前回→
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ふ、と意識が覚醒すると、隣に誰かがいるような気がした。あまりにも気配は希薄で、部屋に微かに満ちている香のせいでにおいもわからない。
勘違いを疑いながら、椒丘はそっと空虚へ手を伸ばした。
「椒丘」
低い声と共に手が握られた瞬間、はっきりとした実体がそこにあるのが「見え」た。手の冷たさに一瞬驚きかけたが、何も感じなかったふりをしておく。
目が覚めたか? と話しかけられて、おはようございます、と口にする。朝かどうかは定かではなかったが、モゼは「おはよう」と口した。
「君、自分の病室にいなくていいんですか」
握られた手をそっと握り返したつもりで尋ねると、「俺はもう退院した」と静かな声が返ってくる。一体、モゼは今はどんな顔をしているのだろう。暗闇の中でふと疑問が浮かんだが、どうしてそんなことが気になるのか椒丘にもわからなかった。
目が見えなくなったことは納得しているし、少し生活は不便になったと感じていたけれど、そのうちなれるだろう。そう思っているのに、今、無性にモゼの顔が見てみたかった。
「そうですか、それはよかった。
……今は朝ですか?」
「午前二時だ」
ベッドを少し起こしてもらえませんか、と椒丘が頼むと、一度手が離されて、返事のないままベッドの背が上がる。
眠る前と違って痛みは随分と引いていた。もしかすると、ようやく体が恢復し始めたのかもしれない。
「ありがとうございます。僕が眠ってから何日か経ちましたか?」
「一日。日中は飛霄様も見舞いに来ていたが、明日も軍議があるから先に帰還した」
「
……もしかして君はずっとここにいるんですか?」
「
……………………」
答えないモゼの方を見ようと体ごと首を動かし、椒丘はもう一度手を伸ばす。虚空に伸ばした手を、再びモゼが掴む。
手の甲に、モゼの鼻筋や睫毛が触れていた。額に手を押し付けるようにしているモゼにどう声をかけるか迷っていると、微かに手が濡れた感触がした。
「モゼ、」
ハッとして声を上げた椒丘の耳に、小さく、鼻を啜るような音が響く。
椒丘はどうにか体を起こすと、ゆっくりもう片方の手を伸ばし、モゼの肩に触れようとした。
指先が体に当たる。そこから手を滑らせて、モゼの体をそっと抱きしめた。椒丘の片手を額におしつけたまま、優モゼは小さく体を震わせている。声を漏らさないようにしているのがわかり、こうなってから以降、はじめて、はっきりと椒丘の胸が痛んだ。
霊砂に言われた通り、二人を傷つけてしまっただろうと頭の片隅ではわかっていたつもりだったが、今の今まで、考えないようにしていた。
「すみません、驚かせて」
適切な言葉が見つからず、椒丘はそんなことを口にした。いつの間にか自分より上背の高くなってしまったモゼの体が、今はなんだか小さく思えて狼狽していた。
震える背中を何度か撫でていると、握られていた手はそっとベッドに置かれて、代わりにモゼの両腕が椒丘の体を抱きしめようと動かき、途中で、躊躇したように下されたのが音でわかった。
抱きしめてくれていいのに。そう思った瞬間、以前、モゼを飛雨湖の自宅に呼んで、想いを拒絶した日のことを思い出した。もしかすると、あの日のやりとりのせいでモゼはこれ以上手を伸ばせないのだろうか。
椒丘はモゼがすぐに抱きしめ返してくれないことに、少なからず面白くないと思っている自分がいることに気がついた。拒絶したくせに自分勝手すぎる話だった。
椒丘は顎の下にモゼの頭があるのを感じながら、下ろされた片手もモゼの体に回す。背中を撫でながら、モゼの震えが落ち着くのを待つつもりだったけれど、モゼは俯いたまま、声もなく泣き続けているようだった。
(モゼの泣いている顔を、そういえば知らない)
怒った顔も焦った顔も知っているのに、泣いている姿を見た記憶がなかった。もしかするとそれは、飛霄しか見たことがないのかもしれない。
「そんなに泣かないでください。僕はもう大丈夫ですから
……」
狼狽したまま気休めの言葉をかけると、モゼが顔を上げようとするのがわかった。腕の力を緩めてベッドに背中をつけるように少し身を引く。
モゼはもう一度そっと椒丘の手を取って、気持ちの整理がつかなそうに自分の体の方へ引き寄せたり、ベッドの上へ置いてそっとさすったりを繰り返したのち、両手で椒丘の片手を優しく握りしめながら、額にそっと当てた。
すん、と鼻をすする音が静かな病室に響く。
「なんで、毒なんて
……」
震えた涙声に、椒丘はずっと用意していた言葉を上手く口にすることができなかった。
『治療法には大体の見当がついていると言ったでしょう。でも、君と飛霄様は反対するだろうと思ったので黙ってたんです。結果的に上手くいったんだから、それでいいじゃないですか』
椒丘にとっては長い時間検討を重ねた末の、覚悟の上での行動だった。呼雷に噛まれ、血を啜られた瞬間、勝った、と安堵していた。出血と毒のせいでこのまま自分は死ぬだろう。だが、命をかけた賭けには勝ったのだ。これでようやく彼女との約束を果たすことができ、自分の人生を終えることができるのだと。
こうして生きているのは誤算だったが、死ぬつもりでやったのだから、その結果自分の体にどんな後遺症がのころうがどうでもいいことだった。そう、思っていた。
「お前が、飛霄様を治すためならどんなことでもするって言ってたのは、知ってた。だけど
……こんなの
……」
ぎゅっ、と手が握りしめられるたびに、モゼが慌てて力を抜くのがわかった。そうされるたびに息が詰まって、言葉が上手く出てこなかった。
僕がこうなったのは全然不幸でもないし、大したことでもありませんよ、と言った言葉に嘘はなかったし、自分の行動を後悔してもいなかったけれど、モゼをこんな風に傷つけてしまったことははっきりと後悔していた。
せめて計画を教えておくべきだっただろうか? けれど、教えればモゼは飛霄に話してしまうだろうし、二人とも反対するのは目に見えていた。羅浮でこうする羽目になるとは思っていなかったけれど、呼雷を曜青に移送すると決まってからずっと、機会を伺っていた。羅浮での脱獄騒ぎがなければ、そもそも曜青で自分が彼を解き放つつもりでさえあった。
「
……すみません」
ようやく椒丘の口から出てきたのは、簡素な謝罪の言葉だけだった。それ以外何をいえばいいのか、今は本当にわからなかった。モゼは謝罪を受け入れたくないのか、何も言葉を返してはくれない。
くだらないことを言って和ませようとしたが、モゼが泣き続けているのが申し訳なくて、道化を演じることにも罪悪感があった。
「お前は、多分ずっと死に場所を探してるんだろうって、昔、飛霄様から聞いてた」
「え
……」
モゼの途切れそうな小さな声は、それでもはっきりと椒丘の耳に届いた。間抜けな声が自分の口から漏れて、モゼに握られたままの手がびくりと震える。
「
……だからずっと、俺じゃお前を、『こっち』に繋ぎ止められないことなんて、わかってた」
「モゼ」
「だけど、飛翔様はお前のおかげで月狂いに耐えてたし、いつかお前が飛霄様を治して、それで、
…………それで、全部投げ出す日が来たとしても、ずっと先のはずで
……、少なくとも、俺が生きてる間じゃないだろうって
……」
「
……僕が君より先に死なない保証なんて、どこにもありませんよ」
「椒丘!」
モゼに握られた手に力が込められ、また、はっとしたように抜かれる。
呼吸がうまくできなくなったのか、モゼが嗚咽を溢しながら咳き込んだ。椒丘は慌てて沈ませていた身を起こし、モゼの体を今度こそしっかり抱きしめた。体が軋んで痛みを訴えてきていたけれど、今は身体の痛みは無視しておく。
ひゅう、とモゼの喉から呼吸の漏れる音に胸が痛み、椒丘は彼の呼吸を落ち着かせようと背中をとん、とん、と優しく叩く。その間も、モゼの手はだらりと力無く下ろされていて、椒丘が何故かいま、彼に抱きしめ返して欲しいと感じていても、決してそうはならなかった。
倒れる前には咄嗟に抱きしめてくれたのに、今はそうしてはいけないとでも思っているかのようだった。
「お前に『行け』と言われて、置いて逃げたこと、お前が呼雷たちに連れ去られてから、ずっと後悔してる。呼雷達に見つかったことも、守れなったことも、後悔してる。
……こんな風にベッドで横になってるのは、お前じゃなくて俺じゃないとだめだったのに」
モゼの後悔の言葉を受け止めながら、椒丘は言葉をかけてやる代わりにモゼをもう一度抱きしめた。腕を伸ばしてくれないのは、きっと、守れなかった後悔からだろうと感じていた。
「モゼ、」
言葉を続けようとすると、モゼは椒丘の腕を掴み、弱々しい力で抱擁から逃れようとした。けれど、今彼を抱きしめるのをやめれば、モゼは二度と腕の中には帰ってこないような気がして、椒丘はモゼの顔を肩口に押し付けるように力を込めて、髪を撫でた。
「お前はどうせ、俺がいくら後悔したところで、気にするなって笑うんだろ。気にしないわけがない! そんなの無理だ、そんなの
……、でも
…………どこかで連れ戻せたとしても、お前はいつかの未来で、結局、俺と飛霄様を置い、」
モゼの言葉は最後まで口にされることはなかった。彼の言葉は涙に飲み込まれて、椒丘の肩口に全て流れていってしまう。
モゼの言う通り、彼の後悔している気持ちはわかってやりたかったけれど、気にしないで欲しいとしか思えなかった。モゼでなければあの場から素早く逃げられなかったし、呼雷に見つかった時だって、自分を助けるために彼が危険に晒されるべきではなかった。
彼まで喪われてしまったら、自分がいなくなった後、一体誰が飛霄の「憂い」を払えると言うのだろう? 椒丘はモゼほど優秀な暗殺者を他に知らなかったし、彼ほど飛霄に近しい戦士も知らなかった。
そう伝えたところで、モゼを傷つけるだけだということはわかっていた。守れなかったと後悔している相手に、見捨てて良かったのだと諭す行為は、あまりやりたくない。
優しい言葉をかけてやりたいのに、こんな時に限って言葉が浮かばない。きっとどんな嘘も今はモゼに見破られてしまうだろうし、彼をさらに傷つけてしまうのだろうと感じていた。
(飛霄であれば
……)
彼女は「きっと」、生きているのだから、過ぎたことはもういいと笑って許すだろう。
現に彼女はもう日常に戻っていたから、椒丘はそもそも謝罪をするつもりもなかった。彼女の申し訳なさや後悔は受け取っていたし、本心から気にしなくていいと口にした。
飛霄とはもう長い付き合いだ。彼女がまだ少女と呼ばれる頃から姿を知っているし、彼女の親代わりだった前将軍のこともよく知っている。
彼女の眩い輝きに導かれて、椒丘は医士の道へ再び戻ってきた。彼女が長く生きれば生きるほど、戦争と言う名の病をこの世から一掃出来るが近づくのだと本気で信じている。
二度と流星が夜空に現れない日が早く来て欲しかった。
そのために、飛霄のありとあらゆる「憂い」を取り除いてやりたかった。
けれども医士である自分にできることは病を治すことだけで、それ以外の「憂い」については適任者がもう一人いることを知っていた。
椒丘は覚悟を決めたように深呼吸をすると、モゼ、と名前を呼ぶ。
「僕は今も自分の手段が間違っていたとは
……君には申し訳ないですが、思っていません。飛霄様の病気を治すことこそが、無駄に命が消費されてしまう争いをなくすいちばんの近道だとわかっているからです」
「っ、」
椒丘は背中を撫でていた手を肩に置き、息を詰まらせるモゼの顔を覗き込むように、片手を彼の頬に添えた。
涙で濡れたモゼの頬を撫で、椒丘は眉を下げた。
「
…… でも、君をこんな風に傷つけるつもりもありませんでした」
くしゃ、とモゼの表情が歪んだのが、触れた手のひらの感触でわかる。
「想像もしなかった。僕が死んで悲しむ人はいるかもしれないけれど、傷つけるとは本当に思ってなかったんです」
「
………………」
モゼは何かを言おうとしたようだったけれど、結局口が動いただけで、言葉として発せられることはなかった。しゃくりあげるような声が続き、椒丘が拭うそばから頬が濡れて行く。こんなに泣き続けていたら、自分のように涙が枯れ果ててしまわないだろうかと不安だった。
自分のためにこんな風に泣いてくれるとは思っていなかったな、と薄情なことを考えた瞬間、モゼに言われた言葉のいくつかが脳裏に蘇った。同時に、意識のない間、時々、遠慮がちに触れていた体温のことも。
「退院を言い渡される前から、僕の病室で時々手を握ってくれていましたよね? 君が僕の名前を呼んでいたような気がしています」
「
…………………」
手を握られながら、何度も、名前を呼ばれていた。その声が誰なのか分かるまでに随分と回数も時間もかかってしまったけれど。
「実は記憶が定かではないのですが、もしかして噛まれた僕を見つけてくれたのは君でしたか?」
「
……………………」
椒丘の問いかけに、モゼは答えない。
疲れ果て、虚な目をしたまま泣く彼が脳裏に浮かび、罪悪感で胸が張り裂けそうだった。
椒丘は涙の流れるモゼの頬を撫でながら、目の前に広がる暗闇にため息をつきそうになった。玉兆の調子がおかしいのか、彼の鼓動はずっと椒丘の耳に聞こえていた。検診の時より少し早い、緊張した鼓動だった。
たかが目が見えなくなっただけ、本当にそれだけだと思っていたのに、モゼの傷ついた顔をちゃんと見て、もっとしっかり自分の行いを後悔するべきだったのではないだろうか?
後悔なんてしないと思っていた。誰も、自分のためにこんな風に傷つくとは思っていなかったからだ。
椒丘は自分がモゼに対して、飛霄と同じように自分のしたことを、諦めと共に許して欲しいと考えていることに気がついた。彼と彼女は、全然生き方や考え方も違う人間だと言うのに。
「
……意識が定かでない微睡の中で、時々、誰かが僕の手を握ってくれているのを感じていました。自分ではもう死んでしまったとばかり思っていたのに、手を握られるたびに、そうではないと呼び戻された気がして
…………、上手く言えなくてすみません。つまりその
…………君は、守れなかったなんてことはないんですよ」
申し訳ないことをしたな、と死ぬ直前に浮かんだ感情は、今思えばモゼのことだった。
死んでも後悔しないとずっと思っていたのに、いざこうなってみれば、モゼを酷く傷つけたことを後悔していた。勿論、悔いなしと謳っていた飛霄に後悔させてしまったことも含めて。
生死を彷徨う最中、暗闇の中で、確かにモゼの熱と声に導かれていた。この手を握って、名前を呼んでいる人に、ずっと手を握り返してやりたかった。そんな声を出さないで欲しい、そんな風に心配することなんてないのだからと。
「
……お前の病室に忍び込んでたことは謝る」
「ああ、やっぱり
……君だったんですね」
モゼの答えに、椒丘は目が覚めてからずっと、胸の奥に燻っていたものの正体を、はっきりと認識した
——と言うより、観念した、と言うべきかもしれない。
今まで散々逃げてきた答えに辿り着いて、自分の耳の中で自分の鼓動がうるさく跳ねていた。
「
……あの、今からものすごく、厚かましいことを聞くんですが」
椒丘は触れていたモゼの頬から手のひらを離すか少し悩んでから、表情が全くわからなくなるのが怖くて、結局触れさせたままでいることに決める。
小さく唇を開いたモゼが、「なんだ」と、ようやく涙の止まった声で口にする。
「その
……ええと
……」
前を見ていたってモゼの顔は見えないのに、彼に自分の表情が見られているのかと思うと、急に顔を逸らしたくなった。
しどろもどろになりながら、ふい、と顔を背けて明後日の方向を向こうとした椒丘の頬に、モゼの手が触れる。顔の向きを固定されて、椒丘、とモゼの聞き慣れた低い声に名前を呼ばれる。
頬にお互い触れていると、額と鼻先が触れるほど顔が近くなっていることに気がつき、椒丘はそっと手を下ろす。下ろした手を所在なさそうに膝の上で彷徨わせてから、モゼの服の裾を摘んだ。
その手を、モゼが掴む。
「あ、えっと
……」
頬に触れたモゼの手をやけに冷たく感じて、自分の顔が熱くなっていることに気がついた。
自分の鼓動がうるささに、いつのまにかモゼの鼓動が聞こえなくっている。
「君は、
…………まだ、僕のことが好きだったりするんでしょうか、」
「
…………………………」
「
…………………………」
「
………………………………」
「
………………………………………」
長い沈黙だった。
自分の厚かましく恥知らずな言葉を冷静に振り返る時間ができてしまい、椒丘はこの場から逃げ出したくなっていた。
ベッドからなんとか逃げ出せないかと無駄なことを考えていると、「はぁ
……」と盛大なため息が落ちる。
「
……もう違う」
ぼそりと呟かれたモゼの言葉が、鋭利な刃物のように椒丘の胸に突き刺さった。好かれていることに自惚れていたわけではないと思いたかったが、どうやら自惚れていたらしい。
じゃああんな聞いたこともない声で僕の名前を呼んで、手を握っててくれたのはなんだったんですが、と一瞬で文句が舌先に上りかけたが、流石に情けないので、どうにか言葉を飲み込んだ。
急速に違う意味で恥ずかしくなり、顔に触れているモゼの手を払い除けようとするが、モゼの手はびくともしなかった。
「そ、うですか
……あ、いやまぁ、そうですよね
……」
モゼの気が変わった理由を考えてみたが、のらくら考えられないと逃げているうちにモゼの気持ちが変わってしまったとか、こんな真似をする男にはついていけないと愛想が尽きてしまっただとか、理由はいくつも思いついてしまう。流れる時間の速さの差だって、きっと理由の一つになるだろう。
「
——って言ったら、どうするんだ?」
「え? あ、ええと
……どう
……?」
「そうしたら安心して、お前はいつかまた、飛霄様のためにこんな風に死にかけるのか。それとも、俺が嫌だって言えばもう二度とこんなばかな真似はしないのか?」
「
………………」
正直に言って、難しい問いかけだった。
モゼをこんなに傷つけてしまうことがわかってしまったからには、今後、積極的に死に向かうことはしない「かも」しれなかったが、自分の命で飛霄が救える場面に再び直面すれば、きっと自分は、同じように命を差し出してしまうだろう。
俯き、椒丘は押し黙った。今の自分には、できない約束をする気力がない。
小さくため息が落ちて、モゼの手が頬から離れていく。彼がそのまま傍から去っていってしまうような気がし、顔を上げたが、引き留める言葉が出てこなかった。
散々あしらってきて、今更傍にいて欲しいなんて厚かましすぎる願いだった。
そもそも、今はなんとなく感傷的な気持ちになっているけれど、もしかすると単なる吊り橋効果かもしれない。
自分は今、自覚している以上に弱っていて、だから一時、抱きしめてくれる他人が欲しいだけの最低なクズのような気さえしていた。
「椒丘」
足音もなく去っていくモゼの姿を想像していたが、そうはならなかった。
モゼは掴んでいた椒丘の手首から手を離すと、両手で優しく二つの手を握り直す。
「昔、お前に言ったことを変えるつもりはない。俺はお前に変わって欲しいわけじゃない。俺か飛霄様のどちらかしか救えないのなら、お前は迷わず飛霄様を選んでいい。お前がそういう、他人のためにしか生きられないヤツだってこともよくわかってる。そう言うところがムカつくけど、そういうところが好きだとも思ってる。
……だけど」
「っ、」
モゼに両手を握られたまま額に額が触れて、硬直した。モゼの吐息が肌に触れて、発火したように体温が上昇する。
冷えたり熱くなったり、さっきから自分の体温変化についていけなかった。
「今度こんな真似をする時は、前もって教えて欲しい。聞いても納得はできないかもしれない。断言はできないが、多分、言われても俺はお前を止めない。でも、覚悟はしておきたいんだ」
モゼの指が、ねだるように椒丘の手の甲を優しくさすっていた。これが精一杯のわがままだとでも言うような言葉と態度に、申し訳なさで胸が詰まった。
月狂いを克服した飛霄のために、今後椒丘がなにかできる可能性は低いだろう、低いことを祈っている。
けれども、他の普遍的な病にかかる可能性はまだ彼女の人生に残されている。誰にでもその可能性があるように。
そうなれば、再びモゼの言う通りになってしまうかもしれない。
「
……ずっと考えられないって言ってたのに、なんで急に俺に『まだ好きか』なんて聞くんだ?」
手を握られたまま、椒丘は自分のうるさい鼓動の他に、モゼの鼓動が聞こえ始めたことに気がついた。いつもよりずっと早い彼の心臓の音に、胸が震える。
病室は静かで、モゼが黙ってしまうと、二人の鼓動と機械の駆動音だけが小さく響く。
「椒丘」
モゼがもう一度、ねだるように椒丘の手の甲を指で撫でる。
「あの
…………、」
手汗を酷くかいているのを悟られたくないと思いながら、椒丘はモゼの手を弱々しく握り返した。
「僕のことがもし、まだ好きなら
……、抱きしめてもらえませんか」
「うん」
うん、と口にしたくせに、モゼの手はまだ椒丘の両手を握ったまま離れない。
顔を上げれば鼻先が触れ合うほどの距離なのに、目を開けてもモゼの表情がわからないのがもどかしかった。
顔に触って、どんな表情をしているのか知りたかった。
笑っているのか、無表情なのか、それとも落ち着いた声とは裏腹に怒っているのか。
恐らくもう泣いてはいないだろう。声も濡れていないし、椒丘の頬にも手にもモゼの涙は落ちてこなかったから。
「
……してくれないんですか?」
念押しするように尋ねた椒丘の声に、モゼはようやく手を離した。
モゼは遠慮がちに手を伸ばし、椒丘の体に腕を回す。
血の海でこの男を抱き上げた時も、先日この男を抱き止めた時も、飛雨湖のあの家で抱きしめた時も、こんな風に自分が腕を回せるほど小さな男だっただろうかと考えていた。
飛霄に復讐するためにこの男のそばにいながら日々を送るうちに、彼の背に追いつき、ついに目線を越えた時、流れる時間の速さを感じなかったと言えばもちろん嘘になる。
だから、先に死ぬのは自分だと自然に考えていた。
誰の命も簡単に奪ってきた自分がこんなことを思うのも滑稽な話だけれど、あんな風に、突然身内の命が喪われる瞬間が来るとは思ってもみなかった。
「
…………………」
椒丘を慎重に抱きしめると、普段、彼からずっと薫っていた薬草や八角の香りはしなかった。それに違和感を覚えるのと同時に、腕の中の熱に安堵した。
血まみれの椒丘を呆然と抱きしめていた時、だんだんと体が冷たくなって行くのはあまりに恐ろしかった。こうして彼を抱きしめて、ようやく、本当に椒丘はもう大丈夫なのだと感じられたように思う。
「
……それで?」
モゼはもっと力一杯抱きしめたいのをなんとか堪えながら、今度こそ椒丘の答えを待った。
まだ好きなのかと問われた理由はきっとひとつだろうと思っていたけれど、断られてもいたから、ぬか喜びをしたくはなかった。
黙って答えを待っていると、椒丘の腕が背中に周り。強い力で抱きしめられる。
「君には何の得もないように思うんですが
……」
自信のなさそうな小さな声に、モゼは思わず笑う。
「じゃあ、お前には得があるのか?」
「
……………………」
なかなか言葉を続けない椒丘に焦れて、モゼは腕の力を少し緩める。そっと体を離して椒丘の顔をまじまじと見つめると、ほの明るい灯りの中で、恥ずかしそうに耳を震わせながら唇を結んでいる顔が目に入った。
キスがしたい、と唐突に、強く思った。
モゼは椒丘の肩に手を置き、彼が見えないのをいいことにキスをするか少し悩んでから、結局やめておく。
「僕はその、今
……多分、自分が思っているより元気がないので、君の優しさにつけ込んで、甘えているだけのような気がします」
椒丘が所在なさそうに手を動かし、もごもごと言い訳を考えている姿を可愛いと思ったけれど、それと同時に言っていることは気に入らないと感じだ。
「それの何が悪いんだ? それとも、元気になったら俺はもういらないって宣言をしてるのか?」
「違いますよ!
……いや
……そう、聞こえますね。確かに
……」
うんうん唸り始めてしまった椒丘の口からあと一言素直な言葉を引き出したいと考えながら、モゼはしょうがないやつだな、と小さくため息をついて、微かに微笑んだ。
狼狽する椒丘の姿を見れば、何を考えているのか言わずとも、答えているようなものだった。
「お前にキスがしたい。してもいいか?」
モゼの問いかけに、椒丘がピタッと固まる。
「えっと
……」
数秒狼狽えるように、金色の瞳が彷徨うのを見た。
ずっと血の気の失せていた頬が、今は微かに紅くなっている。自分がこの男にそんな顔をさせているのだと思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、優越感のようなものを覚えた。
モゼはなかなか答えを言わない椒丘の肩に手を置いたまま、辛抱強く答えを待った。
「
——はい」
長い時間をかけてから、たった一言、小さく頷いた椒丘の恥ずかしそうな顔を見て、モゼは唇の端を持ち上げた。