前回→
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寝る前、全ての窓と戸のロックが正常に動いているか確認し、セキュリティを「強」に変更しておく。それを終えると調理場で湯を沸かし、寝る前の茶を作り、私室へ運んだ。茶器を卓上にセットしてから室内温度を確かめると、隣室が少し低くなっていることに気がついた。ストーブが故障しているのだろうか、と部屋を出て隣室の戸の前まで来ると、「モゼ」と椒丘は小さく声をかけた。
先日、飛霄が薬王秘伝の残党狩りから帰還した際、モゼと言う名の子どもを拾ってきた。明らかな殊俗の民で、孤児だったところを薬王秘伝に誘拐され、信者として人体実験を行われていたらしい。紆余曲折を経て飛霄が保護することとなり、その流れで、今は比較的閑職に当たっている椒丘が夜間の面倒を見ている。
彼は極端に口数の少ない子どもで、食欲はあまりなく、それなのに瞳だけはぎらぎらと暗く輝き、飛霄を襲う時だけ力が爆発するような状態だった。
「こんばんは、もう眠っていますか?」
声をかけても返事はなかったが、戸に手をかけると鍵はかかっていない。侵入を拒む場合は鍵をかけているので、入ってきてもいいのだろうと判断し、「入りますね」と戸を引く。
「
…………モゼ?」
灯りの落ちた暗い部屋の中に、廊下の照明の光が差し込む。寝台から床、窓に向かって、シーツを体に絡ませながら転げ落ちたようにシーツが広がっていた。
部屋に踏み込み、灯りをつけた。部屋の中で音もなく暴れるような器用な真似をしたのか、寝台の上の枕もシーツも毛布も全てぐちゃぐちゃに床に落ちている。ベッドの上に子どもの姿はなく、部屋の隅の暗がりで、シーツを抱えたまま丸まって、震えている。
「モゼ、どうしました?」
青ざめた顔で口を塞ぎ、ぶるぶると震えているモゼのそばにかけよると、モゼはびくりと椒丘を見上げた。大きな目を見開き、ぼろぼろと涙をこぼしたかと思うと、口を手で塞いだまま首を振る。
「どこか苦しいんですか?」
そばに寄った時には、彼がどうしてそんな風に必死に口を押さえているのか察していた。椒丘はあたりにただよう酸っぱいにおいに眉ひとつ顰めず、モゼの傍に膝をついて、そっと口を押さえている手を外させる。
「大丈夫、怒りませんよ、大丈夫ですから。我慢しなくて大丈夫です。窒息したら大変なので、全部出しちゃっていいんですよ」
そっと背を刺すってやりながら告げると、モゼは抱きしめていたシーツに顔を押し付けた。吐瀉音が何度か響く。しゃくりあげるように呼吸するたびにシーツで顔を隠そうとするのを宥めて、「大丈夫大丈夫、全部出してしまえば楽になると思いますよ」と小さな背中を撫でた。
(夕飯は随分少量だったはずだが、フラッシュバックでもしたのだろうか
……)
嗚咽と喘鳴を繰り返して苦しんでいる子どもの背を何度か撫でていると、やがて、ひゅう、ひゅう、と隙間風が通るような呼吸音だけになる。
「立てますか?
……うん、いい子ですね。ああ、シーツはそこに置いたままでいいので、服を着替えるためにお風呂に行きましょう。掃除は僕が、というか半分以上は機巧にやってもらうので気にしなくて大丈夫ですよ」
濡れて汚れた手足をシーツのまだ綺麗な場所で拭ってやり、椒丘はモゼの手を引いて風呂場へ向かう。明るいところで見てみれば、髪も顔も結構汚れてしまっていた。きっとパニックになってゴミ箱あたりに吐くことができなかったのだろう。
椒丘はモゼの服を脱がせると、まだ湯を張ったままだった風呂場へ送り出した。自分でできますか? と尋ねると、こくりと小さく頷かれる。
「替えの服を用意してきますので、その間にのんびり洗っておいてください。べたべたして気持ち悪いでしょう?」
椒丘の問いかけにふたたびこくりとモゼが頷く。普段であれば風呂場の戸は閉めていくが、今夜はあえて少し開けっぱなしにしておく。
モゼの脱いだ服の汚れを軽く落とすと、洗濯機に放り込み、椒丘は掃除用の小型機巧をいくつか起動させて、モゼの私室の汚れを掃除させることにする。
どくとくの酸っぱいにおいが室内に満ちており、椒丘は悲しそうに眉を下ろしてから、窓の施錠を解除し開け放つ。外から、冷たく清潔な空気がなだれ込んでくる。冬のにおいを感じながら、一旦そのまま空気の入れ替えをしておくことにする。
幸いにも寝具は床のシーツだけが汚れていて、あとは問題ないようだった。シーツを洗面所へ持ってきて吐瀉物を洗い落とすと、同じように洗濯機に放り込んでから、手を洗う。
着ていた服を脱ぐついでに、風呂場のモゼの様子を伺った。
のろのろとした様子で体を洗おうとしているようだったが、明らかにぐったりしていた。
「手伝っても構いませんか?」
椒丘が髪を指差しながら尋ねると、数秒考えるようなそぶりを見せた後、こくりとモゼが頷く。下着の一歩手前まで服を脱ぎ、肘と膝まで服をまくると、髪を一つにまとめて風呂場へ入る。
「髪を洗いますね〜」
シャワーで湯をかけてやり、シャンプーよく泡立てて優しく洗ってやる。モゼは彫像のように硬直している。洗いやすいのだが、その反応に椒丘は胸を痛めた。きっと彼は薬王秘伝で、風呂場ではそうしていろと言われたのだろう。勝手な憶測だったが、そう感じていた。
「流しますね〜」
髪を流してやると、草木のいい香りが浴室いっぱいに広がっていた。
「浴槽に浸かると疲れてしまいますから、体を拭いたら出ましょうか」
体に残っていた泡を丁寧に流してやり、清潔なタオルで包みながら言うと、モゼは暗い瞳でじっと椒丘の方を見つめながら、こくりと頷いた。
洗濯機が動いている音を聞きながら服を着替えさせ、清潔になっているはずのモゼの寝室へ向かう。
「ああ、すっかり冷え切ってしまいましたね
……」
椒丘は窓をしっかりしめてカーテンを引くと、部屋のストーブに手を翳し、中の炎を少し大きくする。
部屋の棚から香を取り出して火をつけると、窓際に置く。白く薄い煙が、かすかに窓に向かって伸びていく。
「何か食べたいですか?」
尋ねた椒丘に、モゼは青い顔で首を横に振り、口を押さえた。背中が丸まったのを見て、そばにより背中を撫でる。
「大丈夫大丈夫、さっき全部出してしまいましたから、もうきっと出てきませんよ」
何度かさすって声をかけるうちに、肩で息をしていたのが治って、手も下ろされる。
「食欲がなくても、お茶は飲みましょう。水分を失ってしまったので、これだけは頑張らないといけません」
椒丘はモゼをベッドに座らせると、自室に置いていたお茶一式を持ち込み、ストーブの上で茶を温めた。ふんわりと香ばしいような、うっすらと甘いような香りが部屋に満ちて行く。
茶器を乗せるための小さな円卓と椅子をを寝台のそばに運び、茶を入れてやる。
「熱いのでゆっくり飲んでください」
モゼにはそう言いながら、椒丘は喉が焼けそうなほど熱いままの茶に口をつけた。体の芯から温まるような、ほっとする口当たりだった。
「お茶がいやなら白湯を持ってきますよ。吐くかもしれないから飲みたくないはなしです。水分不足は頭痛や痺れ等等、他の良くない現象が起きますから」
飲むのを怖がっているそぶりを見せるモゼに、椒丘は穏やかに笑う。もし吐いたとしてももう一度飲ませるだけだし、どうしても吐き続けてしまうのであれば薬を調合してやる必要があった。が、そこまでではないだろうと踏んでいた。
「悪い夢でも見ましたか」
恐る恐るお茶を飲んでいるモゼの顔を見ずに、椒丘はポツリと溢す。答えが返ってくることは期待していなかった。
「君が嫌だと思ったもの、その感覚は間違っていません。大丈夫、ここにいる間は、誰も君の食事に妙な強要はしません。たとえ戻してしまっても罪悪感を覚える必要はありません。苦しい時は無理をしなくて大丈夫です。ゆっくりでも、少しずつでも、楽しく食べていきましょう。美味しいので食べてみませんか、とは僕は言ってしまうと思いますけどね」
小動物が水を舐めるようにちびちびと茶を飲んでいたモゼが、椒丘の顔をじっと見つめて、こくりと小さく頷く。
飛霄から預かった少年は、薬王秘伝に様々な「薬」や「丹薬」や「秘術」を施されていた。食事になると儀式を思い出したり、悍ましいものがフラッシュバックしてしまうらしいと聞いている。
子どもから食事の楽しみを奪うなんて、外道の所業だと椒丘は感じていた。食事のたびに、恐る恐る口に運ぶモゼを見ては痛ましい気持ちでいっぱいだった。
「もう少し飲めそうですか?」
無言で杯を差し出してきたモゼから杯を受け取ると、椒丘は笑って茶を注ぐ。
のんびりと一時間か二時間かけてお茶を飲み終えると、室内には茶の香りが暖かく満ちていた。椒丘は換気システムを小さく作動させたまま、香を消さず、おやすみなさい、とモゼに布団をかけてやって自室へ戻る。
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