事故で内臓のほとんどが破壊されてしまった。アグライアとトリビー先生たちは樹庭の学者たちも頼ってオンパロス中の医者を探してくれているけれど、正直自分が絶望的な状況だろうということはわかっている。
今の僕は指先ひとつ動かせないどころか、まばたきすら殆ど叶わないのだ。包帯で覆われた視界は常に暗く、聴覚と思考だけが生きているような感覚だった。本音を言えば、触覚と痛覚が曖昧なのが幸いだった。エーグルの神権で作られた機械が僕の呼吸と心臓をどうにか確保しているとかで、口と鼻、それから身体中にも何かの管が付けられている、のを医者の会話で知る。僕にはその感覚がないが、確かに口を開こうとしても無理なので、そうなのだろう。
既に半神であれば、といつだってほとんど感情の読めないアグライアが、トリビー先生に苦しそうに溢している声が随分と遠くから聞こえていた。彼女でもそんな声を出すことがあるのか、と考えながら、事故に遭ったのが僕でなくモーディスであれば、きっと皆をこれほど悲しませることもなかっただろうな、とも思う。もっとも、僕としてはモーディスが同じ目に遭い、例え半日で復活するとしても、僕と同じくらい心配して欲しいと願ってしまうのだが。
モーディスは今頃どうしているだろう。彼がクレムノスに旅立ってしばらくが経ち、当然のように連絡はつかなくなっている。
もしかするとアグライアのようにニカドリーの神権だかなんだかで僕たちのことを把握しているかもしれないが、きっと彼は僕たちを信じているから、もしわかるとしても敢えて把握せずに、クレムノスで暗黒の潮と戦っているような気もした。
頭の中で何度か真剣に祈ってみようかと考えてしまったが、一体彼に何を祈るというのだろう? まだ死の川を渡らせないで欲しいと頼むのであれば、彼ではなくタナトスに祈るべきだった。
病室の前では昼夜を問わず衛兵が警戒していて、常に張り詰めた空気が漂っていた。私の許可のない人物を絶対に通さないでください、とアグライアは衛兵たちに言い聞かせていたし、病室の中にはラフトラが必ず一体控えている。
時々ナナシビトの二人が病室を訪れて、他愛のない日常話をして去って行く。わざと気楽そうに話しているのがよくわかり、それにも申し訳ないな、と思った。彼らを火追いの旅に誘ったのは僕なのに、まさか、僕の方が先にこんな事故に遭ってしまうなんて。モーディスがオクヘイマにいた頃は散々彼と死線を潜り抜けて来て、骨董品の買い付け以外ではそれなりに運がいいと思っていたはずなのに、いつの間にか僕の運はどこかですべて消費されてしまったのかもしれない。
日に日に意識の継続する時間が短くなっているのを感じながら、申し訳なさや不甲斐なさ、キュレネの敵討ちが僕の手で叶わなかった事実、あいつに言い残したことがぐるぐる頭を巡っていた。正直なことを言えば、このまま重圧から解放されるかもしれない、と思うとほっとしてしまう気持ちもなくはなかったが、今ここで終わりにしてしまえば、あいつに託された願いが叶えられなくなってしまう。彼の民とオクヘイマの人々の共生を繋ぐ手助けをする。それを請け負ったのは僕で、僕がこのまま死んでしまえば他の誰にも担えず、もしかするとクレムノスの人々はオクヘイマを出て、故郷へと向かってしまうかもしれない。エスカトンの迫るこの世で、僕たちの護衛もなしにオクヘイマの外を歩むのは、ただ命を縮めるだけの行為だ。その事実が一番恐ろしい。
薬のせいなのか加護のせいなのか、ここ数日はずっと夢と現実の狭間を彷徨っているような気分だった。子どもの頃の思い出を歩んだり、オクヘイマで過ごした日々をぼんやり過ごしたり、オンパロスを放浪していた頃の風景を見つめたりしていた。現実の僕は病室のベッドで眠っている。時々、ふとこれは夢だということに気がついて、その瞬間だけ痛みが少し戻り、目が覚める。指先ひとつ動かせず、呼吸も満足にできない。それが今の僕だった。
時間の感覚が希薄だ。きっとまた数日は経っただろう。
今の僕は、イグサの薫る村をモーディスと二人で歩む夢を頻繁に見ていた。モーディスにはエリュシオンの話を殆どしていないし、そもそも無くなってしまった故郷だから、どんな形であろうと、彼とこんな風に日々を送ることは叶わない。
多分、モーディスがオクヘイマを去ると決めた時、本当はいなくならないで欲しいと思っていたから、何もかもを失いそうになった今、こんなどうしようもない願望を「見て」しまうのだろう。
本当はずっとそばで一緒に終末に抗って欲しかっただとか、君が行くしかないなら僕も戦友として付いていくよとだとか、どうしたって言うことのできなかった言葉を延々と僕は幻覚のモーディスに聞かせている。モーディスは困ったように少し眉を下げていたり、まるで子どものわがままを聞く保護者のように曖昧に微笑んでいたりしていた。モーディスにこんな恥ずかしい事を口走ったことはなかった。だから、彼の反応は少しもわからない。
その証明のように、モーディスは否定も肯定もせず、ただ黙って僕を見返している。僕の泣き言がおさまり、自己嫌悪で後悔を始め、これは夢だ、と目が覚めるその瞬間まで。
耳鳴りのように誰かが叫んでいる声が聞こえる。痛みと感覚が薄いせいか、何を言っているのか、誰なのか、少しも聞き取ることができなかった。体に触れられていることはわかるが、意識が途切れかけていて、詳細は何もわからない。
口から管が外されて、頬を叩かれたような気がする。今なら、たったひとつだけ願える気がした。
なんだったかな、確か、あいつがいなくなる時も、似たような言葉を口にしていた人がいたような気がする。でも、僕が願うならもう少し近い言葉にするだろう。
だって長い間あいつの隣にいたのは僕で、一時は僕があいつの神を継承しようとさえしたんだから。
創世の渦心で約束した通り、きっと、願えば来てくれるだろう。今になって何故か、そう確信していた。
——僕を助けてくれ、メデイモス。
クレムノスで見た天罰の矛の眩い光と、雷鳴が暗闇を裂き、魂を灼いてしまう感覚がした。
そう感じた瞬間、「僕」がほどけて行く。
*
「いっっっっった!?」
目が覚めた瞬間、全身に激痛が走ってベッドに沈む。あまりの痛みに体が意図しない方向に硬直し、ガンッ、と落下防止の柵に手足を強く打ち付けた。けたたましい警戒音があたりに響き渡り、わっ!? とラフトラの、アグライアとは少しも似ていない高くて可愛らしい慌てた声が耳を打つ。
アグライア様を呼んで来てください、と扉の向こうの衛兵に言っているのが聞こえた。慌ただしく病室に看護師や医者が訪れて、とりあえずと痛みを緩和する処方をしてくれる。
なんとか痛みが落ち着いてひと息をつくと、大きな瞳に涙をいっぱいにためたトリビー先生が椅子の上に立って僕の手を握っていた。泣くのを我慢して喋れなくなってしまったトリビー先生のかわりに、アグライアがことのあらましを教えてくれる。
「へえ、そんな手があったのか」
体に巻かれた包帯の上からそっと腹を撫でていると、「当然ですが、この話は絶対に外に漏らさないでください。あなたが救世主として選ばれていなければ、きっとこのような奇跡は起きていないでしょうから」
と、アグライアが少しも感情の読めない顔で言う。もう少し嬉しそうな顔をしてくれたっていいのにな、と考えているあたり、僕はまだ本調子ではないようだ。
「運命はやはり、貴方に救世の道を行けと言っているのでしょうね」
アグライアの静かな声を聞きながら、うん、と左胸を押さえて息を吐く。鼓動に合わせてずきずきと鈍い痛みが続くのを感じながら、ベッドの上で身動きひとつできずに横になっていた間、あれほど痛みを感じなかったのは、きっと本当に死にかけていたからだろうな、と今更のように思う。
「……それで、モーディスは?」
「顔くらい見ていけばいいでしょうと一応は言いましたが、そんな暇はないとすぐにクレムノスへ戻ってしまいました」
「なんだ、お礼くらい言わせてくれればいいのに」
「恐らくですが、うまくいけば今生では二度と会わない、なんて言ってしまった手前、気恥ずかしかったのでしょうね」
アグライアにもそんなことを言ったのか? と一瞬なんとも言えない恥ずかしさを覚えたが、そういえば、そもそもオクヘイマで交わされるすべてを彼女は把握していたんだった。と言うことは当然、僕とモーディスの最後の会話の何もかもを、彼女は知っているのだろう。
「あなたにこんなことを言う必要はないと思いますが」
アグライアは珍しく言葉を言い淀み、数秒、なにか大事なことを思案するように唇を引き結ぶ。
彼女が口にしようとしている言葉を予測してみるが、流石に何も思い浮かばない。
「ファイノン、あなたを生かすために、メデイモスが殆どの臓器を生きたまま取り出すことに同意したことは、覚えていてあげてください」
「…………………」
きっと「ただの」不死であっても、モーディスはそうしただろう。死んでいるうちに取り出せ、と口にしてその場で首を切る姿を想像して胸が悪くなりながら、わかってるさ、とどうにかそれだけを絞り出した。
僕が願った通りに、モーディスはオクヘイマにこっそりと戻り、アグライアに連絡をしたらしかった。なんとなく使える気がする、と主張するモーディスの言葉をアグライアも誰もはじめは信じなかったが、ともかくとして、モーディスの臓器は僕の体と相性が良いということがわかった。
既に半神となったモーディスの体からは「中身」が殆ど取り出され、今は僕の中で動いている。
以前よりもずっと死ななくなった彼は眉ひとつ動かさず、開かれた腹を自分の指でくっつけると、意識も明瞭なまま、「恐らく二度はないだろうと伝えておけ」とアグライアに言って、再びオクヘイマを去ってしまったようだった。
「これは私のひとりごとですが」
運ばれてきた苦すぎる薬を飲んでいると、アグライアが優雅にお茶を飲みながら、ぽつりと口にする。
「あなたひとりであれば、クレムノスへ行くことも、オクヘイマへ帰還することもできると思います。——勿論、オクヘイマの主人としては、黄金裔の一人が長期間聖都を開けることを推奨したくはありませんが」
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