ねぶくろ
2025-06-06 22:57:20
2108文字
Public Skeb
 

今際に香る

Skebにて納品した作品です。

「林檎の香りがするんだ」
 末期がん患者として病床に臥す祖父はそんなことを言った。
 点滴や酸素マスクのチューブに繋がれて痩せ衰えた彼は、数年前までこの病院で内科医をしていた。長年にわたり、老若男女の病を癒し、あるいはその最期を看取ってきた。現役の頃は穏やかで辛抱強く、患者から評判のいい医師だった。定年退職以降も穏やかな気質は変わらず、祖母と二人で仲睦まじく暮らしていた。定期的に検診にも通い、しかし不幸にも彼のがんが発見されたのは既に手遅れになってからだった。
 懸命に、正しく生きてきた祖父が、どうして手遅れになってしまったのか。神を恨みたい気持ちにはなったが、当人は己の不幸を恨むでもなく、淡々としたものだった。「老いるとはそういうことだ」と、相変わらず穏やかに笑って見せる祖父の頬がこけていくのを悲しい気持ちで眺めながら、毎週末の見舞いの度にじわりじわりと雨垂れが石を穿つように『覚悟』を決めていく。
 祖父に残された時間は、そう長くない。

「死ぬことは怖くないんだ」
 祖父は、膝の上で閉じた本の表紙を撫でながら静かに言った。
 病室を訪れる際にちらりと垣間見える、読書中の横顔が好きだった。清潔な室内で身を起こし、老眼鏡の奥の鳶色が静謐さと共に文字を追う。その眼差しが私の来訪に気付いてほどけ、嬉しげに細められるのが好きだった。
 清く、正しく、温厚篤実で誠実な祖父の孫であることが、私にとっては誇りであった。彼の穏やかさは神の庇護にも似ていて、陽だまりのように心地よく、その安全な場所が近い将来には失われるのだと想像すると、私の胸中に築かれたささやかな『覚悟』などはいとも容易く崩れ去ってしまいそうになった。
 そんな不安と恐れを、彼に零したことはなかった。彼が最も不安で、恐れと戦っているはずだと理解していた。今まさに死の恐怖と向き合い、壮絶なる戦いをしているであろう祖父に、私の恐怖までも背負わせるわけにはいかない。そう考えていた孫の気持ちに、賢明で聡い彼は気付いていたのだろう。穏やかな春の陽射しをうけながら、花盛りの窓の外へと視線を放って、祖父が穏やかに口を開いた。
「死ぬことは怖くないんだ」
 私は、唐突な言葉に動揺しながらも、彼の告げた内容に興味をそそられていた。
「それはなぜ? 医師としてたくさんの死に立ち会って来たから?」
 とても幼く、安易な質問をぶつけた私の頭を撫でながら、祖父は鳶色の目を細めて「それもあるけれど、それだけじゃない」と旧友との思い出を懐かしむように笑いの滲んだ声を零した。
「患者の死には幾度も立ち会って来た。不思議なことにね、いつもではないが、死の間際には林檎の香りがするんだ」
 林檎の香りが何かの比喩だと思い、私は首を傾げた。祖父の、大きくて皺だらけの手が私のくせ毛を撫でる。心地よく、守られている感覚に浸りながら私はとろりと目を瞑った。春の陽射しの中、母の腕の中で読み聞かせを聞きながら眠りに落ちるような、そんな安息。祖父は私の頭を撫で続けて、アルバムの中から思い出深い写真を見つけた時のように言葉を続けた。
「甘く煮詰めた林檎の香りがするんだ。きっと、神様が生を全うした人々に甘味を用意して労ってくれるんだと、私はそう思っているんだよ」
 だからね、と続けた祖父は、きっとそう信じることで自身の不安を軽くしていたのだろう。或いは、まだ幼かった孫の私を悲しませないように懸命に明るさを保っていたのかもしれない。見上げた祖父は、皺だらけの痩せた顔を笑みで彩って力強く言い切った。
「死は恐ろしいものじゃない。私は、そう思っているんだ」

 祖父はそれから、ひと月と二週間ほど生きて、亡くなった。

     *     *     *

「そういえばムギさん、今日も例のアレ、食べたんですか?」
「例の……、アップルパイのことでしょうか? 食べましたが」
「うへぇ~……、よくあんなもの食べられますねぇ。あ、そろそろですよ」
 ムギとメイメイは病床に臥した老人を覗き込んだ。砂時計の砂が落ちていく様子が見えるように、その寿命が削られていくのが肌でわかる。死因は病だ。時間帯のせいか、病室に医師や看護師の姿はなく、彼はほとんど眠るように息を引き取ろうとしていた。
 時計の針が動いて、死亡予定時刻が近づく。魂の回収を、と刀の柄に手をかけたムギの動きに合わせて、もう目も見えていないであろうターゲットがこちらを向いた。微かにその頬を緩めて、「あぁ」と呻きとも感嘆ともつかない声を発する。
「林檎だ」
……?」
 不審に思いながらも、時間が来たので予定通りに魂を体から切り離して、捕まえる。
 メイメイは「呆気ないですね、次に行きましょう」と、頭の後ろで腕を組んで退屈そうに言い放った。既に病室を出ようとしている背中に向けて、そうですね、と首肯を返す。メイメイがいなくなった病室で、ムギは置き去りにされたターゲットの体を見下ろした。既に遺体となった彼が何かを口に出すことは二度とない。ムギは小首をかしげつつ、次の現場へと向かうために病室を後にした。