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「はっきり言えば、卒業生の恋愛相談に乗るほど暇ではないのですが」
昨日と打って変わり、目の下からクマの消えたアナクサゴラスにファイノンは「本当にはっきり言うなあ」と苦笑する。
「しかしわざわざ樹庭に来ると言う事は、オクヘイマに頼れる人がいないのでしょう。浪漫の半神は役立たずなようですね」
ふ、と楽しそうに鼻で笑うアナクサゴラスに、またそう言うことを、とファイノンは少しだけひやりとする。教授とオクヘイマの主の相性の悪さは勿論よく知っていたし、確かに、美と愛のタイタンであるアグライアに話を聞いてもらうのが道理のような気もしなくはない。
「アグライアには逆に相談しづらくて
……。それとも先生は、親しい家族にこそ恋愛相談をすべきだと思う?」
ファイノンの問いかけに、アナクサゴラスは持ち上げた杯にそっと息を吹きかけ、熱いお茶を冷ましながら一口嚥下した。考えるように瞳を細め、窓の外の永夜を眺めたまま、「まあ、家族には余程のことがなければしないでしょう」と口にする。
「結婚ともなれば相談するかもしれませんが」
お茶に口をつけていたファイノンは、「結婚」の言葉にげほ、と咳き込む。しかし目の前の教授は反応せず、淡々と言葉を続けた。
「家柄だのしがらみだのがなければ、当人同士の自由でいいんじゃないですか。
——さておき、それはあなたにはまだ早い話です。そう言う相談でいいんですよね?」
アナクサゴラスは窓から視線を移し、困り眉で俯いている生徒をまじまじと見つめる。肌が白いせいか、恥ずかしそうに伏せられた目許が僅かに染まっていた。
あなたのその顔で落ちない相手がいるんですか? と教師らしからぬ考えが瞬間的に脳裏を過ったが、勿論口にはしない。もしかすると、英雄「なんか」を目指している彼の想い人は金糸と同じく、姿かたちではなく魂でものを視ているかもしれないからだ。
「
……………………」
問いかけからややあって、うん、と体格には到底似合わない、顔立ちには合う、幼い答えが落ちた。
オクヘイマの空と同じ青い瞳を震わせながら、テーブルの上に置いた杯を両手でそっと掴む姿は、まるで普段から口下手な男のようだった。いつもは弟子ながら憎らしいほど弁の立つ男だと言うのに、今は言葉をどこかへ置き忘れてしまったらしい。
「相手の話をしたいのであれば聞きますが、そうでないなら話さなくて構いません。それで、一体何を悩んでいると言うんですか。まず行動するタイプのような気がしていましたが」
顔を上げないファイノンからそっと視線を逸らし、アナクサゴラスは描きかけの研究資料を手許に引き寄せた。巻物を広げ、昨日までの研究成果を記憶の中から引っ張り出す。しばらく、カリカリとペン先が巻物をひっかく音と、樹庭で暮らす学者や学生の足音や物音が部屋の外から微かに聞こえていた。
「その、僕は人生に恋愛はいらないと思っていて、それは使命があれば余計に不要だと思って来たんだ、今まで」
「まあ、こちらと違ってオクヘイマに暮らす黄金裔を見ていればそうなるのもわかります」
アナクサゴラスは書き物から視線を上げず、計算式を解き始める。
神悟の樹庭で暮らす黄金裔には妻帯者や恋人のいる者もいるが、聖都の黄金裔は、彼らのリーダーであるアグライアが人心を失いつつあることもあってか、今は浮いた話のひとつも聞かない。
クレムノスの王子には時折縁談が持ち込まれているようだったが、あれはあれで特殊な事情と言える。
「迷うくらいならひとまず告白してみればどうですか。あなた方の言う『使命』を私は肯定しませんが、そうでない者も多いでしょう。感動して泣きながらあなたの告白を受けてくれる可能性だってあり得ます」
聞く人によっては煽っているとも受け取られかねない物言いだったが、アナクサゴラスを長く師事していたファイノンは困り顔を少しだけ深めて、はは、と渇いた笑い声を上げた。
「そう思えるなら最初から相談には来ていないけど、相手は
……どうかな。救世の使命があるのにこんなことにうつつを抜かすなんて、余程暇なのかと怒られそうな気がする」
「馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言うアナクサゴラスに、ファイノンは顔を上げる。教授は苦いお茶を飲んでいるかのように顔を顰め、はぁ、と嘆かわしそうにため息をついた。
腕を組んだアナクサゴラスはファイノンに向き直り、真正面から顔を見つめ、口を開く。
「あなたが背負った使命のために、愛する人を
——大事な人を持ってはならないなんてことはないでしょう」
「
………………、」
反論を三秒待ったが、救世主の口から言葉は出てこなかった。アナクサゴラスは舌打ちをしそうになるのを堪え、オクヘイマの主に頭の中で話しかける。
(あなたの継いだ「浪漫」とやらは、あなたの大事な後継者に伝わっていないようですが)
眼前のファイノンが気まずそうに視線を彷徨わせているのに瞳を細め、果たして誰も彼にこんな簡単なことを教えてやらなかったのだろうか? と考えた。
「あなたはこの世界で生きるひとりの人間で、私のかつての生徒で、そこらの若者となんら違いもない。私の考えはあなたが生徒だった頃から変わりません。火追いの使命も英雄もタイタンの信仰もくだらない。
……それでもあなたが英雄になるというのであれば、せめて『愛する人のいる世界を守りたい』と考えるほうがましでしょう。それは国家間で戦争をしていた頃から存在する、普遍的な考えです」
普遍的、の語気を少し強めて口にしたアナクサゴラスに、普遍的、とファイノンが同じ言葉を呟いた。
「『世界』は大袈裟過ぎますか? それなら生活でも、場所でも、なんだって言い換えられますよ。あなたがくだらない使命と自身の幸福を天秤にかけて、使命を必ず選ばなければならないと言うこともない、と私は思いますが」
「それは
……僕にはできない」
「結構。それならばせめて、愛する人のいる世界のために使命を全うするのだと考えてはどうですか」
「なんだか目先の欲をこじつけで肯定してるだけなような
……」
うだうだと言葉を連ねるファイノンに、アナクサゴラスはもう一度ため息を吐く。
「諦めがついたのであれば、これ以上の会話は時間の無駄です。恋愛にうつつを抜かして腑抜けになったと罵られるのを回避するのも結構、ただし、あの時告白しておけばよかったと後悔はしないように」
「先生だって僕が恋愛『なんか』で腑抜けになったと思ってるんじゃないか」
むっと眉を寄せたファイノンが、拗ねた口ぶりで言った。かつてトイレに行きたいからと速攻で相手を言い伏せて弁論を終わらせた男からは想像もつかない、弱々しい、情けない、芯のない言葉だった。
「あなたがうじうじしている姿が腑抜けでなくてなんだと言うんですか。それから私は恋愛をすべきではないとも一言も言っていません。言葉を素直に受け取りなさい」
ピシャリと言い放つと、う
……、と捨てられた犬のような情けない表情になり、「決心がつかないんだよ」とボソリと呟く。
「だって恥ずかしいじゃないか。こんなことになるなんて思ったこともなかったんだ
……、考えないようにしても四六時中相手のことを考えてしまうし
……」
「脈はなさそうなんですか。今更会話すらしたことがないなんて言わないでくださいよ」
もしファイノンの一方的な片想いだと言うのであれば、まずは距離を縮めるところからアドバイスが必要だったが、アナクサゴラスはなんとなく、そうではないだろう、と言う確信があった。この男はなにも考えていないかのような笑顔でへらへらしているが、こう見えて他人を良く観察するタイプで、慎重に踏み込んでもいいラインを探っている。ひとたび近づくと、時々生意気なことをスパッと言うのは問題だと感じてはいたが。
「いや、えーと、大体毎日会ってると言うか
……、仲が良いわけじゃないよ。ないけど、認め合っていて、うーん、良いライバルと言うか
……その、悔しいからあいつには言いたくないけど、強いし、尊敬するところがたくさんあるんだ。僕なんかじゃ到底追いつけないほど眩しいと言えばいいのか
……とにかく、考えてると胸が苦しいし頭の奥がちかちかするというか
……」
「
……………………」
突然、頬を染めて照れたように話しはじめた教え子の顔を見つめ、確かに恋をしているようだ、と今更、少しだけ意外に思った。正直なことを言えば、今の今までもう少し憧れに近い感情を抱く相手がようやくできたのだろう、と思っていた。
樹庭にいた頃のファイノンは、あまりなににも執着をしない生徒だった。それは彼の生い立ちが関係しているのだろう、とヒアンシーやトリビーたちから多少は聞いていたが、アナクサゴラスはあまり真面目に考えないようにした。自分は教師であって医者ではないし、正道を歩んでいるわけでもない。勿論彼が助けを乞えば教師として導きはしたが、必要以上に介入する気にはならなかった。
かつて自身が抱いていた姉に再会したいと言う気持ちが誰にも止められなかったように、深く刻まれた傷痕を、他人が本当に癒すことはできないだろうと考えていたからだ。
ファイノンには知識欲があり、友愛の館に篭ってひたすら同じ教科書を頭から終わりまで何度も読むような病的な勤勉さがあるのは知っていたが、「必要なこと/ものだけを最短で吸収する」ようなタイプだった。
だから答えがおかしいと思えば自分の意思を言わずに白紙でテストを提出するような子だったし、同時期に教えていたキャストリスのように物語を読み世界へ手を伸ばすわけではないから、問題に対して思考の応用がききづらいところがあった。はっきりそう口にしたことはなかったが、「無駄なことをしている暇はないから」と言っているようにアナクサゴラスは感じていた。
生徒である以上、視野の狭さは勿論矯正したが、「なるべく無駄を省いて必要なことだけを学びたい」と言うのも、悪い特性ではないからと考えていた。人生の楽しみは人それぞれで、寄り道が楽しい人間もいれば、最短ルートを目指す人間もいる。
ファイノンはきっと、そう言う生徒なのだろうと思っていた。
どうやら、そうでもないのかも知れなかったが。
「で、脈はありそうなんですか」
当たって砕けるのも人生でしょう、と思いつつ、可能であれば、彼の好いた相手といい結果になればいいのですが、と真っ当な願いが浮かぶ。相談を受けた以上、穏便な形で解決して欲しい気持ちはあった。
「うーん
……、あるような、勘違いのような
……いや、本当にわからないんだよ。先生は大事なプレゼントをくれた相手が実は別の人だった、なんてことはない?」
「どう言う意味ですか?」
「その、ぼ、僕の好きな人は
……僕のためにえーと、まあちょっとした、すごく大事な物を持ってきてくれたんだけど」
ちょっとなのか大事なのかどちらですか、とつっこみたいのを堪えて、アナクサゴラスは両腕を組み直し、まじまじとファイノンを見つめ返した。
好きな人、と言った途端顔が真っ赤になっているファイノンを微笑ましいと思うこともなく、本当に恋愛相談だったのか、と二度目の驚きを覚える。
「どう言うわけか、別の人から僕に渡して欲しいと預かったって嘘をついてて
……」
「
……………………ファイノン」
「え?」
ちっ、と舌打ちをしたアナクサゴラスは椅子から立ち上がると、「馬鹿馬鹿しい」と溜息を吐いた。
ファイノンはそんな教授の反応にぱちぱちと目を瞬かせて、「せ、先生?」と微かに首を傾げる。
「私に相談している暇があるのなら、相手のところにいって誠実に告白すべきです。まぁ、成功するとは限りませんが、誠実に伝えれば嫌とは言わないと思います。あなたの誠実さを受け取れないような相手であれば、そもそも付き合いを考えたほうがいいですが、恐らくそうはならないでしょう」
「え、なんでそんな風に断言できるんだ?」
「断言します。とにかく誤魔化さずに誠実に相手に伝えなさい。
……さて、卒業生にこれ以上割く時間はありません。私は研究がありますから、今すぐ帰るように」
*
半ば追い出されるように部屋を出たファイノンは、そのまま昏光の庭を訪れ、ヒアンシーにオクヘイマへ帰還することを口にした。
「先生は真剣に聞いてくれましたか?」
絞り機でジュースを作りながら、ヒアンヒーがファイノンに顔を向けた。真紅の搾り汁から、柘榴の新鮮な酸味が漂ってくる。ヒアンシーはジュースの入った瓶に羊乳と蜂蜜とファイノンにはわからない何かのシロップを追加し、よくかき混ぜると「こちらをお土産に持って行ってください」と渡してくる。
アナクサゴラスに相談に行く前夜、ファイノンは「実はあいつにのお礼をしようかなと思うんだけど、ここの柘榴を持って行ってもいいかな」とヒアンシーに尋ねた。
あいつ、が誰を指しているのか明言しなかったファイノンに、「クレムノスの皆さんはメーレが大好きですから、柘榴をお土産にするのはいい考えですね」とヒアンシーは鎌をかけたが、ファイノンはそれに気づかない。
ちょうどメーレを作ろうとしていたところなので、一部をジュースにしますから、それをお土産に持っていってはどうでしょうか、と提案しても、ファイノンは「なるほど」と嬉しそうに笑って終わりだった。
けれども、モーディス様にですか? とはっきり尋ねれば、何となく、否定されてそうな気がした。
『あいつってものすごく甘党だし、酒はそんなに好きじゃないんだ。ジュースの方が多分いいだろう』
少しはにかんだ、幸福そうな笑みを浮かべるファイノンに、ヒアンシーは笑顔を向けたまま数秒閉口した。
何度か治療もしているし、実は甘いものが好きだと言う話も、酒は殆ど飲まない話も本人から聞いていたが(今日は怪我に響くのでお酒は禁止です、と口にしたヒアンシーに、モーディスは「俺は酒はほとんど飲まん」と言ったからだ)、「そうなんですね〜、それなら、とびきり甘くしてみます」と答えるに留めた。
きっと彼は自分がどんな顔をしているのか、気づいていないのだろう。
けれども、それに気づかせない方が幸せだろう、とヒアンシーは何も言わない。
いつも根っこのところに影が残っている彼が、こんな風に誰かを想って幸福そうにまなじりを緩める姿を見るのは初めてだったからだ。
ヒアンシーの特性甘々ザクロジュースを受け取ったファイノンは「うーん」と困ったように笑い、「一応は
……」と頬をかいた。
「少しだけ悩んでたことは吹っ切れたけど、それ以外はどうかな。先生はとにかく誠実に告白しろって」
「うーん。まあ、間違ってはいないと思いますよ。それとも、ファイノン様は何か不安がありますか?」
「不安しかないよ。だってあいつはその
——」
ハッとしたように、ファイノンが口を閉じると、ニコニコと、どころか唇のはしを微かに震わせたヒアンシーが、イカルンを召喚したかと思うと、よーしよしともちもちの体を抱きしめて、ファイノンから顔を逸らす。
「これは私の勝手な勘ですが、戦火に身をやつしてきた戦士ほど、日常の大切さをわかっていると思います。だからきっと大丈夫ですよ。ファイノン様、もしいきなりお土産を渡したり、真実を尋ねるのが気まずければこうしましょう。樹庭で取れた新しい小麦粉を差し上げますから、モーディス様にそれとなく話を振ってみてください」
そう言うわけで、ファイノンは小麦粉を持ってオクヘイマに帰還した。
実際のところ、この小麦粉は香りはいいものの改善点が多く、オクヘイマで流通している小麦粉には敵わない。
「
…………今夜、今夜ちゃんと言おう。飲めなくなっちゃうし」
部屋でうんうん唸っていたファイノンは、冷蔵庫にしまっていたジュースがそこにあるのを確かめて、石板を手に取る。
『やあモーディス。そう言えば冷蔵庫にしまってて言うのを忘れてたんだけど、樹庭のお土産でザクロジュースを貰ってきたんだ。
明日の夜までに飲んで欲しいって言われているから、今夜君に渡そうと思ったんだけど、何か予定はあるかい?
予定があるなら明日の朝に行くよ』
>ヒアンシーからの土産か。離愁の刻以降であれば部屋にいる。
すぐに帰ってきた返事に、けれどもファイノンはなんとも言えない、もやもやとした感情を抱いた。
貰ってきた、と少しだけ誤魔化したのは自分のくせして、また、親切に用意してくれたヒアンシーにどこか嫉妬してしまっている。
(誠実に、って難しいな
……)
ファイノンは何度か文字を入力しては消し、送信ボタンを押すまで行ってからもまた消しを繰り返し、とうとう「分かった。その頃に部屋に行くよ」とだけ送信した。
自分の今の感情を、上手く文字にできそうになかったからだ。
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