ながひさありか
2025-02-03 21:07:14
4310文字
Public STR-Phaidei
 

ファイモス:どこへ行こうとも

冥界下りが好きなのでそんな感じです。後日譚をそのうち書くかも。

 懐かしい草の匂いと、風に吹かれて擦れ合う音で目を覚ました。
 ここはどこだろう。
 ファイノンは夕暮れの空を見上げながら起き上がり、辺りを見回した。そのうちに、あれ、と思わず声が溢れる。
 懐かしい、記憶の中の草原。夕暮れ時で、風が強く吹いている。エリュシオンだ。とうの昔に消えた故郷の光景に、はっきりと確信する。
 なるほどこれは夢か、とファイノンは夢を夢と認識していることに少しだけ驚きながら立ち上がる。自分の服装をまじまじと見てみれば、オクヘイマで暮らしている時と同じ装備だった。もしここが夢の中なのであれば、むしろ少年時代の服装であるべきでは、となんとなくそう思う。もしかすると夢ではなくタイタンの幻影かなにかだろうか、とふと気づき、こうなる前、何をしていたのか思い出そうとした。もし夢であるならば、眠りについた記憶があるはずだった。
 …………………
 しばらく真剣に考えてみるが、何も思い出せなかった。戦闘に出たような気もするし、眠りについたような気もする。
 そんなことを考えていると、誰かに服の裾を引っ張られている気がした。
……キメラ?」
 頭の金からお尻の赤毛へとグラデーションの綺麗な毛並みをした、小さなキメラが、何やら必死な様子で外套の裾を咥えて引っ張っている。キメラを拾ったり世話をしたことはなく、ファイノンは首を傾げた。
 夢の中だとばかり思っていたが、もしかするとタイタンの権能や結界の影響を受けて幻覚を見ているのかもしれない。そう考えながら、剣を携帯していることを確認し、裾に噛みついているキメラを抱き上げて、辺りを歩いてみることにした。
「痛っ、」
 腕の中で激しく暴れているキメラに指を噛まれ、地面に下ろしてやる。
「抱っこされるのが嫌なのかい?」
 尋ねてみるが、キメラは不満そうな声をあげ、再びファイノンの裾に噛みつくだけだった。どこかへ導きたいのかぐいぐいと引っ張っているが、その力はあまりに弱く、ファイノンの足はびくともしない。
 困ったな、としばらく眺めていると、疲れたのか、赤毛のキメラは裾に噛みついたまま動かなくなってしまう。
 よくわからないがとりあえず、とファイノンは大人しくなったキメラをもう一度抱き上げて、草原をあてもなく、けれど勝手知ったる場所を歩いた。腕の中のキメラはぐったりしていて、今度は暴れたり噛みついたりすふ様子はなかった。
 ファイノンは「どこから来たんだい?」「それとも僕の夢なのかなここは」とぽつぽつキメラに話しかけるが、鳴き声が時々返されるだけで、もちろん会話は成立しなかった。
 腕の中のキメラは随分と温かで、抱えているだけでまるでピュエロスに浸かっているかのような心地よさがあった。キメラの金から赤を描く綺麗なグラデーションの毛並みに「誰かに似ている」と思ったが、それが誰なのかは思い出せない。抱き抱えられたファイノンの腕に小さな腕を置き、時々思い出したように指を甘噛みしてくる。何かを訴えられているような気がしたが、やっぱり言葉はわからなかった。
 ゆるい上り坂を越え、小高い丘へ向かう。一本の大樹が目に入り、ファイノンは思わずじっとその木を見上げた。
 まだ木の根元は見てなかったが、そこに誰かがいるような気がした。いや、これがファイノンの夢であるならば、きっと彼女がいるはずだった。
 ————
 彼女の名前を呼ぼうとして、名前が思い出せないことに気がついた。え、と思わず足が止まる。忘れるわけがない。そんなことはありえない。そう思いながら木を見上げる。
 誰かが、よく見知った、懐かしい彼女が、そこでカードを広げている。救世主。あの日、彼女が自分に聞かせてくれた言葉を耳許で今聞いているかのように思い出せるのに、名前を呼ぼうとしても思い出せなかった。
 心臓が震えるのを感じながら、ファイノンは足を動かした。思い出せない。失われたかわりに、村のことは何一つとして忘れたことなんてなかったはずなのに。
 彼女の姿がいよいよ目に入る。息を飲んで、今度こそ足が止まる。彼女の姿は、記憶の中のそれと変わらなかった。もし彼女が生きているのであれば、自分と同じように成長しているはずなのに、記憶と寸分の違いもない。
 これは夢だ。
 ファイノンは膝をつき、そこから一歩も進めなくなった。
 手から力がぬけて、抱えていたキメラを落としてしまった。大した高さでもなかったが、地面にころん、と転がった小さな体が慌てたようにファイノンの裾に再び噛み付いた。ファイノンには、それを気にする余裕はない。
(これは夢だ……
 過去に何度も同じように故郷の夢を見て、目を覚ましては混乱した。現実の方が悪い夢だと思いたかったし、あの日、守りたかった全ては本当に失われてしまったのかとつきつけられていた。
 手のひらを見つめ、零れ落ちてしまったすべてを思い出していると、胸が苦しくて、呼吸がしづらくなる。もう、村の人たちは誰もいない。自分をのぞいて、なにもかも喪われてしまった。オンパロスを当てもなく歩んでいた時代も、今も、昔の夢を見た後は、いつだって酷い孤独感に襲われる。
 僕のとなりには誰もいない。みんないなくなってしまった。
 オクヘイマで人々のために身を粉にしているのは、きっとその寂寞を一時でも忘れたいからだった。けれどもこんな風に、夢を見て、現実を思い出してしまう。忘れられないことも、心の傷が癒えないことも苦しい。息をするのも、まばたきをひとつするのも億劫だった。孤独を癒やす方法はいまだに見つからず、ただ後悔と淋しさで頭が痺れて、動けなくなる。
 霞む視界で顔を上げる。カードを読んでいる彼女はファイノンに気づかず、楽しそうな顔を——多分、しているのだろうと思った。顔は前髪で隠れて影になっていて、表情は読めない。口許が笑みを形作っているから、笑っているのだと判断した。
 ぽた、と地面にしみができて、我知らず泣いていることに気がついた。おかしい、夢の中で泣いたことなんてないはずなのに。
 目許を袖で拭うが、後から溢れて止まらない。
——————?』
 名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。彼女が驚いたように口を開け、こちらを見ている。カードを放り出して駆けてくるのが見えた。
 ファイノンは震える膝を叩いて駆け寄ろうとした。彼女はすぐそこに居る。もう距離は十メートルもない。噛みついていたキメラが大きく吠えるが、その声を構っている余裕はない。走って、その手を掴んだら、すべてなかったことにできるような気がした。今、オクヘイマで黄金裔として歩む現実こそが夢で、本当は、あの手の先にあるような気がする。
 キメラが体躯に似合わない咆哮を上げ、ファイノンの足首へ噛み付く。痛みは感じない。ただ、妙な暖かさを感じていた。噛みつかれたまま走る。
 走っても走ってもどうしても辿り着けない。おかしい、と思いながら走り続けて、走り続けて、そのうち——足が、地を踏まずにかする。落ちていく。え、と声を上げる余裕もない速度で。
 大地が割れ、空は星も月もない暗闇へ変わっている。耳に響くのは聞き慣れた獣の咆哮、戦火の轟音、悲鳴。割れた大地から青い炎が噴出し、ファイノンの両足へ絡みつく。大地へ引きずり込むように体が急速に引っ張られて、裂け目に引き摺り込まれていく。空中でもがくが、手の先には何も当たらない。
 現実味のない穴に引き摺り込まれる瞬間、指先が地面を引っ掻いた。必死で指先に力を入れ、地面を掴む。青い炎は全身にまとわりつき、ファイノンを大地の底へと引きずっていく。体が重い。手から力が抜けそうだ、と渾身の力を込めてもがいた。これがもういつもの夢でないことは明白だった。きっと権能か何かで感覚と精神がやられてしまったに違いない。
 誰か、何か掴めないかと目を凝らす。けれども視界には冷たい暗闇しか広がっていない。さっきまでそこにいたはずのキメラはどこに行ったんだ? と混乱した頭で考えるが、どうせあの子もいなくなってしまったのだろう、と暗い気持ちが襲ってくる。寂寞感が全身を凍えさせ、指先が凍って、もう何も掴めない、と冷えた肺から冷たい呼気が漏れた。
 ——僕のとなりにはもう誰もいない。
 そう思った瞬間、誰かが手首を掴んで、力強くファイノンを引き上げた。
 黎明のミハニの鮮烈な光が眼前で爆発し、ファイノンの視界を灼く。冷えていた体が一瞬で熱くなり、眩しさに目を開けていられなくなった。
 炎に手を引かれ、耳許で誰かが大声で叫んでいるのが聞こえた。
 ファイノン! この愚か者が、目を覚ませ——

 ——意識が覚醒した。
 声を上げようとした瞬間、激しく咳き込み、ファイノンはゲホ、と水を大量に吐き出す。地面にうずくまって泣きながら咳き込んでいると、「ファイちゃん!」と聞き慣れた涙声が鼓膜に突き刺さった。
 全身がずぶ濡れになっていて、服が重たかった。俯いて落ちてきた毛先からぽたぽたと水滴が落ちてくるのが不快だった。
 そうだ、攻撃を避け損なって、川に落ちたんだ。
 顔を上げようとして、また咳き込んだ。げほ、げほ、と咳をするたびに大量の水を吐く背中を、誰かがさすっている。熱い大きな手で、冷えた体にその手が随分と心地良い。
「ファイちゃん、大丈夫……!?」
 駆け寄ってきたトリビーが涙を浮かべながら顔を覗き込んでくるのに、へら、と力のない笑みを浮かべ、「大丈夫、です」となんとか答えた。
……あとは任せていいのか?」
 背中に置かれていた手が離れ、疲れた声が落ちた。
 もしかして、とようやく一息ついたファイノンは地面に座り直し、顔を上げる。
「だいじょーぶ、ライアちゃんももうすぐ来るから、モスちゃんはもう休んで」
 ファイノンと同じように、全身ずぶ濡れのモーディスの手を握りながら、トリビーが祈言を口にした。モーディスの濡れた髪や体がみるみる乾いて行くのを見つめているうちに、ファイノンの服も髪も同じように乾いていた。
 モーディスはファイノンを一瞥すると、ふ、と口角を上げて「命拾いしたな」と小さく笑った。
 君だったのか?
 ファイノンは夢の中で必死に服に噛みついて、引っ張ろうとしていたキメラの姿を思い出し、じっと去って行くモーディスの背を見つめ返した。
 先ほどまで自分の背中をさすってくれていたのは、たぶん、モーディスだろう。
 あの心地よさを思い出し、ファイノンは冷えた体に微かに熱が灯るのを感じた。


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