好きだ、と言われた瞬間、涙が出るかと思うほど感動した。もちろん、とうの昔に枯れ果てた瞳から涙が溢れてくることはなかったが、頭の中では号泣していると言っても差し支えないだろう。
椒丘は驚きと感動でぽかんと口を開けたまま、眼前のモゼを見つめ返し、出会ってから今日までの出来事を走馬灯のように思い出していた。
怪我の治療をしようとして手を叩き落とされたこと、風邪で寝込んでいる彼の氷嚢を替えようとして頸動脈を切られそうになったこと(従軍経験がなければやられていた、と椒丘は今でも思う。捕虜は時として自殺行為に出ることがあるので、治療の際にも気を抜けない。可哀想だったが、あまりに暴れるので数日力の抜ける丹薬を飲ませるしかなかった)、突如ハンガーストライキを決行した子どもの口をこじ開けるのが忍びなく、夜な夜な点滴を打ったり泣き落としをしようとしたこと、餓死なんて一番つらいし意味のないことですよ、と飛霄にとりあえず三食その場でフルコースを振る舞って諦めさせたこと(すっかり彼は自分より大きくなってしまった。昔は食が細かったのに!)、怪我していないと涼しい顔で言うのを信じていたら、腕が腐りかけていたこと(再生手術はうまくいったが、そのせいで腕に長く大きな傷が残ってしまったことを、あの時無理やり診察していればと今もまだ後悔している)、はじめて名前を呼んでくれた日に感動し、記念日と称して豪勢な夕食にしてみれば「恥ずかしいからやめろ」と脛を散々蹴られた日のこと(今でも勝手に記念日と決めて、実は一品だけ手の込んだ品を出すようにしているが、モゼは気づいていないらしい)、「深夜に街中を彷徨う霊がいる」と怯える市民の要請で見回った飛霄がモゼを捕まえて帰還し、「うまく眠れないみたいだから、お茶を出してあげてくれない?」と夜中に叩き起こされたこと(無言で抵抗していたモゼだったが、茶がうまかったのか、しばらく椒丘の家で眠るようになった)。尻尾を触らせてくれとうずうずした顔で可愛いわがままを言うので時々触らせてやったり(孤族は成人したら大事な人にしか触らせないので、僕以外の尻尾は触っちゃだめですよと念押しすれば、神妙な顔で「わかった」と頷くのがまた素直で可愛かったですね、と椒丘は思い返した)。任務で大怪我をしたモゼを治療した数日後、ようやく目を覚ました彼から「助けなくてよかった」と言われ、思わず無力感に苛まれ部屋を出て行ってしまったこと(他の患者であれば聞き流したり宥めて終わりにするのに、あの日はどう言うわけか無理だった。翌日謝りに来たので不思議に思っていると、飛霄にこっぴどく叱られたらしく、椒丘は逆に「治療中のモゼに負担をかけるような真似をしないでください」と彼女を叱り返す羽目になった)。
——ああ、色々あったな、と高速で巡る様々な思い出を噛み締めながら、うんうんと椒丘は一人頷く。なかなかモゼは心を開いてくれない子どもだったが、生い立ちや境遇から考えてそれも仕方がないと思っていた。昔は明確に敵だったが、いつからか嫌われてはいないらしいと感じるようになった。家族や友人のように日々を過ごし、同僚として隣を歩むようになり、一緒に飛霄を支えていくようになった今、あの頃の奔走は無駄ではなかったのだと感じる時があった。
今では目線すら上になってしまったモゼを見上げながら、しみじみとした充足感を得ていると、「……お前は?」とモゼが少し眉を下げて、不安そうな顔をした。感動のあまり回想に夢中になっていた。歳をとると昔のことを考える瞬間が多くていけない、と思いながら、
「僕も君のことは好きですよ」
と笑った。本心からの言葉だった。
そもそも嫌いだったら同僚はできても友人にはなれないだろう。飛霄の食事を作るついでに彼の分の食事を作っているのは惰性とはいえ好意があるからだし、好意があればこそ美味しい食卓になるに決まっている。
胃袋で掴んでおいて、と猫のように首根っこを捕まえた飛霄に言われた時は「本人の前で言って効果あります?」と思ったりもしたが、掴めない自信はまぁ、椒丘にもなかった。敵であろうと気に入らない輩であろうと、自分の食事で陥落しなかった人間はそうそういない。
それにしても、わざわざ好かれているか確認したがるなんて、モゼはすっかり大人になってしまったと思っていたのに、案外そんなことはなかったのか、と椒丘はなんだか微笑ましい気分になった。
椒丘の答えにモゼは「そうか」とホッとしたように息を吐き、白い頬を嬉しそうに微かに染めていた。
「突然話があると思い詰めた顔で言われて驚きましたが、君も案外可愛いところがあるんですね」
ふふ、と笑って椒丘は空になった盃に酒を追加する。今夜は飛霄が気になる店を見つけたと「斥候」を買って出ているので、モゼと二人の夕食だった。だらだらと隣あって床に座り、月見酒に移行しながらぼんやりしていたので、少し酒も回っている。ふわふわとした酩酊感が心地良く、いい気分だった。
「……可愛いは嫌だ」
モゼの杯にも酒を追加していると、不愉快そうにモゼが口にする。可愛い反応だった。
「そうですか? 大抵はそのうち言われなくなるので、貴重だと思いますが」
「お前は言われて嬉しいのか?」
「相手にもよりますが、悪意がなければ悪い気はしませんよ。……あ、もしかして僕に言われるのは嫌でしたか? 次は気をつけ——」
ます、と言いながら盃を手にしようとした椒丘だったが、隣から伸びてきた腕に抱きしめられて、酒を持ち上げるのを失敗する。
「モゼ?」
抱きしめてくるモゼの体は頬の血色の割に、妙に冷えていた。緊張でもしていたのか、それとも体調が悪いのだろうか、と考えた。しかし食事中の様子から特に体調に問題はなさそうだったし、今だって会話する時の声から違和感もない。
背中に腕を伸ばして「どうしました?」と撫でながら、モゼの冷たい肌が、首筋や頬に触れているのを感じていた。酒精で熱くなった肌の熱がモゼに吸い取られていくような感覚が心地良い。
「好きだ」
くぐもった声でモゼがもう一度呟くのが聞こえた。髪に顔を埋めるように抱きしめてくるモゼの背を撫でながら、もしかしてこれでも酔っているのか、と椒丘は今更気がついた。今までモゼが明確に酔ったところを見たことがなく知らなかったが、随分と甘えたになる男だったらしい。
椒丘からは可愛らしい行動に思えたが、自分以外の人間にこんな真似をするのは流石に誤解が生じてトラブルに発展するだろう。酔って問題になるのは飛霄だけで十分だ。
「わかりましたわかりました、こんなこと僕にしかしちゃだめですよ」
宥めて手を離してもらおうと試みるが、モゼの手は異様な強さで椒丘の体に回っていて、とても引き剥がせそうにない。諦めて抱きしめられたまま盃に手を伸ばそうとすると、もう一度ぐいっと体を引き寄せられて阻まれる。
「……お前にしかしない」
拗ねたようにモゼが呟くのが面白かったが、酔っ払いの言葉なんて信用に値しない。飛霄だって「今日は大丈夫!」と言いながら店の椅子を破壊したのは一度や二度ではないし、手合わせと称して戦闘自慢の部下を徹底的に叩きのめし、椒丘の元に怪我人を何人も送り込んで来たのだから。
「椒丘」
「はいはい、なんですか」
「好きだ」
三度繰り返される言葉に、椒丘はいよいよ酔っていることを確信した。同じ話を何度も繰り返すのだって酔っ払いの特徴だ。こうなったら、満足するまで適当に相槌を打ってやるしかない。
まあ、見ず知らずの人間にこんなことをされては初手で灰にしているが、モゼであれば、もう少しこの可愛い酔い方に付き合ってやっても構わない。
「そんなに何度も言ってくれなくても大丈夫ですよ。君が僕を好いてくれていて嬉しいです」
「本当に?」
腕の力を少し緩めたモゼが、椒丘の顔を覗き込んでくる。縋るような目をするモゼに、首を傾げた。
「嘘言ってどうするんですか」
「…………お前は嘘をつきそうだから」
「こら、笑顔が胡散臭いは失礼ですよ。そう言う悪口は僕の耳に入らないように言ってください」
思わず羽扇でモゼの口を叩くと、鬱陶しそうに首を振る。
「そこまで言ってない」
羽扇を椒丘の手から取り上げて、モゼは椒丘の手の届かない場所へそれを置く。
もう一度椒丘に向き合ったモゼの顔はやはり少し赤い。酔ってますねえ、と自分を棚に上げて考えていると、モゼの手が後頭部に添えられる。首筋に触れた指に、一瞬首を捩じ切られるビジョンが脳裏をよぎるが、モゼに最後に命を狙われたのはもう随分と昔のことなので、考えすぎだろうとそのビジョンを頭の中から追いやる。
「………………ん?」
違和感に気づいたのは、モゼが顔を寄せた時でも、瞳を閉じた時でもなく、彼の唇が自分の唇に重ねられた瞬間だった。
押しのけることも冗談にして笑ってやることもできず、椒丘は驚きのあまり硬直していた。
「………………悪い。したくなった」
固まっている椒丘に悪いことをしたと思ったのか、モゼが恥ずかしそうにぼそぼそ呟くその表情を見て、「そう言う意味だったのか」と椒丘は己の勘違いにようやく気がついた。
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