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病室に戻るまでの道のりが妙に気まずい。
普段はモゼが無言だろうが何も気にせず好き勝手喋ることもある椒丘だったが、今はそんな気分にはなれなかった。
モゼの二の腕を掴ませてもらった状態でゆっくりと歩いているが、隣の沈黙はどんよりとしていて、頭の上に星槎でものしかかってくるような気分だった。炎翁と景元に召喚されてしまった飛霄がここにいれば、きっとこんな気まずさは覚えなかっただろう。
黙り込んだまま、椒丘の不安定な歩みに合わせて鈍重に進むモゼはなんだか落ち込んでいるような気がしたが、今の椒丘にはわからなかった。あの、と何度か口を開こうとして、結局やめてしまう。
そのうち、足が止まってしまった。
「椒丘?」
「すみません、少し、どこかに座れる場所は
……」
「椒丘!」
ありませんか、と最後まで口にする前に膝から力が抜ける。絶対安静を言い渡されていたのに、勝手に出てきた自分が悪いのは百も承知だったが、椒丘自身、まさかここまで弱っている自覚もなかった。
暗闇の中で眩暈がした。血の気がザッと引いて、頭の芯から冷えていく感覚がする。体が傾いで、ふっ、と落ちて行く。まずい、と頭には浮かぶものの、体がうまく動かない。
今体を強く打ち付けると本当にまずい。内出血を起こせばまた命に関わるかもしれない。
そんなことばかり脳裏には浮かぶのに、足に力が入らない。
「椒丘、椒丘っ、クソッ、椒丘
……!」
モゼが何度も名前を呼ぶ声にハッとし、ほんの一瞬気を失っていたことに気がついた。地面に倒れたかと思っていたが、どうやらモゼが咄嗟に支えてくれたのか、頬の下にはモゼの胸があって、下半身はモゼの足の上に乗っているようだった。
「すみません、もう、少ししたら、動けると、思います
……」
「動かなくていい。
……抱えても大丈夫か?」
「まさか運ぶつもりですか? 重いですよ
……、大人しく、人を呼んで、担架を
……」
なんとか言葉を搾り出す椒丘に、うるさい、とモゼが小さく、それでも鋭い声で言う。聞き慣れた低い声は、聞いたことのない震え声だった。
脂汗が額に滲んで、首の後ろを冷たく流れて行く感触がした。なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返しているうちに体が宙に浮き、案外軽々と運ばれてしまう。
微かな揺れさえ、今の椒丘の体には響いていた。強烈な吐き気に耐えるために抱えてくれているモゼの服を思いっきり掴み、額を胸に押し付けてしまう。
びく、とモゼの体が震える。ああ、もしかして汗が染みて気持ちが悪いだろうか、と考えたが、それに謝罪する余裕はなかった。
モゼに抱えられて帰還すると、嘘でしょう、と唖然とした霊砂の声が耳に飛び込んでくる。
小言を言いかけた霊砂がぐっと言葉を飲み込み、ため息をひとつつくと、モゼにいくつか指示をしているのが微かに聞こえた。体は再び不安定に運ばれ、やがてベッドの上に下ろされる。
「椒丘先生、ベッドに縛り付けられるのがご希望ですか?」
「患者の、身体拘束は
……精神保健福祉法第
……に
……基づいて
……」
「そこまで言えるなら結構。鎖骨にヒビが入っている話はしましたよね?」
椒丘の虚ろな声に盛大なため息を吐きながら、霊砂はやれやれと首を横に振る。苛立ちを断ち切るように一度目を閉じて、開き、駆けつけた医士に指示をする。
点滴を付けられた椒丘の症状が少し落ち着くと、霊砂は部屋の隅で調合をはじめ、香を焚く。
病室に微かな木蓮の香りが満ちるのと、椒丘の呼吸が落ち着くのはほとんど同時だった。
「怪我がなくて本当に幸いでした。モゼさんに百万回は感謝をしてくださいね。
……それはそれとして、モゼさんも病室に戻ってください」
「俺は平気だ」
霊砂が部屋の隅でベッドをじっと見つめながら立ち尽くしていたモゼに声をかけると、彼は霊砂に視線を向けることなく静かな声で答える。
「はぁ
……。曜青の方は皆さん医士の言うことが聞けないんですか? まぁ、飛霄将軍は別枠としてもいいかもしれませんが」
「どこにも問題はない」
「あのですね、」
霊砂が少し顔色の悪いモゼをどうにか諭そうとしたその時、モゼ、と椒丘が声を上げる。
「嘘をつかないでください。恐らく、僕を受け止めた時に、どこか、なにか
……傷があれば、開いたと思います」
「
………………」
痛みがまだあるのか、椒丘の声は弱々しく掠れていた。今にも途切れそうな声に、モゼは指先が冷たくなっていく感覚を覚えた。数日前、椒丘を発見した場面がフラッシュバックし、表情が歪む。
「意味のない我慢、はしないでください。昔、君にそう、言ったつもり、ですが
……」
首をなんとか巡らせて、椒丘はモゼの声のする方を見ようとした。けれど、実際はモゼの低い声をうまく拾えておらず、誰の目から見ても見当違いの方向を向いている。
モゼは足音もなくベッドに近づくと、椒丘を見下ろし、「嘘じゃない」と沈んだ声で言う。
その声に、おや、と椒丘は首を反対側へ向けようとした。それを制するようにモゼは椒丘の頬に手を添える。
「はっきり、わかりました。今のは、君が痛いのを我慢している時の声です」
笑おうとして、体に走る苦痛で失敗した。霊砂が小さく、「今日はもうこれ以上鎮痛剤は使えません」と口にしたのが聞こえ、思っていたよりも随分調子が悪いらしい、とようやく認めるに至る。
椒丘は疲れたようにため息をつき、「ちゃんと診てもらってくださいね」と頬に触れるモゼの手に触れようとして、今度こそ指先一つも動かせなかった。
「
……わかった」
口許を歪ませ、眉を寄せた椒丘の顔を見下ろすモゼは今にも泣き出しそうな顔をしていたけれど、それを椒丘が知る術はない。
*
声でわかります、なんて、こんな時に言わないで欲しかった。
わかって欲しいことはわかってくれないくせに、体の調子ばかりすぐにバレてしまう。
声でわかると言い切られるほど、この男のそばにそれなりに長くいたつもりなのに、好きだと言ってもわかってくれないし、本気で考えてくれたこともないのがどうしようもなく淋しかった。
「どうしてこれで平気だなんて言ったんですか?」
椒丘が眠りに落ちた後、モゼは霊砂に促されるままに診察受けることにした。あれだけ言ったのに聞いてくれなかったんですか、と目を覚ました椒丘にがっかりされるのが嫌だったからだ。
指摘された通り、椒丘を慌てて受け止めた際に傷口が開いていて、包帯には血が滲んでいる。
モゼは霊砂の問いかけに「あいつに比べたらどうってことないだろ」とぼそりと返す。
「比較するものではありませんが、まぁいいでしょう。身内のあんな姿を見れば気が動転しても仕方がありません。とにかく、しっかりと療養が必要です。傷の治りが遅くなっても困りますよね」
念押しするような物言いに、モゼは答えなかった。
霊砂は「本当に、今度こそ病室を抜け出さないでくださいね」と告げて、病室を後にする。
確かにモゼの言う通り、椒丘に比べれば彼の怪我は大したことがないと言っても問題はなかった。
数日もすれば、体の傷は恢復するだろう。
(問題は
……)
霊砂は執務室へ戻ると、書きかけの椒丘のカルテを打ち込むことにした。淡々と事実だけを記載しながら、よく帰ってこれたものだ、と奇跡への感心と同時に呆れ果てた。
呼雷が椒丘を
甘噛みして放置したのは、彼らの言葉で表現するならば、身の程知らずの奴隷に罰を与え、長く苦しませるためだったのだろうと推測している。そうして放置してくれたおかげで、椒丘はなんとか助かったのだが。
「
……患者を救いたいにしたって、どうかしてますよ」
霊砂は理解し難い事実に顔を顰めながら、カルテを途中保存しておく。
月狂いを治そうとして、彼自身が月狂いに侵されるような事態にならなかったことだけは幸いだった。
霊砂はそう考えた後、んー、と凝り固まった体をほぐすように伸ばすと、気を取り直し、椒丘と約束した天欠症の資料や補助器具、ソフトウェアについて、ツテを辿って問い合わせをしておく。
目が見えなくなった事実を椒丘が淡々と受け止めているのは、きっと彼に、自分と同じく従軍経験があるからだろうと考えていた。
豊穣戦争や忌み者との戦いで、身体や感覚を欠損することになった兵士は決して少なくはない。負傷兵に医士がかける言葉は決まっている。
『でも、あなたは生きているじゃありませんか。確かにしばらくは不便かもしれませんが、あなたが元の生活に限りなく戻るための技術も器具もこんなにあります。だから、あなたの人生は少しも終わっていません。大丈夫、安心してください』
優しい言葉を心から信じていなければ、医士など到底やっていられないし、信じられないのであれば医士であるべきではない。
だから、命あっての物種、本当に、たかが感覚の一つを失っただけだと椒丘は言い切ることができるし、その感覚を霊砂は共有できている。
けれど天撃将軍も影護衛も、「医士」という人種がいくら身近であっても、真実わかりはしないのだ。
「まあ、医術の話はしない
……とか普段から言っていたそうですし」
死にそうな顔で椒丘を見つめていた若い影護衛のことを思い浮かべ、霊砂は痛ましそうに眉を下げた。
とはいえ、自分の患者のケアは主治医の勤めのひとつなのだから、後のことは彼自身に責任を持ってもらうしかないだろう。
幸いにも、命は繋がったのだから。
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