思う気持ちが両方存在することに気づいたからだ。
「確かにお前は未熟で覚悟の決まりきっていない繊細なやつだとは思うが」
「いやいやいや、事実だけど、もう少しオブラートに包んでくれ。自覚があるだけにわりとショックだ」
黙り込んだファイノンをフォローしているつもりなのか、モーディスから突然言葉のナイフを刺され、鋭さにぐっ、とファイノンの息が詰まる。
「? 何を言っている。覚悟を決めろとは言ったが、別にお前を格下に見ているわけではない。お前が過去に苛まれ、苦しんでいるのも、それを情けなく感じているのも知っている。だがそれもお前だろう。ただ、……俺と対等に手合わせのできる人間がお前しかいない以上、永遠に腑抜けられてもつまらんだろう」
モーディスの視線がファイノンの目を射抜くように細められ、ふ、と口許が緩んだ。美しい男の微笑みと言葉で脳が焼かれる感覚がし、ファイノンは目の前がちかちかと眩しく輝くような錯覚を覚える。目と鼻の奥がツンと痛み、視界が一瞬白くぼやける。慌てて鼻をすすり、えっと、と零しながら頬をかき、零れ落ちないように日差し避けのバルコニーの天井を見上げた。
対等。その言葉が、ファイノンの胸に熱く染み渡るような心地がした。
雑魚を相手にするくらいならお前と手合わせをした方がましだ、とは今まで何度か言われていたが、本当にモーディスが言葉の通りに感じてくれているとは、どこかで信じ切れていなかった。
「それ本当にすまない。……確かに、僕以外、誰も君と本気で手合わせなんてできないよな」
――そう口にして、なんとなくモーディスと見つめ合い、照れ隠しに乱れてもいない髪を手櫛で直そうとしてから、あれ? と髪に触れた手を止める。
(なんだか色々それっぽいことを言われたけど、それならそれで、素直に僕が不愉快に思うかもしれなかったからだって言えばよかったんじゃないか?)
ファイノンはザクロジュースに視線を落としたモーディスの顔をそっと盗み見、その表情に、明らかな安堵が浮かんでいることに気がついた。
「メデイモス」
「なんだ?」
名前を呼ぶと、モーディスの表情は既にいつもの感情の読み取りづらい、若い為政者の顔に戻っている。
こうやって長い間、もしかして誤魔化されていたんじゃないか? ファイノンの脳裏に、殆ど確信めいたものが浮かんだ。
「そのザクロジュースは、僕がヒアンシーに頼んでとびきり甘くしてもらったんだ。君は甘いものが好きだろう?」
それがどうかしたか、と言いたそうに、モーディスはジュースから顔を上げ、ファイノンの顔を見やる。
モーディスは自身が甘党なことを隠してはいないし、顔に似合わないと言われても気を悪くする様子も見せない。きっと飽きるほど聞いてきたからだろう。
「どうして僕がこれを持ってきたかわかるかい?」
緊張して舌が張り付いているのを感じながら、ファイノンはモーディスの顔をじっと見つめた。日差しがモーディスの髪と頬に強く差し込み、彼の輪郭を黄金色に輝かせている。
風が吹くたびに金色から朱へと移る髪が揺れる様子に、子どもの頃、エリュシオンで見た、夕焼けに輝く麦畑を思った。モーディスには「色だけだろう」と一蹴されてしまったけれど、ファイノンにとってはそれだけのものではなかった。
ここ数年ずっと、自分のそばにあった懐かしく、美しい思い出の姿だ。
その美貌が、困惑を表している。
リクライニングチェアの肘掛けに置かれた、モーディスの剥き出しの手に触れたい、と強く思った。
普段は金色の甲冑に覆われた手は拳で殴りつける戦闘スタイルには不釣り合いなほど綺麗で、彼の回復力の早さ故だろうか、と余計なことを考える。
「君が僕にとって大事な麦を贈ってくれたように、僕も君の――君の一族の伝統的なものを贈りたかったんだ。エリュシオンの麦ほど大したものじゃないけどさ……」
モーディスはオクヘイマの市場で柘榴をよく購入しているので、もしかすると樹庭にある「クレムノスの種からできた柘榴」への拘りはないかもしれない。ファイノンの胸中に少しだけ焦りが浮かぶが、声を詰まらせそうになりながら、言葉を紡ぐ。
「それは……」
――どういう意味だ?
掠れた低い声を出したモーディスの視線が伏せられ、長い睫毛が震える。
「わからないか?」
舌がねばつく感覚に、ふーっ、とファイノンはゆっくり息を吐き、目を閉じる。
肘掛けに置かれたモーディスの手にそっと手を重ねたファイノンに、おい、とモーディスが居心地悪そうに身じろいだ。
てっきり「なんの真似だ」と柳眉を逆立ててくるだろうと思っていたのに、予想が外れる。
手を引けば負けだとでも思っているのか、モーディスの指がぐっと肘掛けの先端を掴むのを感じながら、ファイノンは力をこめずに、モーディスと違って、剣だこのいくつも潰れた手を重ねたまま、親指ですべらかな肌を撫でる。
「僕は君が好きだ。君に恋をしている。……この間、『口説いているつもりか?』って言っただろ。そうだよ、僕は君を口説いてる」
言ってしまった、と冷静な自分が脳裏にいるのを感じながら、ファイノンはモーディスが金色の瞳を見開くのをじっと見つめた。
ここまで言えば誤解のしようなんてないだろう。曖昧な言葉なんて言ってたまるか。
言い切ったからか、やけくそとも思えるような、強烈な感情が沸き上がる。
「なあ、どうして僕のためにわざわざ樹庭から持ってきてくれたのに、嘘をついたんだ? 君が隠したかったものを全部教えてくれ」
「待て、」
思わず身を乗り出したファイノンの胸をそっと押し、モーディスが焦ったように口にした。
君でもそんな顔をするのか、とファイノンは眼前の男にしては随分と弱弱しい制止に、段々自分が興奮して来ているのを自覚する。
好きだと口にして吹っ切れたせいか、モーディスの動揺したように揺れる金色の瞳があまりに綺麗で、好きだ、と思わずファイノンの口から言葉が無意識に零れてしまう。
待て、ともう一度モーディスが意味のない言葉を口にし、ファイノンの胸を押す手に少しだけ力を籠めた。
「君が答えを考える間、このままここで待っていてもいいのなら、待つよ」
ファイノンの白い肌は、視線や言葉よりももしかするとモーディス相手には雄弁だったかもしれない。
耳まで微かに染まった真剣な表情で言葉を連ねて来る男の瞳には嘘も揶揄いも見えない。
「僕は君が好きだ。……君は?」
待つと言ったその口で、結局答えを急かすファイノンを見つめ返し、モーディスは小さくため息をついた。
「……俺がお前以外に、部屋の鍵を渡していると思うか?」
*
「顔を見れば分かりますので報告は結構です。甘ったるい御伽噺自体は否定しませんが、私には不要だとまだわかりませんか」
「ま、まだ何も言ってないのに……」
ファイノンが研究室を訪れるなり、アナクサゴラスは挨拶もなしに元教え子の言葉を封じた。
「まあ、もしあなたが愛する人と一緒にいたいあまりに火追いの旅を辞めると言うのであれば、祝杯のひとつでも上げるのは吝かでもありませんが」
「先生は相変わらず火追いの旅に否定的だなあ。期待に沿えなくて申し訳ないけど、愛する人ができたことで、余計に自分の使命の重さを以前よりもはっきりと自覚したよ。だから今日は先生にお礼を言いに来たんだ。はいこれ、オクヘイマで見つけたスパークリングワサビ酢。なかなか出回ってなくて、探すのに苦労したよ」
なかなか出回っていない理由はあまりに珍妙な味に人気がないからなのだが、ファイノンはそんなことは知らなかった。。
アナクサゴラスは大げさにため息をつきながらも贈り物を素直に受け取り、「相変わらず『浪漫』の毒牙にかかったままのようで残念です」と毒づく。
「しかし、あなたに大事な相手ができたこと自体は、私も喜ばしく思います」
「え」
「手に入れた幸福はどんなに些細なものでも噛みしめるように。失うことを恐れる必要はありません。すべてのものはいつか必ず失われますから。あなたはただ想うままに生きなさい」
そっと左目の眼帯に触れながら呟く男に、ファイノンは力強く頷いた。
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