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やっと、約束を果たすことができた。
治療法に思い至った時からこの命の使い道はとうの昔に定めていて、いつ、その瞬間が訪れてもいいようにずっと準備を進めていた。片腕がいなくなっても内政が混乱しないよう、常に資料は残していたし、部下たちにも教育をしていた。書類仕事が苦手な上司と同僚には少し手間取るだろうが、きっとそのうち慣れてくれるだろう。火鍋薬を作るよりも書類の不備を修正するほうが簡単なはずだった。
彼女のために開発したありとあらゆる火鍋薬の詳細も残していたが、正直に言って、病を克服した後の彼女には不要だろうと考えていた。もし誰かに使えそうであれば使ってくれればいいし、誰にも転用できなそうであれば失われてしまっても構わなかった。いずれにせよ、もし自分が死ねば師匠へ連絡がいくだろう。彼であれば有効に使ってくれるはずだった。
出血の痛みと中毒症状で視界はとうの昔に赤黒く染まっていた。早々に死ぬだろうとわかっていたが、心は穏やかだった。
毒を持ち歩く際には解毒剤も持つべきだとはよく言われる事だが、自分には不要だった。最後の患者を救った後に、やるべきことはない。
瞬きをしても視界はなにも映さず、指先一つも動かせない。
これ以上痛みを伝えても仕方がないと脳が判断したのか、少し前、唐突に痛みが霧散していた。いよいよ終わりが来た事を悟り、安堵した。これでようやく悩みや苦しみからも解放されるのだと思うと、やはり全ての生き物には平等に死が与えられるべきだと改めて感じた。
遠くで、喧騒が聞こえる。殆ど感じなくなった感覚野が、帝弓の加護の名残の風を肌に伝えてくる。彼女のそばで長い間仕えていた椒丘はなんとなくそう感じた。
きっと呼雷は無事に飛霄に斃されたのだろうし、彼女は目論見通りに心臓を継承しただろう、と。
あたりはひどく閑かになっていた。
呼雷が悪趣味に自分を人目のあるところに放り出さなくてよかった。こうしてひとりで最期を迎えるのが、無力で矮小な自分には相応しいと感じていたから。
目的を果たして死ねることは幸いだ。誰しもがその結果を得られるわけではないことを、戦場で散々見ていた。
本当によかった。
「
——————!」
静けさを断ち切るように、誰かが駆け寄ってくる音がした、ような気がした。
視界は暗く落ちており、感覚も最早ない。息をしているのかしていないのかもわからなかった。自分の心臓が動いているのかもわからない。
手を握られたような気もするし、体を抱き寄せられたような気もする。
誰かの体温がそばにあるように感じたが、定かではなかった。
名前を呼ばれているような気もしたけれど、もう、気にしても意味のないことだった。
長いこと無縁だった穏やかさが心に満ちていた。
不安も恐怖もなく、ただ、頭の中は凪いでいた。
——彼には悪い事をしたかもしれない。
彼って?
それももう、わからなかった。
*
ふ、と意識が覚醒した。
その瞬間、椒丘の全身を酷い痛みが襲う。呼雷に噛まれ、血を啜られ、体を裂かれた時と同じような痛みが全身に走り、瞬間的にパニックに陥る。
痛みに体が勝手に暴れようとして、碌に動かない。呻き声をあげようとしたが、喉がからからに渇いていて声が出ない。
もしかするとここは地獄だろうか。古い文献で読んだ記憶が蘇り、やはり救えた命が少なかったのかとひどい後悔に襲われる、その後悔を上書きするほどの激しい痛みが脳天から突き抜けた。
身をよじろうとして、体に幾つかの管が刺さっているような感覚がした。本当にそうなのかはわからない。体中が痛い、頭も、全てが痛みに支配されて痛み以外のことが考えられなかった。
ビー、ビー、っと電子音がけたたましく鳴り響き、カチッ、と小さな音がする。背骨のあたりにじわりと何かが注入された感覚がし、数秒後には痛みが落ち着いていた。
鎮痛剤か。痛みが薄くなり、混乱が冷めてようやくそこに思い至った。
強烈な
痛みの感覚に困惑した。まさか、生きているのだろうか。あれだけの出血と中毒症状から誰が蘇生できると言うのだろう。
……否、羅浮には優秀な医士が揃っている。
段々と千切れかけていた意識が繋がり、これはいよいよ生きているらしいと感じた。
慌てた声で、誰かが駆け寄ってくる。数人の足音が聞こえた気がしたが、正確にはわからなかった。頭の上で誰かが会話をしている。聞いたことのある声がしたように感じたが、はっきりとはわからない。
声の主を見ようとしたが、首を動かすことができない。
灯りが欲しい。目の前には暗闇が広がっている。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろう
——、そう考えているうちに、嗅いだことのない香りが鼻腔を擽り、再び微睡へと誘われて行く。
*
痛みで覚醒するたびに鎮痛剤が投入され、再び意識を失うのを何度も繰り返している合間合間に、誰かが見舞いに来ているのを感じた。心配しないでください、とその度に声を上げたいのに、まだ体も声も思うようにはならなかった。
誰かが来訪するたびに恐る恐る、壊れ物を扱うように手を優しく握っては、そっとベッドに置かれている。握り返してあげたいと思うのに、意識が続かない。
椒丘。
低く、暗い、静かな声で名前を呼ばれている。手を握って、そっと額の髪を払い、頬に触れようとして躊躇し、触れずに離れて行く。何度も何度も。
果たしてそんな風に触れたがる人がいただろうか、と椒丘は意識が曖昧に覚醒するたびに考えていた。飛霄は違うだろう。彼女はもっとさっぱりしているし、何か言いたいことがあればこちらの意識があるとないとに構わずなんでも正直に口にする人だと知っていた。
椒丘。
弱々しく震えた声だった。今までに一度も聞いたことのない声音で、だから、誰なのかずっとわからなかった。
そっと手に触れられて、顔を覗き込まれたような気がした。指先だけでも動かしてやりたいのに動かない。瞬きだけでもと思えど、瞼すらも重かった。
ぱた、ぱた、と頬に熱い雫が落ちてくる。
ハッとしたように息を呑んで、慌てて頬を拭われた感触がした。泣いている。恐らく、自分がこうなったせいで。
次に目が覚めた時には、この震える手を握り返し、心配しないでくださいと伝えたかった。
「
………………モゼ
……?」
声になったのかは自分でもわからなかった。
肺から息を吐いただけのようなか細い音が唇から微かに漏れ、指先がほんの僅か、筋肉に電気が流されただけのようにぴくりと動く。
暖かな手のひらに、指先が少しだけ触れた感触がした。
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