ながひさありか
2025-02-27 00:09:14
4100文字
Public STR-Phaidei
 

ファイモス:花の香り

3.1バレ

 どうやら人身で言うところの微睡みに近い心地になっていたことに気がつき、モーディスは玉座の上でふと口角を持ち上げた。
 オクヘイマを離れて、果たしてどれほどの期間が過ぎただろう。トリスビアスやアグライアのように、幼い頃の記憶が擦り切れるほどの期間は経っておらず、せいぜい瞬きをした程度だろう。
 玉座から立ち上がり、エスカトンを防ぐ砦としてのクレムノス城内を歩き回っているモーディスの視界に、過去と今の情景が入れ替わり立ち替わり映っている。
 いつだったか、ファイノンが天外の『開拓者』と組み、ニカドリーの眷属討伐数を競った頃の記憶が目の前に現れた。その姿に語りかけることはしなかった。そこまで朦朧はしていないし、クレムノスが陥落していないということは、オクヘイマで彼がまだ生きているということの証左だった。
 ファイノンの『記憶』に手を伸ばそうとし、モーディスは途中でやめた。感傷もなく、行動に意味を見出せなかったからだ。
 荒れ果てた城内を進み、かつては蔵書が所狭しと並んでいた図書館を訪れる。今では埃をかぶり、ほとんどの石板が壊れ、巻物も破れている。残っているいくつかを棚に戻し、一つを手に取った。
 いつか世界が再生を果たす頃には、きっとこの城とこの身は朽ちるのだろう。できればそうであって欲しい、と思った。そうでなければ、朽ちて何もなくなった空間に、無傷の己だけが残されることになるだろう。半神となった今では、不死ではあっても不老ではなかったころと違い、アグライアのように老化が止まるだろうと予測していた。もしそうでなければ動く骨として世界に止まるのかもしれない。それはそれで滑稽で愉快かもしれない。
 モーディスは開いていた巻物を再び書棚にしまうと、玉座に向かって歩を進める。
 果たして、世界が再生を果たした後、あの男は願った通りこの城を訪れるのだろうか。それとも来世では俺のことなど忘れているだろうか。
 まあ、どちらでもいいか、と思ったのは本心だった。言いたいことは言ったのだし、託したいことは託した。あとはきっと、うまくやってくれるだろう。そういう男だと知っている。
 約束を交わしたのは、心のよすがにしたかったからだ。いつか孤独に飽き、なぜひとりで耐えなければならないのかと狂いそうになる日が来ても、いつか、勤めが終わればそういう日が来るはずだと信じていたかったから。

   *

 暗黒の潮を堰き止める傍ら、書棚に残された書物をひとずつ読み、修復できそうなものは修復することにした。広大なクレムノスで今のモーディスにできることは、戦うこと以外では過去を振り返ることと、まだ読んでいない書物を補完し、読むことだった。
 そうしてどのくらいの月日が流れただろう。エスカトンはまだ訪れず、ファイノンたちはよくやっているらしい、と考えた。いや、そもそもこの俺が潮を堰き止めているのだがら、オクヘイマの平和は保たれているに決まっている。そう信じていた。
 広く静かな城内を歩き、問題が察知できないことを確認すると、モーディスは玉座に腰を下ろし、瞼を閉じる。
 喧騒が聞こえれば、神の名を呼ぶ声があれば、すぐに矛を向ける準備はいつだってできている。


 王城のドアが重苦しく開かれた時、モーディスは図書館にいた。砕かれた石板を合わせて修復し、古クレムノス語をオクヘイマの公用語に翻訳しようとしていた。
 暗黒の潮の軍勢であれば、彼はすぐに察知できただろう。けれど城を訪れたのはただの人間で、その小さな足音を聞くことがモーディスにはできなかった。
 ぎぃ、と図書館のドアが開く音が聞こえ、ようやくハッとする。誰だ。鋭く口にしたモーディスに、わ、と少年の声が響く。
 あの、とおずおず物陰から顔を出した少年の顔を見て、モーディスは目を見張る。銀色の髪に太陽の虹彩を持つ青い瞳。忘れようもない特徴を持っていたが、出会った頃よりもずっと幼い姿だった。幼いからこそ、ファイノンではないな、とそう感じた。久方ぶりの人間の姿には少し心が揺らいだが、それだけだった。
「紛争のメデイモスだよな?」
 少年は少し高い声でモーディスを見上げ、恐る恐る口にした。
 どこから入ってきた、と尋ねたモーディスに、どこって、正面からに決まってるだろ。鍵はかかってなかった、と少年が言う。
 遥か昔、もしファイノンが来ることがあれば、図書館までは勝手に入ればいいと思って設定したことをすっかり忘れていた。……であれば、この子供はファイノンなのか?
「何をしに来た。ここは子どものくるような場所ではない」
 大人であってもくるべきではないが、少年であれば尚更だった。一応、剣士の身なりをしてはいるが、かつて肩を並べた男とは体躯も技量も並ばないだろうと思えた。
「産まれてすぐくらいから同じ夢を何度も見たんだ。オクヘイマに夜が訪れたその日、自分がクレムノスの図書館で本を読んでいる姿をね」
「ついに夜が訪れたのか?」
 モーディスが尋ねると、少年は「そう。ついにね」と言いながら図書館にずかずかと入り込み、モーディスの持っていた巻き物に興味を示す。
……それで、単身こんなところまで来て、お前は何をするつもりだ。ここには俺ひとりしかいないが、かと言ってお前に倒され、火種を奪われるほどの男でもない」
 少年は腕を組んでいるモーディスの言葉を黙って聞き、彼がこれ以上何も言う気がないことを確かめると、話したいことはそれで終わりか? と笑う。
「モーディス、君から言い出したのにまさか忘れてしまったのか?」
…………………………
 少年はモーディスの手から巻物をそっと受け取ると、丁寧に畳んで書棚に置き、もう一度モーディスに向き直る。
「君が決てもいいって言うから、こうして来たんじゃないか。少し客人を歓迎してくれたっていいだろう? もちろん、久しぶりすぎて客人への作法を忘れてしまっている件については不問にしてあげるよ」
……ファイノン?」
 モーディスが恐る恐る小さな声で呟くと、心外だな、とでも言うように少年が肩をすくめる。
「来世では来てもいいっていっただろ?」
 記憶が目の前で入れ替わり、少年が青年姿のファイノンの姿に変わる。オクヘイマであの日別れたのと寸分違わない姿で、青い外套をはためかせ、月光のような髪と青い瞳には、ちかちかと星が瞬くようだった。
「長い間待たせてすまなかった。今まで君がずっとここで僕たちを守ってくれていたことは知ってる。
 モーディス、もしかしたら君は少し眠っている期間ができたのかもしれない。今、あの頃の黄金裔のほとんどは西風の向こうへ歩を進めている。トリビー先生たちとアグライアはようやく出発して、ヒアンシーとアナイクス先生はそれよりもずっと前だった。
 黄金裔で残っているのは君だけで、だが、誰も王城に入ることができなかった。僕を除いてね」
 ファイノンは朗らかに笑いながら、モーディスの眼前で、きっと彼が知りたいであろう顛末をポツポツと語ってくれる。エスカトンは免れ、世界は再生したのか。それはよかった、とようやく肩の荷が落ちる。
「そう言うことなら、好きなだけ本を読んでいくがいい」
 久方ぶりに心から笑ったな、と思いながらモーディスは部屋の隅に置いた椅子へ腰を下ろし、午睡に入るように目を閉じる。
「君は何千年経とうと変わらないんだな」
 苦笑するファイノンの声に、変われると思うか? 半神だぞ、と片手を広げて赤い結晶を見せる。おっと、本が汚れるから砕かないでくれよ、と言われ、確かに、と思った。近頃は汚れに対してどうにも気が向かなくなっていた。

「モーディス、メデイモス」
 本当に微睡でいたのか、少年の姿のファイノンが肩を揺さぶっている。
「何だ」
「いや、もし君が満足したのであれば、一緒に西風へ向かう時期が来ている。最初から僕はそれを言いに来たんだ」
 それはあまりにも軽い問いかけだった。現実味のなさに、モーディスはふ、と笑う。
「お前にはまだ早いだろう。世界が再生したのであれば、半神は向かうべきであろうがな」
 唐突に体が軽くなったような気がし、モーディスは自身の体がいよいよ魂と分離し始めているらしいことに気がついた。
 来世で、ファイノンが城の図書館を訪れて欲しいと願ったものは達成されてしまったのだから、もう思い残すことも確かにないはずだった。
「あの時は誤魔化してしまったけど、ハートヌス経由で渡したものはまだ持っているかい?」
 椅子から立ち上がれずに、モーディスは腰を下ろしたまま、懐にしまっていたそれを差し出した。大事にとっていたそれも、もうずいぶんと朽ちている。
「これがどうし——
 指輪を掲げようとしていたモーディスの体を、そっと、先ほどまで少年だったはずのファイノンが抱きしめる。出会った頃の鮮烈な情景が目の前をよぎり、青い瞳が真っ直ぐにモーディスを見る。
 なんだ? とファイノンの瞳の力強さに困惑していると、ファイノンがモーディスの左の手甲を撫で、一部が光に溶けるように消えていく。手首から先だけが消失した手を取り、ファイノンはモーディスの小指に指輪を通す。
「ゴルゴーの子よ、時は来た。君の役目はここで終わりを迎え、僕と共に西へ向かうその日が」
 指先に口付けながら見上げてくる男の力強い瞳に、拒否権はないようだった。
 モーディスが頷く前に、朽ち果てたクレムノス王城の風景は最盛期の姿に変わり、モーディスはあの頃のファイノンに手を引かれている。
…………お前の本当の名は?」
 ずっと気になっていたことを、ようやく口にした。
 モーディスの手を握っていた「ファイノン」は振り返り、
「君が知っている僕は『ファイノン』だけだろう。だから、ファイノンでいいんだ」
 と笑う。
 そう言うものだろうか。
 そうなのかもしれない。

 ファイノンに手を引かれ、モーディスは花の香りの強い光の中へと、歩を進めてゆく。


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