熱のある方へ(
https://privatter.net/p/11247302)→この話→さよならもいえずに、という連作短編です。3本目は1/26発行の同人誌に収録しています。
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ぽかん、と間抜けに口を開けていた時間は果たしてどのくらいあったのだろう。椒丘は羽扇を掴む自分の手首ごと掴んだモゼの方へ体を向けながら、珍しく答えに窮していた。
この、歳の離れた同僚で友人の彼が日々自宅に通い、身の回りの世話を買って出てくれたのは、彼の「護衛」としてのプライドからくる罪悪感からだとばかり思っていた。そうでなかったのであれば、確かに、「君の護衛対象は飛霄様だけでしょう。僕の命は入っていないんですから、この結果を君が気にすることはありません」と伝えても一向に響く様子がなかったはずだ。
「嫌か?」
モゼは掴んでいた手首をそっと離し、椒丘の膝に手を置く。
手のひらの熱さが布越しにじわじわと伝わって来る感覚に、もとより冗談だとは思ってはいなかったが、本当に誤解のしようもないほど本気なのだと分かってしまった。
腰かけている長椅子の後ろから、水の流れる清らかな音が微かに聞こえている。先ほど、水に手を差し入れて水の冷たさを楽しんでから、そっと触れた蓮の花は、きっと美しい桃色をしているのだろう。景観のためだけに品種改良されたものだが、美しい花は心を落ち着かせるのに効果がある。見えなくなっても、微かな香りが鼻先をくすぐっている。
そんな風に、頬に注ぐ熱い日差しを感じながら、涼し気な水の音と花の香りを楽しんでいた筈なのに、いつのまにか自分の心音のほうがうるさくて、花の香りはすっかりわからなくなってしまった。首の後ろをじわりと汗が流れて行くのが少し不快だった。けれど、汗を拭うのもはばかられるほど、緊張して動けない。
曜青の空調設備が壊れているのだろうか。いやまさか、中心地でそんなことがおきるはずがない。
そう思いながら、椒丘は暑さを紛らわせるために、ゆっくりと羽扇を仰ぐ。
「嫌というか、驚いてしまいまいして
……」
殊更ゆっくり、現実を確かめるように話しながら、モゼに顔を見せないよう、少し体を反転させる。先ほどは驚いて間抜けな顔を晒してしまったが、すでにいつもの顔に戻せているはずだ。
落ち着け椒丘、と自分に言い聞かせながら、先ほどのモゼの言葉と、これまでのことを反芻する。
*
呼雷の移送のために訪れた羅浮で負傷した後、曜青に帰還してからしばらくの間、視力を失った生活になれるために自宅療養をさせてもらっている。と言っても、天撃将軍の仕事がなくなるわけでも、絶命大君との戦いが休戦状態にはいったわけでもない。状況は逐一報告を受けており、関係者に助言も進言もするが、出勤はしない。と言うより、
『出勤したらどうせあなたは座っててと言っても歩き回るんだから、怪我しないように監視する必要が出て来るでしょ。だから家にいなさい』
と、飛霄に出勤停止を命じられていた。
家にいても歩き回ることに変わりはないはずだが、と思いつつ、確かに、物の多い家なので歩行は少し慎重になる。
これでも帰還して本当に不要なものは処分したのだが、以前から三日に一度はモゼが部屋の掃除をしていた通り、とかく物の多い家だった。物を無駄に溜め込んでいるわけではなく、医士で料理人の椒丘にとってはすべて必要なものばかりで、自宅だけでは足りず、長期保存可能なものは保管倉庫まで借りている。
これ以上はどうにも整理のしようがない自宅で、連絡がなければのんびり庭先で茶でものみながら読書にいそしんだり、薬と食事のために育てている植物の世話をすることにした。基本的には気ままに日々を過ごして、庭で昼寝をするような毎日だ。
植物の世話をすると言っても、ほとんどは庭の整備と併せて小型の機巧に任せているので、収穫や病気になっていないか確認する程度だ。
水生植物のために、庭には簡素な川と池を作っていた。以前は特に手すりや柵は設けていなかったが、気づかず転んだら困る、と主張したモゼによって、今はそれらが設置されていた。
景観を壊したくないんですが、と渋った椒丘の意見を尊重して、光の反射で無色透明に見える材質を使っている、と説明されたが、木と石の手触りがするのでいまいちどういう状況なのか椒丘にはわからない。触ると影ができ、本来の状態が見えるとのことで、飛霄は隣で随分と不思議がっていた。
水の傍にも長椅子を置いていたのだが、「ここでは寝るな」とモゼにしては珍しく強い口調で椒丘に言った。その語気の強さに思わず「はぁ」と気の抜けた返事を返すと、モゼは「寝るな」ともう一度繰り返した。
「ふぁ
……」
暇な時間ができると余計なことを考えてしまう時間が増えてしまうのではないか、と当初は幾分不安に思っていたが、椒丘自身が思うより体が疲れていたのか、一通り庭を見回って一息つくと、まるで重労働を終えた後のように疲労していた。
雨の日は庭を眺めながら(と言っても見えてはいないのだが)雨音を聞いて眠ってしまうし、晴れていれば日差しや風を感じながら、庭の安楽椅子で眠ってしまう。
足の低い石造りの長椅子をもう一つ置いていたのだが、モゼや飛霄が来訪するたびにそこで眠っているところを目撃された結果、いつのまにか眠りやすく、落下の心配のないものに変えられていた。
なんだか隠居老人の介護生活を送っているような気分だったが、この扱いは飛霄とモゼが自分を心配してのことだろうと分かっているので、もうしばらくは甘んじて受け入れたほうがいいのだろう。二人に心配をかけたのは事実なので。
*
午後になると、モゼか飛霄が様子を見に自宅を訪れることになっている。カメラか通話で確認すればいいじゃありませんか、と告げた椒丘に、「怪我をしても隠すじゃない」と飛霄が主張したためだ。実際、家の中で物を落とし、闇雲に片づけようとして指を切ってしまい、二人に報告せず解決しようとしたことがあったので、反論できなかった。
毒の副作用は多少落ち着いてきていたが、今も血が止まりづらい症状が残っている。しまった、と思いながらとりあえず血止めの軟膏を塗り、包帯で止血をしながら病院に向かおうとしたところで、偶然飛霄のよこした部下に見つかり、大騒ぎになった。
たかが指の一本ですよ、放置しなければ大した問題にはなりません、と主張した椒丘に「そういう問題じゃない」とまさからのモゼから突っ込みが入った。
『君、自分の怪我は相当放置してきたくせに、どの口が言うんですか?』
『俺は血が止まる』
『流れた血の方が多いこともありましたよね?』
『椒丘、今はモゼが正しいって本当はわかってるでしょ』
羅浮の一件以来、どうにも年下の二人に正論を言われる頻度が上がっている。飛霄はさておき、モゼに口で負けることは殆どなかったのが。
そういうわけで、日に一度は、二人のうちどちらか、あるいは時間差で両方の来訪を受けている。飛霄の食事どころか自分の食事も作るのが難しい状況なので、朝昼は軽食か出前サービスを利用しており、夕食は二人が買ってくるか、あるいはやはり出前を利用していた。外食をしたい日もあるのだが、行きはよくても、食べ終わるころには疲れて、モゼに背負われて帰るような状態だった。
曜青に帰還する前は羅浮で外食をしていたのに、と思うが、どうにも日が落ちて来ると体力がもたない。帰還する前は、緊張で興奮した頭が、上手く体の疲労を隠していたのかもしれない。
「椒丘、そろそろ陽が落ちる」
肩を揺さぶられて目を覚ますと、鳥の鳴き声が長く耳を打った。何度か暗闇の中でまたたいていると、少し冷えた風が髪を揺らすのを感じた。そろそろ夏も終わりだろうか。
「もうすぐ雨が降るから、すぐ中に入れ」
のんびり椅子から立ち上がろうとしていた椒丘の両手を掴み、モゼが少し強引に立たせた。
「もしかして走ってきました?」
なんとなく息が切れているような気がして尋ねたが、モゼは答えなかった。掴んでいる手は甲冑に覆われていて、蓄積された陽の熱があるだけで、体温は分からない。剥き出しの腕を掴んでみるが、走ってきたような熱は感じなかった。
「夕食前に風呂に入るか?」
「僕より先に君が入った方がいいでしょう。着替えはまだありましたよね?」
あくびを噛み殺しながら靴を脱いでいると、モゼが小さな声で髪に触るぞ、と言う。なんですか? と首を傾けようとすると、頭を押さえつけられて、髪をわしゃわしゃと払われる。
「うわっ、ちょっと」
「葉がついてた。先に風呂に行け」
言うが早いか、モゼは簪をどちらも抜き、結っていた髪をほどいてしまう。携帯していたのか、小さな櫛で何度か髪を梳かすと、「よし」と言って椒丘の両肩を掴み、風呂場へとぐいぐい押す。
「洗ってくれてもいいんですよ?」
「
……腕が上がらないのか?」
揶揄うつもりだったのに、真剣な声音がかえってきて逆に閉口する羽目になった。
呼雷に砕かれた鎖骨がつながって腕が綺麗に上がるようになるまで暫く時間がかかったので、その間、モゼに何度か風呂の介助をしてもらっていた。濡れずに風呂の介助をするのは難しいので、ついでだから、とモゼにも風呂に入ってもらっていたのだ。それがすっかり習慣化して、特に風呂の介助を必要としなくなった今でも、仕事帰りのモゼに自宅へ寄ってもらった時には、風呂に入ってもらっている。
服をいちいち持って来るのは面倒だし、脱いだ服をもう一度着るのは潔癖な彼には酷なことだろうと考え、椒丘は箪笥にしまっていた古い衣服をいくつか処分し、そこにモゼの衣服を収納してもらうことにした。
「ご心配なく、楽をしたかっただけです」
そそくさと脱衣所へ入ると、本当に不要ですからね、と壁越しにモゼに声をかける。どういうわけか、最近のモゼは椒丘の世話を率先して焼きたがるものだから、念押ししないと遠慮していると考えて、本当に風呂に押しかけてくる可能性があった。
もちろん他人に髪を洗ってもらうのは楽だが、さすがに腕が上がらないわけでもないのにやらせるのは気が引ける。
時間をかけて髪と尻尾を洗って出て来ると、術を使って室温を上げ、髪と尻尾の乾燥を早める。そんなことに室内で術を使うなとモゼは不思議な文句を言うが、きっと短髪で尻尾のない彼には、乾かす労力がどれほどのものかわからないのだろう。
風呂場を出ると、このまま尻尾の手入れをするか悩んだ。尻尾の手入れは弧族にとって日常のルーティンだが、面倒に感じる日もそれなりに多い。以前は眠る前に簡易に行い、朝に三十分程かけて手入れをしていた。療養中は人前にあまりでなくなったので、そこそこ手を抜いているのだが、続けているうちに、なかなか触り心地が悪くなっている。
健康状態から考えると、今月はまだあまり毛質がよくない時期だ。どうせ冬季になれば綺麗に冬毛に変わる、夏の間はそれほど気にしなくてもいいのだが。
「またモゼにやってもらうのは気が引けるんですけどね
……」
腕が上がらず風呂の介助をしてもらっていた期間、髪と尻尾を乾かすのは機巧や術でどうにかしていたが、手入れだけは満足の行く仕上がりにならなかった。
申し訳なく思いながらも、毛玉や切れ毛が気になり、モゼに手入れ方法を教えてしばらくやってもらっていた。案外面倒がらずに楽しそうにやっているようだったが、友人であっても、尻尾を長時間預けるというのはあまり居心地のいいものではない。
尻尾と耳は弧族の重要な器官だ。親以外はパートナーでなければなかなか触れさせないもので、不意に触っても許せるのは子どもくらいだろう。
そのせいか、モゼに手入れをお願いしておきながら、どうにも触れられている間中、むずむずして仕方がなかった。彼の触り方が妙だというわけではなく、ただ単に、親かパートナーでなければ触らないものだ、と長く生きてきた間に染み付いた生活規範のせいなのだが。
「モゼがまだ子どもなら逆によかったんですが
……」
椒丘から見れば、モゼどころか飛霄でさえ、自分の子どもや孫に感じるほど歳は離れているが、彼らはとっくに成人した立派な大人だ。
飛霄がモゼを拾ってきて以降、彼女と自分でそれぞれ弧族の常識を教え込んでいる。だからきっと、手入れを頼まれたモゼも困ってしまうだろう。
最初に尻尾の手入れを手伝って欲しいとモゼに頼んだ時、一体モゼがどんな表情をしていたのかわからないのだが、明らかに、戸惑ったように沈黙されたことだけは覚えている。
勿論嫌だったら無理にとは、と慌てて口にした椒丘に、「断ったら他の誰かに頼むのか?」とモゼは低く、感情の読めない声で呟いた。
まぁ、モゼに断られれば、面倒だが理容室に通うしかないか、と思っていた。目が見えないので、と説明するのは別に構わないのだが、天撃将軍の幕僚は尻尾の手入れすら満足にできなくなったのかと噂されてしまうだろうし、定期的に出歩く姿を目撃されることになる。
そうなると、歩行にはそれほど問題がないとはいえ、出かける度に気合を入れる必要もあり、身だしなみを整えるための身だしなみが必要だった。非常に気が重い。
立場のないただの医士か料理人であれば
……、と二度目の引退を考えてもみたが、飛霄には「療養はしてもらうけど、引退なんてもちろんだめよ」ときっぱり通達されている。
こんなぼろぼろの男をまだこき使うんですか、とおどけてみたが、「だって、引退したらそれこそ死なれそうだから」と明るく言われてしまい、返す言葉を失った。
飛霄のその考えは正しくなかったが、否定しても信じてもらうには時間が必要だろう。
命を拾った今、理由なく死ぬ気には勿論なっていない。命を救う立場の医者が意味のない自死を選ぶのは信条に反するし、それを選択するのであれば、豊穣戦争で疲弊し、退役したあの時にするべきだったのだ。
過去にもそれを選ばなかったのに、今、それを選ぶ理由は更にない。
呼雷に捕虜にされていたあの時、これで終わりにできると服薬し、自分の人生はそこまでだと覚悟していたが、そうはならなかった。
それがよかったことなのか、今はまだ、よくわからなかった。悪い事ではないだろう。飛霄とモゼははっきりショックを受けていたので、死んでいれば傷になってしまっていたかもしれない。
生きていてよかった。今はまだ、そう、素直には言えない気分だった。不幸だとは思っていないし、自分がこうなったかわりに、飛霄が月狂いを克服したのは喜ばしいことで、心の底から幸福だと感じている。これで、彼女の救う命はさらに増えるだろう。
ただ、彼女が月狂いに罹っている間は、志半ばで倒れてはいけないと必死で治療をしていたが、病の治った今、果たして自分は彼女の傍に必要なのだろうか? と脳裏をよぎることがあるだけだった。
モゼは彼女の護衛で、敵を殺す術を持っている。味方以上に敵も多い彼女の傍には、モゼのように優秀な剣があるべきだ。
けれど自分は、果たして本当に必要なのだろうか。
勿論、書類仕事が苦手な二人のために書類仕事を片付けたり、時間にルーズな飛霄のスケジュール管理をしたり、会合を決めたり、彼女なしで決められることは自分が代わりに出て行って決断を下してきたが、それだって、こうして今自分が療養できているように、誰かが代わりをできるだろう。
早く復帰してください、と椒丘の元に時々、部下や関係者から泣き言が飛んでくることもあるが、いつかは誰しも飛霄の奔放さに慣れて、と言うより諦めがついて、上手く転がすか、あるいは尻拭いなり支えるなりを覚えるだろう。
「尻尾なんか抱えてどうした」
「おや」
気づけば、廊下で考え込んでいたらしい。モゼに声をかけられて、悶々としていた思考が途切れる。そもそもは尻尾の手入れをどうするか悩んでいたはずなのに、余計なことに想いを馳せていた。
椒丘は無意識に抱えていた尻尾を放し、「長風呂で疲れたのかもしれません」と肩を竦めた。
「
……風呂くらいいつだって手伝う。だからその、
……もっと俺を頼って欲しい」
先刻のやり取りをやはり冗談だと受け取ってくれなかったのか、モゼが妙に深刻そうな声で呟いた。
まさか誤解されたままだったとは。
「先ほどのは冗談ですよ。もう体は随分よくなっていますし
―まぁ昼寝癖はついてしまいましたが
―、大丈夫ですから、気にしないでください。僕は確かに君よりずっと年上ですが、まだ介護される歳ではありません」
苦笑し、尻尾の手入れをモゼに頼むのは今日はやめておこう、と決める。
先日までは手を動かすだけで痛みが走っていたのでそれなりに葛藤がありつつ頼めたが、今は痛みがあるわけではなく、少し時間はかかるけれど、できないわけではないのだから。
「そうじゃない」
「モゼ?」
尻尾を放した両手をとられ、椒丘は顔を上げた。見上げても何も見えないのに、まだ、見ようとして顔を向けてしまう。その癖を直すべきなのかどうかはわからなかった。
「
…………? なんですか?」
鼻先にモゼの前髪が触れた気がして、声を上げた。なにかを確かめようとして、顔を近づけられたのかもしれない。例えば、実際は光ぐらいは
――明るいか暗いのかぐらいは、区別がつくのかもしれない、と。
残念ながら、光すらも今の椒丘にはわからなかった。触れている部分と、聞こえるものだけが視える範囲だった。
繋がれた手を握り返し、「僕は大丈夫ですよ」と微笑みかけた。思い描いた先にモゼの瞳があればいいのに、と願いながら。
*
夕食後の片づけを終えると、モゼはいつものように椒丘の家中の戸締りを確認した。ドアも窓も全てシステムでロックがかけられるようになっていたが、「施錠」の一覧が出ても信用できないと言って、神経質に見回っている。
自分が死ななかったことでがっかりしている輩はそれなりにいるだろうとは思うが、逆に今、幕僚である椒丘を襲えば天撃将軍の警戒を強めるだけだろう。そんな真似をする勇気のあるものがはたして曜青内部にどれだけいるだろうか、と思うが、どうせモゼに言っても聞く耳をもたないことはわかっている。
そういうわけで、いつもであれば「はいはいお好きにどうぞ」と言って放っておくが、今日に限って妙に疲れているのか、足音は聞こえないのに、窓の揺れる音、家具の動く音、物理鍵がぱちん、と次々鳴って行くのが気になって仕方がない。
「そんなに戸締りが心配なら、もういっそ隣の部屋にでも住みますか?」
窓の揺れる音を追って薬品や材料をしまっている部屋にやってきた椒丘は、そこにモゼがいるかどうかも分からず声を上げた。
「掃除をしているから知っているでしょう、客間と呼ぶには貧相で小さい作業部屋ですが、君が寝るぐらいの空間はあります、というかなければ物を他の部屋に移して構いませんから、戸締り確認はもうそのぐらいにしてください」
ため息をついて呟くと、背中の方から「本気で言ってるのか?」と声がかかる。振り返り、椒丘は「もちろん」と頷いた。
「来客者用の布団のしまってある場所は知ってますよね? 今夜はとりあえずそれを使ってください。ベッドがよければ明日以降、サイズをはかって好きなものを買ってくれて構いませんし、自宅の物を持ち込みたければ
――入ればですが
――業者に頼んでください。他にも家具を増やしたい場合は好きにしてください。ただし、部屋から溢れそうなものは事前に教えてください。ぶつからないよう覚え直します」
「
…………………」
「モゼ? 聞いてますか?」
「
……聞いてる」
モゼの小さな返事が、何故か震えているように感じた。声の方へ手を伸ばすと、手首を掴まれる。
もしかすると、モゼは椒丘が考えていた以上に、本気で戸締りを心配してくれていたのかもしれない。今夜を乗り切れればそれでいいか、と考えての少し雑な提案だったのだが、今まで言われなかっただけで、顔色が見えないから気づかなかっただけで、モゼは自宅へ帰ってからも不安だったりしたのだろうか? モゼが帰った後に、自分が庭に出ない保証も、散歩にでない保証もないのだし。
「ああ、勿論今夜だけそうしたいのであれば、別に住まなくてもいいですよ。とにかく、毎度毎度こんなに長時間確認するのは時間の無駄ですし、君だって疲れるでしょう。心配してくれるのは勿論嬉しいですが」
どうせ、と椒丘は苦笑する。
家の鍵はとうの昔にモゼに渡しているし、帰宅した自分より先にモゼが家の中で掃除をしていることもあれば、夜中に押しかけて来ることだってあったし、早朝に叩き起こされることだってあったのだ(もっとも、朝に起こされるのは、モゼがもっと幼い頃の話だ)。
見知らぬ他人であれば同居なんてそう簡単に提案はしなかっただろう。けれど、モゼが自宅にいる状態に違和感はない。
「本当にいいのか」
「妙に確認しますね。『部屋の掃除をするから鍵を寄越せ』、と言ってきた時のほうがずっと強引でしたよ」
椒丘の文句には答えず、モゼは悩むように押し黙っていた。答えをしばらく待つが、嫌とも分かったとも言わないモゼに、もしかしなくとも、かなり嫌な提案だったのではないか、とハッとする。椒丘は「モゼ」と声を上げると、少しモゼから離れるように、慎重に一歩引く。
「あの、本当に強制はしませんよ。そもそも僕の世話をする義務は君にありませんし。
……なので戸締りも適当でいいと思っているんですが」
「義務とかじゃない。俺がやりたいからやってる」
妙にきっぱりとした言葉だった。
本当にそうだといいのだが、と思いつつ、椒丘は「無理はしなくていいんですよ」と口にする。
「してない。
……わかった、すぐに戻って来る」
そう聞こえた瞬間、目の前からモゼの気配が完全に消失していた。
*
あの後、衣服と暗器を整備するための諸々を持って戻ってきたモゼと、同居生活をはじめている。
飛霄にも確認を取ったらしく、モゼが戻って来る前に飛霄から椒丘の元へ連絡があり、「そうしてもらったほうがモゼが楽なんじゃないかと思いまして」と状況をかいつまんで説明をした。自分で同居を提案しておきながら、なんだか理由になっていないような気が今更したが、椒丘の疑問は飛霄の「それなら仲良くしなさいよ!」と言う、まるで母親か姉のようなコメントで霧散した。
最初は妙にモゼが緊張している様子があったが、なにをそんな緊張することがあるのか椒丘にはよくわからなかった。
鍵を渡す前から人の家の屋根の上で帰りを待っていたこともあったし、待つのが面倒だからついでに掃除もするし、鍵を寄越せと言ってきたのも随分昔の話だった。幼い素裳が学校をさぼっておやつを食べにくるのを許していた通り、子どもに甘すぎる自覚はあるが、モゼも素裳と同じくらい甘やかしてしまったような気がしている。
だから時々彼は自分に生意気な口を利くことだってあるけれど、まぁ、命にかかわらなかったり、道理に反していなければそれも彼の性格だから、と許している、つもりだった。
何を今さら緊張することがあるのか、椒丘にはわからない。
(まぁ、そのうちモゼも慣れるでしょう)
考えてもよくわからないので、あまり気にしないことにした。
モゼと暮らしてみると、案外、不便に感じていたこまごました暮らしの不満が解消されて、モゼの言う通り、言葉に甘えて頼っておけばよかったかもしれないと感じた。
例えば家具の位置が三ミリほど出っ張っているのが気になっているけれど、物が置いてあるので自分で移動するのは困難だったり、朝ははっきり覚醒するまで台所行くのが難しく、それまで喉の渇きを耐えていたりしたのだが、今はモゼが茶を用意してくれていたりする。茶を淹れる才能は正直あまりなかったが、まあ、寝起きの一杯くらい文句は言うまい。もう少し自分のやる気がでれば、しっかり教えてもいいかもしれない。
同居をはじめて二週間も経つと、どんどん遠慮がお互いなくなってきて、結局あんなにしてもらうか悩んでいた尻尾の手入れも、今やモゼの朝夕の日課になっていた。
鍛錬帰りに朝食を買ってきたモゼと一緒に食事をし、尻尾の手入れを手短にしてもらう。綺麗にしてもらったところで殆ど庭にしかでないのだが、毛玉の感触がしなくなっただけでも、驚くほど気分が向上した。
モゼが出勤するのを見送った後は、それまでと変わらない。庭の手入れをして、本を読み、隠居老人のように茶や菓子をつまんだり、ラジオに耳を傾けたりする。一人で散歩にでるつもりにはなれなかったが、最近は少し体を動かしたい気分だった。
モゼが帰宅して、彼に気力があれば一緒に散歩についてきてもらうおう、と考えながら、心地よい日差しと風に頬を撫でられ、木陰に置いた庭の椅子で昼寝をする。
そんな日々を繰り返していると、段々調理場に立つ元気が出て来たので、モゼの監視の元、軽食作りを再開した。もう少し練習をすれば、きっと前のように自由に料理が作れるようになるだろう。
モゼとの同居生活は巡分満帆そのものだったが、ひとつだけ、よかったはずだけれども、失敗したな、と思うことがあった。
「椒丘」
強く揺さぶられて、椒丘はハッと息を吐いた。視界が回転するような感覚がするが、目の前には暗闇が広がっており、落下するように体ががくっ、と揺れた気がした。すべて錯覚だ。
「椒丘、」
頬にあたたかな手のひらが触れて、何度か軽く叩かれる。暗闇で手を伸ばし、目の前の体に触れる。指先の触れた服をぎゅっと掴んで、息を吸った。強い香のにおいが鼻から肺に落ち、深呼吸を繰り返しているうちに気分が落ち着いてくる。
「起こしてすみません
……」
「気にしなくていい」
跳ねていた心臓が落ち着いてくると、ゆっくりと身を起こした。その背を、モゼが支えてくれる。あたたかな手のひらの感触にほっと息を吐き、縋りつきたい気持ちになりながら、冷えた手で額の汗を拭った。
診断書に書いてあった通りなので、飛霄とモゼに隠していたわけではないが、未だに、悪夢に魘される夜があった。動揺して起きた後に、処方された香を焚くのは今の椒丘には難しい。誰かの監視があれば火をつける練習ができるのだが、と思いつつも、家の中に、監視してくれる誰かがいるはずがない。
だから、一度魘されると、どうにも気持ちが落ち着かず、深い眠りにつくのは難しかった。
本当のことを言えば、昼寝癖がついてしまったのではなく、夜中、魘されているから昼間に眠ってしまうと言うのが正しかった。
モゼに背中をさすられながら、ふーっ、と息を吐く。悪夢の内容は様々で、飛霄が死ぬ姿を見ることもあれば、モゼが死ぬ姿を見ることもある。牙を立てられたあの瞬間の痛みと熱に永遠に支配される夢もあれば、自分が月狂いを発症し、誰かをずたずたに引き裂き、噛み殺す夢をみることだってあった。
「椒丘」
俯きながら慎重に呼吸を繰り返していると、遠慮がちにモゼが声を懸けて来た。そうだ、香を焚いてくれた礼を言わなければ、と考えていると、モゼの手が体に回り、そっと、弱々しい力で抱きしめられた。
「
……全部悪い夢だから、気にしない方がいい」
戸惑った椒丘が反射で身を固くすると、反対に、モゼは少しだけ腕に力を込めて、椒丘に言い聞かせるように普段より強い声で言った。
モゼに情けない姿を見せてしまったことを、正直に言えば椒丘は恥じていた。自分がまだ悪夢に苦しんでいることを知られたくなかったはずなのに、それを忘れて、同居を提案してしまった。
そう感じているのに、誰かに抱きしめられる心地よさに、言葉が出てこない。モゼの高い体温に体を包まれていると、確かに、現実は先ほど見た酷い光景ではなく、何も見えないこのあたたかな暗闇なのだろうとすんなり受け入れられた。
「
……そうですね」
自分を抱きしめている腕に触れているうちに、段々と気分が本当に安らいでくる。香の効果なのか、それともモゼだからこんなに安心しているのかはわからなかった。心が弱っているから、妙に安心するのだろうか。
「すみません、もう少しだけこのままでいてくれますか」
椒丘の言葉に、モゼは無言で抱きしめる力を強くする。情けなくて恥ずかしい姿だったが、夜の間だけ、モゼの優しさに甘えることにした。モゼの寡黙さが今はありがたかった。
椒丘は耳をモゼの肌に当て、、力強い鼓動を聞こうとした。小さく、少し早い鼓動がモゼの肌の下にある。
そうされているうちに、うとうとと眠ってしまうこともあった。
それを、失敗したな、と思っていた。
*
「いつか解消されそうな気がするから、はっきり言っておいた方がいいと思うんだが」
日差しの強い夏の終わり頃だった。
以前より昼寝の頻度が少なくなってきた休日の夏の昼下がり、庭の手入れを終えて休憩していた椒丘に、冷たい茶を持ってきたモゼが長椅子の隣に腰かけたかと思うと、唐突に、緊張した声でそう切り出した。
「なんですか突然、そんな別れ話でも切り出すみたいな雰囲気で」
笑いながらストローを咥え、冷たいお茶が喉を流れて行く感覚に心地よさを覚えていると、モゼが「いや、逆だろ
……」とぼそりと言う。
逆? と思いつつ、隣から漂って来るあまりに真剣な空気に、グラスを脇へ置く。置いたグラスをモゼが手に取り、手や足の届かないどこかへ置く気配がした。
「お前がもし、この先、目が治ったとしても俺はこの家を出て行くつもりはない」
「はい?」
あまりに突然すぎる話題に、どう答えるのが正しいのか椒丘にはわからなかった。言われた言葉の意味を考えてみるが、どうにも話がつながらない。最初のモゼの言葉から考えて、とにかく追い出さないで欲しい、ということだろうか? と考えながら混乱していると、膝の上に置いていた手を、モゼがぐっと強く握って来る。
「お前が好きだ。だから、このままずっとお前と一緒にいたいと思ってる」
「
――え?」
椒丘は手を握られたまま、間抜けに、口を開けて固まった。
モゼの言う「好き」の意味がわからないほど耄碌はしていなかったが、「可愛いことをいいますね」、とにぶいふりをして流せるほど、恋愛をしてきたわけでもない。
じりじりと肌を日差しに焼かれる感覚がする。熱い。けれどこの熱さが、本当に気温と日差しのせいなのか、そうでないのかがわからない。
「嫌か?」
モゼは掴んでいた手首をそっと離し、椒丘の膝に手を置いた。
手のひらの熱さが布越しにじわじわと伝わって来る感覚に、もとより冗談だとは思ってはいなかったが、本当に誤解のしようもないほど本気なのだと分かってしまった。
椒丘は暑さを紛らわせるために、ゆっくりと羽扇を仰ぐ。
「嫌というか、驚いています
……」
モゼに顔を見せないよう、少し体を反転させる。先ほどは驚いて間抜けな顔を晒してしまったが、すでにいつもの顔に戻せているはずだ。
落ち着け椒丘、と自分に言い聞かせながら、先ほどのモゼの言葉と、これまでのことを反芻する。
――反芻して、なるほど、と納得してしまった。そうか、好きだから、あんなに世話を焼こうとしたり、妙に戸締りを気にしたりしていたのか。
もしかすると飛霄はこのことに気付いていて、だからあの速度で連絡がきたし、「それなら仲良くしなさいよ!」と言われたのではないか、とハッとする。
どう考えても、もう少し自分の方から深堀をしておくべきだった。
「ち、ちょっと待ってください
……、あの、同居をする前からそうだったんですか?」
「ああ」
素直な肯定に驚き、思わず叫んで走り出したくなっていた。若者のまっすぐさが眩しすぎる。
気づかなかったとはいえ、今までの数々の所業が走馬灯のように椒丘の脳裏を駆け巡る。
(え、じゃあ君は好きな相手の風呂の介助を本当に何もせず手伝って
――自分を患者だと思うと、たいていの羞恥は考えられなくなるものだ
――、僕が申し訳なさそうに頼んだ尻尾の手入れも自分はそれほど乗り気ではなさそうに請け負って
――思い返してみれば、確かに尻尾に触っている間はいつでも機嫌が良さそうだった
――、昼夜となく一緒に過ごして、魘された時だけあんな風に手を出してきた
――それは非常に悪意のある言い方だけれども!
――っていうんですか?)
様々な記憶と感情がぐるぐると駆け巡り、椒丘は羞恥心から情けない声を上げた。
「それは
……同居する前に、本当のことを言ってくださいよ
…………!」
「
……勇気が出なかった」
こんな時ばっかり素直に可愛いことを言って!
恥ずかしそうにぼそぼそ呟くモゼに、「そ、そうですか
……」となんとか返すと、「それで?」とモゼが焦れたように口にする。
腰を掴まれてぐるっと体の向きを変えさせられたかと思うと、肩を掴まれる。
そんな風にしたって見えないのに、と余計なことを考えて気を散らそうとしたが、そう上手くはいかなかった。
「別に
……出ていけとか、言いませんよ。そう思ってたら最初から同居は提案していないと思います
……」
多分、と続けた椒丘に、そうか? と言いたそうに、モゼは椒丘の左手に指を絡ませて、そっと握る。手を軽く開いたり閉じたりしているモゼにされるがままになりながら、「あの」と声を上げた。
「ここはその、暑いので、家の中に入りませんか?」
ぱたぱたと右手で羽扇を仰ぎながら呟く椒丘に、モゼは無言で手を握ったまま立ち上がる。
モゼに手を引かれて、ゆっくり、涼しい自宅へ戻ることにした。