『これにしよう。一番いい目をしている』
瞳だけをぎらぎらと復讐の炎で鈍く光らせた子どもを見て、少年がそう口にした。
*
「
——そこまで、勝者、クレムノスのファイノン」
低い銅鑼と甲高く響くラッパの音に、今にも相手の首を刎ねる寸前だったファイノンの手が止まる。数秒前、自分の大剣でへし折った相手の武器が落下して地面に落ち、カシャン、と硬い音を立てるのが聞こえた。
決勝の相手も大したことがなかった、と思いながら、ファイノンは立ち上がった対戦相手には視線も向けず、敵国の金糸の主人と何やら機嫌が良さそうに会話を交わしている自らの主を見つめた。
燃えるような赤い毛先に輝く金髪を持った男、クレムノスの次期国王、メデイモス。他国からは暴君と呼ばれて久しい現国王オーリパンの妻である、豪傑のゴルゴーの美貌を色濃く受け継いだと称される耀く姿に瞳を細め、兵士に促されるまま、二人の主人の前へ歩み出る。
会場では賞賛と怒号の声が入り混ざり、静かにしろ! と兵士が民衆を沈めている。オクヘイマ市民としては、奴隷出身でありながら騎士を名乗る男が勝って面白くないようだった。今回の御前試合は同盟国であるオクヘイマの勇士とクレムノスの勇士を競わせるというものだったが、奴隷出身の戦士はファイノンただ一人だった。
数々の名門出の兵士といくら競わせても、クレムノスではファイノンの剣術に敵うものがなく、オクヘイマの主人の前で行われる御前試合ともなれば、ファイノンを選出しない訳にはいかなかった。同盟国相手に敗北を喫するのは恥晒しもいいところだ。
『いくら殿下の覚えめでたき騎士であろうとも、我が国の伝統を考えれば槍術の優れた兵士を選出すべきだ』
主人と敵対する一派の貴族は決定に不満を表したが、結局のところ、ファイノンが一番得意なのが剣術というだけで、別段槍を扱えないわけではないことを周囲に知らしめただけだった。
メデイモスは倒れ伏した兵士たちの前で息一つ乱していないファイノンを見下ろし、よくやった、と金色の瞳を細め、微笑を浮かべた。
その表情を見るたびに、ファイノンは生きていることを実感する。
主の幼い頃に散々批判だの中傷だの聞いてきたからか、市民の怒号は一つも気にならなかった。ファイノンはまるでその声が聞こえないかのように、穏やかな表情で跪き、主人へ剣を捧げる。
クレムノスではもう長いこと、市民からこんな反応が表立って返ってくることは無くなっていた。誰もが表立っては文句を言えないほど、つまりは負け犬の遠吠えとしか受け取って貰えないほどファイノンが強かったからと言うのもあるし、人格者のメデイモス王子の騎士だから批判しづらいと言うのもあるだろう。
跪いたファイノンを見下ろしながら、「よくやった」と主が笑った。そっと視線を上げた先の主人の誇らしそうな表情に、ファイノンは先程までの試合よりよほど胸が高揚するのを感じる。
肩にいくら星が増えようと、いくら豪華な個室を与えられようと、結局この男の誇りのために自分は生きている。
「後で褒美をやろう、夜までに考えておけ。
——汗を流してこい」
オクヘイマの主人から宝剣と見事な金糸の刺繍の入った布を受け取り、主人がファイノンを立たせる。
ファイノンは剣を地に突き立てるように敬礼し、試合の控え室へ戻った。道中、何人もの兵士に声をかけられたが、どれも笑顔で挨拶をして碌に会話も聞かなかった。
汗を流すと、急いで会食を控えた主人の背後へ戻る。ファイノンのいない間に護衛を務めていた兵士とポジションを交代すると、ファイノンを認めた主人が座ったまま振り返り、早かったな、とどこか呆れたように笑う。
「この後も遅くまで会食が続くぞ。途中で倒れるなよ」
「そこまで柔ではありません」
「ならいい。
……無理はするな」
小さく潜められた言葉は、屈んでいたファイノンの耳にしか届かなかっただろう。けれどもその言葉は、先ほどの試合で得た全ての傷を癒してくれるような気がした。
*
十年以上前、ファイノンは奴隷として今の主人であるメデイモスに買われた。今でこそこの商売は行われていないし、奴隷制度自体も薄れつつあるが、当時は子どもや若い男を近隣諸国や他国から買い集め、あるいは攫い、貴族はそれらを労働力として飼うのが一般的だった。
九歳で仮の成人を迎えるクレムノスでは、なにかひとつ大きな贈り物をされるのが一般的で、貴族や王族であれば奴隷を与えられる
——自らの手で選ぶ
——ことが多かった。伝統に則り、市場へとやってきた幼いメデイモスは、そこで村を焼かれた孤児だという少年のファイノンを見初めた。珍しい白髪を持った子どもは御婦人方に人気が出るだろうと思われていたが、酷く暴れるだとかで、口と手足に枷をはめられ、酷く叩かれた様子があった。
家臣たちにはそんな反抗的な目をした子どもよりも今すぐ使えそうな、見るからに頑強そうな大男にすべきだと進言したが、「こいつがいい」と譲らなかった。
『いい目をしている。うまく使えれば俺の優秀な手足になるはずだ』
瞳だけをギラギラと輝かせ、殴られすぎて床に転がされている土まみれの薄汚い子どもを見ながら、幼い主人は微笑を浮かべた。
どうせ誰かに飼われるしかないのであれば、大人に殴られたり裕福で肥えた女共の慰みに使われるより、同年代のガキに飼われたほうがきっとましだ、とファイノンは考えた。いつかはこいつを殺して逃げだす必要もあるし、と床で主人と奴隷商を睨みつけていたファイノンを、奴隷商が無理やり立たる。口枷を取られ、おい、と頭を殴られる。ご主人様に名乗れ、と言われ、ファイノンはそこでようやく、本当に真正面から、メデイモスを視界に入れた。
首を巡らせた瞬間、強烈な光で目を焼かれた感覚がし、思わず瞼を下ろした。いや、さっきまでだってずっと見てたじゃないか、と自分の反応に戸惑う。恐る恐る瞼を上げ、もう一度彼を見る。どんな黄金よりも眩く力強い金の瞳が、じっと自分を見つめ返している。金糸を折り合わせたような髪と、血潮のように燃える赤い毛先が艶やかで王族らしく手入れされた耀く肌に浮かぶ気品。それでも自分と同じ子どもなのだ、とはっきりわかる丸い輪郭に、未成熟な手足と細い体躯を持った少年。
奇妙な予感だった。きっとこれは運命で、いいや、運命にしなくちゃいけない、とそう思った。彼に出会って、今日から自分の人生は変わるのだと感じていた。出会うべくしてここで出会ったのだと、なぜだかそんな予感がした。
おい、ともう一度後頭部を殴られ、視界がぐらついた。名乗れ、と首根っこを掴まれ、ふらついた背をまっすぐに立たされた。
なんでも、覚えていないから、とファイノンは
——当時は名無しの少年が名乗る。あなたの好きなように。そう口にすると、幼い主人はふむ、と考えるように腕を組む。視線を伏せた目許の長い睫毛が頬に落とす影が綺麗だった。
村を焼かれて、すべてを失った子どもは記憶が一部欠落していた。自分の名前と家族の顔が思い出せない。しどろもどろにそう告げると、そうか、と主人が顔をあげる。
『ならお前は今日から『ファイノン』と名乗れ』
周囲の大人の呆れたような、動揺するような声を聞きながら、なぜそんな反応をするのかとファイノンは首を傾げた。
『風呂に入れてやれ、そうすれば俺の言いたいこともわかるだろう。こいつが俺の前に相応しくなったら寄越せ』
城に連れてこられたファイノンは身体中を磨かれ、髪と肌を手入れされて、白と赤の柔らかで滑らかな布を着せられた。今までに嗅いだことのないいい匂いと手触りのいい服に戸惑いながら、入れ、と主人の部屋へ押し込まれる。勿論、何かあれば引きずり倒せるようにと足枷がついたままだったし、何人もの兵士を引き連れていた。
『ほら、俺の見込みの通りだっただろう』
ファイノンを連れてきた老兵に、メデイモスは満足そうに視線を送る。ええまあ、と不服そうに呟いた男の片目には大きな傷があった。
ファイノン
——耀く者。薄汚れた灰と濁った暗い冬の海のような色をしていると思われた少年が綺麗に洗われると、主人がそう名付けた通り、誰の目も引く、冴えた月光のような銀髪と陽光に煌めく水面のような青が現れた。
『ケラウトルス、明日からこいつに稽古をつけてやれ。ただの勘だが、こいつはきっと筋がいい。勿論作法もな』
主人の前で跪かされていたファイノンは、満足そうに髪に手を差し入れで手触りを確かめ、ついで、ファイノンの顎を持ち上げて顔をよく覗き込んでくる少年の笑みをじっと見上げていた。
そうされても、何故か少しも不快感はなかった。けれど、奇妙に鼓動が跳ねて、視界が狭まり、目の前がちかちかと明滅する。息がしづらい。きっと彼は魔術か何かを用いて自分を攻撃しているのだろうと思った。
渋る兵士と家臣に「五分だけだ」とメデイモスが言い、ファイノンは主人と二人きりで豪奢な室内に残された。
『お前は奴隷として俺に買われた身だが』
椅子に腰掛け、頬杖をついた主人の姿は落ち着いた話し方もあってか、とても同世代だとは思えなかった。ファイノンは一言一句漏らすまいと耳をそばだて、彼の言葉を聞く。
『俺はお前が優秀な兵士となることを望んでいる。その暁には、市民の身分を与えてやることができるだろう。もちろん俺の右腕としてにはなるだろうが、その頃になれば俺も考えが変わっているかもしれん。どこへとなり行けと言う可能性もある』
主人の言葉は不可解だった。奴隷を手放そうとする貴族が果たしてどこにいるだろう、と訝しむファイノンに、主人は優しく笑い、「奇妙な話だと思うだろうが」と口許を綻ばせる。
『お前を見て、何故だか今、手を差し伸べてやるべきだと感じた。ただの直感だ。理由はない。勿論使えないと判断すればただの奴隷と同じように重労働へと回すだけだが
——俺の直感を信じさせろよ、ファイノン』
だから励め、とどこまでも強者の立場から、主人が艶然とする。
*
果たして主人の言葉は正しく、ファイノンは師匠であるケラウトルスすら唸るほど、兵士としての頭角を現した。槍術はつまらないと大人顔負けに大剣を振り回し、奴隷に稽古をつけてやる、と息巻く大人たちをいとも簡単に叩き伏せる。
『メデイモス様の目は確かに正しかった。あのお方も優秀な戦士だから、きっと一目でお前の才能を見抜いたのだろう』
大人たちに混ざって鍛錬をしている主人を見ていたファイノンに、教師がそう口にした。
僕よりも強いのか、と気が大きくなったファイノンが尋ねると、「今のお前が敵うお方ではない」と一笑される。やってみなくちゃわからないじゃないか、と唇を尖らせたファイノンに、言葉を慎め、と普段はそれほど言葉遣いにうるさくない唯一の教師が笑わずに言う。
『お前があのお方に反旗を翻すのであれば、私はあのお方に憎まれようとも、お前を処分する義務がある』
『
……ただの手合わせだ。彼を害そうとは思っていないよ』
これは本心からだったが、きっと当時は誰も信じていなかっただろう。奴隷として異国の王子に飼われているのは不幸なことだ、と憐れみと嘲笑を交えて誰しもが言う。いくら功績を上げても所詮奴隷は奴隷だと誰もが信じて疑わなかったからだ。
けれど、拾われてから数年、メデイモスはファイノンにけして理不尽な暴力は振るわなかった。勿論人前で粗相をすれば罰を与えられることもあったが、そんな時、彼は必ず夜になるとこっそりファイノンの元を訪れて、「二度とするな、こんなことを俺にさせるな」と溜息をこぼしながら傷口に薬を塗ってくれていた。
手のひらを裂かれたファイノンの手に丁寧に薬を塗り、包帯を巻き、熱を出したファイノンの額に乗せた氷嚢を取り替えながら眉を下げる横顔を見つめて、下女にやらせればいいのに、と溢したファイノンに、「主人の勤めに口を出すな」と気まずそうに返す日があった。何故こんなに彼が優しくしてくれるのか、ファイノンにはわからなかった。わからなかったが、彼の優しさが日々積み重なっていくうちに、誰かに不当な扱いを受けたり罵倒されたり憐れみを向けられるたびに、彼のために生きていきたいと強く思うようになっていた。
日中の鍛錬と作法と勉強を終え、日が暮れると、必ず主人はファイノンを部屋へ呼びつけた。主人の部屋はいつでも清潔でいい匂いがし、彼自身からもいい匂いがしていた。
教師から聞いたぞ、と口にした主人は随分と機嫌が良さそうだった。
彼は白い虎の毛皮の敷かれた長椅子に腰掛けながら、灰色の毛並みをした小さな動物(キメラと呼ばれる生き物で、同盟国であるオクヘイマから王子へと贈られたものだった)を撫でている。ファイノンは主人の膝の上で、間抜けなだらしのない表情でごろごろと喉を鳴らしているキメラを見つめながら、どうにも落ち着かない気分になった。膝の上に頭乗せて、僕もその手に撫でてもらいたいと強烈な衝動が湧き上がる。
『なんだ、こいつが気に入らないか?』
余程じっと見つめていたのか、主人が小さく笑った。膝の上から下ろされたキメラががうがうと不満そうに鳴いて、主人の足の周りをうろうろと歩いている。ファイノンは自分の願望を見透かされた気分になり、顔を赤らめた。そう言うわけじゃ、と慌てて首を振ると、「来い」と手招きをされ、ふらふらと近寄る。
『俺と手合わせをしたいそうだな』
跪いたファイノンの髪を撫でながら、主人がそう口にした。まるで歌うような声音で、嘲りは少しも感じなかった。
ファイノンはじっと主人の顔を見上げながら、「もし僕が君に勝てたら、何か褒美をくれないか」、と口にした。人前では敬語を使うよう厳しく指導されていたが、二人きりならば良い、と主人は馴れ馴れしく振る舞うことを許した。
二人きりの時は主人と奴隷ではなく、ただの友人でいいのだと語ったメデイモスの真意が、まだファイノンにはわからない。けれども、その明らかな特別扱いが心地よかった。王侯貴族に生まれようとも、誰も彼とここまで近しい関係にはなれないことを、この数年、そばにいて良く知っている。
『褒美?』
髪を撫でていた主人が眉を寄せ、考えるような素振りをする。その瞳に走った微かな憂いを感じ取り、ファイノンは恭しく主人の手を取った。
『市民権をくれと言いたいわけじゃない。それは言わない。もし君が僕を手離したいと思う時が来れば、僕を殺してくれればいい』
『
……………………なら、何が望みだ?』
それは君に勝った時に言うよ、とファイノンは指先に口付けを落とした。視線を上げた先で、明らかに困惑しているメデイモスの表情を見、幾分気分が良くなった。
*
結局、ファイノンがメデイモスに勝つまでには、それから数年の月日を要した。それだって殆ど偶然のようなもので、同じ条件でもう一度戦えば勝てたかどうかは少し怪しかった。唖然として地に尻をついていたメデイモスを立ち上がらせた師匠も同じような言葉を口にしたが、メデイモスはそれを制し、「勝ちは勝ちだ」言った。負けたくせにやけに晴れがましい笑顔で、よくやった、とファイノンに莞爾む。その表情と姿に後光が差しているように感じ、ファイノンは我知らずに膝を折っていた。
『お前が以前望んだ通り、褒美をひとつやる。勿論必ず叶えられるとは立場上言えないが
——俺はまだ王子であって、王ではないからな
——、とりあえずは言ってみろ』
褒美をねだった頃であれば、もしかすると違う望みを口にしていたかもしれない。けれどもそれから月日が流れた今、メデイモスの置かれた立場や、彼が周囲に望まれているものを少しは知っている。
自分の望みはきっと彼を困らせるだろう。けれども、では、他に誰が適任なんだ? と言えるだけの力をファイノンはすでにつけていた。クレムノスでファイノンに敵う戦士は最早、眼前の次期国王である、メデイモスその人以外にはいなかったのだから。
『僕をあなたの騎士にして欲しい。
——あなたのゆいいつの』
*
「肩が凝ったな
……」
豪奢な白地の布の敷かれた長椅子に腰を下ろしたメデイモスが溜息を吐き、ファイノンは「本当に」と先ほど着替えさせた主人の重い式典用の服を丁寧に整えて籠へ重ねておく。
今夜の会合はいけすかないオクヘイマの貴族たちとのものだった。停戦条約が結ばれ、クレムノスとは同盟を組んで久しいが、現王オーリパンの暴君
——もとい、オクヘイマ以外の他国侵略の苛烈さを憂慮されているのだろう。北方遠征でエイジリアを滅ぼす際、オクヘイマの主人である『金糸のラプティス』とは、納棺師と呼ばれる聖女を傷つけまいと約束していた。彼女は金糸の遠縁で、鎖国的な宗教国家であるエイジリアから彼女を連れ出したいと長年考えていたらしく、手を出すことに問題はないとの回答だった。
聖女はオクヘイマへと送り届けられ、約束は守られたように思われたが、実際は保護する際、命令を無視し、聖女とは名ばかりで、「死」に魅入られた気味の悪い疫病神を亡き者にせんと槍を持ち出したものがいた。間一髪、王子殿下の騎士たるファイノンが命令を無視したクレムノス兵の首を容赦なく刎ね飛ばして守られたものの、騒動は聖女を通して金糸の耳に入り、こうして御前試合をダシに聖都に呼び出されていると言う次第だった。
オーリパンがのらりくらり金糸に言い訳をするのを聞かされ、金糸に「メデイモスがいなければ、この同盟はなかったことにしても構いませんよ」と約束を守った立場にも関わらず、さらなるプレッシャーをかけられ疲弊していた。
俺の命令を聞けない騎士など不要だ、その時がくれば潔く死ね、と皆の前で言い含めておいてよかったな、とメデイモスは長椅子に足を乗せ、酒精でぐらつく視界に不快感を覚えてため息をつく。
同志の首を刎ね飛ばしたファイノンに注がれた数多の視線を思い出し、やらせたくはないことをさせることが増えた、と目を閉じる。
外套を脱いできたファイノンの足音が聞こえ、表情を消す。余計な心配をしていると悟られるわけにはいかない。
「休む前に湯浴みをした方がいい」
クレムノス人は酒の強さも戦士としての強さだと言われているため、会食の席で飲まないわけにはいかない主人は、少し頬が赤くなっていた。熱い頬を手の甲でファイノンがさすると、手の冷たさが気持ちいいのか、そうだな、と言いながら頬を擦り寄せられた。
その仕草で簡単に煽られ、ファイノンは口を噤んだ。いつもよりずっと優しい瞳で見上げてくる主人の表情をじっと見下ろしていると、ふ、と主人の口許が綻び、眦が緩められる。瞬きをするたびに瞳から金粉が溢れてくる錯覚を覚え、ファイノンはますます唇を引き結ぶ。
「顔に出過ぎだ」
ファイノンの頬に手のひらを当て、メデイモスが困ったように笑う。彼を買ってからもう長く、騎士に任命する以前より表情管理も兵士の仕事のうちだ、と散々教えている筈なのに、二人きりになると、いつまで経ってもすべてが下手になる男だった。
「どうせここには君しかいない」
甘えた囁き声で眉を寄せたファイノンに「身の程を弁えろ」と口先だけで溢し、メデイモスは手のひらを添えた頬に微かに力を込め、顔を引き寄せてやる。降ってきた優しい口付けを何度か許してやり、さて、と頬を染めながら、物足りなそうな顔をしているファイノンの胸を押す。
「お前の言う通り、まずは湯浴みをせねば。手伝え」
ファイノンは命じられた通り、傲岸不遜な態度の主人の手を取った。毛足の長い絨毯の敷かれた室内を歩み、事前に侍者たちによって整えられたバスルームへ向かうと、主人の服を脱がせて、彼の肌や髪を磨く。濡れて色を濃くした美しい麦畑から毛先の血の色に向かって丁寧に櫛と指を通し、けして傷をつけないように梳かして行く。
昔は彼の身の回りの世話は下女たちがやっていたが、ここ数年はずっとファイノンの役目だった。俺の騎士ならばそうしろと主人に望まれたわけではなく、誰にも彼を触れさせたくなかったからだ。
今となっては完璧なバランスの美しい肉体を知っているのは、きっとこの世で自分だけだろう。そう思うたび、ファイノンはえも言われぬ強烈な多幸感に襲われた。
バスルームを出、長椅子の上で柘榴の香りのする香油を髪と肌にしっかりもみ込んでいると、「お前も浴びてこい」とメデイモスが少し眠たそうな顔で言う。酒精が今まさに回っているのか、口調も幾分か柔らかい。
そんな姿を誰にも見せてくれるな、とどこにも吐き出せない感情がファイノンの胸中に満ちる。ざわついてささくれ立ったファイノンを察してか、主人はしっとりと濡れた手を伸ばし、ファイノンの首に嵌ったチョーカーに指を引っ掛ける。ぐっ、と引いて顔を近づけさせると、鼻先に噛みついてすぐに手を離した。
「君が眠らずに待っていてくれるなら」
「眠っていれば起こせ、確約はできん。
……褒美を聞くのを忘れていたな、後で聞かせろ」
「
……わかった」
今すぐに散々キスがしたいと思いながら、名残惜しくファイノンはリクライニングチェアの上に主人を残してバスルームへ戻る。濡れた髪は後で乾かさせてもらおう。
確約はできないと言った通り、ファイノンが身を清めて戻ってくると、主人はすでに赤い顔で眠ってしまっていた。起こせ、と言われた通りすぐに声をかけてもよかったが、多忙を極める主人の寝顔を眺める贅沢を逃すのも惜しかった。
椅子を持ってきて腰を下ろすと、濡れた髪の張り付く額をそっと指で払う。
産まれた頃は体が弱かったらしい王子は、魔除けとして全身に赤い刺青が施されている。成長と共に美しい肉体を引き立たせる、赤い波のように流れるそれを指でなぞるのが好きだった。
ファイノンが右頬の刺青をそっとなぞると、くすぐったいのか、微かに顔を反対へそらした。形の良い唇と鼻梁を目で追い、その唇からあえかな吐息が溢れる様を想像した。
穏やかに上下する鍛え上げられた豊かな胸許を見下ろし、バスローブの腰紐をそっと解いてはだけさせた。手のひらを押し付け、湯上がりのしっとりした肌の心地よさをじっくりと味わう。
先に湯を変えておこう、と一度バスルームへ戻り、壁のボタンを操作して新しい湯を張っておく。オクヘイマは美と愛、それから海神の加護が強い都市だ。人々の営みに都合のいいものが揃っている。
果たしてゲストの部屋にこんなものを置いておくのはどうなのか、となんとなく気に入らない気分になりながらも、ファイノンは棚に置かれたいくつかの潤滑油に視線をやり、香りを確かめる。主人が好むものはあるだろうか、と蓋を開けながら、そういえば、と控え室でかけられた言葉を今更思い出し、思い出し笑いをしてしまった。
ファイノンがメデイモスの騎士になって十年近くが経つが、未だに、自分よりも主人の方がファイノンに心酔していると思われていた。それはきっと、クレムノスの伝統装束には金と赤が使われているのに対し、主人の耳飾りに青い宝石が使われているからと言うのもあるだろうし、ファイノンが未だに奴隷の証であるチョーカーを外さないこと
——執着している奴隷を逃さないため、騎士にまで召し上げておいて外させないのだ、と人々は思っていた
——もあるだろう。口さがなく異邦の奴隷に現を抜かした王子だと陰口を叩くものもいるくらいだが、今のところ主人はその噂を放置している。嘘ではないからな、と嘯くメデイモスに、ファイノンは何度本当のことを市民の前で告白しようと考えたかわからなかった。
あんな男に使われるよりうちに来たらどうだ、と言われるのも一度や二度ではなく、ファイノンはその度に「王子を裏切ることはない」と穏やかなふりをして答えていた。当然、オクヘイマに来てからも引き抜きの話をすでに持ちかけられていて、その度に面倒だと思いながら丁寧に断っていた。
しかしきっと、今日の御前試合の結果で声をかけられることは減るだろう。他の誰にも仕える気はない、栄誉も名誉も全て主人に捧げるのだと武を持って示したのだから。
誰も自分と彼の間にある絆を正しく理解することはできないことはわかっている。利害の一致などでは到底なく、もっと深いところで、当人たちにも説明のできない強い感情が存在していた。
百合の香りのするボトルを手に取ると、ファイノンは部屋へ戻り、眠っているメデイモスの肩をそっと揺さぶった。
うっすらと瞼を開け、メデイモスの瞳に光が宿る。眠っていたか。寝起きの掠れた声に、「何か飲むかい?」と尋ねれば、ザクロジュースをくれ、と乞われる。そう言われるだろうと予想していたから、すでにグラスに注いでいた。
背を支えて起きるのを手伝い、グラスを持たせる。お前はいいのか? と言われ、「もう少し飲んでもいいなら」と答えた。主人と違ってファイノンは酒を好んでいたし、今でも散々兵士たちと無茶な飲み比べをして負かしてきたから、彼よりも酒には強い自負があった。現に、会食で飲んだ酒はすでに冷めている。
「先ほども散々飲んだだろう、それ以上は体に悪い。もう辞めておけ」
「わかった。それなら君と同じものを飲むよ」
ファイノンの答えに満足そうに頷いた主人は、そういえば、と喉を潤してから騎士に向き直る。
頬に手を添えて顔を覗き込むと、虹彩の耀く青い瞳をじっと見つめ、バスローブから覗く胸に半円を描く金のラインを指先でなぞった。ファイノンの瞳が揺れ、小さく喉が鳴るのが聞こえる。
そっと口角を持ち上げると、ファイノンの手が反射で上げられて、けれども、結局どこにも触れずに降ろされた。膝の上で拳を握り込んだ男に、いいこだ、と小さな声で呟く。
メデイモス、とファイノンが焦れたように口にする。メデイモスは彼の声に応えず、頬に添えていた手を首筋へ流した。
ファイノンの胸と首に施された太陽を模した刺青は、彼がメデイモスの騎士になる直前、親愛なる主への愛と敬意を表して、と入れてきたものだった。
君と違って全身に入れるのは似合わない気がしたから、と相談もなしに入れてきたことを咎めれば、叱られた犬のような情けない顔をしてファイノンは言い訳した。
あの頃と比べて随分といい男になった、と出会った頃は自分より背丈の小さかったはずの男に、いつのまにか並ばれていることを感慨深く思う。背中を預けるのに申し分ない体格をしたこの男は、名付けた通り、見目麗しく育った。
「試合の褒美を聞いていなかったな。それで、何がいい。今度こそ奴隷の身分の返上を望むか? 無論、俺の騎士を解任してやる気は無いがな」
「本当はわかってるだろ」
「さてな。いくら俺が望もうと、人心は縛れぬ。お前の望みはいつまでも、お前の口から聞くしかない」
謳うように笑う主人に、そういえば僕と違って酔ってるんだった、とファイノンは思い出した。とはいえ、彼が酒で理性を全て手放す姿を見たことはないので、半分くらいは芝居だろう。
「僕の答えは君の騎士になった時から変わらない。
——メデイモス、僕は君が欲しいんだ。僕がなんであるかはどうだっていいし、君に縛られていたい。代わりに君の体も心も僕にくれ」
跪いたファイノンは主人の手を取り、懇願するようにその手に口付ける。
「相変わらず欲のないやつだ」
心の底から呆れた声で、メデイモスはため息をついた。褒美を取らせようとするたびに、ファイノンは必ず同じことを口にする。
過去のファイノンの一番のわがままは奴隷のまま騎士にして欲しいとねだったことくらいで、確かに、その身分のままそばに置いておくのには苦労した、している。家臣たちにはせめて一般市民まで上げろだとか、王子の騎士を名乗らせるならせめて一代限りの騎士侯を授けるべきだとか、散々進言されていて、今も思い出したように責められている。目をかけているのはわかりますし得難い人材ですが、外聞が悪すぎます、と。本当に頭の痛い問題なのだが、当の本人がそのままでいいと頑なに譲らないのだからどうしようもない。
流石に戴冠を果たす頃には強制的に爵位を与えようと考えているが、今はまだ思案をしている段階だった。お前が望まない限り、もう手放すことはないといくら口で言っても、どうやらこの男は不安があるらしい。
「そうかな。君の心を傾けさせるのは、結構な強欲だと思うけどね」
「お前はそう言うが、最初にお前を見初めたのは俺の方だぞ」
メデイモスは瞳を細め、握られた手をそっと引く。簡単に離された手で、男の頬をそっと撫でた。
「来い。お前のしたいようにしろ」
とたん、噛み付くように乱暴な口付けをする男の背を撫でて宥めながら、腹に擦り付けられていた熱いそれに指先で触れる。ファイノンの背が跳ねて、小さく声が漏れた。
いつまで経っても初心な反応を返すこの男が愛おしい。
*
奴隷を騎士にするなぞ言語道断だ、と当然のように、王である父からも家臣たちからも反対されていた。剣の腕が立つだけでどこの馬の骨かもわからない奴隷だぞ、裏切られたらどうする、と散々に言われたが、結局のところ、メデイモスは王と家臣たちの意見は聞かなかった。
母上もかつては奴隷の身分で、父上に勝って得た地位ではありませんか。その言葉に、父と、父に長年連れ添った右腕の老兵はぎくりと肩を震わせた。
王家ではメデイモスと父の側近しか知らない事実だったが、メデイモスが九つの頃に他界した母親は、かつてはコロセウムで猛獣や大男相手に戦う剣闘士奴隷だった。勝てば望みをなんでも叶えると通達の出ていた試合に出場し、一市民の身分を望んだ結果、父に見初められ、仮の経歴を与えられ、過去を抹消された上で妃となった。
そうであればお前のその気に入りの奴隷もせめてそうしろと言われ、ファイノンとは散々話し合ったが、彼はこのままでいいと言って聞かなかった。
『永遠に君に仕える立場でいると誰にも疑われずにいたい』
というのがファイノンの主張だったが、正直なことを言えば、メデイモスにはあまり理解できない考えではあった。
将来的にはもう一度説得する必要があるだろう。今ではないが、いつかは。
そう考えながら、眼前で跪く男を見下ろした。
白地に真紅の布を垂らした騎士衣装の男の双肩に剣を落とし、首筋に切先を添える。
クレムノスの伝統武術は槍術だったが、ファイノンは大剣を扱う男だった。儀式は剣を用いる方がより相応しいでしょう、と司祭たちとも話し合って、今回限りの変則式だった。
『汝、嘘偽りを述べるなかれ、汝の誓言に忠実たるべし。
——まさに騎士になろうとする者、真理を守るべし、国家と信仰を守り、祈り、働く人々すべてを守護すべし』
メデイモスは首筋から剣先を外し、騎士として任命した男に跪いたまま剣を受け取らせる。
儀式用の脆い赤結晶を恭しく掲げた司祭から受け取り、右手で粉々に砕くと、血の祝福を与えるよう、ファイノンの頭上に振り撒いた。
耀く銀髪に血のような赤い霧が落ち、瞬間的な火花を放って消えてゆく。
ニカドリーの血を浴びたものだけが、伝統的に王族の騎士として認められる。例えそれが奴隷であっても。
『あなたの仰せのままに、
——我が主』
剣を掲げた男が瞳を輝かせて笑う。
きっとこの光景を、死ぬまで忘れないだろう。お互いに。
===
3/16が私の誕生日なので、自分のヘキを押し付けるなら誕生日だろ(?)と思って書きました。
お祝いコメントや絵文字嬉しいです(全部自分で言う)。
https://wavebox.me/wave/89uagf8c6xx6ggar/