ながひさありか
2025-06-06 22:15:03
21989文字
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ファイモス:種を蒔く人2(まとめ)

2-4のまとめです。
アナ先生+ヒアンシーがよくしゃべる。
火追いの使命があるのに余計なことを考えてるなんてどうなんだ? と思っているファイノンがアナ先生に恋愛相談したり、ヒアンシーに後押しされたりしています。

前回→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24869163

「あのさ、率直に聞くけど……どうしてヒアンシーから預かったなんて誤魔化したりしたんだい?」
…………………
 普段は問いかけに視線を逸らしたりしない男が、気まずそうに視線を落とす。
 オクヘイマの夜は朝と殆ど様子は変わらない。どちらも同じ静けさで、同じ明るさのままだ。だから、例え夜であろうと、沈黙が続く間も、ミハニの陽光がモーディスの健康的な肌に注がれ、美貌がほんのわずかに紅潮する様を白日の下に晒した。
 ファイノンは自身の心臓が一際大きく跳ねるのを感じ、そっと服の上から左胸を押さえる。
 君のそれってどう言う感情? と聞きたくなるのを堪えて、もう少しだけ、モーディスの言葉を待つことにした。

   *

「あれ? トリビー先生たち、モーディスは?」
 普段、何もなければこの時間は黄金裔専用キッチンにいるはずのモーディスを訪ねたファイノンは、そこにモーディスの姿がなく、トリビー、トリノン、トリアンの三人が忙しそうにアップルパイを作っている様子に、きょろきょろとあたりを見回した。
「モスちゃんなら今は王子様役で忙しいから、終わったら戻ってくるはずだぞ!」
 ファイノンを振り返ったトリアンが王冠を頭の上に乗せるような動作をする。
「ああ、おままごとにまた呼ばれてるのか。どうせならモーディスがおやつを作るのを待ってから呼べばいいのに」
 数ヶ月前、モーディスが子どもたちのおままごとに付き合い、ついでにおやつも振る舞った話は瞬く間にオクヘイマに広まっていた。
 日中、モーディスが市内でぼんやりしている様子を見せると、どこからか子どもたちが近づいて来て、ままごとに付き合ってくれと声をかけてきたり、鍛え方を教えて欲しいとねだられたり、花や果物を渡されたりしていた。元々、クレムノスの人々からそんな風に声をかけられたり、何か贈り物をされる姿はよく見られたが、オクヘイマ生まれや難民の子どもたちのように、出身を問わず声をかけられれる事は稀だった。
 今では、オクヘイマに暮らすクレムノス人ではない大人たちの方がよほど、クレムノスの王子を怖がっているパターンが多いだろう。
……今日はおやつはなしだと子供達に言っていたので、恐らく、そろそろ戻ってくる頃だと思います」
 トリノンがパイ生地を丁寧に格子状に乗せると、トリアンが卵液をはけで塗って行く。
「モスちゃん、虫歯になりかけの子が増えてるってきいてちょっと考えを改めてるらちいから」
 シナモンパウダーを上から振りかけながら言うトリビーに、「次は虫歯菌の役でもやってあげたらいいんじゃないか?」とファイノンは苦笑しながら、モーディスが子どもたちに大真面目な顔で「歯を磨け」と言っている姿を思い浮かべる。
「ところでファイちゃん、担いでる袋には何が入ってるんだ? 樹庭のおみやげか?」
 やることを終えて手持ち無沙汰になったトリアンがふわっと近寄ってきて、ファイノンが肩に乗せていた袋をつつく。ファイノンは「これかい?」と担いでいた袋を床に下ろす。
「樹庭で品種改良した麦から作った小麦粉らしいんだけど、我らが料理長のメデイモス殿下に、パンを試作して感想を貰ってきて欲しいらしくてね。ヒアンシーから預かったんだ」
 パン屋に感想を求めた方が良さそうな気がするけど、と眉を下げて困ったように笑うファイノンに、トリビーがそっと近づき、「ファイちゃん、もちかちて何か悩み事?」と遠慮がちに尋ねた。
「え?」
 ファイノンの耳がさっと色付き、体がぎくりと固まる。
「話ちたくなければいいけど、聞いて欲しくなったら言ってね」
 ファイノンはトリアンとトリノンがパイを窯にセットしている姿に一度視線を送ってから、トリビーへと視線を下げる。
「トリビー先生には敵わないな。でも大丈夫、実は樹庭でアナイクス先生にもアドバイスをもらってきたばかりなんだ。もう少し考える時間を取った方がいいみたいだから、もし考えても困ったら相談するよ」
 ファイノンの表情をじっと見つめていたトリビーは、どこか恥ずかしそうに笑う表情にそれほどネガティヴな色が混ざっていないことを確認し、「ん、わかった」と頷く。
 背伸びをしてファイノンの腰をポンと叩くと、「今日明日はライアちゃんもファイちゃんを呼ばないって言ってたから、ゆっくりちてね」と笑顔を向けた。

 トリノンの言った通り、パイが焼ける直前に花冠を乗せたままキッチンに戻ってきたモーディスは、ファイノンが貰ってきた小麦粉に興味津々だった。
「エリュシオンのものはまだ食用に向かないのではなかったか」
 そう尋ねて来るモーディスに、ファイノンは先日、彼から麦を贈られた——何故か隠されてしまったのだが——ことを思い出し、内心どきりとしながら、「うん、エリュシオンのものとはまた別だ」と答えた。
「ほう、確かに香りが少し違うようだな」
「よくわかるな。僕には小麦粉の嗅ぎ分けはできないけど、君は本当に鼻がいいね。それで、ヒアンシーが言うには、焼き上がりの甘みが従来のものより強いそうだよ。来月彼女がこっちに来るついでに、よければ感想を聞かせて欲しいってさ」
「ふむ。発酵種の相性は聞いてあるか?」
「え? なんだって?」
「いや聞いていないのであれば構わん。こちらでいくつか試そう」
 腕を組み、片手を口許に当てながらパンの焼き方を考えているらしいモーディスの唇の端が、微かに持ち上がっている。彼の嬉しそうな表情に、ファイノンは少しだけ、ヒアンシーに嫉妬しそうだ、と感じていた。彼女はむしろファイノンのために小麦粉を渡してくれたのだが、それはそれ、これはこれと思ってしまう。
『ファイノン様、もしいきなりお土産を渡したり、真実を尋ねるのが気まずければこうしましょう。樹庭で取れた新しい小麦粉を差し上げますから、モーディス様にそれとなく話を振ってみてください』
 パンを焼いた感想を聞かせて欲しい、と言うのは、ファイノンがヒアンシーと考えた言い訳のようなものだった。別に堂々と「どうして君からの贈り物だって事実を隠したんだ?」と尋ねたっていいはずなのに、まだファイノンにはその決心がつかない。
 ファイノンは金から朱に流れる髪に赤い花冠を乗せられたまま堂々としているモーディスの顔を眺めながら、「そういえば君って、そう言うものはどうしてるんだ?」ずっと気になっていたことを尋ねた。
 モーディスはファイノンの指先が花冠に向いていることに気づくと、ようやくそれを頭から取り、「色が悪くなる前に侍従がポプリにして、季節や日で掛け替えられている」となんでもないように答えた。
 そういえば、モーディスの私室の壁にはいつもリースの形をしたポプリが飾られていて、訪れるたびにいい匂いがしていたことを思いだした。生花も飾ってあるのにな、と思っていたが、室内の調度品や装飾は基本的に侍従たちに任せていると聞いていたため、あまり気にしたこともなかったのだが、どうやらあれは贈り物の未来の姿だったらしい。
「なんだ、お前も欲しいのか」
……君と違って僕にはあんまり似合わないと思うけど」
「そうか? 俺よりもお前の方が色を選ばぬだろう。髪が白いからな」
 そう言いながら花冠を乗せて来るモーディスに、ファイノンは一瞬だけどぎまぎしたが、すぐに言葉の意味を考えて唇を曲げる。揶揄われたと感じたからだ。
「そういう理由?」
「? 気に入らないか。似合う色が多いのはいいことだろう」
——ファイちゃんたち、そろそろおやつの時間にしてもいいかちら」
 問答を続けていた二人の間に、トリビーが割って入る。手にはいい香りのするアップルパイを乗せた皿を持っていた。
「そうだったな。パンを焼くにも準備が必要だ、後ほど考えよう」

   *

 おやつを食べた後、ファイノンはモーディスに小麦粉の袋を預け、「その……」と声をかけたが、結局、先日の麦の話題を振ることはできなかった。
 樹庭でヒアンシーに「真実」を聞いてから、ずっとこのことを悩んでいた。
 モーディスはクレムノス人であると言う事実を除いても、一見すると話の通じない暴君のようだが、実のところ優しい男で、特に身内にはかなり甘い一面があることをファイノンは知っている。
 だから、麦をわざわざ貰ってきてくれたのだって、ただそれだけで、別に特別な想いがあったわけではないのかもしれない。
『どんな風にですか? そうですね……、悪いように受け取らないで欲しいんですが、いたっていつも通りというか、本当にすごく自然な流れでお願いされました。ファイノン様への贈り物ですか、と尋ねても誤魔化されませんでしたし……
 私室に戻ってきたファイノンは、モーディスが置いてくれた位置のまま飾ってある麦を見下ろしながら、ヒアンシーの言葉を思い出していた。
(どうして彼女には誤魔化さなかったのに、僕にはヒアンシーからの贈り物だ、なんて言ったんだろう)
 あの日、ここで交わしたモーディスとのやり取りに違和感は覚えなかった。だからこそ、ファイノンは素直にヒアンシーからの贈り物を、モーディスがわざわざ持ってきてくれたのだと思っていた。それなのに事実は違っていて、何故モーディスがそんな嘘を、それも、ヒアンシーに聞けばすぐバレるような嘘をついたのかが本当にわからない。彼女があの日、モーディスの真意を測りかねて嘘に乗ってしまったのであれば、今もファイノンはモーディスからの贈り物だということには気づけなかった。
…………………
 モーディスが先日そうしていたように、ファイノンは麦穂を指先でつつく。ファイノンの鼻では、この距離では香りがわからない。瓶からひと束の麦を持ち上げ、鼻先に押し付けるようにして、深く息を吸う。
 昏光の庭に生えている麦よりも弱いが、確かに懐かしいにおいがした。胸が締め付けられるような郷愁を覚えるのと同時に、嗅ぎ慣れた懐かしいにおいに安堵を覚えた。はぁ、とため息を付くと、ファイノンは麦を瓶に戻し、リクライニングチェアに腰を下ろした。
 頬杖をついて、ぼんやりと再び物思いに耽る。先日はモーディスに一蹴されてしまったけれど、古い記憶の中にある、陽光に輝き、風に揺れる美しい麦畑の金色とモーディスの髪に想いを馳せた。まだオンパロスに朝と夜が訪れていたその時代、エリュシオンの麦畑に落ちる燃えるような夕陽と風に揺れる麦穂の金から赤へ変わる鮮やかさが、あの美貌の男と重なった。
 勿論、エリュシオンの情景を知らないモーディスに、頭の中を覗けと言うのは無理な話だったし、ファイノンもそこまで詳細にモーディスに話したこともない。エリュシオンにいた頃の話をするのは一定の痛みを伴う行為で、傷口に指先を捩じ込むような気分になるからだ。
 ヒアンシーが麦を植えてくれたことに感動して、確かに、モーディスのいる前で「懐かしいにおいがした」とはしゃいだ事はあった。モーディスはその時、ひどく優しい顔で「よかったな」と口にし、「故郷か」と小さな声で続けていた。
 彼の故郷はエリュシオンとは違って存在こそすれ、場所は判然としないし、暗黒の潮で汚染された紛争の神によって滅び、眷属の蔓延る廃墟となってしまっている。
 出会ってしばらく経った頃、モーディスと長距離競争をした後、ふらふらしながらオクヘイマに帰還したファイノンは、はじめてモーディスの私室に呼ばれた。
 体力消費をした後はきちんと食事をしろ、と豪勢な夕食を出されて、「お前が今より強くなるには我慢強さを覚えるよりも食事の改善が先だ」と大真面目に言われた。その頃、食生活が少し適当だったのを誰かに聞いたらしく、ファイノンは気恥ずかしさを覚えるのと同時に、モーディスに「どうやったら君みたいになれるんだ?」と尋ねた際の本当の答えが、遅れてもたらされた事実に驚いた。
『君って少し真面目すぎるって言われないか?』
 食事をしながら尋ねたファイノンに、モーディスは少し驚いたように目を見開き「……親しいものには、たまにな」と溢した。その目がどこか遠くを見るようで、もしかすると、亡くなった彼の民から言われたのだろうか、と感じた。
 クレムノスの孤軍を十年率いてオクヘイマにやってきたモーディスは、聖都に辿り着くまでに各地で戦争や戦闘を経験しているとアグライアに聞いていた。
『有能な将が兵士たちを率いる術が学べるでしょう』
 そうアグライアが言った通り、暗黒の潮の造物やニカドリーの眷属との戦闘で、兵を率いるモーディスの指揮はオクヘイマでの従軍経験があるファイノンから見ても見事なもので、例え実力は拮抗していたとしても、リーダーとしては今は敵わないな、と素直に感じた。
 英雄とはかくあるべし。アグライアやトリビーたちの滅私奉公を長い間目の当たりにして、内政や言論による統治については少しわかったような気がしていたけれど、戦闘となるとファイノンには経験も知識もまだ足りていない。
 モーディスの立ち居振る舞いを見ていると、人々が思い描く「英雄」とはきっと、前線でこんな風に人々に背を向ける人間なのだろうな、と思った。
 手合わせをするたびに、勝敗はつかずとも、モーディスはファイノンの気が散った瞬間や踏み込みの甘かった瞬間を的確に指摘し、それと同時に、「我を忘れるな」としなくても済んだはずの怪我をするたびに淡々と叱りつけた。
「引き際を誤るなよ」とモーディスが床に座ったまま一歩も動けなくなったファイノンに言い、「君はいつだって好き勝手怪我をするじゃないか」と息も絶え絶えに言い返せば、「貴様は俺と違い、怪我の治りが早いわけでも、死に嫌われているわけでもないだろう」と眉を顰めて口にする。
『当然俺はお前を殺す気で相手をするが、先ほども踏み込んで来なければギリギリ避けられるはずだった。戦場なら死んでいる』
 勇敢と考えなしの無謀さは違う。モーディスがファイノンの肩を担ぎながら溢した言葉の重みに、潜り抜けてきた死線の数の差を思い知ることになる。
 ——そんな彼が、「強くなりたいのであれば食生活を改善しろ」と言って来るだなんて、誰が想像できるだろう。
 この夜がきっかけで、ファイノンはモーディスを本当の意味で尊敬するようになった気がした。強さと優しさを兼ね備えた「善い人」、完璧な英雄像。
 有体に言えば、きっとこの瞬間に彼を好きになったのだ。そう感じていた。
 故郷が滅んでいること、両親がすでにいないこと、同じ黄金裔で、前線に立つ戦士。
 なんだか僕たちってちょっと境遇が似てるのかも、と高揚感が酩酊に似た感覚をもたらし、半分冗談のつもりで口を滑らせて笑ったファイノンに、モーディスも上機嫌に眦を緩めたかと思えば、「かもしれん」と薄く笑った。その表情が綺麗だった。
……戦友として好かれてる筈だってことは間違いないと思うんだけど」
 過去から現実に意識を戻し、ファイノンはため息を吐く。
 樹庭にいる間も、オクヘイマに帰ってくる間も、今も、モーディスの言動の理由をずっと考えていた。
 短絡的な思考かもしれない、とファイノンは自分のはやる心をなんとか押さえつけようとしたが、日が経つにつれ、だけど、と同じ悩みに思考が戻ってきてしまう。
 棚の上の麦に視線を向け、ため息を吐く。
 もしこの贈り物が戦友としての純粋な心配であれば、贈り主を隠す必要なんてなかったはずだ。
 答えはいつも、ここに辿り着く。
『口説いているつもりか?』
 真顔でモーディスに問われたその時、表情は繕えていた筈だ。冗談のつもりで言ったのだとモーディスは思っているだろう。そうでなければ、態度が少しは変わった筈だ。
「結構本気だったんだけどな」
 ぽつりと口にしてから、ファイノンは手のひらで顔を覆う。鼓動がうるさく跳ねて、郷愁とは明らかに違う痛みで胸が痛んだ。

 ——恋をしている。

 そう認めるのに、随分と時間がかかってしまった。
 何しろエリュシオンを逃げ出してから今日まで、恋愛にかまけている暇なんて本当になかったのだ。
 愛がなにかわからないなんて事は少しもないけれど、恋は自分に縁のないものだとファイノンはずっとどこかで、そう思って生きてきた。
 オクヘイマで暮らす人々に、ずっと、愛する人たちと平和に生きていって欲しい。
 仲睦まじく、肩を寄せ合って水場で語らう恋人たちのきらきらした笑顔を目にしても、生まれたばかりの赤子をモーディスに見せて名付け親になって貰おうとする夫婦の幸福そうな姿を目にしても、自分が恋をしたことがないことに違和感を覚えたりはしなかった、と言うより、そんなことを考える瞬間が本当に今までなかったのだ。
 神悟の樹庭で学ぶ間、学生たちが付き合ったり別れた話を聞いても、幸福そうであれば喜ばしかったし、悲しんでいれば可哀想だなと胸を痛めたりはしても、告白をされれば全て断っていた。
 一度だけアナクサゴラスの研究室に呼び出されて、「あなたは本当に関心がなさそうですが、一応確認します。恋人は今は不要なんですよね」と尋ねられた時には驚いたが、彼が生徒の恋愛相談に乗っている話はファイノンの耳にも入っていたので、きっと、誰かが相談したのだろうとすぐに思い至った。
『今はまだピンと来ないと言うか、……ええと、先生の言う通り、必要性を感じていない、かな。先生は恋愛が人生に絶対的に必要なことだと思う?』
 そう尋ねたファイノンに、アナクサゴラスはハ、と真底馬鹿馬鹿しそうに鼻で笑い、「人によります」と短く、そう口にした。
『別に恋愛をしないからって人として欠けていることにはなりませんし、満ち足りた人生を歩めないなんて証左にもなりませんよ』
 腕を組んだアナクサゴラスの低く淡々とした声に、「確かに、先生は独りで好き勝手人生を謳歌してるって感じがするよ」とファイノンは思わず反射で、大きく頷いていた。
『あなたの今週提出したレポートから二十点減点しておきます』
 ファイノンはぐいぐいとアナクサゴラスに背を押されて研究室を追い出され、本当にレポートが二十点減点されていた苦い記憶をついでに思い出してしまう。
 そんなやりとりをしていたのに、先日、ヒアンシーから聞いた「真実」に思考がぐちゃぐちゃにされたファイノンは、講義から失踪したアナクサゴラスが七日後に研修室から出てきたところを捕まえて、「先生に相談したいことがあるんだ」と声をかけた。
 数多の学生の恋愛相談を受けてきた教授はファイノンの表情と声のトーンから何かを悟ったのか、
『今夜は休む必要があります。明日の朝、門の刻第三針以降であればいいでしょう』
 と、目の下に酷いくまを作った顔で、少しだけ焦点の合わない揺れる瞳をファイノンに向けながら頷いた。

『恋が人生に必要になりましたか』
 翌朝部屋を訪れたファイノンに、アナクサゴラスが開口一番、静かな声でそう言った。
 部屋にはヒアンシーの淹れたであろうお茶が二人分のカップに注がれている。

    *

「はっきり言えば、卒業生の恋愛相談に乗るほど暇ではないのですが」
 昨日と打って変わり、目の下からクマの消えたアナクサゴラスにファイノンは「本当にはっきり言うなあ」と苦笑する。
「しかしわざわざ樹庭に来ると言う事は、オクヘイマに頼れる人がいないのでしょう。浪漫の半神は役立たずなようですね」
 ふ、と楽しそうに鼻で笑うアナクサゴラスに、またそう言うことを、とファイノンは少しだけひやりとする。教授とオクヘイマの主の相性の悪さは勿論よく知っていたし、確かに、美と愛のタイタンであるアグライアに話を聞いてもらうのが道理のような気もしなくはない。
「アグライアには逆に相談しづらくて……。それとも先生は、親しい家族にこそ恋愛相談をすべきだと思う?」
 ファイノンの問いかけに、アナクサゴラスは持ち上げた杯にそっと息を吹きかけ、熱いお茶を冷ましながら一口嚥下した。考えるように瞳を細め、窓の外の永夜を眺めたまま、「まあ、家族には余程のことがなければしないでしょう」と口にする。
「結婚ともなれば相談するかもしれませんが」
 お茶に口をつけていたファイノンは、「結婚」の言葉にげほ、と咳き込む。しかし目の前の教授は反応せず、淡々と言葉を続けた。
「家柄だのしがらみだのがなければ、当人同士の自由でいいんじゃないですか。——さておき、それはあなたにはまだ早い話です。そう言う相談でいいんですよね?」
 アナクサゴラスは窓から視線を移し、困り眉で俯いている生徒をまじまじと見つめる。肌が白いせいか、恥ずかしそうに伏せられた目許が僅かに染まっていた。
 あなたのその顔で落ちない相手がいるんですか? と教師らしからぬ考えが瞬間的に脳裏を過ったが、勿論口にはしない。もしかすると、英雄「なんか」を目指している彼の想い人は金糸と同じく、姿かたちではなく魂でものを視ているかもしれないからだ。
……………………
 問いかけからややあって、うん、と体格には到底似合わない、顔立ちには合う、幼い答えが落ちた。
 オクヘイマの空と同じ青い瞳を震わせながら、テーブルの上に置いた杯を両手でそっと掴む姿は、まるで普段から口下手な男のようだった。いつもは弟子ながら憎らしいほど弁の立つ男だと言うのに、今は言葉をどこかへ置き忘れてしまったらしい。
「相手の話をしたいのであれば聞きますが、そうでないなら話さなくて構いません。それで、一体何を悩んでいると言うんですか。まず行動するタイプのような気がしていましたが」
 顔を上げないファイノンからそっと視線を逸らし、アナクサゴラスは描きかけの研究資料を手許に引き寄せた。巻物を広げ、昨日までの研究成果を記憶の中から引っ張り出す。しばらく、カリカリとペン先が巻物をひっかく音と、樹庭で暮らす学者や学生の足音や物音が部屋の外から微かに聞こえていた。
「その、僕は人生に恋愛はいらないと思っていて、それは使命があれば余計に不要だと思って来たんだ、今まで」
「まあ、こちらと違ってオクヘイマに暮らす黄金裔を見ていればそうなるのもわかります」
 アナクサゴラスは書き物から視線を上げず、計算式を解き始める。
 神悟の樹庭で暮らす黄金裔には妻帯者や恋人のいる者もいるが、聖都の黄金裔は、彼らのリーダーであるアグライアが人心を失いつつあることもあってか、今は浮いた話のひとつも聞かない。
 クレムノスの王子には時折縁談が持ち込まれているようだったが、あれはあれで特殊な事情と言える。
「迷うくらいならひとまず告白してみればどうですか。あなた方の言う『使命』を私は肯定しませんが、そうでない者も多いでしょう。感動して泣きながらあなたの告白を受けてくれる可能性だってあり得ます」
 聞く人によっては煽っているとも受け取られかねない物言いだったが、アナクサゴラスを長く師事していたファイノンは困り顔を少しだけ深めて、はは、と渇いた笑い声を上げた。
「そう思えるなら最初から相談には来ていないけど、相手は……どうかな。救世の使命があるのにこんなことにうつつを抜かすなんて、余程暇なのかと怒られそうな気がする」
「馬鹿馬鹿しい」
 吐き捨てるように言うアナクサゴラスに、ファイノンは顔を上げる。教授は苦いお茶を飲んでいるかのように顔を顰め、はぁ、と嘆かわしそうにため息をついた。
 腕を組んだアナクサゴラスはファイノンに向き直り、真正面から顔を見つめ、口を開く。
「あなたが背負った使命のために、愛する人を——大事な人を持ってはならないなんてことはないでしょう」
………………、」
 反論を三秒待ったが、救世主の口から言葉は出てこなかった。アナクサゴラスは舌打ちをしそうになるのを堪え、オクヘイマの主に頭の中で話しかける。
(あなたの継いだ「浪漫」とやらは、あなたの大事な後継者に伝わっていないようですが)
 眼前のファイノンが気まずそうに視線を彷徨わせているのに瞳を細め、果たして誰も彼にこんな簡単なことを教えてやらなかったのだろうか? と考えた。
「あなたはこの世界で生きるひとりの人間で、私のかつての生徒で、そこらの若者となんら違いもない。私の考えはあなたが生徒だった頃から変わりません。火追いの使命も英雄もタイタンの信仰もくだらない。……それでもあなたが英雄になるというのであれば、せめて『愛する人のいる世界を守りたい』と考えるほうがましでしょう。それは国家間で戦争をしていた頃から存在する、普遍的な考えです」
 普遍的、の語気を少し強めて口にしたアナクサゴラスに、普遍的、とファイノンが同じ言葉を呟いた。
「『世界』は大袈裟過ぎますか? それなら生活でも、場所でも、なんだって言い換えられますよ。あなたがくだらない使命と自身の幸福を天秤にかけて、使命を必ず選ばなければならないと言うこともない、と私は思いますが」
「それは……僕にはできない」
「結構。それならばせめて、愛する人のいる世界のために使命を全うするのだと考えてはどうですか」
「なんだか目先の欲をこじつけで肯定してるだけなような……
 うだうだと言葉を連ねるファイノンに、アナクサゴラスはもう一度ため息を吐く。
「諦めがついたのであれば、これ以上の会話は時間の無駄です。恋愛にうつつを抜かして腑抜けになったと罵られるのを回避するのも結構、ただし、あの時告白しておけばよかったと後悔はしないように」
「先生だって僕が恋愛『なんか』で腑抜けになったと思ってるんじゃないか」
 むっと眉を寄せたファイノンが、拗ねた口ぶりで言った。かつてトイレに行きたいからと速攻で相手を言い伏せて弁論を終わらせた男からは想像もつかない、弱々しい、情けない、芯のない言葉だった。
「あなたがうじうじしている姿が腑抜けでなくてなんだと言うんですか。それから私は恋愛をすべきではないとも一言も言っていません。言葉を素直に受け取りなさい」
 ピシャリと言い放つと、う……、と捨てられた犬のような情けない表情になり、「決心がつかないんだよ」とボソリと呟く。
「だって恥ずかしいじゃないか。こんなことになるなんて思ったこともなかったんだ……、考えないようにしても四六時中相手のことを考えてしまうし……
「脈はなさそうなんですか。今更会話すらしたことがないなんて言わないでくださいよ」
 もしファイノンの一方的な片想いだと言うのであれば、まずは距離を縮めるところからアドバイスが必要だったが、アナクサゴラスはなんとなく、そうではないだろう、と言う確信があった。この男はなにも考えていないかのような笑顔でへらへらしているが、こう見えて他人を良く観察するタイプで、慎重に踏み込んでもいいラインを探っている。ひとたび近づくと、時々生意気なことをスパッと言うのは問題だと感じてはいたが。
「いや、えーと、大体毎日会ってると言うか……、仲が良いわけじゃないよ。ないけど、認め合っていて、うーん、良いライバルと言うか……その、悔しいからあいつには言いたくないけど、強いし、尊敬するところがたくさんあるんだ。僕なんかじゃ到底追いつけないほど眩しいと言えばいいのか……とにかく、考えてると胸が苦しいし頭の奥がちかちかするというか……
……………………
 突然、頬を染めて照れたように話しはじめた教え子の顔を見つめ、確かに恋をしているようだ、と今更、少しだけ意外に思った。正直なことを言えば、今の今までもう少し憧れに近い感情を抱く相手がようやくできたのだろう、と思っていた。
 樹庭にいた頃のファイノンは、あまりなににも執着をしない生徒だった。それは彼の生い立ちが関係しているのだろう、とヒアンシーやトリビーたちから多少は聞いていたが、アナクサゴラスはあまり真面目に考えないようにした。自分は教師であって医者ではないし、正道を歩んでいるわけでもない。勿論彼が助けを乞えば教師として導きはしたが、必要以上に介入する気にはならなかった。
 かつて自身が抱いていた姉に再会したいと言う気持ちが誰にも止められなかったように、深く刻まれた傷痕を、他人が本当に癒すことはできないだろうと考えていたからだ。
 ファイノンには知識欲があり、友愛の館に篭ってひたすら同じ教科書を頭から終わりまで何度も読むような病的な勤勉さがあるのは知っていたが、「必要なこと/ものだけを最短で吸収する」ようなタイプだった。
 だから答えがおかしいと思えば自分の意思を言わずに白紙でテストを提出するような子だったし、同時期に教えていたキャストリスのように物語を読み世界へ手を伸ばすわけではないから、問題に対して思考の応用がききづらいところがあった。はっきりそう口にしたことはなかったが、「無駄なことをしている暇はないから」と言っているようにアナクサゴラスは感じていた。
 生徒である以上、視野の狭さは勿論矯正したが、「なるべく無駄を省いて必要なことだけを学びたい」と言うのも、悪い特性ではないからと考えていた。人生の楽しみは人それぞれで、寄り道が楽しい人間もいれば、最短ルートを目指す人間もいる。
 ファイノンはきっと、そう言う生徒なのだろうと思っていた。
 どうやら、そうでもないのかも知れなかったが。
「で、脈はありそうなんですか」
 当たって砕けるのも人生でしょう、と思いつつ、可能であれば、彼の好いた相手といい結果になればいいのですが、と真っ当な願いが浮かぶ。相談を受けた以上、穏便な形で解決して欲しい気持ちはあった。
「うーん……、あるような、勘違いのような……いや、本当にわからないんだよ。先生は大事なプレゼントをくれた相手が実は別の人だった、なんてことはない?」
「どう言う意味ですか?」
「その、ぼ、僕の好きな人は……僕のためにえーと、まあちょっとした、すごく大事な物を持ってきてくれたんだけど」
 ちょっとなのか大事なのかどちらですか、とつっこみたいのを堪えて、アナクサゴラスは両腕を組み直し、まじまじとファイノンを見つめ返した。
 好きな人、と言った途端顔が真っ赤になっているファイノンを微笑ましいと思うこともなく、本当に恋愛相談だったのか、と二度目の驚きを覚える。
「どう言うわけか、別の人から僕に渡して欲しいと預かったって嘘をついてて……
……………………ファイノン」
「え?」
 ちっ、と舌打ちをしたアナクサゴラスは椅子から立ち上がると、「馬鹿馬鹿しい」と溜息を吐いた。
 ファイノンはそんな教授の反応にぱちぱちと目を瞬かせて、「せ、先生?」と微かに首を傾げる。
「私に相談している暇があるのなら、相手のところにいって誠実に告白すべきです。まぁ、成功するとは限りませんが、誠実に伝えれば嫌とは言わないと思います。あなたの誠実さを受け取れないような相手であれば、そもそも付き合いを考えたほうがいいですが、恐らくそうはならないでしょう」
「え、なんでそんな風に断言できるんだ?」
「断言します。とにかく誤魔化さずに誠実に相手に伝えなさい。……さて、卒業生にこれ以上割く時間はありません。私は研究がありますから、今すぐ帰るように」

   *

 半ば追い出されるように部屋を出たファイノンは、そのまま昏光の庭を訪れ、ヒアンシーにオクヘイマへ帰還することを口にした。
「先生は真剣に聞いてくれましたか?」
 絞り機でジュースを作りながら、ヒアンヒーがファイノンに顔を向けた。真紅の搾り汁から、柘榴の新鮮な酸味が漂ってくる。ヒアンシーはジュースの入った瓶に羊乳と蜂蜜とファイノンにはわからない何かのシロップを追加し、よくかき混ぜると「こちらをどうぞ」と渡してくる。

 アナクサゴラスに相談に行く前夜、ファイノンは「実はあいつにのお礼をしようかなと思うんだけど、ここの柘榴を持って行ってもいいかな」とヒアンシーに尋ねた。
 あいつ、が誰を指しているのか明言しなかったファイノンに、「クレムノスの皆さんはメーレが大好きですから、柘榴をお土産にするのはいい考えですね」とヒアンシーは鎌をかけたが、ファイノンはそれに気づかない。
 ちょうどメーレを作ろうとしていたところなので、一部をジュースにしますから、それをお土産に持っていってはどうでしょうか、と提案しても、ファイノンは「確かに言い考えた」と嬉しそうに笑って終わりだった。
 けれども、モーディス様にですか? とはっきり尋ねれば、何となく、否定されてそうな気がした。
『あいつ、酒はそんなに好きじゃないんだ。ジュースの方が多分いいだろうな。それと、ものすごく甘党だから、できる限り甘くしてもらえるかいしてもらえるかい?』
 少しはにかんだ、幸福そうな笑みを浮かべるファイノンに、ヒアンシーは笑顔を向けたまま数秒閉口した。
 何度か治療もしているし、実は甘いものが好きだと言う話も、酒は殆ど飲まない話も本人から聞いていたが(今日は怪我に響くのでお酒は禁止です、と口にしたヒアンシーに、モーディスは「俺は酒はほとんど飲まん」と言ったからだ)、「そうなんですね〜、それなら、とびきり甘くしてみます」と答えるに留めた。
 きっと彼は自分がどんな顔をしているのか、気づいていないのだろう。
 けれども、それに気づかせない方が幸せだろう、とヒアンシーは何も言わない。
 いつも根っこのところに影が残っている彼が、こんな風に誰かを想って幸福そうにまなじりを緩める姿を見るのは初めてだったから。

 ヒアンシーの特性甘々ザクロジュースを受け取ったファイノンは「うーん」と困ったように笑い、「一応は……」と頬をかいた。
「少しだけ悩んでたことは吹っ切れたけど、それ以外はどうかな。先生はとにかく誠実に告白しろって」
「うーん。まあ、間違ってはいないと思いますよ。それとも、ファイノン様は何か不安がありますか?」
「不安しかないよ。だってあいつはその——
 ハッとしたように、ファイノンが口を閉じると、ニコニコと、どころか唇のはしを微かに震わせたヒアンシーが、イカルンを召喚したかと思うと、よーしよしともちもちの体を抱きしめて、ファイノンから顔を逸らす。
「これは私の勝手な勘ですが、戦火に身をやつしてきた戦士ほど、日常の大切さをわかっていると思います。だからきっと大丈夫ですよ。ファイノン様、もしいきなりお土産を渡したり、真実を尋ねるのが気まずければこうしましょう。樹庭で取れた新しい小麦粉を差し上げますから、モーディス様にそれとなく話を振ってみてください」

 そう言うわけで、ファイノンは小麦粉を持ってオクヘイマに帰還した。
 実際のところ、この小麦粉は香りはいいものの改善点が多く、オクヘイマで流通している小麦粉には敵わない。
…………今夜、今夜ちゃんと言おう。飲めなくなっちゃうし」
 部屋でうんうん唸っていたファイノンは、冷蔵庫にしまっていたジュースがそこにあるのを確かめて、石板を手に取る。

『やあモーディス。そう言えば冷蔵庫にしまってて言うのを忘れてたんだけど、樹庭のお土産でザクロジュースを貰ってきたんだ。
 明日の夜までに飲んで欲しいって言われているから、今夜君に渡そうと思ったんだけど、何か予定はあるかい?
 予定があるなら明日の朝に行くよ』
>ヒアンシーからの土産か。離愁の刻以降であれば部屋にいる。

 すぐに帰ってきた返事に、けれどもファイノンはなんとも言えない、もやもやとした感情を抱いた。
 貰ってきた、と少しだけ誤魔化したのは自分のくせして、また、親切に用意してくれたヒアンシーにどこか嫉妬してしまっている。
(誠実に、って難しいな……
 ファイノンは何度か文字を入力しては消し、送信ボタンを押すまで行ってからもまた消しを繰り返し、とうとう「分かった。その頃に部屋に行くよ」とだけ送信した。
 自分の今の感情を、上手く文字にできそうになかったからだ。

   *

 ザクロジュースを持ってモーディスの部屋に向かう前に、今から行くよ、と念のためもう一度連絡をしておく。わかった、と短いメッセージに反対にファイノンの心臓は大きく音を立て、石板を握る手が震えはじめる。
 強敵を前にしたってこんなに緊張しないだろう。すーはーと深呼吸を何度も繰り返しているうちに、脳裏に「死にたくなければ三秒で冷静になれ」といつだったか、モーディスに叱咤された言葉を思い出した。
 あれはまだモーディスと知り合って浅い頃、目の前で彼に死なれた後のことだった。足を滑らせたファイノンを突き飛ばし、目の前で左胸を正確に矢で貫かれて崩れ落ちた男が、数秒後に胸から矢を引き抜き、動揺するファイノンの肩を掴んで、眼前の敵を見据えながら淡々とした声で口にした。
 君、今死ななかったか?
 震える声で尋ねたファイノンに、モーディスが「余裕だな、救世主」と煽るように言う。唇の端を持ち上げた男は、けれどもファイノンを一瞥せず、飛んできた矢を籠手で殴り飛ばし、四足獣のような体勢で身を低く屈めると、一直線に飛び出して行く。
 ――その時の事を思い出し、剣を握る。これから自分がしようとしていることがまるで生死をかけた一大事だとでも言うように、体の震えがピタリと止まる。
 上手く行かなくたって死ぬわけじゃない。そう言い聞かせて、ようやく部屋を出る。
 足取りは重いのに、心はどこかふわふわして落ち着かなかった。普段より時間をかけてモーディスの部屋のドアの前に立つと、石板の認証鍵が反応して、自動的にカチカチとロックが外れる音がする。
 石板にお互いの部屋の鍵をいれたのは随分と昔のことだったが、そう言えば、「お前を部屋に運ぶ際に面倒だ、鍵を寄越せ」と言い出したのはモーディスだったことにファイノンは今更気が付いた。
 君だけ僕の部屋に自由に入れるなんてフェアじゃないだろ、とヒアンシーに包帯を巻かれながら口にしたその日、「なら俺の鍵もいれてやる。それでいいな」と言われ、あまり疑問に思わず、対等になったことに満足していた。
  よくよく思い出して見ると、ヒアンシーは何か言いたそうな顔を一瞬見せてから、ファイノンが不思議そうに首を傾げたのに気づき、「いえ」とにっこり笑っていた。
……あれ」
 ドアのロックが解除され、勝手に開くのを見ながら、ファイノンはそこでぴたりと足を止めた。
(もしかしなくとも、普通、鍵は渡さないんじゃないか?)
 怪我をしてモーディスに運ばれたり、飲み比べでへろへろになったモーディスを部屋に運んだり、先日のように夢見が悪くて起き上がれない日にモーディスが勝手に部屋に入ってきたり、そんな風にお互いにお互いの部屋に「侵入」することに何故か違和感を持たずに今日まできたけれど、よくよく考えればおかしな話だった。
 なにしろ、アグライアにだって部屋の鍵は渡していない。勿論、彼女がそれを一度も望まなかったからと言うのもあるし、そもそも開けようと思えば彼女はオクヘイマ中の扉を自由に開けられることを知っていたからと言うのもある、だろう。
……主、救世主。おい。部屋の前で硬直してどうした。さっさと閉めろ」
 ハッとしたファイノンの眼前には、いつのまにかモーディスが腕を組んだまま立っていて、怪訝そうに眉を跳ね上げている。普段の戦闘装束ではなく、ゆったりとした白と赤の布地を巻きつけたようなガウン姿に、思わず上げた視線をすぐに逸らしてしまう。左耳のピアスが揺れて、小さく音を立てる。その音に、心臓が跳ねた。
 少し前から、モーディスのこんな姿を見る度にファイノンはなんとも言えない違和感を覚えていたが、それが恋から来るものだとは思っていなかった。
 目の前がちかちかと瞬き、輝くような錯覚がするのと同時に、胸がぎゅっと鷲掴みにされるような感覚がする。
 そんな錯覚を断ち切るように、無理やり笑顔を作った。
「あ、ああごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「まだ疲れが取れていないのか? それとも樹庭から帰って来るほどの体力もなくしたか」
 ふん、と笑うモーディスに、むっとして「どちらでもないよ。考え事をしてただけで」と答えると、室内に足を踏み入れる。ファイノンの背後でカチカチとドアのロックが再びかかる音がする。
 モーディスの室内はいつものように清潔で、いい匂いがしていた。壁にかかったドライフラワーのリースはきっと子どもたちに貰った花冠のうちのひとつだろう。
 窓には精緻なレース編みで出来たカーテンがかかっており、室内の床や家具に美しい影を落としながら揺れている。床に敷かれた赤い敷き布の上を歩き、バルコニーへ向かうモーディスの背を追う。
 カーテンに指をかけながらモーディスが振り返り、それで、とファイノンが手にしていた小さな鞄に視線を向ける。
 ファイノンはレースの影がモーディスの頬に落ちるのを見、なんだか、ヴェールのようだな、と考えてしまう。
「樹庭のザクロで作ったものか」
 ぼんやりと視線を向けて再びかたまってしまったファイノンを気にせず、モーディスは言葉を続ける。
「先日メーレを常備していないと言っていたが、まさか詫びのつもりか」
 モーディスの表情は凪いだ穏やかなものだったが、声音には「気にし過ぎだ」とでも言いたそうな色が混ざっていた。そういうやり取りがあったことすら知らないファイノンは、勝手に胸が悪くなってしまい、自分の未熟さにぐっ、と我知らず拳を握りこむ。
 もしファイノンが土産を渡す口実を上手く切り出せなくても、物の正体がわかればきっとモーディスが勝手に理解して、円満に収まるだろうと彼女は予測していたかのようだった。気にするようなことでもないはずなのに、なんだか、自分よりモーディスのことをわかっていると言われたような気がして、何故か少し心がささくれだったような気がする。
(悪い考えだ)
 なんでそんな気持ちになるんだ? おかしいだろ。そう自分に言い聞かせながら、少し距離を開けて並んだリクライニングチェアの一つに腰を下ろしたモーディスの隣に座る。テーブルの上に鞄を置き、持ってきたジュースの瓶を取り出す。
「詫びとかじゃないよ」
 勢いで言ってしまうとしたが、再びファイノンの心臓は強く跳ね、舌が震えそうになる。弁論大会の前だってこんなに緊張したことないのに、と慌てそうになりながら、「なに?」と瞳を瞬かせるモーディスの目をまっすぐに見つめる。
「その、……君に麦のお礼がしたくて、何かいい案はないかって彼女に聞いたんだ」
…………………………
 僅かにモーディスの眉が動き、余計なことを、とでも言うように目許が歪められたのが見えた。あまりに微々たる変化で、彼に近しいものでなければ気付かなかったかもしれないと思うほど些細なものだったが、長い間モーディスの傍でその姿を見て来たファイノンにはすぐにわかってしまった。
「あのさ、率直に聞くけど……どうしてヒアンシーから預かったなんて誤魔化したりしたんだい?」
…………………
 普段は問いかけに視線を逸らしたりしない男が、気まずそうに視線を落とす。
 オクヘイマの夜は朝と殆ど様子は変わらない。どちらも同じ静けさで、同じ明るさのままだ。だから、例え夜であろうと、沈黙が続く間も、ミハニの陽光がモーディスの健康的な肌に注がれ、美貌がほんのわずかに紅潮する様を白日の下に晒した。
 ファイノンは自身の心臓が一際大きく跳ねるのを感じ、そっと服の上から左胸を押さえる。
 君のそれってどう言う感情? と聞きたくなるのを堪えて、もう少しだけ、モーディスの言葉を待つことにした。
……それを聞いてどうする」
 どのくらい答えを待っただろう。ようやく零された言葉は、ファイノンの予想から少し外れていた。
 モーディスはバレたのであれば仕方がないな、とでも言いたそうに肩を竦め、まるで先ほどの気まずそうな表情はファイノンの見間違いだとでも言うように、彫像めいた美貌に戻してしまっている。
「どうって」ファイノンは言葉を誤魔化したくなるのを堪え、息を吸う。「君からの贈り物だって素直に言ってくれた方が、ずっと嬉しかったよ」
…………………………
「別に隠す理由もないだろ? そりゃあ、確かに君に心配されてしまったのは情けなくて恥ずかしいけど、わざわざ気にかけてくれた好意を無碍にするほど恥知らずな人間じゃない。……エリュシオンの麦はまだ昏光の庭にしかなくて、どこにも流通していない。それをわざわざ僕のために取りに行ってくれたのは驚いたけど、本当に嬉しかったんだ」
 モーディスは不機嫌そうに片眉を跳ね上げ、反論しようと口を開いた。ファイノンは「お前のためではない」、と返って来るのを予想したが、そうはならなかった。勿論、ヒアンシーから真実を聞いている以上、そんな言葉が返ってきたところで、ファイノンはその言葉を嘘だと断じることができる。
 一度言葉を飲み込んだ男は難しい顔で腕を組み、「隠そうとしたわけではないが……」と歯切れ悪く口にした。
「俺がお前を侮っていると誤解するかもしれんと思ったのは事実だ」
「侮る?」
「心配されすぎても不愉快だろう」
 気まずそうに口にするモーディスに、ファイノンは少し返答に困った。確かにそうだ、と思う気持ちと、君に心配されるのが不愉快だって? と思う気持ちが両方存在することに気づいたからだ。
「確かにお前は未熟で覚悟の決まりきっていない繊細なやつだとは思うが」
「いやいやいや、事実だけど、もう少しオブラートに包んでくれ。自覚があるだけにわりとショックだ」
 黙り込んだファイノンをフォローしているつもりなのか、モーディスから突然言葉のナイフを刺され、鋭さにぐっ、とファイノンの息が詰まる。
「? 何を言っている。覚悟を決めろとは言ったが、別にお前を格下に見ているわけではない。お前が過去に苛まれ、苦しんでいるのも、それを情けなく感じているのも知っている。だがそれもお前だろう。ただ、……俺と対等に手合わせのできる人間がお前しかいない以上、永遠に腑抜けられてもつまらんだろう」
 モーディスの視線がファイノンの目を射抜くように細められ、ふ、と口許が緩んだ。美しい男の微笑みと言葉で脳が焼かれる感覚がし、ファイノンは目の前がちかちかと眩しく輝くような錯覚を覚える。目と鼻の奥がツンと痛み、視界が一瞬白くぼやける。慌てて鼻をすすり、えっと、と零しながら頬をかき、零れ落ちないように日差し避けのバルコニーの天井を見上げた。
 対等。その言葉が、ファイノンの胸に熱く染み渡るような心地がした。
 雑魚を相手にするくらいならお前と手合わせをした方がましだ、とは今まで何度か言われていたが、本当にモーディスが言葉の通りに感じてくれているとは、どこかで信じ切れていなかった。
「それ本当にすまない。……確かに、僕以外、誰も君と本気で手合わせなんてできないよな」
 ――そう口にして、なんとなくモーディスと見つめ合い、照れ隠しに乱れてもいない髪を手櫛で直そうとしてから、あれ? と髪に触れた手を止める。
(なんだか色々それっぽいことを言われたけど、それならそれで、素直に僕が不愉快に思うかもしれなかったからだって言えばよかったんじゃないか?)
 ファイノンはザクロジュースに視線を落としたモーディスの顔をそっと盗み見、その表情に、明らかな安堵が浮かんでいることに気がついた。
「メデイモス」
「なんだ?」
 名前を呼ぶと、モーディスの表情は既にいつもの感情の読み取りづらい、若い為政者の顔に戻っている。
 こうやって長い間、もしかして誤魔化されていたんじゃないか? ファイノンの脳裏に、殆ど確信めいたものが浮かんだ。
「そのザクロジュースは、僕がヒアンシーに頼んでとびきり甘くしてもらったんだ。君は甘いものが好きだろう?」
 それがどうかしたか、と言いたそうに、モーディスはジュースから顔を上げ、ファイノンの顔を見やる。
 モーディスは自身が甘党なことを隠してはいないし、顔に似合わないと言われても気を悪くする様子も見せない。きっと飽きるほど聞いてきたからだろう。
「どうして僕がこれを持ってきたかわかるかい?」
 緊張して舌が張り付いているのを感じながら、ファイノンはモーディスの顔をじっと見つめた。日差しがモーディスの髪と頬に強く差し込み、彼の輪郭を黄金色に輝かせている。
 風が吹くたびに金色から朱へと移る髪が揺れる様子に、子どもの頃、エリュシオンで見た、夕焼けに輝く麦畑を思った。モーディスには「色だけだろう」と一蹴されてしまったけれど、ファイノンにとってはそれだけのものではなかった。
 ここ数年ずっと、自分のそばにあった懐かしく、美しい思い出の姿だ。
 その美貌が、困惑を表している。
 リクライニングチェアの肘掛けに置かれた、モーディスの剥き出しの手に触れたい、と強く思った。
 普段は金色の甲冑に覆われた手は拳で殴りつける戦闘スタイルには不釣り合いなほど綺麗で、彼の回復力の早さ故だろうか、と余計なことを考える。
「君が僕にとって大事な麦を贈ってくれたように、僕も君の――君の一族の伝統的なものを贈りたかったんだ。エリュシオンの麦ほど大したものじゃないけどさ……
 モーディスはオクヘイマの市場で柘榴をよく購入しているので、もしかすると樹庭にある「クレムノスの種からできた柘榴」への拘りはないかもしれない。ファイノンの胸中に少しだけ焦りが浮かぶが、声を詰まらせそうになりながら、言葉を紡ぐ。
「それは……
 ――どういう意味だ?
 掠れた低い声を出したモーディスの視線が伏せられ、長い睫毛が震える。
「わからないか?」
 舌がねばつく感覚に、ふーっ、とファイノンはゆっくり息を吐き、目を閉じる。
 肘掛けに置かれたモーディスの手にそっと手を重ねたファイノンに、おい、とモーディスが居心地悪そうに身じろいだ。
 てっきり「なんの真似だ」と柳眉を逆立ててくるだろうと思っていたのに、予想が外れる。
 手を引けば負けだとでも思っているのか、モーディスの指がぐっと肘掛けの先端を掴むのを感じながら、ファイノンは力をこめずに、モーディスと違って、剣だこのいくつも潰れた手を重ねたまま、親指ですべらかな肌を撫でる。
「僕は君が好きだ。君に恋をしている。……この間、『口説いているつもりか?』って言っただろ。そうだよ、僕は君を口説いてる」
 言ってしまった、と冷静な自分が脳裏にいるのを感じながら、ファイノンはモーディスが金色の瞳を見開くのをじっと見つめた。
 ここまで言えば誤解のしようなんてないだろう。曖昧な言葉なんて言ってたまるか。
 言い切ったからか、やけくそとも思えるような、強烈な感情が沸き上がる。
「なあ、どうして僕のためにわざわざ樹庭から持ってきてくれたのに、嘘をついたんだ? 君が隠したかったものを全部教えてくれ」
「待て、」
 思わず身を乗り出したファイノンの胸をそっと押し、モーディスが焦ったように口にした。
 君でもそんな顔をするのか、とファイノンは眼前の男にしては随分と弱弱しい制止に、段々自分が興奮して来ているのを自覚する。
 好きだと口にして吹っ切れたせいか、モーディスの動揺したように揺れる金色の瞳があまりに綺麗で、好きだ、と思わずファイノンの口から言葉が無意識に零れてしまう。
 待て、ともう一度モーディスが意味のない言葉を口にし、ファイノンの胸を押す手に少しだけ力を籠めた。
「君が答えを考える間、このままここで待っていてもいいのなら、待つよ」
 ファイノンの白い肌は、視線や言葉よりももしかするとモーディス相手には雄弁だったかもしれない。
 耳まで微かに染まった真剣な表情で言葉を連ねて来る男の瞳には嘘も揶揄いも見えない。
「僕は君が好きだ。……君は?」
 待つと言ったその口で、結局答えを急かすファイノンを見つめ返し、モーディスは小さくため息をついた。
……俺がお前以外に、部屋の鍵を渡していると思うか?」

   *

「顔を見れば分かりますので報告は結構です。甘ったるい御伽噺自体は否定しませんが、私には不要だとまだわかりませんか」
「ま、まだ何も言ってないのに……
 ファイノンが研究室を訪れるなり、アナクサゴラスは挨拶もなしに元教え子の言葉を封じた。
「まあ、もしあなたが愛する人と一緒にいたいあまりに火追いの旅を辞めると言うのであれば、祝杯のひとつでも上げるのは吝かでもありませんが」
「先生は相変わらず火追いの旅に否定的だなあ。期待に沿えなくて申し訳ないけど、愛する人ができたことで、余計に自分の使命の重さを以前よりもはっきりと自覚したよ。だから今日は先生にお礼を言いに来たんだ。はいこれ、オクヘイマで見つけたスパークリングワサビ酢。なかなか出回ってなくて、探すのに苦労したよ」
 なかなか出回っていない理由はあまりに珍妙な味に人気がないからなのだが、ファイノンはそんなことは知らなかった。。
 アナクサゴラスは大げさにため息をつきながらも贈り物を素直に受け取り、「相変わらず『浪漫』の毒牙にかかったままのようで残念です」と毒づく。
「しかし、あなたに大事な相手ができたこと自体は、私も喜ばしく思います」
「え」
「手に入れた幸福はどんなに些細なものでも噛みしめるように。失うことを恐れる必要はありません。すべてのものはいつか必ず失われますから。あなたはただ想うままに生きなさい」
 そっと左目の眼帯に触れながら呟く男に、ファイノンは力強く頷いた。


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