※時間軸としては4話目の途中です。
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「
……しないのか?」
耳を疑うとはこのことだろう。
シャワーを浴びてきたモーディスに、来客用の簡易ベッドと僕のベッドどっちがいい? と冗談めかして聞き、ムッとする顔を拝もうと思ったのに、「お前の」となんだか緊張したように言われて、僕は素直に「そういう気分なのかな」と思っていた。
今までモーディスが家に泊まって僕のベッドがいいと言ったことはなかったが、付き合ってしばらく経ったんだし、もう少し僕のプライベートな空間に足を踏み入れてもいいと思ったのかも、と呑気に考えていた。簡易ベッドより僕のベッドの方が断然寝心地がいいので、せっかくならモーディスにはゆっくり眠って欲しい、そんな風に。
そもそも、なんだか帰りたくなさそうだな、とは食事の時から感じていた。
珍しく、酒を飲むと言い張って二杯も飲んでいた。明らかにほろ酔いのモーディスはいつもより機嫌が良さそうに見えて、というよりわかりやすくて表情がやわらかで綺麗だった。アルコールで溶けた蜂蜜色の瞳が店内の灯りを取り込んでちかちかと耀く様子をじっと見ていると、どうした? と眦を緩めて笑う。その表情に心臓がけたたましく音を立て、一気に体温が上がるのが自分でもわかった。
モーディスは形の良い唇をグラスに当て、僕には到底飲めそうにもない甘いカクテルを美味しそうに飲んで、小さくため息をつく。とにかく甘いのが良い、と言われて選んだのは僕だったけど、モーディスが唇に付いたクリームをそっと舌で舐める姿を見た瞬間、失敗した、と思った。
そういう姿を見たかったわけじゃなくて、本当に、たまたまなんだ、と心の中でモーディスに懺悔していると、不思議そうな顔をしながらモーディスが紙ナプキンで口を拭う。
頭痛でもするのか?
カウンターの上に置いていた僕の手の上から、そっとモーディスが手を重ねて来る。心配そうに顔を覗き込むモーディスの、その手がいつもよりずっと熱い。
普段のモーディスはこんな風にスキンシップを取ろうとしないから、酔ってるんだろうなあ、と思っていた、いや、言い聞かせていた。
こんな状態で帰したくないと思ったのは事実だ。だって、僕ならこんな美人がほろ酔いで、深夜に一人でふらふらと歩いていたら声をかけるに決まっている。純粋に心配だったからだ。
モーディスの見た目と体格で何を心配するんだ、と言われてしまうかもしれないけれど、彼が魅力的なのは惚れた欲目なんかじゃなく、誰の目にも明らかだろう。
だから、明日も休みだと言っていたし、泊まってく? と言ったのは確かに僕からだった。
だけどそれは本当に、下心からなんかじゃあなかった。勿論帰ってきてさすがにキスはしたし抱きしめもしたけれど、モーディスは「したことがない」と言っていたから、こんな風に酔った彼をなし崩しにどうにかしようなんて考えはなかった。
付き合ってるはずなのにいつまで経ってもキスもハグも許してくれなかった(と、当時の僕は思い込んでいた)モーディスに怒ってはじめてキスをした時の、ガチガチに硬直して、真っ赤な顔のまま視線をうろうろと彷徨わせていたモーディスの姿は正直トラウマだ。だってまさか、彼がキスすらしたことがないなんて思わなかったから。
勘違いは謝ったし許してもらったけど、キス以上のことは慎重にならざるを得なかった。まずは軽いスキンシップに慣れてもらう必要があると思っていたから、もう少し時間をかけて、モーディスがそういう気分になる日が来るのを待とうと思っていた。一年くらいは。
「
…………な、何を言ってるのか、わかってる?」
思わず声が上擦っていた。クソ、余裕のあるフリがしたかったのに、少しも上手くいかない。
モーディスは「それじゃあおやすみ」とキスをして寝室を出て行こうとした僕の腕を掴んだまま、ん、と小さく頷いた。
帰宅するまでに落ち着いたはずの心臓がまた飛び跳ねる。
モーディスの緊張と期待の混ざったような表情に、正直なところものすごく興奮した。君も「ちゃんと」そういう顔をするんだ。へえ。思わず、唾を飲み込んだ。
良いんじゃないか? モーディスはしたいってことだろ。僕だって勿論したいんだし、合意は取れてるんだから。
無言でモーディスのまだ熱い頬に手を添え、唇を重ねる。さっきしたおやすみのキスみたいな軽いキスを繰り返していると、モーディスの手が、ねだるみたいに腰に触れてくる。ぞく、と背骨を一気に電気が駆け抜けて、頭の中でびりびりと弾ける感覚がした。思わず壁に体を押し付けて、顎を掴んで口を開かせた。
だんだんとキスを深くしながら、怯えたように逃げる舌を追いかけて絡ませる。本当はキスが好きなくせに、恥ずかしいのか、いつだって最初は遠慮がちなところが可愛い。いつも使ってる歯磨き粉の味がちょっとする、と思いながら舌に吸いついていると、震える手が僕の胸を押そうとし、ふっと力が抜ける。
いいのかい? なんて聞いたりもせず、モーディスの手を掴んで、背中に回させる。キスの合間に落ちた吐息に聞いたことのない色が混ざり始めて、その熱さと濡れた音に興奮していた。舌先を甘噛みすると、びくっ、とモーディスの体が大袈裟に跳ねる。
ごめん、痛かった? 唇の端に音を立ててキスをしながら、モーディスのウエストを撫でる。服の上からでもわかる引き締まった筋肉のへこみが、びくりと震える。君って敏感だよな、なんて言えば怒って殴られるかもしれないので、余計なことは今は言わない。もう少し慣れてきたら睦言になるだろうけど。
散々キスをして濡れた唇を親指の腹で撫で、鼻先にキスをする。ん、と小さく声を上げたモーディスの震える睫毛が頬に当たる感触に興奮した。
下半身に血が集中してくるのがわかる。今すぐにでも君の美しい唇で僕を咥えてほしい。そんなことを考えながら、濡れた唇を舐めて、もう一度開かれた隙間から舌を差し入れた。
ぎゅう、とモーディスの手が僕のシャツの背中を掴んでいる。震える舌がキスの合間に名前を呼んで来る。濡れた声に頭の中が熱くなって、痺れる感覚がする。
唇から顎、喉許と唇を滑らせて、わざと音を立ててキスをする。体温の上がったモーディスから僕が使っているのと同じシャンプーとボディソープの香りがして、それにも興奮した。モーディスの体を撫でるたびに小さく声が上がり、は、と悩ましい吐息が落ちる。本当に今まで、誰にもこの体を明け渡したことがないのか? 嘘だろ。誰だって君とのセックスを想像する。
そういえば下着を置くようになったのっていつからだっけ、と余計なことを考えながらシャツの下に手を入れよう
——として、「ファ、ファイノン
……」と、弱々しい声で名前を呼ばれる。
そこで、パチン、と泡が弾けるように目が覚めた。
「
………………」
「
………………」
お互い数秒見つめあってから、一気に血の気が引く。なんとか笑顔を作ると、モーディスは何もわかっていないような、顔に似合わない幼い表情で
——酔ってるからだ
——首を傾げる。
やめるのか? 赤い頬をしたモーディスの名残惜しそうな表情(僕の勝手な思い込みだ)にまた飲まれそうになったけれど、慌てて左手で思いっきり自分の頬を叩いて振り切る。モーディスが僕の奇行にギョッとして目をぱちぱちと瞬かせる顔が可愛い。
「今日はしないよ」
ぎこちない笑みを浮かべたままなんとかそう口にすると、モーディスの眉が下がり、唇が拗ねたように歪む。だけどその表情は確かに不安そうで、さっきとは違う、悪い意味で心臓がばくばくと跳ねていた。
危ない、本当に危ない。流されるところだった。二度とそうならないようにしようと思っていたのに。
「
……俺としたくないのか?」
「モーディス、君は酔ってるんだ」
だからどうした、と言いたそうに表情を歪めるモーディスの濡れた口許を袖で拭い、「もしかすると勢いをつけたかったのかもしれないけど」と口にする。
「酔いがさめてから後悔するかもしれないだろ?」
モーディスの額に額をくっつけて、鼻先を擦り合わせる。そっと腰と尻の境目あたりを両手で抱き寄せると、モーディスがちらりと視線を僕の手にやる。けれども触るなとは言われず、無言で鼻を鳴らしただけだった。
不満そうなモーディスに「焦らなくて大丈夫だから」と宥めるように口にすると、顎を思いっきり掴まれる。キスをするため、とかではなく、普通に、骨にヒビが入るかと思うほどの渾身の力で。
「あいたたたたた、いたっ!? え!?」
ふん、と鼻を鳴らしたモーディスに体を投げ飛ばされるように顎を離され、背中が家具に激突する。
は? と思わず声が漏れそうになったのをなんとか堪え、顎をさすりながらモーディスに視線を向けると、人の顎を粉砕しようとしていたのと同じ人間とは思えない表情で、「お前は」と顔に似合わない小さな声でぽそりと溢す。
「キスを拒むたびに、機嫌が悪くなった」
「そ、れはだから、その
……」
知らなかった、いや信じてなかったんだって! 君が慣れてないなんて、本当に一ミリも信じてなかったから、単純に恋人からコミュニケーションを拒絶されたと思い込んでしまったんだ。
……なんて言い訳はすでに散々していたから、今更改めて言うつもりはない。
拗ねた顔をするモーディスの髪が乱れていて、それがどうしようもなく色っぽい。今すぐにそばに寄って長い髪を耳にかけてやりながらキスがしたい。結局そんなことをすぐに考えてしまうが、なんとか追いやる。
「君には悪いことをしたって言っただろ? 性急だったのを反省してるんだよ」
そっとそばに寄り、許しを願うようにモーディスの片手を取った。僕をじとりと睨む拗ねた顔が可愛い。
「
…………………どうせ俺をつまらない男だと思っているのだろう」
「ちょ、ちょっと待った、なんでそうなる!?」
思わず大声が出てしまい、モーディスの手をぎゅっと握る。モーディスはぱち、と驚いたように大きく目を見開いてから、この歳にもなって、とぼそぼそと恥ずかしそうに言った。
ふる、と目許を震わせて恥いるモーディスに、その顔を今すぐやめろ、可愛すぎて襲いたくなる、と乱暴なことを言いたいのをグッと堪えた。クソ、なんとか理性を縛り付けている僕の涙ぐましい努力を汲んで欲しい。
「歳なんて気にしてたの? あ、いや確かに僕もまさかって言っちゃったけどさ」
失言だ。
「こ、こういうのは人それぞれだし、別に早いからいいとかじゃないから」
かなり白々しいな。自分でもそう思ったが、ここで折れるわけにはいかなかった。
モーディスが「好きにしろと言わなければよかった」、とでも言うみたいに、本当に後悔を顔に滲ませるのをもう一度見たくはなかったから。
僕の勝手な欲望を受け入れようとして、二度と後悔するような真似はしてほしくなかった。別に一生しなくてもいいなんてことは口が裂けても言えなかったけれど、まだしばらくは君の気持ちに寄り添いたい、とは思っている。本当に。
「だから今日はしないよ。せめて君が素面なら話し合いとしただろうけどね」
ちっ、と舌打ちが聞こえたような気がしたけれど、多分聞き間違いだろう。
モーディスが強硬手段にでたりしないよう、「寝よう寝よう」と腰を引いてベッドに連れて行き、思いっきり抱きしめて、同じベッドで眠ることにした。
モーディスはしばらく怒ったような拗ねたような態度をしていたけれど、酔っていたからだろう、段々と僕の胸に頭を擦り付けるようにして、諦めて大人しく眠ってくれる。
「これ、起きたら覚えてるのか
……?」
ふと、そんな疑問が浮かんだ。モーディスが酔った後の朝を、僕は本当に知らない。
もしかすると忘れられていて、なぜ同じベッドにいるんだ、と蹴り飛ばされてしまうかもしれない。そんなことはしないだろうと思いたいが、僕は最初に、無理やりキスをした人間だ。モーディスはもしかすると「しようとしたけど寝たので諦めた」とか、誤解をしてしまうかもしれない。
「まあ、流石にないか
……?」
ないだろう、と信じたい。一応本当に今夜まで、したいと言う素振りすら見せてこなかった、筈だ。
「
…………………」
はっきり言って僕の方が君よりずっと辛いと思うんだけどな。
眠ったモーディスの寝息を聞きながら、そっと長い髪を撫でる。
こんなの、生殺しもいいところだ。
だけど今夜はしないと決めたのは僕だったし、モーディスにやけくそになって欲しいわけでもない。だからこれで正解だ。
そう言い聞かせないとやってられないので、そう言い聞かせて目を閉じる。
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