ながひさありか
2025-02-18 00:34:26
3906文字
Public STR-Phaidei
 

ファイモス:さざなみによせて

なかなか目が覚めないモーディスに慌てるファイノンの話です。

 さっさと連れ帰って戻ってこい、と眷属の使っていた槍をわざわざ拾って構えたモーディスを見た時から、本当のことを言えば嫌な予感はしていた。ファイノンは安全地帯まで誘導した人々のオクヘイマ輸送を迎えにきたトリビーに任せ、門を開いてもらい、数時間前に去った場所へと戻る。
「モーディス!」
 振り返ったモーディスの体が月光に晒される。血塗れで、片目を瞑っている姿に心臓が縮むのを感じながら、駆け寄って残り少なくなっている眷属の剣戟や弓を弾く。
「遅い。……しばらく任せたぞ」
 肩に手を置かれ、ファイノンは視界の端でモーディスの姿を捉えた。残された金色の瞳から光がふっ、と喪われ、モーディスの体躯が膝から崩れ落ちる。せめて物陰に行ってくれ、と言う暇もなかった。ファイノンは奥歯を噛み締め、せめて彼の体が踏み荒らされないように剣を振るう。

   *

 は、は、と床に手をつき、呼吸を整える頃には夜明けが近かった。ファイノンはようやく終わった、と一息をついてから、途中で物陰に殆ど投げ飛ばすしかなかったモーディスの様子を見に行く。
 目が覚めていないだろうか、と期待したが、彼は倒れた時と同じ角度で腕を曲げたままだった。硬くなっている体に落ち着いていた心臓が再び早く打ち始めるのを感じながら、モーディス、と恐る恐る声をかける。
 時々、死にすぎると復活が遅くなることは知っていた。果たしてモーディスに任されてからどのくらいが経っただろう。もう少しで目が覚めるだろうか、と思いながら、片目を開けたままのモーディスの瞼をどうにか下ろしてやる。
 焦りで叫び出したくなりながら、ファイノンは「大丈夫だ、大丈夫、死なないんだから」と呟いてから、波の音に気がつき、そうだ、とふと顔を上げる。
 彼が目を覚ました時に、顔や髪が汚れたままでは可哀想だ。
 ファイノンはモーディスの重い体を抱え、波音に向かって歩を進める。一歩進むごとに、降ろせとモーディスが暴れることを期待していたが、五十歩進んでも、百歩進んでもモーディスは目を覚まさない。
 砂浜を踏み締め、重い足取りのまま波打ち際までやってくると、水平線の向こうを見つめた。徐々に朝陽が溢れて来るのを感じながら、ファイノンは足首まで海に浸かる。
 海水じゃ傷に染みるだろうか、と今更のことを考えながら腰を下ろすと、モーディスの頭を膝に乗せ、手袋を歯で噛んで脱ぐ。穏やかに打ち寄せる波を掬ってモーディスの残れた肌を洗う。出血の酷そうな箇所ほど傷が殆ど見えなくなっているので、どうやらそのうち無事に帰ってきそうだ、と震える息を吐いた。
 夜空の星が空に消えていき、朝陽が海を白く灼き、空と海の境界がはっきりして行く。光を反射してきらきらと耀く透明な海水に血が混ざり、すぐに波に連れて行かれて消えて行く。
 ファイノンはモーディスの足から腰が波で洗われて行くのを眺めてから、慎重に、顔が横へ向いたりしないように後頭部を手のひらで支えながら海水に髪を浸す。
 毛先の汚れを丁寧に落とし、指先で絡まりがないことを確かめると、ハンカチを固く絞って顔周りの汚れを拭く。
 右目の辺りの酷い血を慎重に落とし、指の腹で眼球が再生されていることを確かめた。恐らく潰れてしまっていたのだろうが、その様子はすでにない。
 長い髪を少し絞ってやると、もう一度頭を膝に乗せて、波打ち際でモーディス? と声をかけた。まるで眠っているかのように穏やかな顔で、モーディスは目を閉じている。
 濡れた前髪を払って顔がよく見えるように見下ろしながら、震える息を吐いた。落ち着け。ファイノンは自分にそう言い聞かせて、深呼吸を何度かする。
 すぐに目を覚さないことなんて今までも何度かあったし、今確かめた通り、体に傷は残っていない。彼はきちんと回復していて、何も問題はない。そのはずだった。
 モーディスの精悍な顔が朝陽に照らされて、睫毛が海風に揺れている。
「そろそろ起きてもいいんじゃないか?」
 情けないほど震えた声で、ファイノンは自分のその声に動揺した。途端に不安になり、胸まで抱え上げて、力の抜けた体を抱きしめながら、片手でモーディスの頬を軽く叩く。
「僕を揶揄ってるんだろう? たちの悪い冗談はやめてくれ。そりゃ、確かに少し戻ってくるのは遅かったかもしれないけど」
 規則正しい波の音と、自分の震えた声と、うるさい心臓の鼓動がファイノンの耳を打つ。投げ出されたモーディスの手に力は戻らず、指先が波で洗われているのが目に入った。
 まさか、ともしかして、が交互に襲ってくる。そんなばかな、とモーディスの首筋に指先を当て、冷たい体に、はっきりと鼓動が戻っていないことを確認してしまう。
「いや……そんなわけが……
 果たして彼が死んでからどのくらい経ったのだろう。一時間か、それとももっとか? 朝陽がモーディスの肌を焼いて行くのを呆然と眺めてから、ファイノンは濡れた体を先ほどよりも強く抱きしめる。
 こう言う時、誰に祈ればいいのかファイノンにはもうわからなかった。エリュシオンと共にすべてが失われてから、祈る先はどこにもなかったからだ。信仰が人生や生活の基盤になっている人々のことを愚かだと思ってもいなかったけれど、少なくとも、自分には祈るべき先がなかった。
「今更、」
 今更愛さないでくれ、とファイノンはモーディスの髪に顔を埋めながら、傷ひとつない完璧な肉体を抱きしめる。
 ——今までずっと嫌っていたじゃないか。モーディスに本当に死ぬことを許さず、何度も彼をこちら側へ送り戻したのに、どうして今更、今、タナトスは彼を愛そうとする?
 僕にとってもオンパロスにとっても彼は必要で、今ここで彼を失うわけにはいかない。
 苦痛を抱えながら何度も生き返ってほしいなんて願いが、どれほど恐ろしいことかはわかっているつもりだ。だけどそうして彼を拒絶してきたのはタイタンのほうじゃないか。
 ひゅっ、と息を吸った瞬間、ファイノンは不安と恐怖で崩れそうになった。モーディスの顔を覗き込み、頬を叩く。
「モーディス、メデイモス、いい加減僕だって帰りたいんだ、君を背負うのは疲れるし重たいし、お前だって僕に運ばれるのは嫌だろ?」
 笑って口にしたつもりだったが、頬にぽたりと水滴が落ちて、モーディスの肌を滑って行くのが見える。
 濡れて濃さを増した髪の毛先が本当に血で濡れているように見えて、ぐ、と嗚咽を堪えた喉が鳴る。
 震えながらもう一度、祈る代わりに抱きしめた。
 抱えている体の熱がだんだんとモーディスの冷たい体に取られて行くのを感じながら、ファイノンは波打ち際で硬直していた。
 朝陽が世界を照らしているのに、よく見える現実を受け止められない。
……おい、」
 胸許でくぐもった声が聞こえ、ハッと腕の力を緩める。
「窒息させるつもりか」
「モーディス?」
「なんだその情けない顔は」
 ぺし、と甲冑に包まれた手の甲で頬を叩かれ、「いたっ」と声をあげる。
「離せ。どう言う状況だ?」
 ファイノンの腕を容赦なく放り、モーディスは自身が波打ち際にいることに困惑した。濡れた体や服を見下ろし、小さくため息をつく。早く帰って体を清めなおしたい、と乾き始めた髪が塩でぱりぱりと乾燥している様子を確かめ、呆然と尻をついたままのファイノンに改めて向き直る。
「いつまで座っているつもりだ?」
……目を覚ますのが遅すぎる」
 手を差し出して引き上げると、ファイノンが眉を寄せてくしゃくしゃに顔を歪めながら呟いた。朝陽で照らされた頬に涙の跡がきらきらと光っているのが見え、モーディスはため息をつきたいのを堪え、わざと素っ気なく答えた。
「貴様が戻って来るのが遅いのが悪い」
「死にすぎないようにっていつも言ってるだろ」
「死にはしない」
「モーディス」
 モーディスは苛立ったファイノンの顔を、黙ったままじっと見つめてやった。
 答えないモーディスの様子を見つめているうちに段々とファイノンの怒りは萎み、僕は本当に心配したんだ、と拗ねたような声が落ちた。
「お前の不満は後で改めて聞いてやる。さっさと帰るぞ、塩で体が痒くなりそうだ」
 暗い顔で俯いているファイノンはモーディスの言葉を聞いていないのか、小さく不満をこぼしているようだった。
 ファイノン、と名前を呼んだモーディスの言葉を無視して、くるりと踵を返すと、モーディスを置いてどんどん歩いて行ってしまう。
 やれやれ、と首を何度か回し、モーディスはファイノンの背をゆっくりと追う。まだ足の感覚が妙だな、と考えていると、数メートル先でファイノンが立ち止まっているのが見えた。
 よろよろと砂を踏みながら時間をかけて進むと、ファイノンがバツの悪そうな顔をしている。
「どうした?」
 甲冑の隙間から入り込んだ砂に眉を寄せながら足を振って尋ねると、いや、とファイノンは首を振り、はぁ……………、と落胆と安堵の中間のような長い息を吐いた。
「やっぱり海で君を洗うのは諦めればよかった。中途半端に乾いてきたからかな、かなり不快だ」
「さっさとオクヘイマに戻っておくべきだったな」
「でも、君を背負って帰ったら市民は君が死んだと思って驚いてしまうだろう?」
「トリスビアスが門を開く場所をあやまつとは思わないが」
…………………………
 うるさいな、と悔しそうに呟くファイノンの背にそっと手を置き、「後で聞いてやると言っただろう」とモーディスは努めて、淡々と口にした。


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