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「ファイちゃん、あちたでいいから、モスちゃんにお礼をいいにいってね」
乾いた服が血みどろになっていることに今更気づき、自分の服をつまみながらギョッとしていたファイノンに、トリビーは遠慮がちに口にした。
川に落ちた自分を引き上げ、蘇生を施してくれたのはモーディスだろうと思っていたので彼女の言葉に素直に頷きつつ、服をめくり、自分の肌には大した傷がないことに首を傾げた。
それじゃあこの血は? と考えていたファイノンの耳に、「モスちゃん、ファイちゃんを助ける時に一回死んじゃってるから
……」と信じられない言葉が響く。
油のささっていない、錆びついた機械のようにぎぎぎ、とトリビーの方へ顔を向ける。タチの悪すぎる冗談だと思いたかったが、彼女の困り顔からして、どうやら真実だとわかってしまった。
「たぶん、モスちゃんは気にちてほちくないから言わないだろうけど、ファイちゃんにはわかっててほちくて」
ぎゅっ、と眉を寄せたトリビーの言葉に、ファイノンは無言でめくった服を戻し、頷きながら血まみれの理由を考えた。
吐血の量ではなさそうだった。もしかすると、手足のどちらかを失っていたのかもしれない。トリビーが詳細を語らないのは、多分、彼女にも死んだ事実しかわからなかったからだろう。
ファイノンはずぶ濡れで自分を引き上げたモーディスが、血を流しながら一度絶命した瞬間を想像した。背筋がぞっとして、それと同時に、夢の中でキメラが一度ぐったりしていたことも同時に思い出す。もしかすると、あれは彼が死んでしまったことの表れだったのかもしれない。
「無事でなによりです」
遅れてやってきたアグライアはファイノンの片手に金糸を巻き付けると、淡々と体の調子を尋ねた。彼女の質問に何度か糸が震えたが、アグライアは最終的に「これを飲んで、とにかくしっかり休んでください」とファイノンに淡い輝きを放つ小瓶を渡す。
ファイノンは礼をいって受け取ると、アグライアの前でそれを飲み干し、なんとか部屋へ帰還した。
汚れた服は捨ててしまうしかないだろう。そう考えながらどうにか服を脱ぎ、床に放置して、なんとかベッドに上がる。目を閉じると、すぐに重い体が沈んで行くような感覚がした。
今日はもう、夢を見たくない。
そう考えながら、意識はほどけて行く。
*
アグライアにもらった秘薬のおかげか、夢を見ることもなく熟睡した。
明晰の刻を過ぎて目を覚ましたファイノンは、黄金裔のピュエロスで汗を流すことにした。道中、モーディスがいないだろうかと期待したが、残念ながらピュエロスには誰の姿もない。時々、朝の鍛錬を終えたモーディスとピュエロスで出会うことがあったが、今朝はそうではないらしい。
体を清めて部屋へ戻ると、昨日、床に放置してしまった服を拾い上げ、左胸部と腰部にべったりついた手の痕、腹部の広い汚れを見て顔を顰めた。
腰はモーディスが引き上げた際についたものだろうが、左胸部の痕はきっと彼が心肺蘇生を試みてくれたからだろう。そうなると、失ったのは手ではなく足だろうか。あるいは腹や胸に大穴が空いていたのかもしれない。
自分の体に大した傷がないことから考えて、モーディスは引き上げるまでの間、あらゆるものから自分を守ってくれたように感じた。
「言ってくれればいいのに
……」
せめて一言、詰ってもよかったはずだ。救世主が聞いて呆れる、こんなところで死ぬやつがあるか。そんな風に。
そんな言葉しか浮かばないのは、モーディスがああ見えて意外と口が汚くないからだった。間抜けかばかとは言われるかもしれない。けれども、その程度だった。
ファイノンはため息をつきながら服をゴミ箱へいれると、謝罪と礼をしにモーディスの部屋を尋ねてもいいか石板へ連絡を入れる。もしモーディスが起きているのであれば、数時間以内に連絡が来るだろう。
そう考えていたが、離愁の刻を過ぎてもモーディスから返事が来ることはなかった。もしかしてまだ眠っているのだろうか、と不思議に思いながら、結局ファイノンは返事が来ないまま、モーディスの部屋のそばまでやって来ると、隣の部屋で雑務をしていた彼の侍者へ声をかける。
「殿下はお部屋にいらっしゃいます。ファイノン様はお通しするよう伺っていますので、そのままお部屋へどうぞ」
既に指示が通っていると言うことは、モーディスは起きているようだった。それなのに返信してくれないなんて、と石板を取り出し、実はここに来るまでに返信が来ていないかと確認するが、やはりメッセージは入っていない。
ファイノンは侍者へ礼を言い、言われた通りモーディスの部屋を訪ねる。
扉のロックが外れるのをしばらく待ってから、戸を開ける。室内はカーテンが全開になっており、陽射しがファイノンの足下まで照らしていた。室内には微かに香の匂いがし、視線を部屋の隅に向ければ、柘榴の模様が刻まれた香立てが棚の上に置かれている。うっすらと煙が流れて行くのを見ながら、ファイノンは室内に足を踏み入れた。
「モーディス? 入るよ」
陽射しを寄せて左手をかざしながら尋ねると、テラスで椅子に腰掛け、オクヘイマの景色を眺めているモーディスの背中が見えた。聞こえていないわけでもないだろうに、無視しているのか? とそばまで寄って顔を覗き込む。
「
……モーディス?」
ファイノンは聞こえないフリをして景色を眺めているモーディスの姿を想像していたが、予想は外れた。モーディスは肘置きに頬杖をつきながら眠っていて、傍のテーブルには伝言の石板とザクロジュースの入った杯が置かれている。
眠っているモーディスの表情を、思わずまじまじと観察してしまう。陽に透けた髪が風に揺れるたび、燃えるように輝いていて綺麗だった。
夢の中で見た、自分を地の底から引きずり上げた際の鮮烈な光を思い出し、ファイノンは瞳を細める。精悍な顔立ちと形の良い鼻筋、閉ざされた唇に視線を下ろし、右目の下の赤い刺青をじっと見つめてから、惜しげもなく晒された体躯へ移動させた。逞しい胸から腹部の筋肉と皮膚、頬杖をついている腕にも、腹に置かれている手にも傷はなく、投げ出された両足はいつものように黄金の甲冑が覆っていて、昨日、彼が死んでしまった原因はわからない。
ファイノンはそっと手を伸ばし、目にかかっている前髪に触れようとし、ハッとその手を引いた。
どうして触れたくなったのかがわからず動揺していると、パチリ、と瞼が開かれた。膜を張ったようなぼんやりしとした瞳が数度瞼の下に隠れると、ファイノンを捉えて、ちかりと耀く。
「意外に元気そうだな。流石は無欠の救世主といった所か?」
「嫌味なのか褒め言葉なのかわからないけど、褒め言葉として受け取っておくよ。
……多分、もらった秘薬の効果だと思う」
モーディスに開口一番謝罪すべきか、それともお礼を言うべきかここに来るまで悩んでいたが、ファイノンのその思惑は挫かれた。モーディスは小さくあくびをしながら「横に立つな、そこに座れ」と少し離れている椅子を指差す。
ファイノンは椅子を少し引きずって話がしやすい距離まで詰めてから、腰を下ろした。
「昨日は、助けてくれてありがとう」
「当然のことをしたまでだ」
この答えが返って来ることは予想していたが、言わないわけにはいかなかった。
普段は些細なことでぶつかり合うこともあったが、モーディスも自分も、いざという時はお互いの職分をよく理解している。
ファイノンはモーディスがすぐに自分の命を天秤にかけてしまう場面を今までに何度も見てきたが、その度になんとも言えない痛みを覚えてしまう。自分のせいで彼が死んでしまったのだと思うと、情けない気持ちになった。
「その、トリビー先生が、僕を助けたせいで君は一度死んだと言っていたから、」
ファイノンはそのまま謝罪を続けようとしていたが、聞こえてきた舌打ちに言葉を途切れさせた。
「お前のせいだと? 自惚れるな」
モーディスは柳眉を逆立てて不愉快を露わにすると、頬杖をついたまま長い足を組み替え、「そんなことより、そもそも油断するな」と冷たい声で言う。
「救世主が道半ばで死ぬわけにはいかないだろう」
「わかってる、油断した僕が悪い。もう二度とあんな状況にはならない。
……それでもありがとう、助けてくれて」
「
………………………」
モーディスの言葉は全て正しかった。今度こそなにも失わないために英雄になったはずなのに、油断して死にかけるなんて、あってはならないことだった。
盛大なため息が聞こえ、眉を下げ、俯いていたファイノンは顔を上げる。
「生きていたのだから反省はもういいだろう。二度と同じ轍を踏まなければ問題ない」
「あいたっ」
視線をファイノンへ向けたモーディスに思いっきり額を指で弾かれ、悶絶する。両手で額を抑えて痛みを堪えていると、モーディスが「アグライアめ、俺には秘薬を渡さないとはどう言う了見だ?」と拗ねたように言う。
もしかしてモーディスが先ほどから椅子に腰を下ろしたままろくに動かないのは、疲労がぬけていないからだろうか。
ようやくそのことに気がつき、ファイノンはモーディスの顔をじっと見つめる。
*
モーディスですら足のつかないほど深く冷たい川だった。
岩の突出した場所へ落ちて行くファイノンを追いかけた時には片足が千切れかけていたことに気付いたが、構っている暇はなかった。頭を打ったのか、意識のないファイノンの服を水中で掴み、水面まで顔を上げたは良かったが、岩壁を登る以外に道はなかった。千切れかけていた片足は登るのに邪魔で、ちぎり捨てたあと、ファイノンの服を咥えて両手で岩肌を掴んで登る。
止血している暇はなかったが、そのうち再生するか、最悪登りきればいいと考えていた。
片足の断面を潰しながら登り切り、ファイノンの顔を叩いて声をかけるが、冷たい体はすでに呼吸が止まっていた。舌打ちをし、横たわらせたファイノンの顎と後頭部に手をやり、口を開かせる。何度か息を吹き込むが、水を吐く様子がない。
そうしているうちに、全身の痛みがひどくなっていた。千切れた片足からはずっと血が流れ続けていた。何度目か呼吸を確認しようとして、慌てて手のひらで口を覆うが、少し遅かった。ファイノンの腹の上に吐血し、クソ、と声が漏れる。
岩壁にたどり着くまでに何度か強く胸を打ったような気がしていたが、どうやら肋骨が肺に刺さっているらしい。痛みよりも、こんな時に、と思いながら口を拭い、ファイノンの左胸に手を押く。何度か強く胸を押し、呼びかけるが答えはない。
胸を押し、起きろ、と怒鳴るたびに肺に骨が刺さる感触がした。咳をするたびに血が漏れたが、ここで手を止めて後悔するのはごめんだった。
果てしなく長い時間をかけて蘇生を試みたように感じたが、きっと現実では数分のことだっただろう。何度目かの呼びかけで、ファイノンの手がぴくりと反応した。
咳き込む体を少し横に向け、おい、と声をかける。続けて咳をし、水を吐く姿に気が緩んだのは事実だった。
頭から血の気が引いて行く感覚にしまった、と思った時には視界がブラックアウトして、モーディスはファイノンの体に倒れ込んでいた。
目を覚ますまではほんの数秒だっただろう。ハッとして起き上がると、ちぎれた足も、折れた骨も元通りなっていた。
疲労のせいか微かに眩暈がするのを感じながら、痙攣するファイノンの肩に手を置き、呼びかけながらさする。
トリビー達には前もって連絡をしていたので、後は向こうがどうにかして探り当ててくれるだろうと期待した。
遠くからトリビーが声を上げているのを耳にすると、モーディスは赤結晶を作り出し、空に向かって投げた後、手近な石をぶつけて砕く。煙のように赤い霧が空に広がるのを見ると、ファイノン手首に触れ、弱々しく脈が打っているのが確認できた。ひゅう、ひゅう、と苦しそうに呼吸するのを聞き、 おそらくもう大丈夫だろう、となんとなく、そう思った。ただの勘だったが、この手の勘を外したことはあまりない。
トリビーが来るまでに川にもう一度飛び込んで、体の血を流しておく。なるべく急いで、何食わぬ顔で濡れたままファイノンのそばに戻ると、ファイノンのそばで声をかけ続けた。
*
「実はあの時、夢を見てたんだ」
唐突なファイノンの言葉に、なんだ一体、とモーディスが怪訝そうな顔をする。
「話したことがあるだろう? 故郷の夢さ。懐かしい、思い出の場所にいて、懐かしい友人の姿を見た。彼女が僕に向かった駆け出したのを見て、僕も駆け出した。もし彼女の手が掴めればきっと悪い夢が
——今、僕が何もかも失ってオクヘイマで英雄をやっていると言う現実から覚めて、あの時に戻れるような気がしたんだ」
「
……暗澹たる手に囚われかけていただけだろう」
モーディスは夢の話を笑わず、詰らず、ただただ淡々と言葉を返しただけだった。
そうだろうね、とファイノンは苦笑する。落ちたところが川だったから、ステュクスの領域に近かったのかもしれない。そんなことを考えながら、モーディスの顔を見つめ、彼の髪が金から赤へと移り変わっていく様を確かめた。
勿論モーディスの髪がその色だと言うことはよく知っていたけれど、夢の中で見るほど、この色は自分の頭に強烈な印象として残っていたのだろうか?
「
……なんだ、人の顔をじっと見て」
居心地が悪そうに視線を向けてくるモーディスに、果たして夢の話を続けるべきか、やめるべきか少しだけ悩んだ。
君の髪と同じ色をしたキメラが必死に僕を助けようとしてくれてたんだ、なんて素直に言えば気味が悪いと言われるような気もしたし、馬鹿馬鹿しいと呆れられるような気もした。
「全然釣り合わない気がするけど、借りだと思うなって君はいいそうだし、今度なんでも好きなものを奢るよ」
「ふむ
……」
ファイノンの提案に、モーディスは神妙な顔をすると、石板を手に取り、最近評判の甘味がないかと検索し始めた。
果たして本当にそれでいいのか? とファイノンは疑問に思わなくもなかったが、モーディスが画面をスクロールしては時々指を止め、ファイノンに記事を送りつけてくるのを見て苦笑した。
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