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「ケラウトルス、どうだファイノンは」
午前、ファイノンに剣の稽古をつけさせていた師の下を訪れたメデイモスに、新兵の訓練を行っていたケラウトルスは待ってましたとばかりに破顔した。
新兵たちに基礎鍛錬を続けるよう指示したケラウトルスは、午後からは教師に基礎教養を叩き込まれているファイノンがいるであろう邸の部屋を見上げる。
「若の目は正しかった。あの少年は見込みがあります」
「ほう、お前が素直に褒めるのは珍しいな」
メデイモスも師の視線に釣られるように視線を上げ、「教養の方はどうだろうな」と少しだけ心配するように呟いた。
優れた戦士の見込みがあることは喜ばしかったが、人生のどこかで酷い怪我をしないとも限らない。できれば文官としての才もあるといいのだが、マナー講師に文句を言っていた顔を思い出す。
「勉強の時間を削って兵士として鍛え上げたいくらいですが、若の側仕えともなるとある程度は仕方ありませんな
……。もう三、四つ幼い頃から指導をしていれば今頃若のいい相手になったでしょう」
いい指導相手を見つけたと饒舌に語る師の姿に少しだけ嫉妬心が湧きそうになりつつも、メデイモスは「そうか」と微かに微笑みを浮かべる。今朝の時点では全く見込みがないと師に叩きのめされたファイノンが寝込んでいる姿も想像していたが、昼食の席でも案外けろっとしていたと聞いている。
「思っていたより体力もありそうですが、栄養状態はあまり良くありません。まあこれは一月もすれば改善されるとして、以降はもう少し厳しく指導しても?」
「プランはお前に任せる。俺には指導のことはわからん」
必要なものがあれば言え、と告げてメデイモスは兵舎を去り、厨房へ向かう。
料理長にファイノンの食事を少し変えて欲しいと師に言われたことを添えて頼むと、彼はふむ、としばらく考えた末、「間食が必要だと思います」と返した。栄養管理をできるほどの知識はまだなく、そう言うものか、とメデイモスは腕を組む。
「お前の考えた通りで構わないが、何時に取らせるべきだ?」
訓練の内容にもよりますが、と返された料理長の提案に「わかった」と頷くと、あの、と料理長が遠慮がちに口を開く。言え、と促し、そろそろ休憩の時間か、と時計に目をやる。
「もし腹を空かせているようだったら、夜の八時まではいつでも厨房に来るように言ってください。その、勿論メデイモス様がお許しになるのであれば」
「あいつに必要だと言うのであれば許す」
奇妙な提案だとは思ったが、父の視察や遠征に数度ついて行った先で目にした兵士や自身の食事量を考えると、確かにファイノンに与えていた食事は慎ましかったかもしれないと感じた。
ファイノンと同室の王族奴隷たちは兵には向かない者たちばかりで、多少の力仕事をする男はいても、朝から晩まで走り込むような体力の使い方はしていない。
自身も同じ歳の頃の子どもと比べれば三人前は食べると言われていることを思い出し、メデイモスは「好きなだけ食わせていい」と口にした。
*
夕食後、昨晩と同じように下男と共に茶を運んできたファイノンは少し眠たそうな顔をしていた。
メデイモスは昨晩と同様に下男を下がらせると、ファイノンを椅子に座らせ、「稽古と勉強はどうだった」と茶を薦めながら尋ねた。ファイノンは「疲れた」と簡素に答えると、昨日は用意していなかった茶菓子の
——バターの香りの強いクッキーをじっと見つめている。ファイノンのうずうずした様子に、彼にばれないように笑いながら、「食いたければ食え」と口にした。
「ケラウトルスからお前の食事を増やせと言われたが、どの程度食うのか俺は知らん。料理長に好きなだけ食わせろと伝えてあるし、しばらくはマナー講師に指導を緩めろとも言ってある」
「指導なしにはならないのか
……」
「ならん。が、昼は兵舎で食え。兵士と一緒なら気楽だろう」
「お昼だけかあ
……」
クッキーをむしゃむしゃと平らげながら残念そうに言うファイノンに、「合格点を早くもらうことだな」とメデイモスは笑い、「喉を詰まらせるぞ」と空のカップに視線をやる。ファイノンが自分のカップに紅茶を注ぐのを確かめてから、さて、とメデイモスは教師にもらった評価のメモを取り出す。
「お前は読み書きができなかったのか」
ある程度は予測していたことだが、と思いつつ、メデイモスはメモから視線を上げる。
「
……村では必要なかったから。しばらくは読み書きだけに集中するって言われた。今日は三十回も書き取りをさせられたけど、剣を千回振る方が楽だ」
「師もお前には見込みがあるから、勉強させるよりも稽古をした方がいいと暗に言っていたが、そうはいかん。お前には覚えて貰わねばならないことも多い」
きっぱりと告げるメデイモスに、「勉強もある程度やったらなくなる?」とファイノンが期待するように顔を向けてきた。稽古よりも先に教師が合格点を出すことはどう考えてもないが、と思いつつ、真実をはっきり伝えてはやる気が削がれるだろうか、とメデイモスは少し悩む。
「
……自分の名も書けぬうちから考えることではないな」
結局、それだけを口にした。
*
ファイノンが邸に来て数ヶ月が経った。
メデイモスと師の期待通りに戦士としての才覚を表し始めたファイノンだったが、反対に勉強の成果はあまり芳しくない。読み書きはそれなりにできるようになったが、歴史の成績が悪く、教師が注意をしても意識を飛ばすことも少なくない様子だった。
お前の指導が過酷すぎるせいではないか? とケラウトルスに尋ねれば、そんなことはありません! と主張される。鍛錬内容を確認もし、もう少し緩めろと命じもしたが、ファイノンの学習にはあまり成果が出なかった。
ファイノンに当てがった教師は下級貴族の出で、王族奴隷のファイノンに対しての嫌悪感情よりも自身の出世欲の強そうな男を選んでいた。ファイノンの教育に成功すれば貴族院
——貴族の跡取りが通う全寮制学校
——の教師枠に紹介状を書いてやる、と伝えていたし、執事に数度探らせた限り、教師が手を抜いているわけではないことは確かだった。
稽古と勉強の時間を入れ替えると多少は効果があったが、劇的とまではいかない。食事の作法や日常の作法は少し小慣れてきたので、今はこれでよしとすべきだろうか、と少し悩みつつも、二ヶ月後に控えた式典のことを考えるともう少しそれらしくなってもらう必要があった。
「来月までにこの一覧を覚える必要がある」
夕食後の茶を運んできたファイノンに、メデイモスは分厚い書類を渡した。王から褒美を与える家と騎士や兵士、それから式典の来賓者とその一族の顔と名前が載っているもので、ファイノンが彼らと直接会話をすることはないが、今後のことも考えるとどこかで叩き込んでおく必要があった。
「
……暗記は苦手だ」
「知っている。お前の学習が芳しくないことも聞いているが、式典が近い。これだけは覚えねばならん。しばらくは毎晩この時間に俺が教えてやるから、なんとか覚えろ」
「式典って?」
「先月父上が
とある都市制圧しただろう。それの祝勝会のようなものだ。武功を上げた家に土地を割り当て管理させ、戦功を上げた戦士には父上から褒章を与える」
「そういえばケラウトルスがそんなことを言ってた気がする。兵舎も賑やかだし」
嫌なことを思い出したように、ファイノンが眉を寄せた。
新兵ばかりだった兵舎には、現在は戦から帰還した兵が戻っており、訓練には騎士の一部も参加している。指導教官が増えたことにより、ファイノンも今では名門出の騎士候補生に混ざって訓練を受けていて、師匠だけでなく方々からファイノンは筋がいいと言われている話がメデイモスの耳に入ってきていた。
「なんだ、虐められでもしているのか?」
クッキーを半分齧ったまま、ファイノンはメデイモスに顔を向け、そりゃあね、とでも言いたそうに鼻を鳴らした。
名門出であれば余計に王族奴隷に手を出せばどうなるかはわかっているはずだが、と思いながら、メデイモスは「服を脱げ」とファイノンに命じる。ギョッとしたように目を見開き、「別に殴られたりはしてないよ」と慌ててファイノンが口にした。
「嫌味を言われているだけだ。ケラウトルスがなるべくひとりになるなって煩いしね」
「ならいい。
……まあ、腕が立つだけやっかみも多いだろうが、なるべく耐えろ。手を出されれたら恥ずかしいとも思わずに逃げることだ。もっとも、俺の
奴隷に手を出せば親がどうなるかはわかっている筈だからな、どうせ大したことはできん」
嫌がるファイノンのシャツのボタンに手をかけていたメデイモスは、襟ぐりからそっと肌を覗く。腹の方には確かに痣はなさそうだった。
やるなら顔以外に決まっているので、他の王族奴隷に傷があれば伝えろと言い含めておく必要があるな、とメデイモスは頭の中でメモをする。
「それを食べ終えたらいい加減始めるぞ。時間がない」
シャツから手を離し、褒章兵士の一覧を眺めながら口にしたメデイモスに、渋々ファイノンが頷いた。その表情がなんとなく嬉しそうに見え、メデイモスは怪訝そうに片眉を上げる。
「妙に嬉しそうだな」
「え!? いや、そんなことはない、と思うけど
……」
「やる気があるのなら他の教師に任せたいが」
じっとファイノンの顔を見つめながらメデイモスが零すと、そんな、とでも言うようにファイノンがわかりやすくショックを受けた顔をする。悲しそうに眉を下げる顔に甘やかしすぎた記憶もないが、と思いながら腕を組み、しばらくじっと見つめていると、「き、いやその、あなたに教えて欲しい、です」とちいさな声で口にした。
「
……まぁいいだろう。やる気がないよりある方が教える側としても楽だからな」
二人きりの時は畏まらなくていい、と何度目か口にしたメデイモスは、そもそも、この決まり自体が甘やかしていることになるか、と今更のことに気がついた。けれども、このスタンスを変える気には何故かならなかった。
「
……君の声は好きだ。君が教えてくれるなら覚えられるかも」
唐突に頬を染めながら口にしたファイノンに、何をっているんだこいつは、と言うのも忘れて、メデイモスは困惑のあまり沈黙した。
(俺を馬鹿にしているのか、それとも甘えているのかどちらだ? そもそもお前が教師の指導をきちんと聞くのであれば俺がお前に指導してやる必要もないんだが
……)
ファイノンの顔をまじまじと見つめながら思案したが、ファイノンは相変わらず期待に頬を染めたまま大人しくメデイモスの言葉を待っている。もし彼に獣の尻尾があればぶんぶんと大袈裟に振っているはずだ、とない尻尾の幻覚が頭に浮かびながら、はぁ、とため息を吐く。
「馬鹿なことを言っていないで誰の話も聞け」
茶を入れ直してくれ、とファイノンに命じ、メデイモスは既に暗記した一覧に視線を落とす。
*
「どうした間抜けな顔をして」
朝から下女達に式典用の正装を着せられているメデイモスの元を訪れたファイノンは、装飾品をつけられ、窓から差し込む陽光にその姿を輝かせている主人の様子に呆気に取られていた。普段の三つ編みに加えて、長い後ろ髪は赤いリボンできちんと後ろに纏められている。微かに百合の香りがし、ファイノンはそっとため息を吐いた。
勿論いつだって彼はきちんとした身なりをしていたが、それでもクレムノスの象徴である真紅の布地と金糸の刺繍がふんだんに使われた、重たそうな外套を羽織った姿はとても同い年の少年とは思えなかった。買われた時もそういえば似たような格好をしていた気がする、とファイノンは思わず瞳を細めて跪こうとすると、その前に下女達に服を剥かれてしまった。
メデイモスからは、ファイノンが左耳に耀く赤い宝石のピアスをじっと見つめたまま呆然と立っているように見え、「こいつが呆けているうちに仕上げてやってくれ」と下女に言った。
今日のファイノンの役目は単なるメデイモスの荷物持ちのようなものだったが、それでもそばに置いておく限り、新兵と同じような、動きやすく汚れても構わないような服を着せておくわけにはいかない。
「お前は俺のそばにいればそれでいい。話しかけられても今日は口を利くな、奴隷が口を開くなと煩いものが多い」
服を着せられ、髪を整えられているファイノンのチョーカーに指を引っ掛けながら淡々と口にするメデイモスに、ファイノンは無言でぶんぶんと音がしそうなほど首を振って頷いた。
「ないとは思うが、もし父上から話しかけられても口を利くな。いいな?」
もう一度首肯するファイノンに、「
……俺の指示には答えろ」とメデイモスが静かに言う。
はい、とカチコチに固まった声で答えるファイノンの姿に、下女達がくすくすと小さく笑う。きっと彼女達は兵舎で同世代以上の貴族の子息たちを散々打ち負かして来たファイノンの「やんちゃ」な姿を知っているのだろうな、とメデイモスは思った。
式典で王の隣に黙って佇んでいるメデイモスの姿をじっと見つめながら、綺麗だな、とファイノンは素直に思った。式典会場でもある王城の謁見の間は豪奢なシャンデリアと加護の力できらきらと眩く輝いていて、王族たちの衣装や髪と肌をより一層美しく見せている。
主人の力強い眉と目、黄金から血のように赤くなる美しいグラデーションの髪、きちんと手入れされた美しい肌の眩しさを真っ直ぐに見つめながら、あの話は本当だったのか、とファイノンはぼんやり考えていた。
メデイモスに買われる前、奴隷商と共に都市を転々としていた際、「クレムノス人は都市を滅ぼす際に徹底的に敵兵に血を見せるのとは裏腹に、式典や儀式は妙に美しい。きっと他者の命の輝きがそう見せるのだろう」と奴隷商が酒を片手に楽しそうに話しているのを耳にすることがあった。当時はそれが真実なのかどうかに興味は持てなかったし、クレムノスの他国侵略の悪い噂は時々村でも聞いていた。
王族は毎晩敵兵の血を啜っていて、血も涙もない人間たちだ、などと言う話もあったが、ファイノンが知る限り、それは事実ではなかった。少なくとも自分を買ったメデイモスには血を啜る習慣はなく、兵舎の兵士たちも血の代わりにメーレと呼ばれるザクロからできた飲料を愛飲している。
ファイノンにはまだ戦場の経験はなく、戦地で使われている奴隷の実態も知らない。貴族の子息達からは「奴隷は前線で肉盾として死ぬのに、剣術や槍術を習っても無駄だ」と言われていたが、少なくとも師であるケラウトルスの指導の熱の入り方を見るに、自分にとってはそれは事実ではなさそうだ、と感じていた。メデイモスにとってもそうだろうと思っているが、まだわからない。
「
………………」
ファイノンはメデイモスの隣で褒章を与えている王の姿を目にし、「父上は俺を嫌っている」と式典前に教えられた真実を思い出していた。表面上はとてもそうは見えなかったが、王子であるメデイモスが城には住まず、すぐ隣の、王族奴隷の部屋もある邸に住んでいる事実はよくよく考えると妙な話だったのかもしれない。
『父上は俺を嫌っているが、かと言って俺にとっての従兄弟
——弟の息子達に王位をやるものかと決めているそうだ』
何故父親に嫌われているのかはメデイモスにもよくわからないらしかった。彼の母であり王の后のゴルゴーは昨年病気で亡くなっていて、仲睦まじい夫婦であったことは確かだった。それでも跡取りが一人だけと言うのは心許無く、家臣達は第二夫人を迎えて跡取りをもう数人もうけた方がと進言したが、その数人は全員首を刎ねられている。
『俺が母上に溺愛されていたのが気に食わなかったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。真実はわからないが、暮らしに不自由はないし、成績さえ残せば煩く言われることもない。父上は基本的に不干渉だからな』
淡々と呟くメデイモスの表情をファイノンはじっと観察したが、声の冷たさも合わさって彼が何を思っているのかは読み取れなかった。けれども、もしかすると父親とは不仲だからこそ、他者や下の人間達に優しいのだろうか、となんとなく感じるところがあった。
ファイノンは褒章を与えられている戦士を真っ直ぐに見つめているメデイモスの金の瞳を見上げながら、クレオスに聞いていた残りの特別奴隷のことを久々に思い出していた。
彼と出会ってもうすぐ半年が経つ。自分と同じような奴隷があと多ければ二人も増えるのか、と思うと、妙に複雑な気分だった。
夕食の後、基本的には毎晩メデイモスに呼ばれて、彼の部屋で話をしたり指導を受けたりしているが、その時間は新しい奴隷ができればその奴隷のものになってしまうのだろうか。
それは嫌だな、と思ったが、どうしてそう思うのかはまだ明確に言葉にできなかった。彼がいい主人なのは明白だったが、それでもまだ、一生をかけて仕えようとは思えていない。さっさと解放して欲しいと言うのが本音のひとつだったが、かと言って、自分は故郷の村を滅ぼされた、身寄りのない子どもだと言うのが現実だった。今放り出されても、どうやって暮らしていけばいいのかと自問すれば、ファイノンにはその答えも出ない。
もしかするとこのままメデイモスのそばにいるのが一番いいんじゃないか、と子どもながらにぼんやり考えているうちに、式典が滞りなく終了する。
ファイノンはハッとして側仕えや奴隷たちの波を抜けると、予め命じられていた通りに、裏廊下からメデイモスの元へ向かった。
*
いつかはこんなことが起きるかもしれないと思っていたが、と兵舎に急ぎながら、メデイモスはため息を吐いた。師匠にも若い兵士たちにも何度か「こいつが奴隷だからと言って余計なことをするなよ」と言い聞かせていたが、ファイノンが候補生全員をとうとう圧倒的な力量差で打ち負かしてしまったのが引き金になったようだった。
「全員黙れ。
……ケラウトルス、事の仔細を述べよ」
若い兵士数人に地面に押さえつけられているファイノンを見つめながら、メデイモスは難しい顔で腕を組んでいるケラウトルスに声をかけた。少し離れたベンチの上では、ファイノンに返り討ちに遭わされた貴族出の子息数人が怪我の手当てをされている。
どうやらケラウトルスの目がないところで、十人程の子息達がファイノンの片腕でも折ってやろうとしたようだったが、不意打ちにも関わらず、ファイノンが圧倒してしまい、反対に手足を折ったものが複数人出たと言うことらしい。当然先に手を出したほうが悪いのだが、目撃者が居らず、子息達は結託している。
メデイモスの言葉を聞かず、子息たちは各々それらしい言葉を捲し立てているのを聞きながら、メデイモスは怒りに眉を寄せながら「黙れと言ったのが聞こえなかったか」ともう一度口にする。ファイノンは地面に押さえつけられたまま沈黙し、じっとメデイモスを見上げていた。青い瞳にぎらぎらと怒りを滲ませるその表情は、彼を買った時と同じように凶暴で、この世の全てを憎んでいると言わんばかりの様相をしている。
「貴様らの言い分はわかった。いずれにせよ、俺の奴隷には相応の罰を下す」
証拠がない以上は庇えぬな、と苦々しい気持ちで口にしながら、メデイモスは怪我をした子息に冷たい視線を向ける。
同時に、ファイノンの視線が痛いほど肌に突き刺さって来るのを感じたが、今は彼に声をかけられるわけがない。
「たかが奴隷に返り討ちに遭うようなものが戦場で活躍できるとも思えぬが
……。お前の指導が悪いのか、こいつらが不真面目なのかどちらだ?」
怒りを抑えずにメケラウトルスに視線を向けると、ケラウトルスは予め打ち合わせていたかのように、メデイモスへ自らの不徳を謝罪した。ピリッ、とその場の空気が凍りつき、へらへらと笑っていた子息たちの顔が羞恥と怒りで強張るのがメデイモスの視界の端に映る。頭の中で全員の父親の名を思い浮かべ、嫌味のひとつは送っておくべきか、と考えた。
もしこちらが怪我をさせられた側であれば堂々と文句をつけられたのだが、とどうやら五体満足らしいファイノンにバレないようにそっと息を吐いた。
「騒動を起こした全員連帯責任だ。走り込み二十周!」
ケラウトルスの一喝に不満を漏らす子息を、もう一度師が恫喝する。渋々全員が走り出すと、メデイモスはファイノンを押さえ込んでいた兵士に「そいつを座らせろ」と命令し、ケラウトルスを残して下がらせる。
どうせこの場を覗いている者が多くいるのは分かっていたし、ファイノンが子息たちに手を出した話は勝手に噂として広まってしまうだろう。彼に非がなくとも、庇えない以上、王子としては、罰を与えずに赦すことはどうしてもできなかった。
「
……言いたいことはあるだろうが、俺は聞かん。騒動を起こすなと言ったはずだ」
ファイノンは最初に命じられた通り口を開かず、じっと青い瞳でメデイモスを見つめていた。きっと心のない主人であれば、その目が生意気だと顔を蹴り飛ばしていただろう。
怒りの視線を向けられることには慣れている。ファイノンはまだまだ自分に敵わないことも師から聞いて知っている。だから恐怖はなかったが、もう少し周りを見れやっていれば、と申し訳なくは思った。ファイノンは時折兵舎での扱いについて文句を漏らすことはあったが、それほど軋轢を起こさずに今日までやってきたと言うのに、牽制が弱かったせいで舐められることになってしまった。
「
——鞭打ち百回はきついか。回数は拷問吏に任せるが、絶対に殺すなよ」
はい、と硬い声で答えた師に背を向け、明日以降のスケジュール調整をしに執事の元へ向かう。
*
「
……具合はどうだ?」
ファイノンの様子を見てきた下女に尋ねると、ようやく痛み止めが効いたようです、と返答があった。今は眠っています、と言いながら彼女の押していたワゴンに乗っていた薬の一つを手に取り、処方を確認する。少なくとも四時間は痛みが抑えられそうか、と思いながら顔を上げる。
「そうか、苦労をかけたな。あとは俺が代わろう」
「眠ったばかりですし、王子もお休みになったほうが
……。勿論あの方はわたくし共でしっかり看ておきます」
「少し顔を見てやるだけだ、すぐに休む。
……もし痛みを訴えれば何を飲ませればいい」
下女はまだ何かを言いたそうに数秒唇を引き結んでいたが、「患部にはこちらの軟膏を薄く塗ってください。もし熱が上がってきたらこちらの青い瓶の薬を三滴」とワゴンの上の薬を指した。メデイモスはその二つを受け取ると、流行り病に罹患したものを寝かせるための隔離部屋へ向かった。
執事からの報告によると、ファイノンは手のひらを五回、背中を三十回程鞭打たれたとのことだった。大人の奴隷であれば甘すぎる処罰だったが、幼い体には十分な負担だと判断された。
今回のことが原因で将来的に使えなくなっては困る、と治療は手厚くさせたが、それでも三日は痛みが続くと聞いている。
メデイモスは重苦しい溜息を吐いてから部屋に入り、薄暗い室内をゆっくりと歩いた。あまり使われていない部屋だったが、手入れが行き届いていて嫌なにおいはしない。それだけは救いか、と思いながらベッドに近づくと、ベッドサイドの棚に貰ってきた薬を起き、光源をかなり絞ってランプをつける。
背中の傷を庇うようにうつ伏せに近い格好で眠っているファイノンの姿を見下ろし、メデイモスは眉を下げた。灯りを少し強くしてファイノンの顔を覗き込むと、痛みに顔を顰めたような表情をしていた。
額に汗が浮いているのを確かめると、備え付けのバスルームに向かい、棚に置かれていたハンドタオルを取り、水で濡らして硬く絞って寝台へ戻る。
「
…………、っ
…………ぅ、」
「ファイノン?」
額の汗を拭いてやっていると、小さくファイノンが呻き声をあげる。痛みが強くなってきたのだろうか、と思いながら額に手の甲を当てた。自分の手が冷えているからか、余計に熱く感じた。
メデイモスはファイノンの髪に触れ、耳に小さな器具を押し当てる。平熱よりも高いことを示す赤色が示され、薬を飲ませるために、そっとファイノンの肩を揺さぶった。
しかしファイノンは硬く目を瞑ったまま、うう、と今度こそ魘された声をあげる。
*
村が燃えている。ファイノンは酷い手と背中の痛みに呻きながら、地に伏して燃え盛る村を見上げていた。体に走る灼熱の痛みは火傷だろうか。両親の姿を探そうと地に手をついて、あまりの痛みに体が沈む。大声で父と母を呼ぶが、あたりは逃げ惑う人々の悲鳴と怒号、村を襲った何処かの兵士たちの声、ごうごうと燃える木々、崩れ落ちる建物の騒音、羊たちの鳴き声のすべてに掻き消されてしまう。
つい数時間前まで、今日と同じ明日が来ると思っていた。羊たちの世話をし、水を汲み、変わり映えのない毎日を送る。時々村へ戻ってきた男たちから都市の華々しい、御伽噺のような生活を聞いて、僕は戦いたくなんてないし剣も握りたくはないかな、と笑って答える。幼馴染がカードを弄んでいるのに声をかける。勝負をしよう、負けたほうが明日の水汲みを一回多くやる。どう? 結果は殆ど決まりきっていて、大抵ファイノンの負けだった。ズルしただろ、と手元に残ったカードをテーブルに投げ出せば、まさか、弱いだけよ、と幼馴染が笑う。
幼馴染が数メートル先で、血溜まりに沈んでいる。辺りにはカードが散らばっていて、踏まれて、ひしゃげ、汚れている。せめて彼女のそばに行きたいと肘を使って這う。途端、鋭い痛みが背中を走り、呻き声を上げた。
この傷はどうやってできたんだっけ? 斬りつけられた? と考えたところで、ヒュッ、と鞭が空気を切る音が耳に響く。皮膚が裂ける痛みと熱に声が漏れ、体が沈む。痛みで何も考えられなくなり、とうとう震えて縮こまり、身動きが取れなくなる。誰か助けて。助けが来なかったことを知っているのに、思わずそう願っていた。
肩を揺さぶられる感覚に、痛みが頭の先から足の先まで突き抜けた。悲鳴をあげて暴れると、ファイノン、と焦った声が響く。
ファイノン、ファイノン。聞き慣れない名前だった。誰だっけそれ。肩に触れている手が燃えるように熱い。ファイノン。焦ったように、何度も名前を呼ばれている。ファイノン。しっかりしろ。頬を叩かれる感触に、痛っ、と声が漏れた。
思わず、閉じていた目を開ける。炎よりも耀く金髪が目に入り、ハ、と思わず息を吐いた。現実と夢が混ざっている。まばたきをするたびに、炎の幻影と幻聴が遠ざかり、だんだんと静寂が戻ってくる。
——悲鳴と轟音が消え、辺りにはランプ以外の灯りはなく、焦った顔をした幼い少年が自分の頬を叩いていることに気がついた。
「
……メ、デイモス
……?」
「気がついたか? ひどくうなされていた、薬を飲め」
銀の匙を口許に添えられ、ファインのはまだ少し混乱したままどうにか口を開く。そっと口の中に流し込まれた酷い味のするそれに思わず吐きそうになると、「我慢しろ」と口を押さえられてしまった。
なんとか飲み込むと、今度は背中と手の痛みが現実のものとして認識され、痛い、と思わず涙声が漏れた。
「庇ってやれなくてすまない
……」
背中の包帯を剥がされる痛みに呻いていると、メデイモスの心の底から落ち込んでいる声が聞こえる。ファイノンが潤んだ視界で顔を上げると、「薬を塗ってやるから」と申し訳なさそうに表情を歪めていた。
拙いやり方で薬を塗り、包帯を巻き直してくれるメデイモスをじっと眺めているうちに、薬が効いてきたのか少し痛みの波が緩慢になってくるのがわかった。
下女にやらせればいいのに、と溢したファイノンに、「主人の勤めに口を出すな」とメデイモスが気まずそうに返し、水はいらないか? と続けて尋ねられた。
今はいい、と首を横に振ると、そうか、とメデイモスに濡れた目尻をそっとタオルで拭われ、ファイノンは恥ずかしさから顔をシーツに埋めた。
「窒息するぞ」
心配そうに髪を撫でてくる手に、誰のせいだと思ってるんだ、と思わずこぼしてしまった。僕は悪くないのに、と続けたファイノンに、「俺が悪い」と静かな言葉が返ってくる。
そうかもしれないけど、違うだろ。ファイノンは鼻を啜りながら、「君じゃないだろ」とメデイモスには顔を向けないまま口にする。
悪いのは僕をリンチしようとしてたあいつらであって、君じゃないじゃないか。
訓練用の木製の武器を手にしていた貴族の息子たちの顔を思い出すと、胃がむかむかしてどうしようもなかった。
「いや、悪いのは俺だ。お前が嵌められないよう、もっと顔を見せておくべきだった。
……すまなかった」
ファイノンの肩に手を置きながら、「二度はない」とメデイモスは口にする。
返り討ちにされて怪我をした子息の家には、抗議文が届く前に既に治療費についての書簡を送っていた。王族奴隷に手を出した愚か者がいると父に先に気づかれたほうが厄介なことになる。最悪首が物理的に飛びかねない。
たかが奴隷一人で、将来的に使えるであろう貴族を失うわけにはいかなかった。
「お前に手を出せばどうなるか、わからなかったとは言わせん」
「
…………………………」
怒りを押し殺すような主人の声に、ファイノンはシーツに埋めていた顔をようやく上げた。肌寒さのせいか熱のせいか、ファイノンは体が震えていることに気がついたが、今は自分で布団を掛け直すこともできなかった。
「寒いのか?」
ファイノンは少し考えてから、寒いみたいだ、と溢した。その答えに、メデイモスは痛みを与えないようにそっと布団をかけ直し、布団の上から肩に手を置く。
「
……君は眠らなくていいのか、もう夜も遅いだろ」
今は一体何時だろう、とファイノンは思ったが、視界のはじにも時計は映らない。
メデイモスは「そんなことは気にするな」とファイノンの髪に再びそっと手を置き、まるで愛玩動物にしてやるように優しく撫でている。
彼にそうされるたびに落ち着かない気分になるが、こんな風に髪を撫でられるのを嫌だとは思わなかった。ファイノンはじっとメデイモスの顔を見つめながら、「どうして優しくしてくれるんだ? 僕は君に買われたただの奴隷だろう」と口にした。
同室の奴隷たちの扱いが他の奴隷よりいいことはわかっていたが、それでも、自分ほど甘やかされているものはいないだろう、とここ数ヶ月ずっと感じていた。いくらファイノンがまだ子どもだとは言え、自分の買ったものを毎夜部屋に呼びつけて、無聊を慰めるためでもなく、会話をする主人の話は聞かない。
将来的にお前を愛人にするつもりがあるから優しくしているのだろう、とクレオスをはじめとした王族奴隷たちは一様に口にする。彼らは揶揄するでもなく真剣に、半ば羨望の眼差しを伴って、ファイノンに言い聞かせるかのように言うが、主人であるメデイモスにそのつもりがないことは既に聞いている。そうなると、余計にわからなかった。
髪を撫でながら黙っているメデイモスをじっと見つめれば、意外な質問だったのか、彼は年相応に幼い表情で困惑を表していた。
そう言う顔もするのか、と考えながらじっと見つめていると、長い時間をかけて、メデイモスが口を開く。
「
……以前にも言ったが、お前は将来的に俺に必要になる気がしている。だからできれば、お前には誰が見ても『使える』と思われる男になって欲しい」
メデイモスはファイノンの髪から頬に手を滑らせ、ファイノンの頬骨を親指で優しく撫でた。落ちてきた前髪を指先でそっと払い、海のように青く、中心で陽光が眩しく輝くような稀有な瞳を見つめた。
「あとはまあ、お前の顔が愛らしいからだろうな」
ふ、と笑って、明らかに冗談だとわかるように口にすると、「な
……」とファイノンが絶句した。
熱で少し赤くなっていた顔が、さらにじわじわと耳まで赤くなって行く様子を眺め、メデイモスは「なんだ、満更でもないのか?」と笑みを深くする。違う! と叫んだファイノンが痛みに顔を顰めるのを見て、「興奮すると怪我に障るぞ」と真顔で口にする。
「
……君、そんなつもりはないなんて言ってたけど、やっぱり僕を愛人にするつもりなんじゃないか?」
疑うような目をするファイノンに、ハ、とメデイモスは今度こそ声をあげて笑う。
「俺は俺より強い男しか愛人にはしないつもりだ、今のお前には難しいだろう」