ながひさありか
2025-01-28 00:14:06
3763文字
Public STR-Phaidei
 

ファイモス:神託の夜

ネクタールの飲み比べ後に前後不覚になったファイノンの回収をアグライアに命じられたモーディスの話。独自設定があります。

「ファジェイナの神託でも聞こえたか?」
 唐突に聞こえた声に、ファイノンは意識が急速に引き戻される気がした。暖かな湯の中にいるような、柔らかな絹糸に全身を包まれていたような気分が霧散し、流れる滝の轟音が鼓膜を打つ。ぼんやりと、石の手すりに手をついて滝を眺めていたことに気がついた。
 人々の楽しそうに日常を語らう声や学者たちの侃侃諤諤の論争、兵士たちが背後を行き交う忙しない足音が聞こえていたはずなのに、あたりはいつの間にか静まり返っていた。
「飲み過ぎだ」
 手すりに手をついたままぼんやりしているファイノンの横に立ったモーディスは杯を差し出し、同じように滝を眺める。
 杯を受け取ったファイノンは緩慢な動作で鼻先を近づけ、においを嗅ぐ。酒だろうか、と思ったが、透明なそれはただの果実水のようだった。なんだ、と少しだけ残念に思いつつ、一気に中身を煽る。冷えた果実水が体の中心を流れていく感覚に一気に熱が冷め、靄のかかっていた思考が突然クリアになる。
「あれ」
 横で同じようにモーディスが杯を傾けているのをようやくはっきりと認識し、ファイノンは声を上げる。
「どうして君がここに?」
「腑抜けの彫像が邪魔だとアグライアから連絡が来た。飲む量を見極めろ」
 モーディスがそう口にした瞬間、背後の白い壁が——ファイノンがずっと白い壁だと思い込んでいたものが一枚の布になり、たわんで、端からほどかれるようにばらけ、ふわりと霧散して行く。金系が空間に溶けるように消えると、バルネアへ続く道が見えた。普段はゆったりとクッションに寝そべっている市民の見える場所もすっかり人気がなく静まり返っていて、兵士が数人、あたりを哨戒しているだけだった。どうやらいつの間にか隠匿の刻になっていたらしい。
 ファイノンは数時間前、バルネアで兵士たちとネクタールの飲み比べをしていたことを急に思い出した。果たして何杯飲んだのかはもう思い出せなかったが、確か、十人程と競っていて、最後はひどくいい気分でバルネアを後にしたような気がする。
……僕は酔って何かした?」
「さあな。黄金裔が長時間、何をするでもなく硬直していては要らぬ不安を抱かせるだろう。帰る様子がないから起こして来いと言われただけで、それまでの詳細は知らん」
 モーディスは興味がなさそうに呟くと、「もう加護も冷めただろう。部屋へ戻れ」とファイノンが握ったままの空の杯を引き取る。
 歩き出したモーディスの背をしばらく見つめてから、再びハッとする。また意識がどこかへ行こうとしていた。もしかするとかなり酷い酔い方をしているのかもしれない。
 これ以上アグライアに咎められる前に部屋に戻ろうと足を進めようとしたが、地面を踏んだ感触がなかった。あれ、と呟きながら、反射で手すりを掴むが、片足が泥に沈むように落ちていく感覚がした。
「モーディス、」
 思わず声を上げながら、ファイノンは片手を地面につく。そうすると、たぷんと揺れていた、ように感じていた足下は硬い地面にかわり、自分の手も足もしっかりと大地を踏み締めていることに気づく。
「酒の強さも英雄の資質の筈だが、救世主のお前はまだ半人前ということか?」
 てっきりいなくなっていたとばかり思っていた男の足音がゆっくりファイノンへ近づき、呆れた声が落ちる。
 ファイノンは顔を上げようとしたが、視界がぐらりと揺れる。地面に手をついたまま唸り、「それはクレムノス人の話だろ……」と悪態をついた。声の呂律が怪しい。
「うわ」
 乱暴に腕を引かれて無理やり立ち上がらされたファイノンが驚いて声を上げると、モーディスの肩に腕を回されているところだった。
「背負ってやってもいいが、吐かれてもたまらないからな」
「いやだいじ…………っ、」
「部屋まで耐えろ」
  突然の嘔吐感に口を手のひらで抑えたファイノンに、モーディスはため息をつき、かすかに眉を寄せる。モーディスは殆どファイノンの足を引き摺るようにしながら足早に歩を進め、ファイノンの部屋へなんとか連れてくると、すぐさまに水場へ彼を押し込んだ。
 ファジェイナの恩恵が黄金裔の個人の部屋まで続いていて良かった、とこの時ほど思ったことは恐らくないだろう。モーディスは戸の向こうで、水音と共に苦しんでいる様子のファイノンが落ち着くまでの間、勝手に彼の部屋で待たせてもらうことにする。目についた書物を手に取ると(バルネアの図書のようだった)、リクライニングチェアに腰を下ろす。
 数分読んでいる間に、水が床を打つ音以外が聞こえなくなったことに気がついた。モーディスは読んでいた書を置き、ファイノンの様子を見に腰を上げる。
「おい、そこで寝るな」
「わかってるよ……
 頭から水を被るように、ファイノンがぐったりとしゃがみ込んでいる。モーディスは髪も服もずぶ濡れになったまま動かない男が立ち上がるのを数秒待ってみるが、すぅ、と小さく寝息が聞こえてきた。
 その瞬間、ファイノンの腕を引き、無理やり水場から引きずり出し、部屋の中へ投げるように手を離す。
 ふらふらと床へ尻をついた男に呆れながら、モーディスは棚のタオルとバスローブを取りに行く。
「拭け」
 モーディスは取ってきたタオルをファイノンに投げつけてみるが、ファイノンはまだ酔いが覚めないのか、タオルの直撃を受けて少し体が傾ぐ。そのまま床へ倒れて寝てしまいそうだった。
 このまま放置しても構わない筈だが、と逡巡しつつ、結局モーディスはファイノンのそばへしゃがみ込み、「服を脱いで寝ろ」と声をかけた。肩に手を置き「寝るな」と揺さぶりながら顔を覗き込む。
……君が脱がしてよ」
「何を甘えたことを、」
 モーディスが眉を跳ね上げた瞬間、強くネックレスを引かれ、水色の瞳と目が合う。
 見つめあったまま、モーディスは冷たいファイノンの唇が自分の唇に触れたのがわかった。おい、と狼狽しかけたところで押し倒され、濡れた体がのしかかってくる。
 酒臭い舌が押し付けられ、この酔っぱらいが、と膝をファイノンとの間に入れ拒絶しようとすると、妙な力強さで足が押さえられる。ファイノンとの力比べは殆ど同等のはずだったが、酔ってタガが外れているのか、関節が痛む感覚にモーディスは反対に力を抜いた。怪我をさせられたところですぐに治る体ではあったが、怪我をしてやる理由もない。
 モーディスの諦念を赦しと受け取ったのか、はたまた勝ったと確信したのかはモーディスにはわからなかったが、ファイノンが小さく喉の奥で笑ったのが重なり合った体の振動から伝わってくる。調子に乗るなよ。そう口を開こうとした瞬間、唇を塞がれ、好き勝手に口腔内をねぶられる。
 両手を押さえつけられ、腹に擦り付けられる感触に微かな嫌悪を感じた。別にファイノンが嫌いなわけではないが、前後不覚の男に付き合ってやる理由も特にない。怪我をさせないように手加減してやっていたが、面倒になった。
「いっ……!?」
 モーディスが好き勝手していた舌に思いっきり噛み付くと、ファイノンがようやく飛び退いた。
 目を白黒させながら口を手のひらで覆い、混乱したようにモーディスを見つめてくる間抜けな姿に、モーディスは不快感を隠さず顔を背け、血の混ざった唾液を吐くためにタオルを掴む。
「調子に乗るな」
 口許を拭って大袈裟にため息をつくと、今度こそ知るか、とファイノンにタオルを投げつけ、踵を返す。
「モーディス」
 戸の錠が回転して開くのを待つまでの数秒のうちに、慌てて立ち上がったファイノンに追いつかれる可能性は考えていた。戸を蹴破って出て行ってもいい筈だ、と思いながらもそうしなかったのは、こんな時間に騒ぎにしたくなかったからというだけで、別にファイノンに優しくしてやろうと思った訳ではない。
「ごめん、夢だと思ってて」
 ファイノンに腕を強く引かれ、縋るように背後から抱きしめられる。酒臭いファイノンの呼気が頬を撫でるより、濡れた服が肌に張り付く感触の方がずっと不快だった。
 モーディスはもう一度「服を脱いで寝ろ」と低く呟くと、ファイノンの手を容赦なく剥がし、その手を強く打った。
「夢でもするな」
 痛っ、と手を引っ込めたファイノンに向き直り、「反省していないだろう」と腕を組んで睨みつける。ずぶ濡れになった間抜けな姿で「いやしてるよ……」としどろもどろに言葉を溢す男に瞳を細めながら、「どうだかな」と何度目かのため息を溢す。
「服を着替えて寝ろ。飲みすぎた挙句に風邪を引いたと噂されては恥だろう、救世主」
「今そう呼ぶのはやめてくれないか」
 拗ねたような口ぶりをするファイノンをモーディスは腕を組んだまま無言で見つめ続け、彼が「僕が悪かった」と言うまで仁王立ちをやめなかった。
「悪かった、君が正しい。僕は酔って理性がほどけていた」
「飲みたい日があることぐらいは俺にもわかるが、ほどほどにしておけ」
 ファイノンの胸を拳で軽く叩くと、モーディスは今度こそファイノンの部屋を後にする。

 数日前、暗黒の潮で死なせた兵の数も、助けられなかった避難者の数も、モーディスも彼と同じように知っていた。


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