ながひさありか
2025-02-03 00:23:57
4726文字
Public STR-Phaidei
 

ファイモス:けだものの火

自覚する話

 鍛錬がてら手合わせをしようとモーディスに石板で呼びかけたが、いつまで経っても既読になることはなかった。もしかして彼はオクヘイマにいないのだろうか、と思いつつ、ファイノンは街中を歩き回り、モーディスの侍者を探す。
 市場で年老いた侍者を見つけ、モーディスはどこにいるかと尋ねたが、彼は慎重に言葉を選びながら、「殿下は二日後にお戻りになるかと思います」と言うようなことを言った。どこかに出かけているのかい? とファイノンがいくら尋ねても、二日後に石板にご連絡を、と繰り返されるばかりで、頑なに居場所を言おうとしない。
 居場所を聞き出すのを諦め、言われた通り、二日の後に改めて連絡をした。今度は一時間ほどで返事があった。モーディスは以前のファイノンの連絡に返事をしなかったことを簡易に謝罪し、手合わせならいつでも構わない、と日中の居場所を連絡して来た。

 建物を壊すのはなしだ、かわりに僕も剣は使わない、と訓練用の広場で提案したファイノンを、モーディスは好戦的に見つめ返して笑う。なんとなくその表情にいつもより覇気がない気がしたが、ファイノンには理由がわからない。
 数日消えている間に何かあったのだろうか、と結晶がなくともまともに受ければ骨が砕けそうなほど重い一撃を受け止めていると、気が散っているのを見抜いたのか、「本当に剣を抜かなくていいのか?」とモーディスが低く笑い、死角からファイノンの側頭部を蹴り付ける。とっさに受け身を取って吹き飛んだファイノンが体勢を立て直す前に、顔目掛けてモーディスが落下してくるのが見えた。慌てて身を捻って避ければ、顔のあった場所に甲冑に包まれた拳が落ちる。地面に空いた穴に、ファイノンの背を冷や汗が流れた。
……もしかして僕を殺す気か?」
「手合わせで手を抜く愚か者がどこにいる」
 それはそうだけど、と言い訳を続ける余裕はファイノンにはなかった。片足を持ち上げたモーディスが無慈悲に肋骨を踏み砕く未来を予想し、転がって回避する。今度こそ立ち上がって距離を取ると、やはり自分のいた場所に穴が空いていた。
「救世主が逃げるばかりか?」
「僕は君と違って命はひとつしかないんだ」
 わかりやすい挑発に笑って返すと、不愉快そうにモーディスが眉を寄せた。
 別に君は死んでも生き返るからいいだろうけど、なんて言ってないけどな。
 そう思いながら、地を蹴って一瞬で距離を詰めてきたモーディスの拳を今度こそ掴む。腕を捻り上げて顎に肘鉄を喰らわせるが、モーディスは怯まない。ファイノンがしたように腕を掴んだモーディスの凄まじい腕力で投げ飛ばされるが、これは予想していた。着地した先の壁を蹴り付け、彼に向かって跳躍する。
 拳が耳のすぐ横を通り、空気が裂けるような音がした。ファイノンは自分の心臓が熱く脈打つのを感じた。戦っている時だけは煩わしいこと、過去の苦しみや悩みが、頭の中から一時消えて行く。
 モーディスと手合わせをしていると、いつだって周りの雑音がどんどん小さく聞こえなくなって行き、自身の鼓動、モーディスと自分の息遣い、筋肉のしなりや骨の軋む音だけが残された。
 モーディスの楽しそうな、けれども、獲物を見定めた獰猛な肉食獣のような笑みに視線が取られる。炯々と輝いた強い金の瞳が真っ直ぐに自分を捉えて、喰らい付いて来いと挑発されたように感じた。モーディスの眩しい視線と意識が今は全て自分一人に注がれている。そう意識した瞬間、ファイノンの心臓が跳ねて、呼吸が乱れた。頭の中でチカチカと星が瞬くような感覚がし、全身が興奮で粟立つ。
「よそ見をするな」
 モーディスの声が後頭部のあたりから聞こえた瞬間、ハッとした。ファイノンが現実を捉えたその時、モーディスの拳をまともに食らって吹き飛ばされる。しまった、と思った時にはため息が微かに聞こえ、「これでは鍛錬にならないだろう」と微かに息の上がったモーディスが呟くのが聞こえた。
 視界が回転し、ぐらぐらと揺れたまま意識が遠のいて行く。

   *

 目を覚ました瞬間、強烈な光に目を焼かれ、ファイノンは呻き声を上げた。顔の前に手をかざして光を遮ると、酷い頭痛に苦鳴を漏らしながら「ええと」と呟く。
 何度か瞬きをする間に、光に視界を焼かれたせいか、少しだけ涙が溢れた。けして痛みに泣いたわけじゃない、と誰にするでもない言い訳を頭の中でしていると、「起きたか」とすぐそばで声がした。
「え? どうして君がここに……
 ファイノンは見慣れた私室の壁や家具と、杯にネクタールを注いでいるモーディスを見比べた。
「飲め」
……ありがとう。もしかして君が僕を運んでくれたのか?」
「気絶したお前を放り出しておけるか?」
 モーディスのその言葉は、英雄が無様を晒すなと言いたかったのかもしれなかったが、ファイノンには何故だかずいぶんと優しい言葉のように聞こえた。
 ネクタールを受け取りちびちびと中身を煽っていると、「医者が言うには休んでいれば問題ないそうだ」とモーディスが静かに口にする。
 まさか医者まで呼んだのか?
 ただ単に気絶しただけなのに大袈裟だ、と思いつつ、あんな風にモーディスの前で気絶したのを恥入り、ファイノンは無言で俯く。
「これに懲りたら気を抜かないことだ。次からは剣を持て」
 モーディスは腕を組んだままファイノンを無表情に見下ろし、彼にしては珍しく詰るように言葉を続けた。言い訳の余地はなかったが、今日はたまたまだ、と唇を噛み締める。これが戦場であれば、そのたまたまで自分は死んでいただろう。そこをモーディスに指摘されている自覚はあった。
「お前が腑抜けているとつまらない。一体お前の他に誰が俺の相手ができると言うんだ」
 淡々とした声だったが、ファイノンはその言葉に顔を上げる。時々、彼はこんな風に自分を誉めてくれることがあるが、その言葉を聞くたびになんとも言えない気分に陥った。むず痒さに頬をかきながら、「悪かったよ、君の楽しみを奪って」とぼそりと答えると、満足そうにモーディスは頷く。
 ファイノンは大人しく注がれたネクタールを飲みながら、自分の衣服が寝巻きに変えられていることにようやく気がついた。
 気絶した自分を背負って部屋まで連れてきた彼は医者を呼び、彼の侍者か彼が服を着替えさせてくれたのだろうか。
 いやまさか、モーディスではないだろう。そう思いつつ、視線をついモーディスにむけてしまう。
 モーディスはファイノンが気絶している間にザクロジュースを持って来たのか、そばの椅子へ腰を下ろして杯を傾けていた。ザクロの香りが漂ってくるのに、彼がいる日常を感じる。
 彼の侍者が持って来たのか、ベッドサイドのテーブルにはファイノンには覚えのない、ザクロやブドウなど、果物が沢山入った籠が置かれていた。ファイノンが見つめている前で、モーディスはブドウを一房取ると、皮ごと実を口に放り込む。彼の唇が開かれた瞬間と実を摘んでいた指先に、何故か視線が取られる。
「そ、そう言えば、この二日どこへ行っていたんだ? 君の侍者に聞いたが、教えてくれなかった」
「墓参りだ」
 モーディスは自分の動揺をそらすために、軽い気持ちで尋ねたことを後悔したが、モーディスの美貌は常と変わらず、研ぎ澄まされた刃のように澄んでいた。手合わせや戦場で爛々と燃えている瞳も今はすっかり凪いでおり、麦畑で揺れる稲穂のように穏やかで、ファイノンの問いに気を悪くした様子もない。
 ファイノンは以前、モーディスが骨も見つからなかったクレムノスの人々の墓(そこには生前、彼らが愛用していた品々や、装飾品等が納められていた)に備えられた盾のひとつひとつに、彼らの言う血を——ザクロジュースをかけて回っていたことを思い出した。その横顔から感情は読めなかったが、モーディスは時間をかけて全ての墓を見回り、侍者は何度もザクロジュースを持って行っていた。彼はクレムノスを出て行った際に孤軍として連帯した民と、ニカドリーの暴走によって最終的に故郷を捨て、避難して来た民に差をつけず、全ての盾を平等に扱っていたと聞いている。
「たまには過去を振り返ることもある」
 言い訳のように続いた言葉に、ファイノンはやはり、モーディスのやわらかいところへ土足で踏み入ったような気分に陥った。話題を変えるべきかもしれない、と思ったが、他の話題が見つからない。
「それで、お前の懸念はなんだ?」
……僕の懸念?」
「気が散っていただろう。なにがよぎった」
 モーディスは何かを見透かしたように、人差し指をファイノンの額に押し当ててから、空になった杯を握ったままのファイノンの手からそれを引き取る。
「いや……よぎったとか、そう言うのはないよ。ただ気が散っていただけというのかな……
 そう答えながら、モーディスの顔をじっと見つめていることに気がつき、ファイノンは「え?」と声を上げた。
「どうした?」
「なんでもない、ちょっと、頭痛がして……
 モーディスはファイノンが何故か動揺していることには気づいたが、頭痛のせいだろうか、と気にしないことにした。
 椅子から立ち上がり、「医者は痛みが続くならこれを飲ませろと言っていたが」と十歩ほど先のリクライニングチェアの上に置かれていた丸薬の入った器を持ち上げ、振り返る。
……本当にどうした?」
 何故かファイノンは手のひらで顔を覆って項垂れている。不思議に思って観察すると、耳が微かに赤くなっていることに気がついた。発熱だろうか? と、モーディスは首を傾げる。
 椅子へ戻り、丸薬をひとつファイノンに受け取らせると、ザクロジュースを注いだ杯もファイノンに渡す。
 慌てて薬を嚥下したファイノンはやはり熱が出ているのか、赤い顔で、遠慮がちに、「僕はもう大丈夫だから、君も休んだほうがいいんじゃないか」と暗に退室を促した。
 モーディスはファイノンの赤い顔を見つめ返し、やはり発熱しているようだし、ひとりで寝かせて欲しいのだろう、と受け取る。
「お前はあまり考えすぎるな」
 椅子から立ち上がり、モーディスは部屋のカーテンをしっかりと引く。きっと、ファイノンはあの瞬間、過去のどうしようもない後悔に襲われたりしたのだろう。戦場でそんな風に気が散る瞬間を見たことはなかったが、手合わせだからと雑念が走っていたのかもしれない。
「モーディス」
 部屋を辞そうとしていたモーディスの背に、ファイノンが声をかける。
 その声が妙に弱々しい気がして、「寝ろ」と一言残して出ていくのは気が引けた。モーディスは無言で寝台のそばへ戻ると、「必要なものはあるか?」と声をかけた。
 ファイノンはしばらく悩むような素振りを見せた後、「いや」と首を振る。
 モーディスは影の差した部屋の中で俯くファイノンをしばらく見つめた後、そっと彼の肩に手を置き、「しっかり休め」と声をかけて部屋を後にした。

 モーディスが部屋を出て行って十分も経ってから、ファイノンはぐったりと脱力する。
 あの時、別に余計なことを考えていたわけでもないのに、何故か気が散っていた理由に、さっき気づいてしまった。
 モーディスの戦う姿はいつだって勇敢で美しい。鍛えられた筋肉のしなる様子と全身を走る赤い刺青も、陽光と血で染めたような髪も、整った顔立ちに浮かぶ肉食獣のような獰猛な笑みも、全てが輝いていて、ファイノンの脳と視界を灼いた。
 その美貌に、あの瞬間、少しあてられていたと言うだけの話だった。


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