忙しいから帰らせろ、と言うだけ言ってはみたが、きっとファイノンに押し切られるだろうとは思っていた。モーディスはドアの向こうで三十分ほど引き留めに成功している兵士に後で褒美をやるか、と思いながら、読んでいた巻き物を戻さず、私室の鍵を開ける。
カチンカチン、と仕掛けが回転する音を聞きながら、湯上がりで解いたままだった髪をいつもの通りに手早く編む。留め具を髪に通したところで、モーディス! とドアの向こうからファイノンが笑顔で顔を出した。気まずそうに敬礼する兵士に「もう遅い。お前は下がれ」と伝える。当然、約束もなしに訪れたファイノンを見ながら「しかし……」と兵士は渋るが、「良い。ちょうど暇していたからな」と伝えて下がらせた。その時にはもう、ファイノンは我が物顔でモーディスの部屋のリクライニングチェアに腰を下ろしていた。
部屋の鍵を閉め、「何か用か」と口にすると、モーディスはファイノンのためのグラスを彼のそばのローテーブルに置き、後は好きにしろ、と酒とザクロジュースの入った瓶へ視線をやる。
用か、と口にはしたが、どうせ用などないのは知っていた。モーディスは広げていた巻き物のそばへ戻り、絨毯の上に置いたクッションを顎の下に置き、うつ伏せで読書を再開する。背後から、ファイノンがとぽとぽとグラスに飲み物を注いでいる音が聞こえていた。
「何を読んでるんだい?」
グラスを持ったまま近寄って来たファイノンは、モーディスと隣へ腰を下ろしてから、そばにあったクッションを尻の下に敷く。
「……溢すなよ。ただの歴史書だ」
かつての戦友が書き残した書を読んでいる、とまでは説明しなかった。ファイノンは歴史に興味のない男だったし、古クレムノス語を読むこともできない。案の定、視線をそっと紙面に移してからすぐに戻し、ふうん、と興味がなさそうに呟いた。
「……………………」
「……………………」
しばらくは、時折モーディスが巻き物の先を広げ、読み終えた方を巻く音だけが聞こえていた。ファイノンはぼんやり酒を飲みながら、モーディスの部屋を眺めてなにか考えに耽っているようだった。
先を読み進めながら、モーディスはいつもながら、ファイノンとの間に落ちる沈黙を不快と感じないことが不思議だ、と考えていた。
この男がこんな風に理由なく、また、用もなく部屋を訪れて、ぼんやりそばにいるようになったのはいつからだったか、と考えてみるが、これと言ったきっかけは思い出せなかった。初めは飲み物も出してやらなかったが、「もてなしのひとつもないのか?」と厚かましいことを毎度口にしたので、問答が面倒になり、今ではグラスと場所を示して勝手にやれ、とだけは言っている。この男が訪れるタイミングが読めないせいで、殆ど酒を飲まないモーディスの部屋には不要なはずの酒を、結局常に置くようになってしまった。
「……おい、なんの真似だ」
「気にしないでくれ」
空になったグラスを床へ置いたかと思うと、ファイノンがそっと髪に触れてくる。モーディスが弾かれたように首を引いて顔を上げると、不思議そうにファイノンが首を傾げる。そんな態度を取りたいのは俺の方だ、と思いつつ、ため息を吐いて、一度ファイノンの指を手で払う。
再び読書に戻ろうとしたが、ファイノンの指が今度は背中にそっと置かれた。ぞわ、と背筋が総毛立つ感覚がしたが、ファイノンはじっと背中をみつめながら指先で撫でているだけで、それ以上は何もしない。
「ちょっと背中を借りるよ」
「なに……?」
どう言う意味だ、と尋ねている最中に、ファイノンの頭が背中に乗ってくる。
「重い」
「僕はちょうど良い」
「…………………」
なんの真似だ、とモーディスが視線を向ければ、ファイノンは片膝を立てた状態で横たわり、モーディスの背中を枕にしながら石板をいじっている。
「クッションが複数欲しければどこからでも持ってこい」
「いやこれで大丈夫」
俺が大丈夫ではないんだが、と思ったが、どうせもう会話は通じないだろう。ため息をつきながら、背中に頭を置かれたまま、顎の下のクッションの位置を変える。ファイノンの頭がずり落ちてきて、肩にぶつかった。それでもファイノンは動かず、石板の画面をスクロールして何かを読んでいるようだった。
毛先が触れ合っている感覚に違和感を覚えながら、結局この男の奇行に諦めをつけるのは何度目だろう、とモーディスは読みかけの書をくるくると巻いた。ファイノンに予告なしに立ち上がり(あいた、と床に肩をぶつけたファイノンが叫ぶ)、棚へしまう。
「モーディス」
床へ——と言っても、絨毯の敷かれていた床へ――ぶつけた肩を摩りながら、ファイノンが視線を向けてくる。
隣にいてくれないか、と視線で訴えてくる男の言うことを聞く必要はなかったが、どうせ帰る気もないだろう。
仕方なくファイノンのそばへ腰を下ろし、なんだ、と腿へ頭を乗せてくる男の頬をそっとつねる。
なんでも、と答えて、ファイノンが目を閉じる。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.