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強烈な痛みの感覚に跳ね起きる。慌てて首筋と胸を押さえると、椒丘、と聞き慣れた低い声が隣からした。
「それは夢だ」
優しい声のモゼにあやすように抱き寄せられながら、椒丘はそれでも自分の首筋から手を離せない。夢と現実の区別がまだつかないのは、目の前が暗いからだろうか。背中が暖かな胸に触れている感触もするのに、椒丘は声を上げることができなかった。
かたかたと小さく震える手の上にモゼの手が重ねられたかと思うと、ゆっくり、一本一本指を剥がすように首から手を離される。
「お前の怪我は治ってるし、狼にもなっていない」
モゼは片手で剥がしたばかりの椒丘の手を握り、もう片方の手を椒丘の首筋に当てた。手のひらで傷跡をゆっくり撫でるように、首筋から鎖骨、胸から腹へと下ろしていく。
椒丘のうなじに唇を当て、傷跡の残る箇所を丁寧に撫でていくと、段々と椒丘の体から力が抜け、体重がかかってくるのがわかった。
「起こしてすみません
……」
震えた笑い声で口にする椒丘を強く抱きしめると、「骨が折れますよ」と聞き分けのない子どもを諭すように椒丘がもう一度笑う。
無言で目許に口付けると、モゼはベッドを降り、部屋の隅の卓上に置いてある香を焚いた。微かな香りが部屋へ流れてくるのを感じながらベッドに戻ると、椒丘は何事もなかったかのようにベッドに横になっていた。モゼを拒絶するように背を向けている姿に少しだけ淋しさを覚える。勿論、これは彼が自分の「有様」を恥じているだけなのだと分かっていた。
モゼは椒丘の体に手を伸ばし、腹の前で腕を組むようにして抱き寄せる。振り向いた椒丘が何か言いたそうな顔をしているのが見え、言葉が出てくる前に唇で塞いだ。きっとモゼを心配させまいとお喋りを続けるであろう彼を封じるには、こうするのが一番早い。
唇を合わせているうちに、腕の中の体が段々と熱を持ってくるのがたまらない。唇で椒丘の唇から顎の先、首筋を丁寧に辿っていくと、肌に触れるたびに小さく声が上がる。可愛い、と口にすればなんとなく怒られそうで言ったことはなかったが、椒丘のこの反応は可愛くて好きだった。
椒丘は日中、まるで生死を彷徨ったことなんてなかったかのように、平気なふりをしている。羅浮にいた時からそうだったし、曜青に帰ってきてからは余計にそうだった。実際、体は視力を除いて問題ないのだろう。
けれど、今もたびたび悪夢にうなされているのが現実で、こんな姿を見るたびに、彼が本当に癒えたわけではないのだと実感する。
モゼは今でも、目を離した隙に椒丘が一人で死にかけている姿を夢想してしまうことがある。看護の名目で椒丘が出歩けるようになればそばについて回ったし、同居に反対しなかったのも不安だったからだ。
彼が自分を受け入れてくれたって、自分のために生きてくれるような男ではないことを知っている。別にそれでいいと言ったのは自分だったし、その言葉に嘘もない。
飛霄の病が治った今、椒丘は生きる目的を失い、抜け殻のようになってしまうのではないかと飛霄とこっそり心配していた。
飛霄にしばらく影護衛を休みたいことと、椒丘の看護の話を持ちかけた時、飛霄は瞳を細め、何か言いたそうな顔をしたが、結局「いいわ」としか言わなかった。なんとなく、彼女は自分と椒丘が「どうなった」のか、全てわかっているような気がしたけれど、確かめはしなかった。
椒丘から、「飛霄様の前と職場では以前と同じようにしてください」と言われていたからだ。
『あたしの護衛を休むからには、余計に失敗は許さないわよ』
モゼの要望に対して、飛霄は真っ直ぐに視線を送り返しながら、腕を組んで答えた。とうに覚悟はできていた。
そんな二人の覚悟とは裏腹に、椒丘は以前と同じように穏やかだったし、飄々としていた。まるで自分の命と引き換えに飛霄を救おうとしたような苛烈さなど、少しも持ち合わせていなかったかのように。
『そう言えば、誤解のないよう今一度言っておきますが、あれは自殺ではありません。ですから、僕の今後について、その点は心配しないでください』
曜青に帰ってきた翌日、唐突に、椒丘はけろっとした表情でモゼと飛霄に言い放った。思わず「殴ってもいいですか」とモゼは傍の飛霄に確認を取ったが、飛霄は「だめよ」と大袈裟にため息をついただけで終わりにした。おそらく、椒丘の体が元気であれば、耳か尻尾ぐらいは引っ張る許可が出ていただろう。
——だけど夜になればこうして、悪夢に魘されて飛び起きもすれば、傷痕を押さえて震えもしている。
椒丘は傷痕に唇を這わせているモゼの髪に指を差し入れながら、モゼ、とか細く濡れた声を上げた。
髪と耳を撫でてくる椒丘に顔をあげると、薄く開かれた唇を塞ぎ、椒丘の腰を抱き寄せる。
何度もキスを繰り返し、椒丘の体がベッドに弛緩したのを認めると、それ以上は何もせず、額に唇を当てたまま優しく抱きしめた。
*
音で問題ないだろうと感じていたが、念のため焼き加減をスキャンしてみると、生焼けはなしとの結果が出た。
椒丘は鉄鍋を火から下ろし、用意していた土鍋へおこげを入れると、肉野菜あんかけを移した。ちょうどいいタイミングでタイマーが鳴り、蒸し器の火が落ちた音がする。
同じように蒸し器の中を簡易的にスキャンし、蒸し足りないものがないかチェックする。以前と時間や水の量、皮の厚さ、具材の大きさも変えていないので問題はないはずが、今はまだ慎重に確認した方が安心だった。
「問題なさそうですね」
音声レポートに頷くと、玉兆を取り出し、蒸し器を運ぶための自走棚を自分のそばに呼ぶ。しばらく待つと、小さく軽快な音楽を鳴らしながら、棚がごろごろと移動してくる音がした。椒丘の目の前で止まった棚の上を手のひらで撫でて、ちゃんと何も置かれていないことを確かめると、蒸し器をその上に移す。
先に作っておいた土鍋のおこげと取り皿や箸、れんげも同時に乗せると、再び玉兆を操作して食卓へ運ぶよう命令した。小さく音楽を奏でながら、棚が離れていく音を聞くと、椒丘は洗い物を済ませて、食卓へ向かう。
しっかり指定した場所で停止している棚から食事を卓上へ移すと、ちょうど、モゼが帰還したのか、戸が開く音がした。
寝起きに椒丘が確認した限りでは、今日は買い物へ行くので飛霄は朝食と昼食はいらないらしい。昨晩仕込みすぎてしまったような気がするが、余れば昼に残りを食べてもいいだろう。
「お帰りなさい」
「ただいま。すぐにシャワーを浴びてくる」
戸の向こうから、モゼがそう答える声が聞こえてきたので、椒丘はのんびりと茶を淹れておくことにした。
少し前までは椒丘が火や湯を使おうものなら、モゼが逐一そばではらはらと見守っていたが、最近はようやく本当に大丈夫なのだとわかってくれたらしく、咎められることもなくなってきていた。もう少し訓練すれば、食事は以前とあまり遜色のないものが作れるようになりそうだった。
曜青に帰還し数ヶ月が経過したが、曜青と羅浮の丹鼎司の健闘の甲斐なく、椒丘の目は未だに視力を取り戻さないままだった。
モゼや飛霄は相変わらず気に病んでる様子が少しあるが、椒丘自身は以前と変わらず、あまり悲観的にもなっていない。ツールやソフトウェアの補助で殆ど日常生活には不便もなくなってきたし、こうして料理もできるまでになっていた。
もちろん調味棚は一から置き直しだったりだとか、調理具の一部を新しくする必要はあったが、それも大した問題ではなかった。
焼き加減は音と時間で概ねわかるし、自信がなければスキャニングの補助もある。どこに何を置いたのか全て覚えておかなければいけないのは少し大変だったが、それもそのうち慣れて、一々考える必要もなくなるだろうと思っていた。
丁寧に茶を淹れ終わると、モゼにしては随分と早くシャワーを終えた音がした。椒丘は食卓についておくと、ぼんやり、窓のある方へ顔を向けた。
光は目には見えなかったが、肌に柔らかな陽の当たる感覚がした。小さく鳥の鳴く声が聞こえ、穏やかな朝を風景を想像することができた。
「椒丘」
小さな足音で近づいてきたモゼに顔を向け、「今朝はいい天気のようですね」と笑うと、うん、と肯定が返ってくる。
肩に手を置かれ、そのまま顔を向けたままでいると、予想した通りに、頬と唇に口付けを受けた。
「あの、毎度のことながら、先に食べませんか?」
「もう少し
……」
モゼが満足するまで放置すると完全に冷めてしまう気がし、一度制止するが、モゼは今朝も言うことを聞く気があまりないようだった。
椒丘の唇を何度か食むように唇で挟むと、おご先から輪郭を辿って、耳までゆっくり口付けられる。
「くすぐったいですよ」
耳を震わせて抗議するも、モゼは耳の下の方のふわふわした毛に顔を押し付けて、満足そうに深呼吸をしている。愛玩動物相手にこんなことをするのはわからないでもないので、かなり複雑な気分になってしまう。モゼは時々尻尾でも同じことをするのだが、尻尾の方がきちんと手入れをしている分、なんとなく気分的にマシだった。
「こら。
……いい加減食べますよ」
身を引きながら羽扇をモゼの顔に当てて拒絶すると、名残惜しそうに顎先を指で撫でながら、それでも大人しくモゼが離れていく。
向かいで食卓についたモゼが食べ始める音を聞き、椒丘も何事もなかったかのように食事を始める。
(
……………………全然慣れませんね)
内心、恥ずかしさとむず痒さで体温が上がっていたのだが。
モゼに好きだと言われたのをのらくらかわしていたくせに、負傷したのをきっかけに受け入れてしまった、と言うか、甘えてしまったと言うべきなのか。椒丘は現状をなんと言い表すのが正しいのか、今だに自分でもわからなかった。
もちろんモゼのことは好きだし、大事に思っているけれど、歳の差を考えなくたって彼と恋人同士だなんて烏滸がましいような気がしていた。けれども、きっとそんなことで悶々としているのは椒丘だけだった。
モゼは毎日こんな風にキスをしてくるし、寝る前は特に何をするでもなく、本を聞いたりラジオ番組を聞いている椒丘を抱きしめてぼんやりしていることも多い。ベッドの上で椒丘の背中に耳を当ててくっついていることもあれば、ソファの上で、柔らかくもないだろうに椒丘の膝に頭を乗せてぼんやりしていることもある。
別にスキンシップが嫌だとか無言なのが気まずいだとか、そんなことは全くないのだが、ただ単に、椒丘はまだこの生活に慣れていなかった。
こんな風にモゼに甘えられたり、と言うより愛されている毎日に比べれば、余程目の見えない生活の方が早々に慣れてしまった。
曜青に帰還すると、椒丘の自宅は丹鼎司のすすめと飛霄の命令で段差がなく、壁に手すりがあり、
……等等様々な条件で建て直しをすることになった。当然、自宅へ戻れない間も色々と看護をしてもらう必要があり、モゼの家で生活をしていた。つまり、その時からモゼとの同棲生活が始まっている。
今までだってモゼには部屋に勝手に入ってもらって掃除をしてもらったりしていたが、流石に毎日、寝食を共にまではしていない。「それは流石にモゼも迷惑なのでは
……」と椒丘は一応抵抗してみたのだが、モゼには「別に迷惑じゃない」と言われてしまうし、飛霄には「しばらく監視してもらった方があたしも安心なのよね」と言われる始末だった。
モゼとこうなっていなければ、逆にに同居に躊躇しなかった気がした。
もしかすると弱っているからモゼを受け入れるつもりになったのかもしれない、と椒丘は考えていたが、体調が落ち着き、演武典礼が済んで曜青に戻る頃になっても、モゼの優しさや愛情を煩わしいとは想わなかった。もしかすると人でなしの自分がいるかもしれないと思っていたが、それは完全に杞憂だった。
そうなると、飛霄にモゼとの関係の変化を伝える必要があるか一瞬だけ悩んだが、仕事に支障がでなければ部下同士がどうなろうと問題はないだろう、と考えて伝えなかった。
一応、飛霄の前や職場では以前と態度を変えないでくださいね、とモゼに言い聞かせておいたが、モゼの表情は以前と違っているかもしれない。もしかすると彼女はとっくに勘付いていて、椒丘になにも言ってこないだけかもしれなかったが、何も言われていないので、今のところはわからない。
——そう言うわけで、覚悟ができる前にあれよあれよと流されてしまった椒丘と違い、モゼは告白を受け入れられたのを機に開き直ってしまったのか、アプローチを殆どしてこなかった以前とはうって変わって、さっさと恋人の態度になってしまっていた。
(まあ、付き合ったら急に冷たくなる
……なんて状態よりはもちろんいいんですが
……)
ため息をつきたくなるのを堪えて、椒丘はこんな甘ったるい日常が果たしていつまで続くのか、あるいは先に自分が慣れてしまうのかと答えの出ない、出す必要もない悩みを抱えていた。誰かに相談するにはあまりにばかばかしい内容だったし、「いやそれ、ただの惚気ですよね」と頭の片隅で、冷静な自分がつっこみを入れていることにも気づいている。
わかっているのに、どうにも落ち着かない。
調理具や家具を揃える時だってモゼはいつもそばにいて、刃渡がどうだの、使い方はこうだの、サイズ感や手触り、色味が部屋と合うだの合わないだの、彼にしては饒舌に説明してくれた。ソファは大きくて少し硬めの、弾力のあるものが良いと言うモゼに、「もう少し柔らかい方が良いんじゃないですか?」と座面を触りつつ口すると、「お前の腰に悪いだろ」と言われ、椒丘は思わず閉口した。
椒丘を座らせて「どうだ?」と聞いてくるモゼに、「まあ具合がいい気がします」としか答えられなかったが、モゼは気を悪くもせず、満足そうにじゃあこれにしよう、と言っていた。
ソファは座り心地も寝心地も最高で、今や椒丘が何をするでもない時はそこに座るのが日常になっていた。
食事を終え、お茶を飲んでいると、「片付けてくる」とモゼが静かな声で言い、食器類を運ぶ音がした。
手伝った方が邪魔になるし、彼の掃除好きは殆ど趣味のようなものなので、ここは毎度手を出さない。どうせ片付けが終わればモゼが迎えに来るのだし、ともう一度窓の外に顔を向けて、柔らかな陽光を浴びながら頬杖をつくと、今度こそ小さくため息をつき、奇声を上げながら髪をかきむしりたくなるのを堪えた。
モゼはキスの前に必ず名前を呼ぶことに決めているらしく、最近では名前を呼ばれるたびに少し身構えてしまうことが増えていた。もちろんキスがしたい時のモゼの声音と、そうでない時の声の違いはわかっているつもりだが、名前を呼ばれるだけで毎度毎度心臓が跳ねるのは健康に悪い状態だった。
(いい歳して
……)
椒丘は片手で顔を隠すように触れると、発熱したかのように熱いことに呆れた。そんな風に自虐はできるくせに、体温は少しも下がらない。
ポーカーフェイスは得意なつもりだった。けれども、緊張している時の自分の表情を本当にコントロールできているのかどうか、最近は自信がない。目が見えなくなる前だって自分の顔は自分で見られないが、口角を上げておくことは得意なはずだった。けれども最近は唇の端が緩んで、逆にむにゃむにゃと下がっているような気がする。
若い頃ならさておき、こんな歳になってから、自分がたかが恋愛でいちいち緊張する羽目になるとは椒丘は考えてもみなかった。
こんな生活とは無縁だと思って生きてきたのもあるし、誰かを愛し慈しむことは身近でも、こんな風に誰かに愛されることには正直耐性がない。まして同世代でも年上からでもなく、年下からなんて。
「
……丘、椒丘」
「わっ!」
肩を揺さぶられて、思わず飛び上がりそうになった。
「驚かせて悪い。何度か声をかけても反応がなかったから、具合が悪いのかと
……」
気まずそうなモゼの声に、椒丘は思わず胸を押さえて声のする方を見上げた。
「い、いえいえ、そんなことはありませんよ。見ての通りすこぶる元気です」
心臓が飛び出るかと思った、と思いながら笑った椒丘の頬に、モゼの少し冷たい、乾き切っていない手が触れる。洗い物をしてきたのだと分かるその手に、「そういえばなんで食洗機を買ってないんでしたっけ?」と椒丘は今更のことを思い出した。勿論それは現実逃避なのだが。
「食休みをしたら、お前はもう一度寝ろ」
モゼがそっと頬骨を親指でなぞってくるのに体を跳ねさせながら、昨日も夢見が悪く、一度目が覚めたあとは結局眠らなかったのがバレていたことを理解する。
「君って、本当に僕のことをよく見てるんですね」
羞恥心を誤魔化すために、椒丘は羽扇でモゼの手をそっとはらいながら顔を隠す。露骨な態度だとわかっていたが、こう言う扱いはまだどうしたって恥ずかしい。
「
……………………」
「あ」
無言のモゼにサッと羽扇を奪われ、椒丘は声を上げた。そっと卓上に羽扇が置かれた音に顔を向けると、椒丘、とモゼが無感動な声で言う。
呼ばれた声に振り返りたくない。
多分、赤くなっているであろう顔をこれ以上見られたくない。
彼にばっかり、すべてが見えているのが悔しいかった。
「
……見てなかったら好きにならないだろ」
呆れたような声が落ちて、椒丘は今度こそ卓上に突っ伏した。
モゼの鼓動が、いつもよりずっと早いのが聞こえていたから。
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